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嘘つきな恋人 (He is a lier.)  作者: 烏籠武文
2/15

引っ越し、そして家政婦初日

一週間後、俺はアパートをひきはらって男の家に来た。金になりそうな物は全部売り払ったが、それでも滞納していた家賃には足りなかった。大家はいい顔はしなかったが、出て行くだけまだましだと思ったのか渋々諦めてくれた。


バッグ1つで来た俺をおっさん…橘さんは驚いたような顔で玄関で迎えた。


「荷物は?」

「これだけ」


そう言って肩に掛けたスポーツバッグをちょっと持ち上げる。かかとでひっかけてスニーカーを脱ぎ、用意されたスリッパに足を通す。


「これだけって…全部処分したんですか?」

「住み込みならいらないし」

「まあ、そうですけど…。」

「荷物置いてきていい?」

「あ、はい。どうぞ。」


返事を最後まで聞かず階段を上がり、左手のふすまを開ける。2階の和室が俺の部屋だ。鞄を畳の上に置き、窓をあけて空気を入れ換える。窓の向かいにはお隣の家、下にはそれほど広くない庭が見える。庭木の落ち葉を集めたり雑草取りも俺の仕事だろう。もっともこの青々している葉っぱが黄色くなって落ちるまではここにはいないだろうが。


バーで話をもちかけられた日、詳しい話は自宅ですると住所と電話番号を書いた紙を渡された。メモを頼りにこの家に来て、やっとそこで俺も古賀健人と名前を名乗った。名前も知らない相手を家に上げるのもずいぶん不用心だと思う。それを言うなら初対面で家政婦を持ちかけるのもどうかと思う。呆れたことにおっさん…いや橘誠司さんが希望していたのは本当に家政婦の仕事だった。


仕事は家事全般。掃除、洗濯、買い物、布団干し、庭の手入れ、などなど。そんなに難しいことじゃない。どれも一通りはできる。料理も簡単なものなら作れる。ただ料理は味の好みがあるからしばらくは一緒に作ろうと言われた。


試用期間は3ヶ月。保険金の話はその後で。嫌になったらいつ辞めてもかまわない。その時点で精算すると約束された。5000万円なんてのは食いつかせるための餌だろうから当てにはできない。だが2,3ヶ月いれば、またどこかに行って暮らすだけの金は貯まる。仮住まいにしては上出来だ。


見ず知らずの男を家に招き入れ、家政婦として雇う理由は聞かなかった。余計なことに口出しも深入りもする必要もない。女が嫌いか、そっちの趣味かのどっちかだろう。セックス付きの家政婦になる可能性もゼロではないが、それならそれでもいい。俺も楽しめるなら少しくらいサービスしてもいい。


ただ俺が何か盗んで逃げたらどうするのかは聞いた。橘さんは笑って何でも盗んで逃げていいと言った。盗まれて困る物はもうない…と言った後、眼鏡だけは困るので勘弁して欲しいと真面目な顔で言い直した。


荷物を置いて部屋を出る。2階には他に2つドアがある。前に来たとき通されたが1つは書斎で、机と本がぎっしり詰まった本棚があった。よく分からないが難しそうな古い本で、あんな物を売ってもたいした金にはならないだろう。もう1つは何もない洋室だった。昔は妹の部屋だったが、嫁に行く時に処分したと言っていた。


確かにこの家で金になりそうなものは1階にあるTVくらいだ。橘さんの眼鏡は盗んでも金にはならない。自分で考えたジョークに自分でにやっと笑って階段を降り、待ち構えていた雇用主に話しかける。


「で、何すればいい?」

「買い物をお願いします。夕食は生姜焼きでいいですか?」

「ああ」


渡されたメモには綺麗な字が並んでいた。ほうれん草、豚ロース、トイレットペーパー、石けん…子供でもできるおつかいだ。これも家政婦の仕事と言えば仕事だが、なんだか子供のおままごとみたいな気もする。


駅前のスーパーまで往復し、買ってきたレジ袋を橘さんは台所で受け取った。嬉しそうに料理を始める。横で見ていたが手際がいい。ほうれん草を茹でながら、フライパンにチューブのショウガと醤油を入れてタレを作る。ゆであがったほうれん草を切ってくれと言われて包丁で切る。どっちが家政婦なんだかわからない。


予告通り夕食は豚の生姜焼きだった。あとはきんぴらにほうれん草の胡麻和えに味噌汁という家庭料理の王道。ただ皿に乗っている肉の量が明らかに違う。橘さんの皿には半分くらいしか乗ってない。食えないんだろうか。どうでもいいけど。


