第54話 誘拐
陽の光が、庭の草花に柔らかな陰影を落としていた。
エルランド公爵家の中庭。
そこに設えられた石造りの丸テーブルでは、白いクロスが緩やかな風になびき、磨かれた銀製のティーポットと、繊細な白磁のティーカップが並べられている。
陶器の縁をくすぐるように立ちのぼる湯気は、芳醇な茶葉の香りを空へと運び、穏やかな空気の中に溶けていった。
ヒストリカは椅子に腰かけ、静かにカップを手にしていた。
肘掛けに寄せられた数冊の資料本と、書きかけの手紙。
それらは、ここで過ごす彼女の日常を端的に物語っている。
「穏やかね……」
ふと漏らした独り言は、どこか不思議そうな響きを含んでいた。
生家で過ごしていた日々、あの家の空気は常に張り詰めていた。
口を開くたびに責められ、否定される、重く冷たい沈黙が支配する空間。
自身の存在が静かに削られていくのを、彼女はずっと感じていた。
それに比べれば今この場所で流れる時間は、まるで夢のようだった。
「お待たせしました~」
明るい声とともに、侍女のシルフィがトレイを手にやってくる。
新しく淹れ直された紅茶の香りが風に乗って届き、ヒストリカはそっとカップを置いた。
「ふふっ」
シルフィが紅茶を注ぎながら、満ち足りたように目を細めて声を漏らす。
「どうしたの?」
「いえ……ヒストリカ様と一緒に、こんな時間が過ごせる日が来るなんて、思わなかったなあって」
「随分と、感慨深いのね」
「本当ですもん。前はずっと背中が張ってたような感じで、ピリピリしてて。でも今は、ふふ……いい意味で、力が抜けてます」
その率直な言葉に、ヒストリカは小さく笑った。
「それは……良いこと、なのかしら?」
「もちろんです! 今のヒストリカ様、とても素敵ですよ」
明るく言い切るシルフィに、ヒストリカはふっと目を細め、再びカップを手に取る。
こんなふうに、何気ない会話を交わし、互いの言葉に微笑むことができる日々。
ほんの少し前までは、想像もしなかった。
けれど、今は確かにここにある。
かつて、何者かであることに縛られ、自分の存在に価値があるのかさえ疑っていた彼女が、今はこうして他者と笑い合い、求められ、信頼されている。
それは確かに、ヒストリカの心に深く根を下ろしつつあった。
以前の自分からは想像できないほど穏やかな心地になったその時──ふと、風向きが変わった。
それまで頬を撫でていた風が、急に強く吹き抜け、テーブルクロスがひらりと持ち上がる。
カップの縁が微かに揺れ、開いたままの書簡の一枚がめくれ上がった。
ヒストリカは反射的に手を伸ばしてそれを押さえる。
指先に触れた紙は冷たく、風の気配をそのまままとっているかのようだった。
「……一雨、来そうね」
そう呟いて、彼女は空を見上げた。
さっきまで穏やかだった空に、灰色を含んだ雲が静かに広がり始めている。
遠くの木々がざわめき、風に揺られて葉を鳴らす。
まだ、雨が落ちてきたわけではない。
ただ、空気の匂いが少しだけ変わっていた。
「洗濯物……取り込ませておいたほうがいいかもしれないわね」
「ええ、すぐに」
走り去るシルフィの背を見送りながら、ヒストリカは再びカップに目を落とす。
蒸気の立ちのぼる紅茶が、淡く揺れていた。
◇◇◇
翌朝、屋敷の外は静かに雨が降っていた。
しとしとと穏やかに、だが止む気配はなく、灰色の空から落ちる雨粒が中庭の石畳を濡らし続けている。
エリクの出発に備えた馬車は、玄関ポーチの大庇の下で準備を整えていた。
庇に守られた荷台に従者たちが荷を積み終える頃、エリクはすでに厚手のマントを肩に掛けている。
ヒストリカもまた、マントを羽織ったまま玄関に立ち、エリクの傍らに寄り添っていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
エリクがふと隣を見やり、やや気乗りしない様子で声をかけた。ヒストリカは静かに頷く。
「視察ですね。先日の報告にあった、東部の農地周辺の」
「うん。例年より作物の出来が良くないらしくて。気候の影響もあるだろうけど、土壌の状況や用水路の整備状況も確認しておきたくてね」
エリクは肩に掛けたマントの端を整えながら、小さく息を吐く。
「視察は大切ですもの。報告書の数字だけでは見えてこないこともありますし……」
言葉を交わしながらも、ヒストリカの視線はふとエリクの顔をじっと見つめる。
それはいつもと変わらないやりとりのはずだった。
なのに、彼がいない時間を想像するだけで、胸の奥がわずかに冷える。
互いの言葉に自然と応じながらも、ヒストリカの心の奥は複雑な思いが渦巻いていた。
本来なら、自分も同行しても良い立場のはず。
だが、今は文書仕事も溜まっている。
自分が屋敷を空けることは、得策ではない。
——理性では、そう理解している。
(わかってる……けど)
エリクがいつも隣にいる事に慣れてしまった。
その不在を想像するだけで、胸の奥がそっと冷える。
「しばらく僕がいない間は……少し退屈かもしれないね」
エリクが冗談めかして笑うと、ヒストリカもいつも通りの調子で答えようとした。
「いえ、むしろ静かになって助かります。落ち着いて文献に目を通す時間も増えそうですし」
「……僕がうるさかったみたいな言い方だな」
「そんなことは……ほんの少しだけ」
言葉を交わしながら、どこか、うわべだけのやり取りになっている気がした。
心の奥の“何か”が揺れている。
けれど、それを口にするのは違うような気がして。
――なのに。
「出来れば……早く、帰ってきてくださいね」
その言葉が、ぽつりと口をついて出た。
瞬間、ヒストリカは自分の口を小さく開いたまま、驚いたように目を瞬いた。
気がつけば、手がエリクのマントの裾をきゅっと掴んでいた。
(……え……?)
