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第55話 私はエリク様を──


 部屋の隅に蹲るハリーの眼は、血走っていた。

 理性の光はすでに失われ、あるのは嫉妬と怨嗟だけだった。


 彼の護衛たちは皆、ヒストリカに叩き伏せられ、今ではエリクの護衛たちによって拘束され、連行されている。


 己が取り残され、無力に転がるこの状況が、ハリーの精神を完全に壊した。


(なぜだ……なぜ、俺だけがこんな……!)


 気高く、冷たく、誰にも屈しない女。

 そのヒストリカが、エリクにだけはこんな顔を見せる。


 そんな現実が、堪え難かった。


(もう、どうでもいい……)


 血に濡れた手で、床に転がるナイフを掴む。


「うおおおおッ!!」


 狂ったような咆哮と共に、ハリーが最後の力を振り絞って跳びかかる。

 ナイフの刃が、冷たい光を放ちながら一直線にヒストリカへと迫った。


◇◇◇


「っ……!」


 ナイフを手に突進してくるハリーに、ヒストリカは即座に反応しようとした。

 だが、今の体勢では一歩遅れてしまう。


(これは……避けられない……!)


 確実に、自分に刺さる――そう思った瞬間。


「危ないッ!」


 エリクの声が響いた。

 同時に、彼の腕がヒストリカの肩を強く抱いて引き寄せる。


 ズッ――。


 鈍く、生々しい音が、空気を裂いた。


「……っ!」


 ヒストリカの目の前で、エリクの身体が大きく揺れる。

 背中に、深々と突き立てられた短剣。


 その刃がゆっくりと引き抜かれ、血が、濃く、彼のマントを染めた。


「エリク様……っ!?」


 ヒストリカが叫ぶ。

 エリクの身体がぐらりと傾き、彼女の腕の中に崩れ落ちる。


「ざまあみろォォォッ!!」


 ハリーの叫びが部屋に響いた。

 血走った目で高笑いを上げながら、満足げに口を歪める。


 だが、その笑いは続かなかった。

 ヒストリカの瞳が、氷のように冷たく光る。


 エリクをその場にゆっくりと抱き下ろし、跳ねるように立ち上がる。

 するとヒストリカの鋭く振り抜かれた足が、回し蹴りとなってハリーの側頭部を捉えた。


 バシィッ!!


「ぎゃっ……!?」  


 衝撃音とともに、ハリーの身体が宙を舞い、石壁に叩きつけられる。

 そのまま地面に崩れ落ち、動かなくなった。


 ヒストリカはそんなハリーに一瞥もくれなかった。  


 彼女の視線はただ一点、血を流して倒れたエリクへと向けられていた。


「エリク様!!」


 叫びながらヒストリカはすぐさま膝をつき、エリクの身体を支えた。

 その手が彼の胸元に触れると、かすかに感じる鼓動。


 かなりのダメージを売れけているのは明白だった。


「……う、ぁ……」


 唇の隙間から、エリクのうめき声が漏れる。

 だがその声は掠れ、息も浅い。


(……落ち着いて。まずは脈、呼吸……出血の量がすごい……)


 ヒストリカは意識を集中させ、震える指先を彼の首筋に当てる。

 脈は不規則で細い。


 瞳孔の反応も鈍く、顔色は明らかに悪い。


(医療道具はない……でも……やるしかありません)


 今すぐできることを、迷わず選ぶ。

 それが彼女の中に染みついた生き方だった。


「護衛の方、担架を急いでください……!!」

「は、はい!」


 周囲で動揺していた護衛たちが、すぐに指示に従い始める。

 その間にも、ヒストリカはドレスに忍ばせてあった小さなポーチから、万が一のために持っていた包帯を取り出した。


 しかし、それだけでは足りないと判断すると、ヒストリカは自分のドレスの裾を迷いなく引き裂いた。

 血に染まるその布を、即席の止血布として、彼の傷口にぎゅっと押し当てる。


(思ったより深い……なるべく血を止めないと……)


 出血を抑えるため、体重をかけて強く圧迫する。

 ドレスの布は瞬く間に赤黒く染まり、指の隙間からじわじわと血が滲んでくる。


(……お願いだから……死なないでください)


 胸の奥に押し込んでいた叫びが、喉の奥までせり上がってくる。


「ヒス、トリカ……」


 かすれた声が、ふたたび彼女の名を呼んだ。

 驚いて顔を上げると、エリクが薄く目を開けていた。


「喋らないでください! 血が……」


 必死に制止するヒストリカに、穏やかな声で言った。


「君が無事で……よかった……」


 その言葉が、ヒストリカの胸を一気に締めつけた。  

 この状況で、それでも彼は自分のことより、ヒストリカの無事を願っていた。


(この人は……こんなになっても、私のことを……)


