サイバーパンク巌流島
ネオ東京の空を鉛色の雲が覆っている。
降り注ぐ酸性雨が売春宿のキャッチをしているアンドロイドの皮膚を溶かしていく。
特殊繊維レインコートを着込んでいなかったら、いかにサイボーグ手術を受けた剣豪である武蔵でも、死の天使の涙が降るこの未来都市を歩くことはできなかったろう。武蔵は安い金で作られ、使い捨てられて行くアンドロイドたちを憐れんだ。もっともそれもアンドロイドたちに憐れむべき魂があればの話だが。
では、武蔵自身はどうだろう。
剣のために生身の肉体を捨てた武蔵は、魂さえも悪魔に、いや、修羅に明け渡してしまったのではないだろうか。
それを確かめるために武蔵は歩を進めているのかもしれない。
落ちる無数の雨粒が、ネオ東京を妖しく彩るネオンを歪めて反射する。
酸性雨の作った水たまりが、赤いネオンを受けて血のように広がっている。
武蔵の足が血の池を踏んで水しぶきがあがる。ジュウッと音を立てて武蔵の安物のブーツに穴が開いた。だが、武蔵はそんなことは気にも留めない。強化メタルでできた武蔵のレッグパーツにはなんの問題もないからだ。
武蔵の反対側から一人の男がやって来る。小次郎だ。
小次郎の被った一見降りしきる酸性雨を防ぐには心細いような編み笠は、その実遺伝子操作されたバイオバンブーからできている。
バイオ編み笠も小次郎の滑らかな長髪を守り切るには不十分だったが、小次郎は女なら誰しもがうらやむ鮮やかな黒髪を惜しげもなく酸性雨の牙にさらしていた。
それは小次郎の美しさが天性のものだと証明していた。だから失っても怖くはない。怖れるのはバイオ技術の粋を集めて、数百年の延命を施してまで磨き上げたこの剣の腕が廃れる事だけ。
着実に距離を縮めつつある武蔵と小次郎の放つ覇気に圧倒されて通行人たちが姿を消していく。手足に銃器を仕込んだサイボーグ・ヤクザは勿論、気合という非科学的な概念とはおよそ縁のないアンドロイド・メイドさえも機械仕掛けのセンサーで何かを感じ取ったのか、尻尾を巻いて逃げていく。
武蔵と小次郎があと一歩の距離まで肉薄する。といっても無論、常人にとっての一歩ではない。達人なら一息で間合いを詰め相手の首を落とせるという意味での一歩である。
小次郎が背負った異様に長い刀をすらりと抜き放つ。鍔から伸びた黒々とした刀身はドクンドクンと脈打っている。それは端から見れば何かの触手のようだったし、実際その印象は当たっている。
バイオ技術の結晶として作られた生物兵器、それが小次郎の持つ妖刀物干し竿の正体だった。
物干し竿の二つに裂けた刀身の間にずらりと牙が並ぶ。他にも吸盤や眼球が無数についていた。
その不気味さに微塵も臆することなく、武蔵も己の二振りの得物を抜いた。
一本は高周波で振動するチェーンブレード金重。もう一振りは赤々と灼熱するヒートブレード了戒。二本ともサイバー技術の生んだ傑作だ。
武蔵も小次郎もそれぞれサイバー技術とバイオ技術の最終兵器だ。この決闘はサイバーとバイオどちらの文明が優れているか、どちらに向けて人類は進化してしくべきなのかを決める壮大な実験だった。そして二人にとっては人間の枠を超えてしまった自分に本当に魂が存在するのかを問う闘いだった。その答えは武術を極めた先にしかないと二人は思っていた。
ぐっと武蔵が右足を引いて力を込める。ジュッと足元で水しぶきが上がった。
対する小次郎はあまり力の入っているようには見えない腕を持ち上げて、長刀を無造作に上段に構えた。気の抜けたような構えだが、それでいて一分の隙も見当たらなかった。
酸性雨に当たって物干し竿に生えた無数の眼球の一つが鬱陶しそうに瞼を細めた。刀身の裂け目からぬっと現れた長い舌が酸性雨を舐めとる。
武蔵の持つ金重は振動で雨を弾き飛ばし、了戒は触れた途端に雨を蒸発させる。
コンクリートを雨が叩く音だけが、二人の間に流れる時間を伝えていた。
ひと際大きな雨粒が水たまりに落ちてポチャンと音がした。その音を合図に武蔵が踏み込んだ。脹脛に生えたターボマフラーが火を噴く。その火力は雨で湿った周囲を一瞬で乾燥させてしまいそうなほどだった。
猛進する武蔵を小次郎の物干し竿が迎え撃つ。横なぎにされた物干し竿は筋肉繊維でできた刀身を限界まで伸ばし武蔵を襲う。
予想外の反撃を受けた武蔵は反射的に了戒振るった。
赤く燃えた了戒が雨を裂いて物干し竿に迫る。ジュウッと物干し竿の肉を焼いて了戒が、筋肉の刀身を両断する。