自分で、自分が何をしているのかわからなかった。
言った瞬間にはもう、言葉を飲み込みたくなっていた。
そんな甘えた言葉、自分の口から出るなんて。
エリクの大事な仕事を、引き留めるような真似をするなんて。
ヒストリカは慌てて手を放し、視線を落とした。
そんな彼女の頭に、エリクは大きな掌を添える。軽く引き寄せられる。
口元が、ヒストリカの耳元へと近づいてきて。
「仕事を早く終わらせて夜には……ううん、夕方には帰るよ」
その声は、雨音よりも静かに。けれど、確かに心に届いた。
「……お勤めはしっかりとお願いしますね」
小さな声で、ヒストリカはそう返した。
自分の発言で、エリクが仕事の手を抜くなんて事がないようという意図を持った言葉。
「うん、もちろん」
エリクの頷きに、ヒストリカは少しだけ口角を持ち上げる。それ以上は何も言えなかった。
けれど、それで十分だった。
エリクは彼女から一歩離れ、軽くマントの裾を正すと馬車へと向かった。
乗り込む直前、彼はもう一度だけヒストリカの方を振り返る。
そして何も言わずに、静かに微笑んだ。
馬車の扉が閉まり、御者が軽く手綱を鳴らすと、車輪が濡れた石畳をゆっくりと回り始める。
ヒストリカは、動かなかった。
背筋は真っすぐに、表情もいつも通りの冷静さを保っていた。
ただエリクの声が、囁きが、今も耳の奥に残っていて。
その余韻に胸がざわつき、鼓動が微かに落ち着かない。
馬車が門を抜けて姿を消すまで、ヒストリカはその場から一歩も動かなかった。
◇◇◇
昼下がり。
窓の外では、雨が変わらず降り続けている。
濡れた蔦が壁を這い、時折、雫がぽたりと落ちる音が耳に届いた。
暖炉に火は入っていなかったが、それでも寒さを感じるわけではない。
けれど、なぜだか空気が少しだけ、胸の奥に冷たく染み込んでくる。
ヒストリカは自室に戻り、机の上の書類を一枚ずつまとめていた。
けれど、手は止まりがちで、いつもなら集中できるはずの単純作業が妙に遅々として進まない。
机の隅には、エリクが置いていった資料の一つが残されていた。
思わず指先が触れる。
開くこともせずに、ただその装丁の表紙をじっと見つめた。
(……エリク様)
自然と、彼のことを考えていた。
エリクは今、ここにはいない。
夕方には帰ってくるはずだが、彼の不在がヒストリカの心をほんのりと擦っている。
仕事なのだから当然だと、理性では理解している。
でも、気がつけば頭の中にはエリクの顔や声が浮かんできて、何度もそれを振り払おうとしていた。
(今まで、こんなふうに誰かを“想う”ことなんて、なかったはずなのに……)
それはとても不慣れで、手に余る感情だった。
胸がきゅうっと締めつけられるようで、どうしていいか分からない。
(寂しい、って……こういう事なのかしら)
小さく、胸の内で呟いた。
最初は契約から始まった関係だった。
それでも、日々を共にし、肩を並べ、助け合って……。
気づけば、彼と離れることを、こんなにも寂しいと思う自分がいた。
その思いは、誰に向けるでもない願いのように、静かに胸に根を下ろしていく。
そんな時だった。
「ヒストリカ様。お届け物です」
突然の声に、ヒストリカははっと我に返った。
扉の向こうから聞こえたのは、シルフィのものだった。
「どうぞ」
静かに応じると、扉が開き、トレイを手にしたシルフィが現れる。
その上には、一通の封書が載っていた。
「先ほど、門から届けられました。差出人は……エルランド家のようです」
どこか強張った様子でシルフィが言う。
(実家から……?)