食卓で仲良く会話することまで契約には入ってない。黙ったまま食卓に座り、生姜焼きをごはんの上に乗せて一緒に口に入れると思わず声が出そうになった。うっま。ごはんがめちゃくちゃうまい。甘くてもっちもちだ。なんとか産こしひかりとかの高級米だろうか。生姜焼きもショウガがいい具合に効いて甘ったるくない大人の味だ。うまい。


「口に合いますか?」


やば。俺、うまいって顔に出てかもしれない。聞いていた橘さんに黙ってうなずく。うまいとか言ったら調子に乗るかもしれないし。


「それは良かった。自慢じゃないですが得意料理です。」


嬉しそうに言った橘さんも、その後は黙ってメシを食っていた。今日は朝から退去前の片付けだの手続きだのでバタバタして昼飯食いそびれたんだよな。腹減ってたし、メシはうまいしでばくばく食ってたらご飯が足りなくなった。


「ご飯まだある?」

「土鍋の中にあります。よければ全部食べてください。」

「ん」


なんだよそってくれない…いや俺が家政婦なんだから自分でやって当たり前か。席をたって台所に行き、ガス台の横にある土鍋の蓋を開ける。もう一膳分くらいのご飯が残っていた。炊飯器じゃなくて土鍋で炊いているのか。まめな人だ。


ご飯茶碗を持ってもう一度テーブルに戻る。しかしこの米はうまい。男を捕まえるにはまず胃袋からなんていうけど、このメシが食えるなら住み込みでも悪くない。


メシを食い終わって食器をキッチンに下げる。橘さんも一緒に皿をさげ、シンクのスポンジを取った。と思ったら動きが止まった。ゆっくりと顔を俺に向ける。


「…皿洗いお願いできます?」


黙ってうなずく。俺を雇ったって忘れてただろ。照れ隠しのように頭をかく橘さんと場所を換わって蛇口のレバーを上げる。皿を洗っている間、橘さんはリビングでTVを見ていた。なんでも自分でやるのが癖になって頼むのを忘れたんだろうな。意外と間抜けだ。そういう俺も言われなかったら皿洗いしなかったかもしれない。お互い慣れるまで少しかかりそうだ。


洗い物が終わって俺もソファに座り橘さんと一緒にTVを見る。海外のドキュメンタリーみたいだ。真面目な内容で俺の趣味じゃない。さすがにチャンネルを変えるわけにはいかず、少し見たら飽きてきてあくびが出た。ちょっと目を閉じたつもりだったが寝てしまったらしい。肩を揺すられて慌てて目を覚ますと橘さんがパジャマ姿で笑っていた。


「お風呂どうぞ。先に寝ます。おやすみなさい。」


それだけ言うと自分の部屋に引っ込んでしまった。1階の奥、リビングの横に橘さんの部屋がある。俺に気をつかっているのか、体力がないから早く寝るのか。まあどっちでもいい。俺も風呂に入ってリビングでTVを見ることにした。もちろん見るのはバラエティー番組だ。


昨日と全然違う場所でいつも見ている番組を見るとなんとなく変な気分になる。昨日と今日で俺の生活はすごく変わったのに世の中は何も変わっていない。それは当たり前だ。そんな経験は何度もしているが、そのたび不思議なような寂しいような気分になる。


いずれにしても知らない家での初めての日にしては上出来だ。話しかけられたらめんどくさいと思っていたが、この調子でお互いに干渉しないならやっていけそうだ。ただTVは…あんな高尚な番組を見せられたらまた寝てしまう。自分の部屋で見る小さいTVでも買うか。


家政婦2日目で寝過ごすのもさすがにみっともない気もして、ぎりぎり今日中にTVを消して2階に上がる。押し入れから布団と枕を出して畳のうえに敷き、布団の間にもぞもぞともぐりこむ。いい布団だ。俺が昨日まで使っていたぺしゃんこの安物とは全然違う。しっかり厚みがあって寝心地が良い。シーツもぱりっとして気持ちがいい。そういえば俺、最後に布団を干したりシーツ取り替えたりしたのいつだったっけ。思い出せない。


この家にあるものは俺には上等すぎる。美味いメシ、気持ちいい布団、庭のある一軒家に自分の部屋。子供のころあったらいいなと思っていた物が全部ある。橘さんはそれが当たり前で生きてきたんだ。なんだか妬ましいような、苦しいような気分になって眠くない目を無理矢理閉じた。

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