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第53話 ハリーの失態


 パーティ会場の喧騒から少し離れた静かな一角。

 豪奢なシャンデリアの明かりも、ここまでは届かず、ほんの少しだけ影が落ちる場所。


「大丈夫かい、ヒストリカ?」


 人目を避けるように足を止めたヒストリカに、エリクがそっと声をかけた。

 彼女は一見、普段と変わらぬ静かな表情を浮かべている。


 感情の起伏を表に出さない、いつものヒストリカ。

 だが、エリクは気づいていた。


 彼女がこうして沈黙する時は、感情を押し込めている時だということを。


「ええ、平気です」


 ヒストリカは即答する。

 だが、その声の調子がどこかぎこちない。


 エリクが小さく息を吐き、苦笑した。


「想像はしていたけど、なかなか強烈な二人だったね」


 ヒストリカも、ふっと小さく息を吐く。


「……ええ、本当に」


 表情は変わらぬままだったが、指先が微かに震えていることに、自分自身で気がついた。


(思った以上に、動揺させられたわね……)


 自覚して、ヒストリカは落ち着かせるように深く息をつく。

 ハリーとアンナの顔を見た瞬間、蘇ってきた記憶。


 婚約破棄の夜。あの時、自分に向けられた数々の視線。


 好奇、侮蔑、嘲笑。


 ──ヒストリカ様も気の毒にね。

 ──けれど当然でしょう? あんなに気が強いんじゃ……。

 ──いくら優秀でも、女が出しゃばるからよ。


 嫌でも耳にこびりついた言葉が、頭の奥で反響する。


 あの日、自分がどんな顔をしていたのか、思い出せない。


 ただ張り詰めた冷たい空気と、嘲笑うかのような周囲のたくさんの目だけが、はっきりと記憶に残っている。


 心臓が、少しだけ速く脈打つのを感じた。

 彼らと対峙することなど、もはや大したことではないと、頭では理解していた。


 それでも、かつての傷が完全に癒えたわけではなかった。

 表に出すつもりはなかった。

 そうやって、今までもずっと乗り越えてきた。


(だから、今回も変わらない……)


 そう思ったその時。


「よく頑張ったね」


 不意に、そっと頭を撫でる感触。

 ヒストリカの動きが、一瞬、止まった。


「……」


 驚きに目を瞬かせる。

 エリクの手は、思ったよりも大きく、そして温かかった。


 エリクはまるで、ヒストリカの胸をすべて見透かしたようにそっと撫で続ける。


「……なんですか、この手は」

「君は今日、ずっと毅然としていた。僕のことも支えてくれた。ハリーに何を言われても、揺るがなかった」


 エリクの言葉は、どこまでも優しかった。


「だから……偉いね、ヒストリカ」


 何気ないその一言が、胸の奥深くに染み込んでいく。


(……どうして、この人は……)