ヒストリカはその言葉に目を瞬かせながら、封筒に視線を落とした。
――“ヒストリカ・エルランド”
その宛名だけが、重々しく彼女の心に落ちる。
ヒストリカはしばし封筒を見つめ、やがて無言のまま指先で封を切った。
中から現れたのは一枚の羊皮紙。その文面は、驚くほど簡素だった。
《父、危篤にて。速やかに帰省されたし。》
「……っ」
瞬間、ヒストリカの目が、ほんの僅かに見開かれた。
◇◇◇
馬車は、濡れた街道を静かに走っていた。
車輪が水たまりを踏みしめるたび、ぱしゃりと音が跳ね、窓の外には灰色の空がどこまでも広がっている。
車内には、雨音と揺れの振動が微かに伝わってくるだけだった。
ヒストリカはカーテン越しに外を眺めながら、膝の上に置いた手にそっと力を込めた。
向かっているのは、かつて彼女が生まれ育った家――エルランド公爵家の屋敷。
その場所が、今はもう「帰る場所」ではないことを、彼女自身がいちばんよく知っている。
「……本当に、よろしかったんですか?」
隣に座るシルフィが、不安げに口を開いた。
明るい茶色の髪が揺れ、視線がそっとヒストリカの横顔を窺ってくる。
「ええ。問題ないわ」
ヒストリカは即座にそう答えた。
迷いのない声。けれどその内側では、静かな波が確かに揺れていた。
――父が危篤。
その一文を読んだとき、驚きはなかった。
あの父のことだ、不摂生が祟れば、いずれはそうなるだろうと、どこかで思っていた。
酒、煙草、夜更かし。
医官の忠告に耳を貸すこともなく、我が身を省みることなど一度もなかった男だ。
医学の心得が多少あるヒストリカにとって、それが必然であることは、理解できた。
だからこそ、衝撃や悲しみがなかったのも、当然のことだった。
「…………」
思考を馳せる。
ヒストリカは、父に対して「愛されていた」と思えたことが一度もない。
少女だった頃から、向けられたのは感情的な怒声と、時折振るわれる暴力だった。
学業の成果も、礼儀作法も、少しの失敗で帳消しにされ、罵倒の対象となった。
あの冷たい瞳が、自分を真正面から認めてくれたことなど、なかった。
(それでも……行こうと思ったのは……)
家族というものに、何かしらのけじめをつけたかったのかもしれない。
もう、血の繋がりだけで何かを感じる歳でもない。
それでも、あの人は唯一の父親でもある。
(死に目に会えなかったら、夢見が悪いし)
それは皮肉のようでもあり、ほんのわずかな情のようでもあった。
「ヒストリカ様……」
隣に座っていたシルフィが、ヒストリカの手をぎゅっと握った。
彼女の手は小さくて、あたたかかった。
迷いのない目が、真っすぐにこちらを見ている。
「少しでも、嫌だと思ったら……すぐに帰りましょうね。無理に我慢することなんて、ないんですから」
その言葉に、ヒストリカは目を細めて小さく微笑んだ。
「大丈夫よ。ほんの少し顔を出したらそれで終わり」
淡々と言いながら、握られた手に軽く力を込めて返す。
「それに……」
ヒストリカの声色が、わずかに低くなる。視線は、馬車の窓の向こう。
灰色の空の下を、静かに走り去る景色の奥に向けられていた。
「少しだけ……気になることもあるの」
その言葉に、シルフィがそっと首を傾げた。
「気になる……こと、ですか?」
ヒストリカは、すぐには答えなかった。
ただ、まつ毛を伏せたまま目を閉じ、微かに首を横に振る。
「ううん、ただの勘よ。……深くは考えないで──」
そこまで言ったその時。
馬車が突然、ぐっと揺れながら止まった。
道に積もった泥を車輪が抉り、車体がぎしりときしむ。
「……え?」
隣のシルフィが窓の外を覗き込む。
ヒストリカもすぐに身を乗り出した。
霧雨に煙る林道。
その先に、五人の男たちが立ちはだかっていた。
黒ずくめの粗末な装束、獣のような目つき。
手にした武器は斧や短剣、金属片を巻きつけた棍棒。
どれも手入れされたものではなかったが、その荒々しさが逆に戦い慣れた印象を与えていた。
御者が何事か叫ぼうとした次の瞬間、馬車の脇を回り込んだ一人が鞭のように何かを振るった。
「がっ……!?」
鋭い音が走り、御者の体がよろめいて地面に崩れ落ちる。
続けざまに護衛の一人が剣を抜こうとしたが、別の男に背後から馬乗りにされ、腕をひねり上げられて呻いた。
次々に組み伏せられ、護衛たちは膝をつかされて地面に押し付けられる。
「……盗賊……?」
シルフィが呟くも、その声は震えていた。
「の、ようね」
冷静に言葉を口にするも、胸の奥に冷たい感覚がじわじわと広がっていく。
ガンッ!