切り落とされた物干し竿の肉片が、酸性の水たまりに落ちてのたうち回った。緑の血が雨と混じる。
大幅に戦力を削がれた小次郎目掛けて武蔵が金重を振り下ろす。キュィィィィィンと鳴る振動音は、命を吸う怪物の鳴き声のようだ。
ガンッと音を立てて武蔵の足が止まる。チェーンブレードは小次郎の目の前で虚しく空転していた。
武蔵が驚愕して振り向くと、切り落とした物干し竿の肉片が伸びて自分の足に絡みついているのが見えた。
ニュルリという生々しい音と共に物干し竿が再生する。歴戦の戦士である武蔵もこのときばかりは悪寒が背筋を走り抜けた。
物干し竿の咢が武蔵に食らいつく。強化メタルの肩が物干し竿の鋭利な牙に当たってギチギチと鳴る。バリッという音を立てて鋼の肉体が食い千切られ、武蔵の体内を走るコードが外に飛び出した。コードの先端でパチパチと火花が散る。
ヒュッと風を切って金重が物干し竿の生体パーツを狙う。
しかし、二度も自分の刀を切らせる小次郎では無かった。
素早く武蔵を離した物干し竿の咢が金重を絡み取る。高周波音を撒き散らしながら金重が宙を舞った。カランコロンと地面を切りつけながらチェーンブレードが転がる。
武蔵は足に絡みついた物干し竿の残骸を了戒で焼き切ると後方に跳躍して小次郎と距離を取る。
戦いは仕切り直された。武蔵と小次郎の間に緊張が走る。
雨脚が強くなった。酸性雨がコンクリートを溶かした煙があちこちで昇る。
もはや武蔵と小次郎、互いの姿を認識するのさえ困難な状況だった。武蔵が勝機を見出すとしたらそこにしかないだろう。武蔵は元々二刀流の使い手である。そんな武蔵が、端から一本の刀のみを頼りに敵を屠ってきた小次郎に同じ一本の刀で勝てるはずがない。
雨粒が武蔵の頬を流れ落ちる。雨に含まれる酸が顔の塗装を剥がし一筋の傷を作る。
たまりかねて武蔵が雨を拭った。
それを見逃す小次郎では無かった。一瞬で鋭い突きを放つ。
普通の突きが届く距離では無かったが、小次郎の操る物干し竿は尋常の刀では無かった。
伸縮自在の物干し竿が距離を無視して迫りくる。
武蔵はその場で回転して了戒を振るう。赤熱した刃が酸性雨を蒸発させ、激しい水蒸気が武蔵の姿を消す。
目標を失った物干し竿が出鱈目に白く立ち上る水蒸気を貫くが、かき消えた水蒸気の中からはただ誰もいない空間が現出したのみだった。
小次郎は素早く辺りを見回すが、激しい雨に紛れて武蔵の姿は見えない。そのとき動物的な勘が小次郎に背後を振り向かせた。
武蔵が大きく宙に跳躍し、小次郎に飛び掛からんとしていた。その手には二振りの刃、雨に隠れて回収したのだろう。
激しい雨音のせいで武蔵が近付く足音も聞こえなかった。小次郎は己の不覚を呪ったが、それだけでみすみす勝利を譲る小次郎でなかった。
小次郎は刀身の伸びきった物干し竿を手元に引きよさる事はせずその柄をあっさりと手放した。
低く構えた小次郎の手首から白い骨が飛び出す。その先端は鋭く尖っていた。そう、小次郎、最後の武器、それは先端生物科学の真髄である己の肉体そのものだった。
武蔵と小次郎が交錯する。
パチャリ、水たまりに武蔵が着地する。背後では骨刀を振りぬいたままの姿勢で小次郎が固まっている。
ぐらり、武蔵の体が傾いて地面に膝をつく。
それを感じた小次郎が微笑を浮かべた。勝利の余韻に浸っているのか、それとも……
小次郎の微笑みに亀裂が入る。それだけではない。全身を無数の傷が走る。
しばらくの沈黙の後、傷口から一斉に緑の血が噴き出した。
小次郎の肉体がバラバラになって崩れ落ちた。笠を失った小次郎の体が酸性雨を浴びてグズグズと溶けていく。
武蔵が小次郎を見下ろすとその目からはすでに光が失われていた。
武蔵と小次郎の決着を待っていたかのように雨が止み、雲の隙間から一筋の光が差し込む。
武蔵は眩しさに目を細めると、懐から出した煙管に火を灯した。
機械仕掛けの肺を紫煙が満たす。この一服のために高い換気システムを移植していた武蔵は満足げに煙を吐き出した。
武蔵は小次郎の亡骸の傍らにそっと線香代わりに煙管を置いた。
戦いには勝ったが、結局自分に魂が存在しているのかは、武蔵には分からないままだった。
だが、この戦いで一つだけ分かった事がある。それは全身全霊を賭けて戦った小次郎には確かに魂と呼べるものが存在していたということだ。本気で戦った敵だからこそ武蔵にはそれが分かった。
その証拠に、武蔵の供えた煙管の煙が小次郎の魂を乗せて、燦然と輝く太陽へと昇っていくのが見えた。