 どくん、と胸の奥が高鳴る。

 胸の奥底で眠っていた感情が、一気に熱となって胸を焦がした。


 そんな動揺をなんとか抑え込んで、ヒストリカは応急処置に戻った。

 その時、扉の向こうから、担架を持った護衛たちが駆け込んできた。


「こちらだ! エリク様がご負傷されている!」


 力強い声に、ヒストリカはホッと安堵した。

 数名の護衛が協力してエリクを担架に移す。  


 その間も、ヒストリカはずっとエリクの手を握りしめていた。


「絶対に助かります……助かりますから……」


 小さく、けれど力強くそう呟いて。

 夜の帳が落ち始める空の下、ヒストリカは血に濡れたまま、エリクの傍を離れなかった。


◇◇◇


 屋敷へ戻る道のりは、馬の蹄音と雨音だけが支配していた。

 エリクを乗せた担架は、濡れた地面を滑るように進み、屋敷の門を抜けたときにはすでに空は深い群青に染まっていた。


 執務棟の一室が即席の治療室へと改装され、医師たちが総出で処置に当たった。

 出血の多さに医師たちの表情は険しかったが……。


「幸い、刃は臓器には届いていませんでした。しかし、あと少し対応が遅れていれば……」


 治療を終えた老医師が、血のにじむ包帯を巻かれたエリクの背を見ながら静かに言った。


「ヒストリカ様の応急処置がなければ……命を取り留めるのは難しかったでしょう」


 ヒストリカは何も言わず、ただ小さく頭を下げた。

 感謝の言葉ではなく、むしろ自責の念が胸を締めつけていた。


 医師たちが去った後、灯りの落とされた部屋には静寂が戻った。

 夜はすっかり更けている。


 窓の外には満ちかけた月が浮かび、薄い光がカーテン越しに漏れている。


 寝台の白いシーツの上に月光が淡く差し込み、彼の横顔を静かに照らしていた。


 ヒストリカは、エリクの寝台の傍らに椅子を引き寄せ座っている。


 そしてその手を、両手で包み込むように握った。

 彼の手はまだ冷たく、かすかに震えている。


 目を閉じたまま眠るその姿は静かで、けれどどこか痛々しかった。


「……ごめんなさい」


 その言葉は、月明かりに紛れてしまいそうなほど小さな声だった。

 罠だとわかっていたのに、自分はなぜ、あんな危険な行動を選んでしまったのか。


(私は……今まで、なんでも一人でこなしてきた。誰にも頼らず、自分の力だけで切り抜けることが当然だと思っていた)


 自身の行動をヒストリカは言語化していく。 


(今回も、自分一人でどうにかできると……思っていたのに)


 それは誇りではなく、ただの思い上がりだったのかもしれない。

 誰にも迷惑をかけたくなかった。誰か……特にエリクに危険が及ぶくらいなら、自分だけで済ませたほうがいいと、そう思っていた。


 いかしその選択が、結果的に彼を傷つけてしまった。

 その事実を自覚して胸が苦しくなった。


 涙はこぼれなかった。けれど、胸の内は波のように荒れていた。

 その時だった。


「ん……う……」


 エリクの手が、そっとヒストリカの手の甲に重ねられた。

 まるで、『気にしないで』とでも言うように。


「…………」


 ヒストリカの胸を蝕んでいた自責の念がすっと収まっていく。

 今ここに彼がいる。それが、どれほど大きな奇跡か。


 彼の命が、まだ温もりを保っている。

 それだけで、今は十分だった。


 ヒストリカはゆっくりと身を乗り出し、眠る彼の額へと顔を近づけた。

 頬の温もりを感じる距離まで降りてきて、そっと、静かに口づける。


 触れた唇から伝わる体温は、微かに、でも確かにそこにあった。


(こんなにも……大切だと思ってしまっていたんですね、あなたのことを)