 自分が押し隠したものに、こんなにも容易く手を触れるのだろう。

 誰にも気づかせたくなかった。


 過去に縛られる自分を知られたくなかった。

 でも、エリクは、そんな自分をそのまま受け入れてくれる。


 気づいても、何も言わず、ただ「頑張ったね」と包み込んでくれる。


「子供扱いしないでください……」


 かすかに眉をひそめながら、ヒストリカは呟いた。

 すると、エリクはくすりと微笑む。


「いつものお返しさ」


 その言葉に、ヒストリカは言葉を詰まらせる。

 思い返せば、自分も何度か彼の頭を撫でたことがある。


 エリクが困った顔をしていたとき、緊張していたとき、そっと髪に触れたことがあった。

「よく頑張りましたね」と言って。

 あの時は、ただ自然にしていたこと。


 気にも留めずにしていたこと。


 しかし、今、自分がされる側になると、妙に意識してしまう。


「……もう」


 小さく呟きながら、ヒストリカは目を伏せた。

 頭の上に置かれたエリクの手は、そのまま優しく滑るように離れていく。


 妙に心地よく、心が落ち着いていった。

 気がつくと、速くなっていた鼓動はいつもと同じくらいに戻っていた。


◇◇◇


 パーティが進み、次第に会場の雰囲気が変わっていった。


 煌びやかな音楽が流れ始め、中央の壇上では、貴族たちが優雅にダンスを踊り始める。


 ゆったりとしたワルツの旋律が響き、会場の中心に立つ貴族たちが次々とパートナーを誘い、手を取り合って円を描くように舞っていた。


 華麗なドレスが広がり、きらめく装飾が光を反射して輝く。

 貴族たちが誇る華やかな社交の場。


 それが舞踏の時間だった。


「ダンスか……」


 ヒストリカは視線を巡らせながら、隣に立つエリクへと目を向ける。


「苦手なのですか?」


 何気なく尋ねると、エリクは少しばかり気まずそうに肩を竦めた。


「昔、最低限のマナーとして習ったことはあるけど……もう随分と踊ってないよ。それに……」


 彼は周囲を見渡し、少し困ったように続ける。


「こういう華やかな場で踊るのは、正直自信がないな」

「エリク様なら、きっと問題ありませんよ」

「何を根拠に……」


 エリクが呆れたように呟いた、その時だった。

 視界の端から、踊る二人が近づいてくる。


 ダンスをしながら、見せつけるようにこちらへ向かってくる男女。ハリーとアンナだった。


 ハリーはアンナの腰を引き寄せながら余裕のある笑みを浮かべ、アンナはわざと華やかにスカートを揺らしながら、ヒストリカたちのすぐ近くでくるりと回る。


「せっかくの舞踏会です、公爵閣下も、ぜひ踊られてはいかがですか?」


 ハリーは満面の笑みを浮かべながら、さも好意的に見せかけて言った。

 その言葉に含まれた意図は明白だった。


「まさか、公爵家ともあろうものが、ダンスも踊れないわけではありませんよね?」


 アンナが笑顔のまま、わずかに挑発するように言葉を重ねる。


 ──エリクを貶めようとしている。


 彼らは先ほど、エリクに対して屈辱を味わわされたばかりだった。


 だからこそ、ここで巻き返そうとしているのだろう。

 パーティの華である舞踏の場で、エリクを窮地に立たせるつもりなのだ。


 エリクは視線を落とし、少しだけ眉を寄せた。


「……正直、長らく踊っていなかったから、そこまでうまくできる自信はないんだけど」


 それを聞いて、アンナが口元を手で隠しながら、くすくすと笑う。


「まあ、それは大変。昔は貴族の義務として習うものなのに、すっかり忘れてしまわれたのですね」


 静かな挑発。

 ヒストリカは穏やかに微笑みながら、一歩前に出た。


「貴族たるもの、無闇に他者を煽るよりも、まず自らの踊りに集中すべきではありませんか?」


 その一言に、アンナの笑みが一瞬凍る。

 だが、すぐに「ご忠告ありがとうございます」と取り繕ったように言い、ハリーと共に再び壇上へ戻っていった。


 その姿を見送りながら、ヒストリカはエリクへと向き直る。


「心配はいりません」


 そう言って、彼女はエリクの手を取った。


「私がサポートしますので、大丈夫です」


 エリクは驚いたように彼女を見たが、すぐに小さく息を吐き、観念したように微笑んだ。


「……ダンスは得意なのかい?」

「多少は」

「いや、君の“多少”は信用ならないんだけど」


 エリクのぼやきに、ヒストリカはくすりと笑う。


「では、参りましょう」


 そう言って優雅にスカートを持ち上げ、エリクを舞踏の輪へと誘い入れた。


◇◇◇


 音楽が変わる。

 ワルツのゆったりとしたリズムが流れる。


 エリクは最初こそぎこちなかったものの、ヒストリカがさりげなくリードし、軽く合図を送ることで、次第に動きが滑らかになっていく。


「ほら、エリク様。そんなに力を入れなくても大丈夫です」


 ヒストリカが静かに囁くと、エリクは少しだけ緊張を和らげるように息を整えた。

 彼は、もともと体幹がしっかりしている。


 基礎的な動きさえ取り戻せば、あとはパートナーに合わせて自然と流れるように動くことができるのだった。

 そして、二人のダンスは、壇上へと視線を向けたハリーとアンナの前で繰り広げられた。


「なっ……」


 アンナが小さく息を呑む。


 ヒストリカの舞は、あまりにも華麗だった。

 ドレスの裾が舞い、滑るような足さばきが床を蹴る。


 繊細でありながらも、力強い動き。

 そしてエリクを巧みに導き、彼が優雅な貴族の公爵としての風格を纏うように演出していた。


「さすがヒストリカ様……」

「美しい……」

「ダンスも学年一位だっただけありますわ」


 周囲の令嬢たちが感嘆の声を漏らし、それを聞いたエリクが小さく苦笑した。


「……全然“多少”じゃないじゃないか」

「ふふ、何のことでしょう?」


 ヒストリカが微笑みながら答える。


 そして、エリクとヒストリカのダンスは、さらに完成度を増しながら優雅に続いていった。


 そんな時――。


 ――チッ。


 不意に、舌打ちが聞こえた。


 次の瞬間、アンナがハリーと踊りながら、わざと二人に近づいてきた。


 狙うような視線。そして、彼女はスカートの裾をわずかに振りながら、ヒストリカの足を引っ掛けようとした。

 だが――アンナの足が、思わぬ形でエリクの足にかかった。


「――っ!」


 バランスを崩すエリク。

 彼の体が大きく傾き、壇上での転倒は避けられないかに思えた。


 しかし、その瞬間。


 ヒストリカは、迷うことなく彼の手を強く引いた。

 ワルツの流れを計算し、エリクの重心を素早く移動させる。


 そして、彼の腕をしっかりと握り込み、華麗なターンで受け止めた。

 その様子を目撃した貴族たちが息を呑む。


 エリクの体は、ヒストリカに導かれるように流れるような回転を描き、最後には彼女の腕の中に収まった。

 優雅なワルツの旋律に乗せられたその光景は、まるで熟練の舞踏家が見せる超絶技巧の演技のようだった。


「……!」


 ヒストリカは、ほっと息をつく。

 あわや大惨事になりかけたが、なんとか最悪の事態は避けられた。


 その時だった。


「面白い……」


 その呟きと共に、彼は自ら動いた。

 ヒストリカの腕の中にいたエリクが、まるで何かスイッチが入ったように静かに微笑んだのだ。


「エリク様……? あっ……」


 次の瞬間、エリクがヒストリカの手を引き、彼女をリードする形でダンスを始める。

 最初は控えめだった動きが、次第に大胆さを増していく。


 彼はヒストリカに合わせるのではなく、ヒストリカを自ら導いていた。

 彼の瞳には、迷いがない。エリクは、確かに覚醒していた。


「……!?」


 ヒストリカは驚きながらも、即座に対応した。

 彼のリードに遅れぬよう、華麗にステップを踏む。


(この人……)


 貴族舞踏に長らく触れていなかったはずなのに、一度感覚を掴めば、すぐに適応する。

 彼の運動神経、飲み込みの速さ。


 すべてが、規格外だった。

 リードの感覚が洗練されていくのがわかる。


 彼女を導く手には、確かな自信が宿っていた。

 そして、音楽のクライマックスが近づく。


 二人は流れるようなターンを繰り返し、ステップの精度を極限まで高める。

 ヒストリカのスカートが大きく広がり、煌びやかな光を浴びながら優雅に舞う。


 曲のクライマックスが近づく。

 二人は流れるようなターンを繰り返し、ステップの精度を極限まで高める。


 ヒストリカのスカートが大きく広がり、煌びやかな光を浴びながら優雅に舞う。

 周囲からは、息を呑むような気配が伝わってくる。


 視線を向けると、貴族たちが魅了されたように二人を見つめていた。


(なんとかこのまま終われそうね)


 ヒストリカがそっと安堵する。

 しかし、それを良しとしない、異様な空気を纏った者がいた。


 アンナだった。

 彼女は鬼の形相を浮かべ、唇を噛みしめながらこちらを睨みつけている。


 その眼には理性の光はなく、感情の荒波がそのまま表に出たような、むき出しの憎悪が渦巻いていた。


「アンタなんか……アンタなんか……!!」


 声を上げたその瞬間、彼女はハリーを伴って猛然とこちらに向かってきた。

 その動きは、もはや優雅な舞踏のそれではなく、明確な敵意を伴ったものだった。


(正気……!?)