無遠慮な衝撃音と共に、馬車の扉が乱暴に内側から開け放たれた。
濡れた靴音とともに現れたのは、がっしりとした体格の男だった。
肩幅が広く、腕には無数の傷跡。
顎には無精髭が伸び放題で、腰に下げた刃こぼれした剣が鈍く光っていた。
「ヒストリカ様……っ」
シルフィがヒストリカの前に庇うように躍り出る。
しかし、彼女の肩は小刻みに震えていた。
男はヒストリカを見て、ふんと鼻を鳴らす。
「ヒストリカ……ってのは、お前か?」
その粘着質な声に、シルフィが小さく悲鳴を上げる。
「ええ、私よ」
男は馬車の中をぐるりと見回し、やがて声の主であるヒストリカの姿に目を留めた。
そして、舐め回すように彼女の全身を見た後、薄ら笑いを浮かべた。
「へえ……思ったよりずっと上玉じゃねえか」
ヒストリカは内心では、血の気が引くのを感じていた。
剣を手にした男が至近距離にいるという現実。
自分が狙われていたのだと認識する、その恐怖。
けれど、身体の奥に残る冷静さが、辛うじて自分を支えていた。
今、動揺してはならない。
男が一歩、馬車の中に足を踏み入れる。
「ついてきてもらおうか、嬢ちゃん」
「断ったら?」
ヒストリカの声は低く、張り詰めていた。視線は逸らさない。
相手がどれほどの暴力性を持っていようと、こちらから目を逸らすわけにはいかなかった。
「ひっ……!」
シルフィの声が裏返った。
ヒストリカがそちらに視線を向けたときには、もう遅かった。
男が素早く手を伸ばし、シルフィの首元に刃を当てていた。
銀の刃がうっすらと喉元を掠め、その肌に一筋、薄紅の線が浮かぶ。
「やめなさい!」
ヒストリカが思わず声を荒げる。
シルフィの瞳が揺れていた。
恐怖に支配されたその小さな顔は、ヒストリカの胸を締めつけた。
「ヒストリカ、様……」
かすれた声。震える手。
ヒストリカは、数秒だけ目を閉じ、息を整えた。
心を鎮めなければならなかった。
戦うべきではない、今は。
彼女にこれ以上の危害が及ぶくらいなら──。
「……わかったわ」
ヒストリカはそっと席を立ち、シルフィの手を優しくほどく。
そして、自ら馬車の外へと足を踏み出した。
雨の中。濡れた地面。ぬかるむ土が足元を汚す。
けれど、ヒストリカの歩みは止まらなかった。
そのとき、背後から、がつんと鈍い衝撃が頭を襲った。
「ヒストリカ様!!」
シルフィの声が鼓膜を叩く。
続けて何か叫んでいるが、よく聞こえなかった。
視界がぐらりと揺れる。世界が傾ぐ。
足元から力が抜け、膝が崩れる。
(エリク……様……)
その名が、最後に心に浮かんだ。
意識はふわりと溶け、雨音の中へと溺れていく。
倒れたヒストリカの髪が泥に濡れ、静かに雨に打たれていた。
◇◇◇
夕刻の空は、まだ雨の名残を引きずっていた。
濡れた石畳に薄く光が差し、低く垂れ込めた雲の隙間から、わずかに橙の陽が覗いている。
テルセロナ公爵家の屋敷に、エリクは予定より早く帰還した。
馬から降りた瞬間、彼の足取りには焦れたような勢いがあった。
まだ仕事は残っていたが、気が急いて仕方がなかったのだ。
(早く、君の顔を見たい……)
ヒストリカの「早く帰ってきてくださいね」という、あの言葉が何度も脳裏をよぎっていた。
軽く口にした言葉だったかもしれない。
けれど、あの時見せた彼女の表情が、何よりも胸に残っていた。
「ん……?」
エリクの高揚はじきになりを潜めた。
ヒストリカの姿は見えない。出迎えにも来ていない。エリクの眉が、自然と曇った。
「エリク様。おかえりなさいませ」
静かに現れたハミルトンに、エリクは尋ねる。
「ヒストリカは?」
「それが……」
すると、ハミルトンは懐から一通の手紙を取り出した。
それは、黒い封蝋で厳かに封じられた一通の書簡。
封はすでに開かれていた。
「この手紙は、ヒストリカ様のもとに、エリク様が視察に向かわれて間もなく届きました。差出人はエルランド家。内容は……」
「父が、危篤にて。すぐに帰省されたし、か……」
エリクが小さく声に出した瞬間には、すでにその文面の内容は頭の中で組み上がっていた。
ヒストリカとエルランド家の関係が良好ではないことは、彼も耳にしていた。
幼い頃から厳しく育てられ、愛情よりも叱責と規律の中で生きてきた彼女。
