第52話 ハリーとアンナの接近
(反応はまずまず、といったところかしら)
ヒストリカはホールの中へと足を踏み入れながら、周囲の視線を冷静に分析した。
驚き、戸惑い、そして羨望——。
貴族たちの表情にはさまざまな感情が渦巻いていた。
(やっぱり、エリク様の変化が大きく影響しているわね)
かつて「醜悪公爵」と噂され、社交界ではほとんど姿を見せなかった男が、今こうして堂々とした姿を披露している。
それは、これまで彼を蔑んでいた者たちにとって、到底受け入れがたい変化だったのだろう。
だが同時に、それを素直に称賛する者もいた。
「仮面なしのお姿、初めて拝見しましたけれど……とても素敵……」「スーツ姿がよくお似合いですわ」
「エリク様、かっこいい……!」
令嬢たちの小さな感嘆が、ヒストリカの耳に届いた。
社交界では長らく「醜悪公爵」と揶揄されていた彼が、こうして肯定的に評価される。
それが、何よりも嬉しかった。
(……よかった)
安堵すると同時に、わずかに胸が温かくなるのを感じる。それだけではない。
達成感と同時に誇らしさのような感情も込み上げてきた。
ここまで変化するために、彼は少しずつ努力を重ねてき た。
食事の改善、生活習慣の見直し、服装の選び方――それらは、すべてヒストリカが介入し、一緒に変えていったものだった。
一番初めは抵抗していたエリクも、次第にヒストリカの言葉を受け入れ、素直に取り組んでくれた。
食事をきちんと取るようになり、体調が整い、自然と姿勢も良くなった。
スーツを選んだときも、最初は消極的だったが、今ではこうして自信を持って着こなしている。
(その全部が、今のエリク様を形作っている……)
彼がこうして社交界に立ち、人々の視線を受けても動じない姿は単なる「変化」ではない。
彼自身が努力し、一歩を踏み出した結果だった。
エリクが、ほんの少しでも自信を持てるようになったのなら。
彼の中の何かが、変わり始めているのなら。
(これ以上に喜ばしいことはないわね……)
ヒストリカは目を細め、ふと、エリクの様子を伺う。
多くの視線を集めることに慣れていない彼は、やはり少し落ち着かない様子だった。
肩が僅かに硬直し、視線もどこか彷徨っている。
無理もない。
これほど多くの人々から良い意味で注目されたのは、きっと初めてのことだろう。
ヒストリカはさりげなく、絡ませている腕にわずかに力を込めた。
その瞬間、エリクが小さく息を呑むのを感じる。
「エリク様、大丈夫です」
囁くような声だったが、確かに届いたのだろう。
エリクは驚いたようにこちらを見たが、やがて静かに息を整え、口元に微かな笑みを浮かべた。
「……ありがとう」
その一言とともに、彼の背筋が伸びる。
戸惑いを拭い去るように、堂々とした姿勢を取り戻していく。
その変化を確認し、ヒストリカも小さく息を吸った。
前方のホールの奥には、ハリーとアンナの姿があった。
こちらを見つめる彼らの表情は、驚愕と屈辱に彩られている。
ヒストリカはそれを一瞥したが、特に何の感情も抱くことはなかった。
すぐに視線を前に戻し、ヒストリカは歩みを進めた。
◇◇◇
(……どうしても、居心地が悪いな)
エリクは、そっと口元を引き締めた。
煌びやかなシャンデリアの光が降り注ぐ中、優雅に談笑する貴族たち。
長テーブルには華やかな料理が並び、燭台の炎がゆらめく。
ヴァイオリンの軽やかな音色が、場の雰囲気をより洗練されたものへと仕立てている。
そんな社交界の中心に、今、彼は立っていた。
(こんなにも多くの視線を浴びながら歩くのは、一体いつ以来だろうか)
彼は長年、「醜悪公爵」と揶揄され、社交界から遠ざかっていた。
貴族たちの視線に晒されることは、彼にとって慣れないことだった。
(彼らの目に映る僕は、一体どんな風に見えているのだろう……)
興味深そうに見つめる者、懐疑的な表情を浮かべる者、噂と違う姿に驚く者。
その全ての視線を意識してしまう自分が、情けなく思えた。
(いや、違う)
エリクはふと、自分の隣にいるヒストリカへと視線を向ける。
彼女は何も恐れることなく、堂々とした歩みを見せていた。
(彼女の隣にいるのに……僕がこんな弱気でどうする)
そう自分に言い聞かせた時。
「エリク様」
柔らかな声が耳に届くと同時に、そっと袖口が引かれた。
振り向くと、ヒストリカが彼に向かってドリンクグラスを差し出していた。
微かに微笑んだ彼女の表情は、いつもと変わらない落ち着きを宿している。
「緊張されているかと思いますが、少しずつ慣れていきましょう」
そう囁かれた瞬間、エリクの張り詰めた心がふっと和らいだ気がした。
彼女の存在が、まるで無言の盾のように自分を守ってくれている。
「そうだね……ごめんよ、僕がこういう場でどう振る舞えばいいのか、正直よく分からなくて」
エリクはグラスを受け取りながら、正直な心情を吐露した。
社交界における基本的なマナーや形式は、貴族である以上当然学んでいる。
だが、それを実践する機会がなかった。
今までの彼にとって、社交の場とは避けるべき場所であり、関わらないほうがいい世界だったのだから。
しかし、今の自分は当主であり、公爵としての立場を担っている。
そして、今日はヒストリカを伴っての正式な場だ。
醜悪公爵と揶揄されてきた過去があろうとも、堂々と振る舞わなければならない。
エリクは、そっと息を吐いた。