 驚きの感情を抱きつつも、ヒストリカは素早く状況を分析する。

 ――このパーティを通して、アンナの狙いは明らかだった。


 ヒストリカに恥をかかせること。

 婚約者のハリーにヒストリカへ屈辱を与えさせること。


 そして、自分こそが社交界の中心であると誇示すること。


 しかし――すべてが裏目に出た。


 ハリーはエリクに叩き伏せられ、公衆の面前で頭を下げさせられた。

 先ほどの妨害も失敗し、逆に見事なダンスを披露する場を提供する結果となった。


 アンナの計画は、ことごとく失敗に終わったのだ。

 その結果、彼女は何も考えずに、ただ"当たりに来た"のだ。


 何もかもを無視し周囲の視線も関係なく、ただ憎しみだけを爆発させている。

 これはもう、策略などではない。ただの衝動。


(完全に理性を失っているわね)


 ハリーの方を見ると、彼は明らかに戸惑っていた。


(一体、何を……!?)


 とでも言いたげな表情で、パートナーの異常な動きに困惑している。

 だが、もはやアンナはハリーの存在すら頭に入っていない。


 彼女はヒストリカを睨みつけ、今度こそ確実に足を引っ掛けてやろうと迫ってくる。

 ヒストリカは、彼女の足の動きを冷静に見極めた。


 そして、軽やかに身を翻した。


「……馬鹿ね」


 ヒストリカのドレスがふわりと舞い、アンナの足を躱す。


「えっ……?」


 アンナの短い悲鳴が響き、彼女の足は空を蹴った。

 勢い余った身体は、そのまま隣にいたハリーの足を思い切り踏みつける。


「っ!? ぐっ……!」


 ハリーの顔が歪む。

 激痛にバランスを崩した彼は、思わず後ろへ大きくよろめいた。


 当然、その腕を組んでいたアンナも巻き込まれる形で、壇上の端へと、二人は傾いた。


「危ない!」


 観客の誰かが声を漏らした。そして、決して軽くない衝撃音。

 二人は、豪奢な壇の端から真っ逆さまに転げ落ちた。


「きゃああああっ!!」

「う、うわあああっ!!」


 二人は無様に、豪華な敷物の上へと転がり落ちた。貴族たちの間に、どよめきが広がる。

 楽器隊の演奏が止まり、貴族たちが驚きの声を上げ、何事かと集まってくる。


「ハリー様! 大丈夫ですか!?」


 アンナが悲鳴のような声を上げながら、慌ててハリーを見る。

 彼女のドレスは乱れ、髪飾りも外れている。


 しかし、彼女が気にするのはそんなことではなかった。

 ハリーは地面に倒れ込み、明らかに痛みで顔を歪めている。


「腕が……! 腕が折れた!! すぐに医者を呼んでくれ!!」


 彼は地面を叩きながら、必死に喚いた。

 その声に、貴族たちはさらにざわめきを強める。


 視線が集まり、場の雰囲気が一気に混乱へと向かっていた。


「自業自得すぎないかい……」


 エリクが呆れたように言いながら、腕を組んで二人を見下ろした。

 壇上から転落したハリーとアンナは、あまりにも無様だった。

 ヒストリカもまた、静かにため息をつく。


 アンナの妨害が失敗した時点で、二人の計画は破綻していた。

 だが、彼女はそこで引くことなく、結果的に自ら破滅へと突き進んだのだ。


 そして今、ハリーの苦悶の叫びが会場中に響き渡り、貴族たちがざわついている。


(このまま放置……とは流石にいけないわね)


 ヒストリカは、改めて周囲を見渡す。

 貴族たちの間には困惑の色が浮かび、一部の者は明らかに不快そうな表情を浮かべていた。


 この夜会の主催者であるハリーが大声で騒ぎ立てれば、それだけで舞踏会は台無しになる。


 ハリーのことはどうでもいいが、せっかくの社交の場に来ていただいた皆の時間を無駄にするのはヒストリカの本意ではなかった。


 ヒストリカは静かに息を吐き、ためらいなく足を踏み出した。


「すぐ戻りますね」


 エリクに一言入れてから、ヒストリカは壇上を降りる。


「なっ……」


 ハリーはヒストリカの姿を見た瞬間目を丸めた。

 痛みに顔を歪めながらも、訝しげに彼女を見上げる。


「ちょ、ちょっと! 何をするつもりよ!?」


 明らかに動揺しているアンナが、ヒストリカに抗議の声をあげる。

 しかし、ヒストリカは一瞥すらくれず、冷静に言葉を紡いだ。


「動かないで。下手に騒ぐと、かえって痛みが増しますよ」


 その静かな威圧感に、アンナが言葉を詰まらせる。

 ハリーも躊躇しているが腕の痛みには抗えず、最終的には抵抗を諦めたようだった。


「……くっ……」


 そうしている間に、ヒストリカは彼の腕を優しく握る。

 手首から肘にかけての状態を慎重に確認しながら、ゆっくりと角度を調整していく。


「少し動かしますね」


 そう告げて。


「えいっ」


 ――ボキッ。


 乾いた音が弾けた。


「ぎゃああああああっ!!!」


 ハリーの絶叫が、舞踏会場に響き渡る。

 周囲の貴族たちが、何事かとハリーの方を見る。


 しかし、その騒ぎをよそに、ヒストリカは落ち着いた声で告げた。


「落ち着いてください。もう痛くないはずです」


 その言葉に、ハリーは目を剥いた。


「……あれ?」


 先ほどまで激痛にのたうち回っていたはずの腕を、ぎこちなく動かしてみる。

 何度か指を折り曲げ、軽く肘を回し、驚愕した。


「……痛く、ない……?」


 信じられないような表情で、自分の腕を凝視する。


 明らかに異常な角度で曲がっていたはずの腕が今は正常な位置に戻り、違和感すらない。

 痛みに歪んでいた顔は、一転して混乱の色を帯びていた。


「な、何をしたんだ!?」


 狼狽しながら問いかけるハリーに、ヒストリカは淡々と説明を始めた。


「脱臼と骨折の整復をしました。ズレていた骨を正しい位置に戻し、関節も調整しました。しばらく固定して安静にすれば、通常の治療と同じように回復します」


 その冷静な言葉に、ハリーの表情がさらに強張る。

 彼は、ヒストリカがそんな技術を持っているとは露ほども思っていなかったのだろう。


「お前……医療の知識もあったのか……?」


 唖然とした声で尋ねるハリーに、ヒストリカはあっさりと答える。


「多少は」


 そう言いながら、ふと内心で思う。


(そういえば、知らなかったですね。婚約者だったのに)