実家の話を彼女が自ら語ることはほとんどなかったが、時折見せる表情の影から、それが温かな家庭ではなかったことは想像に難くなかった。
それでも――唯一の肉親の危篤と聞けば、彼女が駆けつけるのも無理はない。
情を捨てたつもりでも、血の繋がりは時に理屈を超える。
だが。
「妙だな……」
エリクの胸の奥には、説明のつかない不穏さが静かに芽吹いていた。
手紙に記された文面は、あまりにも簡潔だった。
挨拶も、言葉の情も一切ない。ただの命令文のような一行。
決定的な証拠があるわけではない。
ただ、心に重く澱のように積もる、得体の知れない違和感。
胸の奥に、じわりと広がるざわつきが消えなかった。
「……彼女は、一人で屋敷を出たのか?」
問いかけるエリクの声は低く鋭い。
すでに覚悟を滲ませた響きがあった。
対面に立っていたハミルトンが即座に答える。
「はい。同行したのは、シルフィのみです。ただし、御者と、警護役として数名の護衛を同行させております」
「なるほど……」
一応、護衛はついている。
それでも、エリクの胸を占める不穏な気配は消えなかった。
その時だった。
「エリク様っ……!!」
屋敷の外から、激しく戸を叩く音と共に、慌ただしい足音が駆け込んできた。
「シルフィ!?」
エリクがギョッとした声を上げたのは、彼女の格好のせいだった。
シルフィは雨に濡れたままの姿で、玄関ホールに立っていた。
いつもは整っているはずのメイド服は、泥跳ねで裾が汚れ、ところどころ破れも見られる。
肩にかけられた外套はずぶ濡れで、その水滴が床にぽたり、ぽたりと落ちていた。
髪は乱れ、頬には細かい引っかき傷。
泥と涙と雨で、顔の判別すら一瞬遅れるほどだった。怯えと恐怖に引きつったその顔は、ただならぬ事態が起きたことを、言葉よりも雄弁に物語っていた。
「どうしたんだ、一体!」
エリクの声には、不安と焦りの色が滲んでいた。
シルフィは、その声に応えるように一歩駆け寄ると、膝をつきそうなほど力なく足を止め、震える声を押し出した。
「ヒストリカ様が……途中で……!! 盗賊に……馬車が包囲されて……っ!」
震える顎、恐怖で見開かれた瞳。
言葉を紡ごうとするが、口がうまく動いていない。
息を吸い込んで、絞り出すように続ける。
「ヒストリカ様が、私を庇って……っ、連れて行かれてしまって……!」
震える肩が止まらない。声も言葉にならず、泣き出す寸前のようだった。
しかしその一言で、エリクの胸に雷のような衝撃が走った。
瞬間、世界が歪んだような感覚が押し寄せる。頭の中で何かが爆ぜる。
「なんだって……!?」
エリクは叫んだ。
拳が勝手に震え、奥歯が軋む音がした。
ヒストリカが連れ去られた。
それだけで、全身の血が凍る思いだった。
「本当に……申し訳ございません……っ!!」
その場に崩れ落ちるようにして、シルフィが泣き出す。
「私……私が、もっとしっかりしていれば……っ! あんなことには……!」
声を震わせながら、袖で何度も目元を拭うが、涙は止まらない。
「君のせいじゃない」
エリクの声は、驚くほど落ち着いていた。
だがその瞳は、感情を押し殺した鋼の光を宿していた。
(なぜだ……なぜ今、このタイミングで……?)
ヒストリカが実家からの手紙を受け取ったのは、つい数時間前。
それまでは何の兆候もなかった。
(目的は、ヒストリカ本人。シルフィは無事で、他の者も手を出されていない。ならば……これは単なる盗賊の襲撃じゃない)
そして何より気になるのは、あの手紙。
筆跡、文面、封蝋……どこか釈然としない違和感。
エリクは深く息を吸い、拳をほどいた。
「考えられる可能性としては……」
静かに呟く。そこまで言って、エリクは視線を上げた。
「ハミルトン、すぐにシルフィの治療を」
「了解しました。すぐに応急処置をいたします」
「それと……」
エリクの声が、鋭くなる。
「すぐに馬の用意を。護衛は十名。武装は万全に整えろ」
その命令に、ハミルトンの眉がぴくりと動いた。
「了解。すぐに動かせます」
「僕も行く」
ハミルトンはわずかに目を細めたが、何も言わなかった。
エリクの瞳には、確かな覚悟が宿っていた。
◇◇◇
湿った空気が、じっとりと肌を這う。
(……ここは……?)