 エリクが傍にいない日々など、もう考えられなかった。

 日常のすべてに、彼の存在が自然に染み込んでいたことに、今さらのように気づかされる。


 ヒストリカはそっと顔を離し、もう一度彼の手を握る。


 冷えたその指を、自分の手で少しでも温めるように包みながら、目を閉じた。

 室内には、彼の静かな呼吸と、外から差し込む月の光だけが満ちていた。


◇◇◇


 翌朝。


 昨日の豪雨がまるで嘘のように、空は透き通るように晴れ渡っていた。

 窓の外からは、雲間を割って差し込む柔らかな朝日が、寝台をほんのりと照らしている。

 ヒストリカは、ぼんやりとした意識のまま椅子に腰かけていた。


 夜通し眠らずに彼の傍に付き添っていたせいで、目の下には薄く影が差している。

 けれど、彼女の手はずっと、エリクの手を握りしめたままだった。


「……ヒストリカ……?」


 かすれた声が、静かな部屋に落ちた。

 ヒストリカの背筋がぴくりと跳ねる。


「……! エリク様っ!」


 彼の瞼がゆっくりと動き、目元にかすかな光が戻っている。 確かに意識が戻っていた。

 ヒストリカはその事実に、胸が詰まるのを感じた。


「……大丈夫です。峠は、もう越えました。しばらくは安静にしていただく必要がありますが……命に別状はないと、医師が言っていました」


 できるだけ落ち着いた声で伝えたものの、その声はどこか震えていた。

 エリクは、薄く笑った。


「……そっか。良かった……」


 安堵して、むねを撫で下ろすエリクがヒストリカを見て言う。


「君の顔が見えて安心したよ。夢かと思った」


 ヒストリカの胸の奥で、張りつめていた何かがぷつりと切れた。


「そんなことを言って!! どれだけ心配したと思っているんですか……!」


 ふいに、ほんのりと声を荒げる。

 鋭くもない、怒りでもない。


 それは、心配と安堵がないまぜになった感情が、言葉になって溢れ出た一瞬だった。


「良かった……本当に、良かった……」

 堰を切ったように、涙が頬を伝った。


 彼の胸元に顔を埋め、もう何も堪えられなかった。

 泣いてはいけないと思っていた。けれど、もう無理だった。


「ヒストリカ……?」


 エリクが戸惑ったような声を出す。自分の中にあったものが一気にあふれ出す。


「氷の令嬢」と呼ばれた彼女は、その呼び名が嘘のように、今はただ、子供のように泣きじゃくっていた。

 肩が震え、喉から漏れる嗚咽を止められない。


 ヒストリカの感情は、もう形を保てなかった。あまりの勢いに驚いたのか、彼はおろおろとしながらも、力のない手をゆっくりと伸ばし、彼女の頭をそっと撫でた。

 その仕草が、さらに彼女の心を締めつける。


 そして――ようやく、自分の気持ちがはっきりと見えた。

 エリクが命の危機に瀕して、もういなくなってしまうかもしれないと感じたとき。


 心が、叫ぶように訴えていた。


(私は、エリク様のことを……愛してる)


 初めて抱いた、その感情。

 これまでの人生で感じたどんな感情よりも、真っ直ぐで、鮮烈だった。


 彼に触れたい。彼を守りたい。彼と共に在りたい。


 それは、理屈を超えた感情として、ヒストリカの胸に灯っていた。


◇◇◇


 深夜。

 とある屋敷の書斎――街外れの古びた貴族邸の一室。


 暖炉に火はなく、冷えた空気の中に蝋燭の明かりがひとつだけ揺れている。

 調度品は古びてはいたが、それなりに手入れはされており、この部屋がまだ現役で使われていることを物語っていた。


「……失敗、だと?」


 静けさを破ったのは、低く押し殺された男の声だった。

 室内の一角、書棚の陰に佇むその男は、フード付きの外套をまとい、顔を半ば影に沈めている。


 彼の前には、ひとりの部下が膝をついていた。俯いたまま、背を丸めて震えている。


「申し訳……申し訳ございません。あの女は……予想以上に、手練れで……」


 男は鼻先で笑った。だが、それは嘲笑でも、許しの気配でもなかった。


「――愚かだな。使い捨ての駒に成果を期待するとは」


 冷たい声に、報告者の背がさらに小さくすぼまる。


 フードの男は、机の上の古びた地図に目を落とした。


 指先でその一角をなぞりながら、ぽつりと呟く。


「有能な女が、男の領域を侵そうとする時代か。滑稽だな」


 鼻を鳴らして男は続ける。


「だが、我々は見過ごさん。国の秩序を乱す種は、早めに摘むまでだ」


 その声音には、あからさまな嫌悪が滲んでいた。


「分をわきまえぬ者は――男であろうと女であろうと、処されるべきだ」


 蝋燭の火が、男の口元に浮かぶ薄笑いを照らす。

 男はゆるりと背後を振り返る。そこには、黒衣をまとった別の影が静かに控えていた。


「次は、確実に仕留めろ。手段は問わん。結果だけを残せ」

「……は」


 静かな返事が落ちると、命を受けた影はすっと身を翻し部屋の扉へと歩き出す。

 その足取りはまるで音がなく、夜の帳へと溶けるように扉の向こうへと消えていった。


 残された蝋燭の炎が、ゆら、と揺れた。

 静寂に包まれた書斎に、男の気配だけが残される。


 その沈黙は、不気味なほどに重い。

 ふたりを狙う新たな闇が、確かに動き出していた。



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久々に槍を蔵から出す時が来たようで・・・・
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