 この程度の知識は、ヒストリカにとっては特別なものではなかった。 だが、ハリーにとっては予想外だったのだろう。


 彼はなおも自分の腕を何度か動かしてみて、痛みが完全に引いたことを確認すると、言葉を失ったように口を開閉させていた。


「さすがの手腕だね」


 場を和らげるような声が響く。 いつの間にか隣に立っていたエリクが、穏やかな笑みを浮かべながら言った。


「あのまま騒がれても耳障りですからね」


 ヒストリカは淡々とした口調で返す。

 いつにも増して温度の低い言葉に、エリクは肩をすくめた。


 その間、周囲の貴族たちが顔を見合わせて言葉を交わしている。


「おい、今の……」

「ヒストリカ嬢が治したのか?」


 目の前で起こったことが信じられないといった様子で、ヒストリカとハリーを交互に見比べる。 やがて、貴族の一人が感嘆したように呟いた。


「すごいな……さすがの聡明さだ」

「冷静なだけじゃない。医療知識まで心得ているとは」

「やはり彼女は並の令嬢ではない」


 次々と驚きの声が上がる。

 貴族たちの視線がヒストリカへと集まり、彼女の知性と行動力に改めて感服した様子だった。


「すっかり注目の的だね」

「目立つのは本意ではありません」


 どこか誇らしげに言うエリクに、ヒストリカは眉を顰めて言葉を落とした。

 その一方で、くすくすと小さく笑う声も混じっていた。


 それは、地面に転がるハリーとアンナを見下ろす貴族たちのものだった。


「あんな見事に壇上から落ちる人、初めて見たわ」

「極めつけに、女に腕を治してもらうなんて、これ以上の屈辱はないでしょう?」

「ああ、もう立場がないでしょうね」


 皮肉たっぷりの言葉が、抑えた笑い声とともに飛び交う。

 その言葉に、アンナの顔が赤く染まる。


 プルプルと肩を震わせながら、悔しそうに唇を噛み締めていた。

 そして行き場の無い怒りが、ハリーを駆り立てる。


「てめぇ……!!」


 突然、ハリーが歯を剥き出しにしながら叫んだ。目を血走らせ、拳を固く握りしめる。


「調子に乗るなよ、ヒストリカ!!」


 その声には、もはや理性のかけらもなかった。


「お前のせいで、俺はこんな恥をかいたんだ! 俺を見下しやがって……! ずっとそうだ! 婚約していた時から、馬鹿にして……!」


 顔を真っ赤にしながら、地団駄を踏むように立ち上がる。

 周囲の貴族たちがハリーの剣幕に驚くも、ヒストリカの反応は冷ややかだった。


(またこの人は、事態を自分から悪くして……)


 どうしたものかとヒストリカが頭を抱えていると。


「言葉を慎め、ハリー・ガロスター伯爵」


 低く、威圧感のある声が響いた瞬間、ハリーのは口をつぐんだ。

 エリクが、ヒストリカの前に立ちはだかるように進み出たのだ。


 さっきまでの穏やかな表情は消え去り、冷酷なまでの鋭い眼差しがハリーに向けられている。


「先ほどは主催者に免じて見逃したが……これ以上は、さすがに我慢できない」


 その低く落ち着いた声音に、ハリーの表情が強張る。


「貴族としての品位を欠いた振る舞いは目に余るが……何より、君はヒストリカに対して何度も侮辱的な言動を繰り返した」


 エリクは一歩、ゆっくりとハリーへと近づく。


「加えて、先ほどのダンスでは、彼女に危害を加えようとしたな」

「……は、何を……」


 ハリーはぎくっと肩を揺らした。

 動揺を隠そうとするが、視線が泳ぎ、焦りが露わになる。


「し、知らない! そんなことはしていない!」


 あくまでもシラを切ろうとするハリーだったが。


「私、見ました!」


 突然、場の隅から声が上がった。

 一人の若い貴族令嬢が、勇気を振り絞るように前へ進み出る。


「ハリー様とアンナ様が、明らかに二人へ当たりにいっていたのを……!」

「な……っ!?」


 アンナの顔が青ざめる。


「し、知らないわ! 私はそんなこと——」

「私も見ました!」


 さらに別の貴族が声を上げた。


「僕も……あれは明らかに狙っていたように見えました」


 次々と上がる証言。嘘を突き通すことは、もはや不可能だった。


「聞き苦しいわね」

「言い訳を重ねるほど、みっともないだけよ」

「やはり、最初から品性がなかったということかしら」


 小さな笑い声が混じる中、アンナは唇を噛み、顔を真っ赤にして俯いた。

 肩を震わせながら、悔しそうに拳を握りしめている。


 一方のハリーは、顔面蒼白だった。

 次々と証拠を突きつけられ、今まで築き上げた立場が音を立てて崩れていく感覚に、膝が震える。


(まずい……! このままでは……!)


