俺が5000万円で男に買われた話でもしようか?
俺が5000万円で男に買われた話でもしようか?
たいした話じゃない。面白かったら一杯おごってくれればいい。つまらなかったら席を立っていい。あの優しい人の話をしたいんだ。
***
ヤバい。マジやばい。金がねぇ。
今朝行ったらバイトしてた店がなくなってた。夜逃げしやがった。うすうすヤバいかもって思ってたくせに、逃げ時を見誤った俺のミスだ。どいつもこいつもろくでなしばかりで、誰も信用できないなんて知ってるくせに。くそ。
バーカウンターで唸っている俺に、マスターが面白がっている顔でグラスを差し出す。
「災難だったな。じゃあこれは俺からのおごりだ。」
両手を合わせてマスターを拝み、ありがたくいただいてビールを一口飲む。金がないのにバーに来るのもどうかと思うが、こんなとき家で腐っているとますます気が滅入ってくる。なじみの店で愚痴くらい聞いてもらった方が気も晴れる。
「今月どころか先月の給料までまとめて踏み倒されたんだぜ…マジ家賃どうしよう。バーテン雇う気ない?」
「いまのところ人手は足りてる。大家に説明して待ってもらうしかないな。」
「滞納してんだ…今月分払えなかったらアウト。」
「お金がいるんですか?」
最後に話しかけてきたのはマスターじゃなかった。カウンターの端に座っていた男。真面目そうな顔をした眼鏡のおっさんだ。
「いるよ。なに?あんた金くれるの?」
そう言うと男はちょっと笑った。そっちの話かな…まあいいや金になるなら。
カウンターチェアから降り、男の隣の椅子に座りなおす。マスターはビールとコースターを俺の前に置きなおしてくれた。そういう目的の店ではないが、マスターも客同士の話に割り込まないくらいはわきまえている。
近くで見るとそんなに年でもなかった。40くらいだろうか。さっきも思ったが七三分けに眼鏡と真面目そうな顔だ。イケメンってほどでもないが、これくらいの顔なら合格。仕事と割り切るにしたって楽しめる方がいいに決まっている。
体型は細い…というより痩せすぎの気もする。眼鏡の下から見返してくる目は少し垂れ目だ。行きずりの男を買おうってわりにはギラギラしたところがない。まあそんなことはどうでもよくて、肝心なのはいくら出すか?だ。
「5万でどう?」
そう言うと男は少し眉を上げて意外そうな顔をした。
「5万?いえ、もう少しお支払いします。」
「へえ、気前いいね。いいよ、くれるって言うならいくらでも。」
「住み込みで働けます?」
「住み込み…?なんだバイトか。内容によるけど。」
「家政婦をお願いしたいのですが可能ですか?」
え?男に家政婦?それって…ああ、愛人にならないかって意味か。若い頃はいくらでもそんな奴はいたが…とりあえずの住処を確保できるなら、よほどの変態か危ない奴でもない限りありか。
「月いくら?」
「私も相場がわかってないのですが…初任給が20万くらいですから…30万でどうでしょう。」
「安すぎ」
ずいぶん足下を見られたもんだ。100万はもらわないと割に合わない。それこそ10代のころだったらいくらふっかけても…くだらないことを思い出した自分にうんざりする。話を聞く気もなれずビールを口に運ぶ。
男は少し考えこんでいたが、まだ諦めずに口説く気か口を開いた。
「ではボーナス付きでどうです?」
「ボーナス?」
「はい。月々の給料とは別に5000万円支払います。それでいかがでしょう。」
「はぁ?」
思わず間抜けな声が出た。それにかまわず男は言葉を続ける。
「1年後に5000万。私の最期を看取っていただければ保険金でお支払いします。」
保険金?5000万?真面目な顔してなに言ってんだこいつ。ふざけているのか、からかわれているのか。まだ少し残っているビールをぶっかけてやろうかと思わずグラスを握ったが、マスターがわざとらしい咳払いをした。「やめとけ」か「騒ぎを起こしたら今度こそ出禁にするぞ」か。
似たような騒ぎを何回か起こしている。どっちも俺が悪いんじゃない、絡んできた向こうが悪い。だがさすがに今日は釘を刺されてまで喧嘩を売る気にもなれない。気晴らしにきたつもりがこんな奴にからかわれて…くそっ。いいさ、面白い冗談のつもりなら乗ってやろうじゃないか。
「なに、あんた死ぬの?」
「はい。おそらく一年以内に。」
嘲笑うように言った俺の言葉に、落ち着いた口調で答えると男はグラスを手にした。薄い茶色のロングカクテル。中では炭酸の泡が上がっている。死ぬ奴が酒を飲んだりしないだろ。やっぱりからかわれてる…か、金をちらつかせて食いつくのを狙っているのか。そうはいくか。
「へー、そうなんだ。それはお気の毒様。」
「お気遣い恐れ入ります。で、いかがでしょう。受けていただけますか?」
しつこい。どこまでもそのネタで行くつもりかよ。俺がむすっとした顔をしていると、なぜかマスターが見かねたように口を挟んできた。
「住み込みの家政婦を探しているなら紹介所に心当たりありますよ。」
「探しているんですけどね。ですが紹介所に頼んでも、家政婦さんに看取って欲しいという依頼はできませんので。」
そう話している二人の様子は、今日初めて来た客との会話には見えなかった。常連なんだろうか。そうでないとマスターが客同士の会話に口を挟むなんてことはしないだろう。ここでこいつを見た記憶はないんだが。
話している男の顔つきはどこまでも穏やかだった。マスターの心配そうな様子を見る限り、ヤバい筋だとか信頼できない相手でもなさそうだ。5000万円やるって話は本当かどうかわからない。だが愛人…じゃなくて住み込み家政婦の方は本当の話かもしれない。
バイト代を踏み倒されなければ。部屋を追い出される期限が迫っていなければ。なによりマスターが口を挟まなければ。馬鹿げた話だと一蹴してそれで終わった。二度と思い出すこともなかっただろう。
だがあの日の俺は切羽詰まっていて、話だけでも聞いてみるかと思ってしまった。その先に何が待っているかも知らずに。