意識が緩やかに浮上し、重たい瞼を持ち上げる。
ぼんやりと霞んだ視界に、荒れた石造りの天井が映った。
高窓の向こうでは雨が降り続いており、その濁った光がわずかに差し込んでいる。
ヒストリカは、ひやりとした感触に包まれていることに気づいた。
冷たい石床の上に座らされている。
背中には太くて硬い柱があり、そこに身体をもたれさせるような体勢。
両手首には荒く捩じられた麻縄が巻かれていて、指先の感覚はすでに鈍い。動こうにも自由は利かない。
かすかに聞こえる足音、時折響く金属の軋み。外には見張りがいるらしい。
(……牢獄、ではなさそうね。もっと粗末で、放置された倉庫のような……)
石壁にはひびが走り、隅には苔が広がっている。
使われなくなって久しい一室。
だが、だからこそ、外部の目を避けるには格好の場所だった。
痛む後頭部をかすかにさすりながら、ヒストリカは静かに目を細める。
「さて、これは一体……誰の仕業かしら」
小さくヒストリカは呟き、思考を走らせる。
単なる盗賊にしては手際が良すぎる。
あの馬車が襲撃されたのも、自分が屋敷を出た直後のこと。
(考えられる可能性としては……)
目的は金ではない。
最初から自分を狙っていた節がある。ならば動機は政治的意図、もしくは……怨恨、。
そうなると、該当するのは……。
――ギィイイ……。
軋む音が思考を断ち切った。
湿気で錆びついた蝶番が悲鳴を上げ、扉が重たく開く。
現れたのは、ひとりの男だった。
灯りを遮るように立ったその人物は、かつての上品さをかなぐり捨てたような風貌をしていた。
肩から腕にかけて包帯を巻かれ、固定された右腕。
無精髭が顎に広がり、頬はやつれている。目の下には深い隈。
だが、何より異様なのはその目だった。
焦点の合わぬまま、何かを食い入るように見つめる、どこか狂気じみた視線。
「……やはり、あなたでしたか」
ヒストリカは視線だけを上げて男を見据える。
──ハリー・ガロスター。
夜会での醜態以来、姿を見せなくなっていた貴族の令息。
あの夜、周囲の失笑を一身に浴び、社交界から事実上姿を消した男にして、ヒストリカの元婚約者。
まさかこんな形で再び自分の前に現れるとは……という驚きはなかった。
頭に浮かんだあらゆる可能性の最有力候補だったから。
「無様だな、ヒストリカ……」
ハリーの口元に、歪んだ笑みが広がる。
怒気に濁った声の奥には、長年の鬱屈が放たれたかのような愉悦が潜んでいた。
わざわざ自分を誘拐し、監禁し、直接出向いてくるこの異様な執着。
理由は容易に想像がついた。
(夜会の一件で、私に恥をかかされたことを根に持っている……それが動機でしょうね)
包帯で固定された右腕。沈んだ目の下には濃い隈。
かつての品は跡形もなく、今そこにいるのは、執念だけを糧に動く復讐者だった。
手には無骨なナイフ。刺されたらひとたまりもないだろう。
しかしヒストリカは顔色ひとつ変えず、ただ冷ややかに問いかけた。
「こんな真似をして、ただで済むと思っていらっしゃるのですか?」
静かな声音。だが、その言葉には氷のような冷たさと切っ先が宿っていた。
「黙れ……! お前なんかに、俺の気持ちが分かるか……!」
ハリーが荒々しい足取りで室内に踏み込んでくる。
顔を赤く染め、ナイフを握る手が震えているのが見えた。
(さて、どうしたものかしら……)
今のハリーは危険だ。感情だけで動く者は、何をしでかすか予測がつかない。
縄で縛られた手首がじわりと痛んだが、目を逸らさずに彼を見返す。
恐怖がなかったわけではない。
同時に、生じていた疑念が、ヒストリカを冷静にしていた。
(この男が実行犯であることは間違いない。けれど……)
ハリーに、こんな周到な誘拐劇を主導するだけの胆力や判断力があるとは、到底思えなかった。
(この男は、怒りと衝動に支配される人間……綿密な手配など、できるはずがない)
つまり、これは彼一人の行動ではない。
背後には、彼を焚きつけ、動かせるだけの何者かがいる――そう考えるべきだった。
「じわじわと嬲り殺してやる……!」
怒鳴り声と共に、ハリーが乱暴に床を踏み鳴らし、ヒストリカの目の前に詰め寄る。
「痛いと言ってもやめない! お前が泣いて、叫んで、すました顔を恐怖に歪ませるのを見るのが……楽しみなんだよ!」