 彼は汗をにじませながら必死に考えを巡らせた。

 だが、どんな言葉も、この場にいる誰もを納得させることはできない。


 その時だった。


「……確か、君の家は、うちの親戚筋から補助金を受け取っていたはずだな?」


 低く、冷ややかな声が降りかかった。

 ハリーは、びくりと肩を揺らした。

 血の気が一瞬で引き、凍りついたようにエリクを見上げる。


「……っ!!」


 言葉にならない呻きが喉から漏れた。


「今後、補助金は期待しない方がいい」


 その一言に、ハリーの呼吸が詰まる。


「待ってください、テルセロナ公爵……! それだけは……!」


 ハリーは縋るようにエリクへと歩み寄ろうとするが、足がもつれ、無様に膝をつく。


「お、おれは……悪気があったわけじゃない! ただ、ほんの冗談のつもりで……!」


 必死に言い訳を並べるが、声は震え、焦りだけが滲む。

 それを見て、エリクは静かに首を振った。


「貴族として、社交界での信用を失うということがどういうことか……理解できるだろう?」


 淡々とした言葉だったが、その冷徹な響きはハリーを追い詰めるには十分だった。


「そ、そんな……」


 ガクッ。

 ハリーはその場に崩れ落ちる。


 顔を歪め、何かを言いかけるが、言葉にならなかった。

 その光景に、貴族たちの間からくすくすと笑い声が漏れる。


「まさか、ここまで無様なだとは」

「ガロスター伯爵家も、これでおしまいかしら」


 ささやき声が広がる中、ハリーの顔は青ざめ、呆然と地面を見つめるばかりだった。

 そして、そんな彼の横でアンナは、ただ震えていた。


 ハリーとは違い、彼女にはすがる相手すらいない。

 これから訪れる社交界での冷遇を思い、恐怖に震えていた。


 そんな二人を、ヒストリカは静かに見つめるだけだった。


(なんの擁護すらできませんね)


 ハリーが自ら切り捨てた婚約者。


 傲慢な態度で社交界に君臨しようとした結果が、これだ。

 彼にとって、これは必然の結末だったのかもしれない。


 ヒストリカの中にあるのは、ほんの少しの虚しさと、安堵だった。


(これで……終わり、ですね)


 ヒストリカがふっと息をつくと。


「さて」


 エリクの声が、場の空気を再び引き締めた。


「これ以上、こんな場面を見せるのは退屈だ。せっかくの舞踏会、続きを楽しみましょう」


 その言葉と共に、楽団が再び演奏を始めた。

 騒がしかった会場に、再び優雅な旋律が流れ出す。


 貴族たちは、再びダンスの輪へと戻り、何事もなかったかのように華やかな社交の時間を取り戻していった。


(このカリスマ性、どこに隠していたんでしょう……)


 たちまちのうちに元のパーティに空気を戻したエリクを、ヒストリカは感嘆の目で見つめている。

 ヒストリカの視線に気づいたエリクは、彼女に向き直って手を差し出した。


「もう少し、踊るかい?」

「……ええ、もちろん」


 彼女は微かに微笑みながら答えた。


◇◇◇


 会場の隅、誰の目にも留まらぬ場所。

 仄暗い陰に潜む男は、グラスの中の赤い液体をゆっくりと揺らしながら、鋭い視線でヒストリカを見つめていた。


「……ヒストリカ・エルランド」


 静かに名を呼ぶその声音は、どこか含みを持っている。


 彼は、今宵ガロスター伯爵家のパーティにて繰り広げられた一連の騒動を見届けていた。

 ヒストリカの冷静な判断力、的確な対処、そして圧倒的な存在感——。


(厄介だな)


 そう思わずにはいられなかった。

 あの場で、ヒストリカが下手に立ち回れば、夫であるエリク共々評判が地に落ちていたかもしれない。


 しかし彼女は、寸分の隙も見せることなく、むしろ貴族たちの称賛を集め、立場をより確かなものにした。

 それだけではない。エリクまでも、彼女の影響を受け、社交界での影響力を高めつつある。


「…………」


 男はグラスを傾け、最後の一口を飲み干す。

 赤い液体が喉を滑り落ちると、彼は静かに立ち上がった。


「芽のうちに、摘んでおくべきか」


 低く囁かれたその言葉は、誰の耳にも届かぬまま、闇へと溶けていった。


◇◇◇



 夜も更け、パーティ会場は徐々に賑わいを終えようとしていた。

 シャンデリアの光はどこか柔らかさを増し、豪奢だった空間に少しずつ終幕の気配が広がっていく。


 だが、ヒストリカとエリクのもとには、最後の最後まで人の輪が途切れなかった。


「またお話を聞かせていただけますか、公爵閣下」

「テルセロナ家の今後の展望、非常に興味深く伺いました」

「ヒストリカ様、今度ぜひご一緒に茶会を……!」


 次々に投げかけられる言葉に、二人は丁寧、落ち着いた空気を纏って応じ続けた。

 もはや“氷の令嬢”でも、“醜悪公爵”でもない。


 今夜、彼らは見事に社交界の中心へと躍り出ていた。

 周囲の人々が自然と惹きつけられ、会話に耳を傾け、関係を深めようと近づいてくる——それこそが、貴族社会での「存在感」だった。


 ようやく最後の一人が礼を述べ、静かに退場していく。

 回廊を抜けて夜風にあたると、ようやくふたりの間に、ほんの一瞬の静寂が訪れた。


 馬車に乗り込み、扉が閉まったその瞬間。


「……終わっ、た……」


 思わず脱力したようにエリクが座席にもたれかかる。

 緊張の糸が切れたらしいその姿に、ヒストリカは小さく笑った。


「お疲れ様でした、エリク様」


 労わるように言うと、エリクが目を細めて彼女を見た。

 ぼんやりとしたランプの明かりに照らされた彼の顔には、少年のような安堵が滲んでいて、ヒストリカはふっと表情を和らげた。


「……とんでもない。支えられっぱなしだったよ、僕は」


 どこか申し訳なさそうに目を伏せながらそう言う彼に、ヒストリカはすぐに首を横に振る。


「エリク様自身の力の賜物ですよ」


 それは、お世辞ではなかった。

 今夜のエリクの姿は、ヒストリカの目から見ても明らかに変化していた。


 以前の彼なら、こんな大勢の前で言葉を交わすことさえためらっていたに違いない。


 人前に立つことを避け、下を向いて自分を矮小化しようとしていた。


 それが今夜、どれほど多くの視線を受けても逃げることなく真っ直ぐに応じ、堂々と会話を重ねていたのだ。

 もちろん、最初からすべてが完璧だったわけではない。


 緊張もしていたし、何度か言葉に詰まることもあった。

 けれど、彼はそこで逃げたりはしなかった。


 自らの意思で前に進もうとした。

 ヒストリカは、その姿を隣で見続けていた。


(以前のエリク様とは、大違いね)


