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嘘つきな恋人 (He is a lier.)  作者: 烏籠武文
5/15

先生

スーパーから出ようとしたら目の前が真っ白だった。すごいどしゃ降りだ。雨の勢いもすごいが音もすごい。バシャバシャを通り越してゴーゴーとでもいうような、命の危険を感じる音が響く。これがゲリラ豪雨か。すごいな。天気予報見とけば良かった。


出口付近では他にも何人か困ったような顔で外を見ていた。傘を持っていてもこの雨じゃ役に立たないだろう。3歩歩いたらずぶ濡れだ。だがこんなすごい降り方は長くは続かない。少し待てば雨脚は弱くなる。戻って100均でも覗いて時間つぶすか。


今日は買い物に出るのが遅かったから時間つぶしの分だけ夕食が遅くなる。連絡しておこう。そう思ってポケットのスマホを取り出したとき、叩きつけるような雨音に混じって聞き覚えのある女の声がした。


「なんしょうと?」


ぎょっとして振り向くと後ろにいたおじさんが何事かと慌てたような顔をした。空耳だ。雨の音がそんな風に聞こえただけだ。誰もそんなこと言ってない。こんなに降ってるんだ。橘さんなら帰ってこいなんて言わない。帰ってこなければ酷い目にあわせるなんて…。


「なんしょうと?」


苛立ったような声がまた聞こえた。空耳だとわかっている。わかっているが、これ以上ここにいられなかった。財布とスマホをレジ袋に入れて口を縛る。Tシャツを引き上げて中にレジ袋を抱え込み、どしゃ降りの雨の中に突っ込んでいく。呆れたように俺を見送る客の中に、逃げ出した俺を嘲笑っている女の顔が見えたような気がした。


 ***


歩くたび靴がぐちゃぐちゃと気持ち悪い音を立てる。雨はだいぶ弱くなってきた。もう少しで家に着く。顔に垂れてくる水を片手でぬぐったとき、門の前に傘をさして立っている人の姿が見えた。その人は小走りに駆け寄ってくると傘の中に俺を入れた。


俺を見上げる橘さんは怒ったような顔をしていた。さしかける傘からはみ出した肩があっという間に濡れていく。なんでこんなとこにいるんだ?こんなに濡れている奴に傘をさしても意味ないだろ。その分自分が濡れるだけなのに。馬鹿かよ。


「いいよ、もうずぶ濡れだし。それより先に中に入って。」


そう言ったが橘さんは頑として俺を傘に入れ続けた。2人で半分ずつ濡れながら勝手口のドアから家に入る。俺がTシャツの下からレジ袋を出すと、先に上がった橘さんはしかめっつらで受け取った。


「中にスマホと財布入ってる」

「わかりました。すぐお風呂に行ってください。」

「ああ」


その場でTシャツを脱ごうとすると橘さんは強い口調で言った。


「すぐ行ってください!床は私が拭いておきますから。」


言われたとおり勝手口からあがると床に水がしたたり落ちた。足跡と水の筋をつけながら歩き、浴室に入って肌に貼り付く服をなんとか脱いでシャワーを浴びる。肌に当たるお湯が熱いくらい温かく感じる。ずいぶん冷えたようだ。


風呂からあがって靴を乾かそうと勝手口に行くと、橘さんが俺のスニーカーに新聞紙を詰めていた。残った新聞紙を手に、小言を言いたそうな顔つきで立ち上がる。


「急に降られたんですか?雨宿りしてゆっくり帰ってよかったのに。」

「早く帰りたかったから」

「無理しないでください。こんな雨の中帰ってこなくていいです。」

「仕事だし」

「無理しないといけない仕事じゃないです。体の方が大事です。」

「わかった。俺が倒れたらあんたが困るからな。」

「そうじゃなくて…心配してるだけです。同じ家にいるんですから。」


そんなのあんたの常識だろ。俺の常識は違う。そう思ったが口には出さなかった。言ったところで、こんないい家に住んでいる奴に理解してもらえると思えない。少しでも遅くなれば殴られる。ずぶ濡れになってでも帰らないといけない。それが俺の普通だった。


そう反発する心と裏腹に、橘さんが門の前にいたのは俺のことが心配だったからもわかっていた。わかっているが素直に受け入れられない。心配してもらえることを諦めたのに、いまさらそんなことが起きてもどうすればいいかわからない。


これ以上話し続けるのが怖くて、もう話は終わりと手を振る。


「あー、もういいよ。もうしないから。それでいいだろ?」


橘さんはうかない顔のまま、目を伏せて自分に言い聞かせるように言った。


「すみません偉そうに。言うならありがとう…ですよね。でも心配なのは本当です。先生は…」

「先生?」


聞き返されて、橘さんはあっという顔をした。恥ずかしそうに言い訳を口にする。


「すみません。つい口癖で。」

「あんた学校の先生なの?」

「…はい。休職中ですけど。」

「ふーん…なるほどね、先生か。そんな感じ。じゃあこれから先生って呼ぶわ。よろしくセンセー。」


そういうと橘さんは困ったような渋い顔をした。そうやって茶化すことで俺は先生の目だけでなく俺の目も、俺の本当の心からそらすことができた。


  ***


それから俺は橘さんを先生と呼ぶようになった。嫌がっている顔が面白かったからだが、そのうち橘さんも諦めた。呼ばれると素直に「はい」と返事するようになった。


もし俺が橘さんを先生と呼ばなかったら。橘さん、古賀さんと呼び合う一線を引いた関係だったら仕事を終えてあの家から出て行っていたかもしれない。だが先生と呼ぶことで俺は橘さんを信頼できる相手だと自分に教えていた。先生と毎日何度も繰り返し呼び、そのたびに心が近づいていることに気づかなかった。

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