握られたナイフが、湿った空気の中で鈍く光る。
その凶器以上に、男の言葉が剣よりも鋭く、どす黒い悪意となってヒストリカに突きつけられた。
ヒストリカは動じることなく、微かに瞬きすらせずにその声を聞いていた。
(感情の制御が出来てないわね)
ハリーの狂乱ぶりはもはや呆れるばかりだった。
怒りに任せた叫び、そして過剰なまでの暴力願望。
誘拐という暴挙に出た理由が、夜会での恥だけというのなら、それはあまりにも歪んでいる。
ふと、ヒストリカは尋ねた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「は……?」
突然の問いかけに、ハリーが眉をひそめた。
「誘拐、監禁、偽の手紙。人員と準備には、それなりの金と時間が必要だったはず……本当に、これをあなた一人で計画されたのですか?」
「関係ねえだろうが!!」
ハリーは怒鳴り、手にしたナイフを振り上げる。
その動きには、理性も計算もない。完全に衝動的だった。
ヒストリカの予想は、図らずも確信へと変わった。
(ああ、やはり無理ね。対話は成立しない)
静かにそう結論づけると同時に、ヒストリカの目がわずかに細められた。
「私はただ、正当なことを申し上げたまでです。あなたが醜態を晒したのは、誰のせいでもなく――」
「黙れぇっ!!」
ハリーが叫び、ナイフを振り下ろす。
まさにその瞬間。
「仕方ありませんね」
ヒストリカの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
次の瞬間、ぱんっと音がするほどに、彼女の両手が縄から解き放たれた。
「なっ……!?」
驚愕に目を剥いたハリーの目の前で、ヒストリカの体が跳ねるように動く。
回転するように身体を翻し、一直線に伸びた足が床を蹴った。
そして――拳が、鋭く鳩尾を抉った。
「ぐぅっ……!!」
鈍く重い衝撃音。ハリーは呻き声と共に後方へと吹き飛び、石床に膝を突いた。
「な……なんで……縄は……?」
呻くように問いかけた彼の言葉に、ヒストリカは一つ息を整え、涼やかな声で言い放った。
「関節をひとつ外し、縄の遊びを利用しただけです。湿度の高い場所では、麻縄は伸びやすくなりますから。結び方も甘かったですね。……まあ、想定内でした」
その声は、あまりにも平静だった。
冷ややかに言い放ち、ヒストリカは淡々と足元の男を見下ろした。
その瞳には、恐れも怒りもなかった。
「どうしたんだ!?」
不意に扉が乱暴に開け放たれ、足音と共に数名の男が飛び込んできた。
粗末な皮鎧に身を包み、腰には剣や棍棒を携えている。
「ハリー様! この女は……」
彼らが状況を把握するよりも先に、ハリーの声が響いた。
「殺せッ!! 今すぐその女を殺すんだ!!」
部屋の隅で蹲っていたハリーが、怒りと恐怖に突き動かされるように叫んだ。
声は上ずり、もはや指揮とは言えない。
ただの命令と錯乱が混ざった、狂気の叫びだった。
しかし男たちはハリーの要望を聞き入れ、ヒストリカへと視線を向ける。
「甘いわね」
ヒストリカは、冷静にそう呟いた。
一人目が剣を抜きかけた瞬間、その腕をヒールのかかとで蹴り上げ、剣を弾き飛ばす。
「なっ……!?」
同時に身を翻し、肘を逆方向にねじると、乾いた音が部屋に響いた。
悲鳴を上げる間もなく、その男は床に転がった。
「このアマ……!!」
二人目が怒声を上げて棍棒を振り下ろそうとした刹那、ヒストリカは低く身を沈めてその足元へ潜り込む。
ぐん、と足払いで体勢を崩すと、裏拳が顎を撃ち抜いた。
「ぐえっ!?」
白目を剥いた男が倒れる。
三人目は一歩引き、状況を飲み込めずに呆然と立ち尽くした。
「おい、嘘だろ……」
その迷いを逃さず、ヒストリカは踏み込みざまに腹へ鋭い膝蹴りを叩き込む。
苦悶の呻き声を漏らしながら、男は地面に膝をついた。
わずか十数秒。
三人の屈強な男たちが、まるで人形のように床に転がっていた。
ヒストリカは、静かに息を整え、乱れた膝丈のドレスの裾をさっと整える。
「ば、馬鹿な……」
蹲るハリーが、呆然とつぶやいた。
まるで自分の目の前で起きたことが現実ではないかのように。
腰を抜かした彼は、もはや立ち上がることすらできず、床に手をついて震えていた。
「次に誘拐する際には、より精鋭を集めることをお勧めします。最も……次があればの話ですけど」