 そう思うと、胸の奥がほんの少し熱くなる。


「どうしたんだい、ヒストリカ?」


 小さな笑みを浮かべたヒストリカにエリクが尋ねる。


「……なんでもございませんよ」

(けっこう、格好良かった。なんて……)


 自分で考えたその言葉に、ヒストリカは内心で照れたように目を伏せた。


「ありがとう、ヒストリカ」


 ふいに、エリクの低く落ち着いた声が響いた。


「君がいてくれたから、あそこまでやれた。……本当に、心から感謝してる」


 まっすぐに告げられたその一言に、ヒストリカの胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 誰かから心からの感謝を向けられるのは、こんなにも心地よい。


「こちらこそ、です。……あなたが隣にいてくれて、私も、心強かったです」


 すべてが終わったという安心感と、それを共に乗り越えた者同士の静かな連帯感が、心を満たしていく。

 重かった緊張も、見えない責任も、少しずつほぐれていく感覚。


 ヒストリカは、思わず深く息を吐き出した。

 そして、そのまま自然とエリクの肩にもたれかかった。


 自分でも意識する間もなく、身体がそちらへ傾いていた。背中を支えるあたたかさ。

 どこか心地よい香り。


 そして、なぜだかほっとする――そんな場所。


「……疲れました」

「だよね。あんな濃いパーティだったんだから、そりゃそうなるよ」


 彼の声が、やわらかく響く。


 そのまま応じようとしたけれど、まぶたが重くなっていくのを、もう止められなかった。


(あ……いけない……)


 そう思うのに、疲れが急に押し寄せてきて抗えなかった。

 気がつけば、意識がふわりと薄れていく。


 そして、大きな手がそっと髪に触れた、ような気がした。


(……)


 意識は静かに沈んでいく。


 ◇◇◇


(……眠っちゃったか)


 小さく息を吐いて、エリクはそっと隣に視線を落とした。

 ヒストリカは、自分の肩にもたれかかるようにして、静かに目を閉じていた。


 その寝顔は、ふだんの彼女とはまるで違って見える。

 冷静で、凛としていて、どんな場面でも感情を荒げることのないヒストリカ。


 だが今は、ほんのわずかに唇が緩んでいて、まるで年相応の幼さを残した少女のようだった。

 こんなふうに、無防備な姿を自分に預けてくれるなんて。


 その事実だけで、胸の奥がふわりと温かくなる。


(……たくさん、頑張らせちゃったな)


 彼女は、今日一日ずっと気を張っていたはずだ。


 社交の場で誰よりも冷静に振る舞い、誰よりも鋭く場の空気を読み取り、誰よりも的確に対処した。


 そして、誰よりも強くあろうとしていた。

 あの夜会で、ヒストリカがしてくれたことの数々を、エリクは決して忘れないだろう。


 ハリーとアンナとの対峙のときも。


 自分が戸惑いを見せたときに、静かに背を押してくれた言葉も。


 初めて大勢の貴族を前にして、自分が公爵としての責務を果たそうとした時も、ヒストリカはいつもすぐ隣で自分を見守り、支えてくれていた。


(……本当に、君がいてくれてよかった)


 それは単なる感謝ではなかった。

 ヒストリカと共に生きる今が、自分にとってどれほど大切でかけがえのないものになっているか。


 今この瞬間、こうして彼女の温もりを感じて、より確信が深まった気がした。

 エリクはゆっくりと手を伸ばし、ヒストリカの髪に触れた。


 指先に伝わってくる感触は、まるで金糸のように柔らかく、静かにその光を湛えている。

 彼女が目を覚ますことのないよう、できるだけそっと——髪を一筋、なぞる。


「……ありがとう、ヒストリカ」


 誰に聞かれるでもなく、誰に届くこともなく、小さく呟いた。

 それは、エリクの中で確かに形を持った、真っ直ぐな想いだった。


 自分は、この人と共に生きることを選んだ。


 それは、間違いなどではなかった。

 むしろ、ようやく手に入れた、人生の誇りとも呼べる選択だった。


 馬車は、ゴトゴトと静かな音を立てながら、夜の街道を進んでいく。


 街灯の影が窓越しに流れては遠ざかる。


 月明かりが揺れる車内に、しんとした静寂が満ちていた。


 そんな中、肩を寄せて眠るヒストリカの呼吸と、それに微笑みを返すように見守るエリクの温もりだけが、静かにそこにあった。


 ◇◇◇


 月の光も届かぬ、ガロスター伯爵家の一室。深紅の絨毯に、漆黒のカーテン。

 重厚な木製の調度が静かに闇を吸い込んでいる。


 空気は重く淀み、まるで部屋そのものが怒りに共鳴しているかのようだった。


「こんな、はずじゃなかった……!!」


 ハリーは、荒れた呼吸を吐きながら部屋の中をせわしなく歩き回っていた。


 怒りにまかせて机を叩き、足元の椅子を蹴り飛ばし、拳を何度も固く握り締める。

 顔は真っ赤に染まり、唇はわななく。


 その右腕には、白く清潔な包帯がきつく巻かれていた。

 痛みは引いても、傷跡はまだ生々しい。


「あんな恥を……この俺が、皆の前で……!」


 自分の中の“貴族”としての尊厳、いや、“男”としての誇りが、壇上から転げ落ちたあの瞬間に、砕け散ったのだ。


 音楽が止まり、ざわめく視線を一身に浴びたあの惨めな瞬間。

 名家ガロスター伯爵家の名に、泥を塗られたとすら思えた。


「全部、ヒストリカのせいだ……! あの女さえ、あの女さえいなければ……!」


 ヒストリカさえいなければ、自分が馬鹿にされることもなかった。

 無様に転げ落ち、哀れな怪我人として貴族たちに嘲笑されることもなかった。


 そう叫びたい衝動が、胸の奥からどうしようもなく込み上げてくる。


 ──そんなことよりも、エリクに支援金の打ち切りを間接的に宣言されたことの方が大事なのだが、パーティでの一幕のせいで頭がいっぱいでそこまで気が回っていなかった。


 苛立ちとともに、ふと視線の端にグラスが映る。


 小さなテーブルの上に、取り残されたように置かれている。

 中身はほとんど減っていないまま、ぬるくなっていた。


(くそっ……)


