背中
先生と暮らし始めて3ヶ月が過ぎ、給料を渡された時に試用期間の終了を告げられた。
しばらくたったある日、先生から「3時にお客さんが来るのでお茶を出して欲しい」と頼まれた。お客さんなんて珍しい。誰だろう。
3時に来たのは暑いのに背広を着込んだ真面目そうなおっさん。もう一人は保険屋のおばちゃんだった。なぜか保険屋のおばちゃんって見ただけでもなんとなくわかる。なんでだろうな。
先生は二人をリビングに通し、俺は麦茶のグラスを3人の前に置いた。すまし顔で下がろうとしたら先生に止められた。
「古賀さん、あと1つお茶を。それから印鑑を持ってきてください。」
もう1つのお茶はどう考えても俺の分だ。それに印鑑?疑問には思ったが言われたとおり2階から印鑑を持ってきて、麦茶のグラスをテーブルに置いて先生の隣に腰を下ろす。座ると先生は二人に紹介した。
「古賀さんです。古賀さん、こちらは財産管理をお願いしている弁護士の吉岡さんです。こちらは保険の担当をしていただいている水上さん。」
紹介されて俺も頭を下げる。弁護士と保険のおばちゃんって…つまり…マジかよ。
「吉岡さん。以前お話したとおり生命保険の受取人を変更します。受け取る条件は古賀さんが私の最後を看取ること…ですがそれは私にはわかりませんので、判断は吉岡さんにおまかせします。口約束では古賀さんも不安でしょうから覚書にしておきたい。というのが本日お二方をお呼びした理由です。」
そんな話をされても二人とも驚きはしなかった。たぶん先生は似たような話をもうしているんだろう。弁護士は鞄から書類を取り出し、渡された先生はそれを読んでうなずいた。俺にも読むよう差し出す。
たいした内容じゃなかった。先生が言った通りのことだ。ただ名前の部分が甲乙となっているせいか、俺と先生のことだという実感はなかった。俺も黙ったままうなずいて先生に返す。
弁護士がボールペンを差し出し、先生が覚書にサインして押印する。俺も同じことをしたが自分のことだとは思えない。そういうドラマでそういう役を演じているような感じしかしなかった。
その後で先生は保険屋のおばちゃんが出してきた書類にサインをした。綺麗な字で受取人欄に俺の名前を書く。全てのサインと押印が終わるまでそう長い時間はかからなかった。弁護士さんもおばちゃんも書類を受け取ると「お大事に」とだけ言うと早々に帰っていった。
二人は俺が誰か、なぜ先生がそうするか詮索しなかった。深入りする気はない…わけはない。前から知っていたんだろう。知らなかったのは俺だけか。いや俺だって知ってた。ただ金の話が本当だと…先生が死ぬのが本当だとは思ってなかった。
なんだか頭の中がぐるぐるしている。俺がグラスを下げてキッチンで洗っている間に、先生は二人を玄関で見送ったらしい。戻ってくると先生は晴れ晴れしたような顔で笑みさえ浮かべていた。
「肩の荷が下りました。約束してましたからね。」
そう言いながら先生は食器棚からグラスを取り出し、冷蔵庫から麦茶を出して注いだ。グラスを持ってリビングに行く。何度も見た光景だ。いつでも見られると思っていた背中だ。
5000万円。けっこうな大金だ。先生が死ねばそれが俺の物になる。3ヶ月前の俺だって金ほしさに他人の死を願うほど悪人じゃない。それでも金が入るなら少しは嬉しかっただろう。でも今はそんな金なんかいらない。欲しくない。これからもずっと先生の背中を見ていたい。心からそう思った。