ヒストリカは無表情のまま、倒れ伏した男たちと、恐怖に顔を引きつらせるハリーを見下ろした。
そしてその時――。
「ヒストリカ!! 無事かい!?」
扉が勢いよく開かれ、駆け込んできたのはエリクだった。
濡れたマントが雨のしずくを床に滴らせながら揺れ、青ざめた顔で部屋を見渡す。
「エリク様……」
ヒストリカはその姿に、張り詰めていたものがふっと緩むのを感じた。
エリクは彼女の無事を確認するなり、小さく息を吐いた。
「……無事……だった……」
その声には、言葉にならないほどの安堵が滲んでいた。
だが次の瞬間、彼の視線が床に倒れた男たちへと移って、エリクはギョッとした。
「これ……君が、一人で?」
床に倒れた男たちを見下ろしながら、エリクが驚きの声を漏らす。
戦闘の痕跡は生々しい。
だがそれ以上に、ヒストリカの衣服や表情に一切の乱れがないことに、彼は言葉を失っていた。
「はい、まあ……一応、護身術の範疇です」
ヒストリカは静かに答えながら、自分の手を見下ろす。
血も汚れもついていない――けれど、少しだけ指が震えていた。
緊張はあった。恐怖もなかったわけではない。
それでも冷静に、的確に動いて勝利した。
過去に屋敷で学んだ護身術。
それに加えて、持ち前の運動神経の良さが、いざという時の反射に生きたのだ。
知識だけでなく、体に染み込ませてきたことが実を結んだ瞬間だった。
(役に立ってよかった……)
心から、そう思えた。
「……それで、どうしてわざわざ、罠だと分かっていて行ったんだい?」
確信を帯びたエリクの問いに、ヒストリカの目がわずかに揺れる。
彼の目には怒りはなかった。ただ、深い困惑と、疑問と、心配が浮かんでいる。
「父の危篤の可能性も、もちろん考えましたよ。五%くらいは」
「実質、分かってたじゃないか……それ」
エリクは呆れたように眉を下げる。
けれど、それ以上の言葉を口にする前に、ヒストリカがゆっくりと説明を始めた。
「まず、筆跡です。父の筆跡によく似せてはありましたが、どうにも線に迷いがあった。……あれは、エルランド家付きの書記官の字ではありませんでした」
淡々と語るその声は、まるで一枚の地図を辿るかのように整っていた。
「加えて、封蝋も。エルランド家では朱色の蝋が正式に使われますが、あの封には赤みが強すぎです。そうした細部を踏まえれば、手紙が偽物である可能性は、ほぼ確定的でした」
「つまり……君は、わかっていて行った?」
「はい。おそらく、私を捕えるための罠だろうと判断しました」
ヒストリカの声に、わずかな硬さが混じる。
「誰が敵で、何を目的としているのか。それを突き止めるには、私自身が餌になるのが一番確実ですから。もちろん、危険は承知していましたが、脱出できる自信もありましたし……」
「自信って……」
エリクは、ため息をつくように短く息を吐く。
その表情には、驚きと感嘆が入り混じっていた。
「シルフィや御者の方々には、悪い事をしてしまったと思いますが……」
そう言うヒストリカに、エリクは深く息をつく。
「本当に……君は底知れないよ」
言葉に嘆息が混じる。
だが、その瞳の奥にあるのは、称賛だけではなかった。
尊敬、驚嘆、そして、心の底からの心配。その感情を、彼は隠さなかった。
エリクはそっと歩み寄り、ヒストリカの肩に手を伸ばす。
そして、ためらいなく、その身体を抱き寄せた。
「でも……無茶はしないでくれ……」
エリクの声は、いつになく低く、真剣だった。
それは怒りでも、叱責でもなかった。
ただ、彼女の身を案じての真心が込められていた。
「……申し訳ありません」
ヒストリカの唇から漏れたその声は、ほんの僅かに震えていた。
冷静に見せていた仮面の内側で、心は静かに軋んでいた。
エリクの胸に抱かれている温もりが、どうしようもなく痛い。
自分の身勝手が、彼にここまで心配をかけていた――そう気づいてしまったから。
(また、私は……全部、自分一人で抱え込もうとしていた)
誰にも頼らず、誰にも迷惑をかけたくないと願ったその姿勢は、優しさではなく、ただの独善だったのかもしれない。
そんな彼女を、エリクはただ黙って抱きしめてくれている。それが、何よりも苦しかった。
──そして、その様子を、じっと見つめる二つの目があった。