 ハリーは舌打ちをする。

 アンナは、先ほどから姿を見せていない。ショックだったのだろう。


 寝台に閉じこもったまま、誰とも話そうとしないという。


「……あいつまで、情けなくなりやがって……」


 唇をかみ締めながら、吐き捨てるように呟く。


 自分の隣に立とうという女が、この程度のことで潰れてしまうとは。


 だが本当は、怒りを向ける先がわからず、やり場のない感情をどうすることもできない自分自身に苛立っていた。


 そのときだった。


 ――サァァ……。


 風の音かと思った。だが、違う。


 まるで誰かが、闇の中から忍び寄ってくるような、そんな気配。

 部屋の窓辺、深い影の中に、いつの間にかひとりの男が立っていた。


「……!」


 ハリーはぎょっとして振り返る。

 だが叫びはしなかった。


 何か、言葉にならない本能的な恐れが、彼の喉を凍りつかせたからだ。

 男は黒いローブを纏い、顔の半分をフードの陰に沈めている。


 その姿は、まるで闇の化身のようだった。


「……誰だ、お前は」


 警戒をにじませた声で問うハリーに、男はゆっくりと歩み寄る。

 床板が軋む音すら立てず、まるで空気をすり抜けるような足取りだった。


 やがて男は、机の前で足を止めた。


 その動きには一切の無駄がなく、ただそこに“在る”ことが当然であるかのような、奇妙な存在感を放っていた。やがて、男は口を開いた。


「あなたの無念、痛いほど理解できますよ」


 低く、滑らかな声だった。


「……何の話だ」


 ハリーが眉をひそめ、低く問い返す。

 男はすぐには答えなかった。

 

 だが次に口を開いたとき、その声はまるで毒のように甘く、冷たかった。


「女に恥をかかせられるなんて、苦痛以外の何物でもありませんよね」


 口調はあくまで穏やかで、共感するような響きを持っていた。


「ましてや、男の名誉が踏みにじられたとあれば……その怒り、察するに余りあります。女が男よりも上に立つなど、あってはならないことですから」


 その一言に、ハリーの頬がわずかに引きつった。

 言葉では否定しなかったが、その目の奥が鈍く濁る。


 悔しさ。怒り。屈辱。

 それらが心の奥底で再び膨れ上がり、咀嚼され、静かに燃え上がっていく。


「……ッ」


 言葉にならない吐息を押し殺すように漏らした彼に、男はふと口元を歪めた。


 それは、冷ややかな笑み。

 まるでこちらの心情をすべて見透かしているかのような、不気味な笑みだった。


 男はハリーの沈黙を肯定と捉えたかのように、ゆっくりと一歩近づいた。


 その気配は、ぬるりとした蛇のようで、背筋に粘り気のある寒気を残す。


「我々と、協力しませんか?」


 声は静かだった。


 けれど、その一言が放つ圧は確かにあった。

 目には見えない檻の中へと、ハリーの足元を取り巻くように忍び寄ってくる。


「……協力、だと?」


 言葉の意味を掴みかねて、ハリーが聞き返す。

 だが男はそれ以上は何も語らない。ただ、その存在全体が「選べ」と無言で訴えている。


 なぜか、ぞっとするほど冷たい汗が背筋を流れた。

 男はまた一歩だけ近づき、囁くように言った。


「手段は、すべてこちらで用意します。あなたには……“扉”を開いていただくだけでいい」


 その言葉の真意は、わからない。

 ただ麻薬のように甘く、危険な響きだけが漂っていた。


◇◇◇


 あれから、一週間の時が流れた。

 ガロスター伯爵家での一件は、社交界に静かな波紋を投げかけた。


 だがその中心にいたヒストリカとエリクに向けられたのは、決して好奇や非難ではなかった。

 むしろ、あの夜に見せた毅然とした態度と見事な立ち回りによって、ふたりの評判は驚くほど良い方向に転じていた。


 かつて“氷の令嬢”“醜悪公爵”と揶揄されていたふたりのもとには、今や人がぽつりぽつりと訪ねてくるようになった。


「閣下。あの夜会でのお話は、実に示唆に富んでおりました」


 応接室に香り高い茶と共に談笑が流れている。

 この日、訪れていたのはシェーネル男爵。


 辺境に銀鉱山を抱える中規模領主で、ふだんは社交の場に顔を出すことも少ない。

 だが今は、応接室のソファで紅茶のカップを手にしながら、心からの関心を向けていた。


 以前の屋敷には客の影などなく、重苦しい静寂に包まれていたことを思えば、これは大きな変化だった。


「特に、穀物流通と収税制度の見直し案。あれが本当に形になれば、我が領地の財政にも光が差し込むやもしれませんな」


 エリクは僅かに肩をすくめ、少し照れくさそうに笑う。


「思いつきを口にしただけでしたが……お役に立てるのなら、光栄です」


 その隣で、ヒストリカは静かに湯気の立ちのぼるティーポットを傾けた。

 男爵のカップに、再び琥珀色の液体が注がれる。


 芳しい香りがふわりと室内に広がり、男爵は自然と手元へと目をやった。


「……これは?」

 一口含んだ瞬間、男爵の表情が変わる。

 驚いたように目を見開き、唇を少し開いたまま、口中に広がる味と香りを確かめていた。


「ふむ……この深い香ばしさ、かすかに甘みを含んだ余韻……“オルナティア”でしょうか?」「ええ。最近、質の良い茶葉が手に入りましたので」


 ヒストリカが静かに頷くと、男爵は顔を上げた。


「これは、もしやあなたが淹れられたのですか?」

「はい。ささやかなおもてなしの心を込めて……拙いものですが」


 謙遜を込めたヒストリカの言葉に、男爵は感嘆の声を上げた。


「……お見事です。才色兼備とは、まさにこのこと」

「とんでもございませんよ」


 ほんのわずかに目を伏せ、ヒストリカは穏やかに言葉を返す。

 顔に出すほどではないが、その胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていた。


 やがて、話題はより具体的な提案へと進んでいく。

 男爵がカップを置き、真剣な面持ちで切り出した。


「手紙で事前にお伝えしたとおり……我が家の銀鉱山の運営について、貴家との物流ルート整備を検討したいのです。中継地の候補、往来頻度、安全面など、具体的に議論を進めたく」


 その言葉に、ヒストリカはひとつ頷き、手元から封筒に綴じられた資料を取り出した。

 男爵の前にそっと差し出すと、中には既に数パターンに分けられた物流案と、それに伴う利害の比較表が綴られていた。


「いくつか案をまとめております。あとは領地間の地形と治安状況に応じて、最適なルートを選定すれば……お役に立てるかと」

「これは……事前に、ここまで」


 男爵は思わず息を呑み、資料を手に取った。

 その顔に浮かぶのは驚きと、確かな信頼の色。


 エリクが静かに言葉を添える。


「彼女の助言がなければ、ここまでの具体案は出せなかったと思います。……もちろん、ご提案は前向きに検討させていただきます」


 そう語るエリクに、男爵は頷きながら資料に目を落とした。

 ヒストリカもまた穏やかな表情で男爵に向き直り、ひと言添える。


「少しでも、貴領のお役に立てるなら光栄です。必要であれば、後日改めてお伺いさせていただきます」

「……いやはや、これは望外の喜びです」


 そこから先の時間、応接室には静かな熱気が満ちていた。

 テーブルを挟み、三人は更なる可能性について言葉を交わし続ける。


 銀鉱山からの搬出ルートにおける季節変動の影響。

 途中の関所を経由する際の関税問題。


 さらには運送担当の商人ギルドとの契約調整に至るまで、議題は多岐にわたり、互いの利害と懸念点を擦り合わせていく。


 男爵もただ提案をするだけではなく、自らの経験に基づいた現実的な意見を率直に述べてくれた。

 ヒストリカは要点を押さえつつ、時折エリクに視線を送る。


 エリクもまた彼女と息を合わせ、必要な場面で的確な判断を示した。

 議論は次第にまとまりを見せ、気づけば窓の外の光が少し傾き始めていた。


「なるほど。それであれば、我が領地側も人的な派遣を検討する価値がありますな」


 資料を閉じた男爵が、ふぅ、と満足げな息をつきながら椅子に背を預けた。


「いやはや……予想以上に、建設的な意見を頂戴しました。久方ぶりに、有意義な議論をした気がしますよ」

「恐縮です。ですが、男爵様が具体的な課題を明確にしてくださったおかげです。お話を伺っていて、私も非常に学びの多い時間でした」


 ヒストリカが柔らかく答えると、男爵は目を細めて感心したように頷く。


「理知的で、何より誠実なお方だ」


 その言葉に、ヒストリカはほんのわずかに目を伏せて言う。


「過分なお言葉、恐れ入ります」


 男爵はふたりを交互に見て、深く頷いた。


「テルセロナ家に、あのような知略と信頼に足るご婦人がおられるとは、存じ上げませんでした。これは今後、大きな力となるでしょうな」


 そう言いながら、男爵は改めて丁寧に立ち上がり、ふたりに向かって深々と一礼する。


「本日は、誠にありがとうございました」


 その声には、単なる礼儀ではない、心からの敬意が滲んでいた。

 ヒストリカは一歩前に出て、ゆるやかに頭を下げる。


「本日いただいたお話、私たちにとっても大変有意義なものでした。どうか今後とも、末永いお付き合いを」

「ぜひ、我が領地にもお立ち寄りください。歓迎いたします」


 エリクもそれに続けて言い添えると、男爵の表情がさらに柔らいだ。


「ええ、ぜひに。……では、これにて失礼いたします」


 男爵は満足そうに会釈し、従者と共に扉へと向かっていった。

 ヒストリカも丁寧に一礼を返し、エリクがそれに倣って微笑む。


 二人はそのまま男爵と共に廊下を歩き、玄関まで並んで見送った。

 扉が開かれ、馬車へと乗り込む男爵が最後にもう一度振り返って深く頭を下げると、エリクは静かにそれを見送った。


 やがて扉が閉まり、外の足音が遠ざかっていく。

 屋敷の中へ戻ったふたりが応接室に足を踏み入れると、先ほどまでの熱気が嘘のように、しんとした静けさが戻っていた。


 エリクは一息ついて、ソファの背にもたれかかるように腰を下ろし、すぐ隣に目を向けた。


「ありがとう、ヒストリカ。おかげで助かったよ」


 その声は静かだったが、確かな感情が込められていた。


「いえ。私は少し口を出しただけです。判断を下したのは、エリク様です」


 ヒストリカが控えめに応じると、エリクはゆっくりと首を横に振った。


「でも、君がそばにいてくれるから……僕は、自信を持って言葉を選べる。間違っていないと、思えるんだ」


 その言葉には、以前の彼にはなかった誠実な自負があった。

 ヒストリカは思わず彼を見つめ、そして静かに微笑む。


「それは……気のせいではありませんよ。あなたは、今日しっかりと、あなたの言葉で答えておられました」

「そう、かな」

「ええ。自信を持ってください。今日のあなたは、とても立派でした」


 それは謙遜でもお世辞でもない。

 心の底から出た、正真正銘の本音だった。


 誰かの力を借りることを厭わず、自分の立場をきちんと理解し、それを果たそうとする姿勢——それこそが、今のエリクを支えている強さだった。


 その姿を隣で見られたことが、ヒストリカにとっては何より嬉しかった。


 誰よりも近くで、彼の成長と努力に触れられる。

 それだけで、彼女は自分の居場所を実感できる。


「あなたの隣にいられることを、誇りに思っています」


 その一言に、エリクは驚いたようにヒストリカを見つめ、そして、目を細めて小さく笑った。


「……僕も。君がいてくれて、本当によかったと思ってる」


 それ以上は、言葉を交わさずともよかった。


 ただ静かに、同じ時間を分かち合う。 

 そんな穏やかな満足感が、ふたりの間に流れていた。


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