「ヒストリカ、サポートを頼めるかな?」
「ええ、もちろんです。エリク様は公爵の立場なので、こちらから出向かなくても向こうから話しかけてくれると思いますが……」
「うん……それをうまく捌き切れるか……」
自信のなさがむくむくと顔を出してくる。
そんなエリクにヒストリカは尋ねる。
「差し出がましいようですが、こういった社交の場における振る舞いのポイントをお話ししても良いですか?」
「もちろん、助かるよ」
エリクが言うと、ヒストリカは小さく頷いた。
「まずは、視線の位置です」
彼女は、さりげなくグラスを傾けながら続けた。
「話す相手の目を見るのは当然として……エリク様の場合、普段より少し視線を上げるよう意識してください。そうすることで、自信に満ちた印象を与えます」
「……なるほど」
「それから、会話の入り方です。まずは相手の話題に興味を示すこと。自分から話を広げるより、最初は相手に話させるほうがスムーズに進みます」
エリクは頷いた。
「つまり、いきなり話題を主導するよりも、相手に語らせることで会話の流れを掴む、と」
「はい。そして、適度に相槌を打ちつつ、自然な形で話を繋げてください。そうすれば、エリク様の言葉がより説得力を持ちます」
エリクはヒストリカの言葉を反芻しながら、小さく息を吸った。
「わかった、やってみるよ」
エリクはグラスを持ち直し、意識的に背筋を伸ばす。
すると、すぐ近くにいた貴族たちが、彼らのほうへと歩み寄ってきた。
最初に声をかけてきたのは、マーゼル子爵だった。
初老の彼は、格式を重んじる一方で、有力貴族との関係を重視することで知られている。
「これはテルセロナ公爵閣下、ご夫人もご同伴とは。社交の場でお目にかかるのは珍しいことですな」
マーゼルの言葉には、探るような響きがあった。
エリクが公の場に姿を現さないことで、彼がどのような人物なのかを確かめかねているのだろう。
エリクは彼の視線を正面から受け止め、軽く頷いた。
「ええ、久しく顔を出しておりませんでしたからね。こうした場の雰囲気を忘れてしまっているかもしれません」
穏やかな口調で答えながらも、エリクの表情には緊張が残っていた。
彼が自然な会話を続けられるよう、ヒストリカはわずかに身体の向きを変え、さりげなくエリクの側に立った。
「マーゼル子爵は、最近はどのようにお過ごしですか?」
その一言で、マーゼルの目がわずかに輝く。
「おや、閣下が私にご興味を持ってくださるとは。実は今年、我が領地で新たな交易路の開拓を進めておりまして……」
予想通り、彼は自ら語り始めた。
エリクは適度に相槌を打ちながら、話を促す。
(なるほど、こういうことか)
話が弾むほどに、エリクは次第に感覚を掴み始めた。
そして、タイミングを見計らいながら、ふとヒストリカの言葉を思い出す。
──会話の流れを掴んだら、自然に話を繋げること。
「交易の開拓とは、興味深いですね。具体的には、どのような経路をお考えですか?」
エリクがそう尋ねると。
「ほう……」
マーゼルは口角をわずかに持ち上げ、嬉しそうに語り始めた。
◇◇◇
(よかった……エリク様、会話の流れをしっかり掴めているわ)
エリクの会話運びを見ながら、ヒストリカはホッと安堵した。
「テルセロナ公爵閣下が、交易について関心を持たれるとは」
マーゼルは上機嫌そうに頷く。
彼の言葉には、興味を引かれたような響きがあったが、それ以上に探るような視線をエリクに向けていた。
社交の場に姿を見せることのなかったエリクの本性を、見極めようとしているのだろう。
「ええ、我が領地でも商業の活性化が急務でして」
エリクは自然な流れで返答する。
さりげなく自身の立場を明確にしつつ、決して出過ぎない、絶妙な距離感を保つ。
先ほどヒストリカが示唆した「相手に話させること」を意識しながら、相槌を打ち、言葉を繋げていった。
「まさにその通りですな。実は、我が領地の東部に交易港の拡張を計画しておりまして。流通が改善されれば、王都を経由せずとも物資を運搬できる見込みです」
ヒストリカは隣で会話を聞きながら、エリクの様子を観察する。
最初こそ緊張が見えたものの、彼は確実にコツを掴み始めていた。
(流石、エリク様ね……)
改めてヒストリカはエリクをの能力を評価する。
元来、彼の記憶力は優れている。
一度吸収した情報は忘れず、論理的に整理しながら知識を蓄える力を持っている。
社交界に不慣れだったのは、単に機会がなかっただけ。
コツさえ押さえれば、彼が適応することは容易い。
彼がこの場に立ち、話を進める姿には、もはや最初の戸惑いは見られなかった。だが——。
「とはいえ、新たな港の建設は大規模な投資が必要になりますな。資金調達には慎重を期す必要がありまして……」
マーゼル子爵の言葉を受けた瞬間、ヒストリカはエリクの表情が一瞬だけ固くなったのを見逃さなかった。
(資金調達の話は、エリク様にとってまだ馴染みが薄い分野……)
社交界に長らく出ていなかった彼は、現在の貴族社会の金融状況や、貴族間の貸借関係については詳しくない。
膨大な書類や帳簿を管理しているとはいえ、政治的な交渉に絡む機会は少なかった。
おそらく、どう答えるべきか一瞬迷ったのだろう。
そこでヒストリカは、ごく自然に口を開いた。
「資金調達については、国庫からの援助も検討されていると伺いましたが……」
マーゼル子爵は「ああ、確かに」と頷く。
「ええ、王家の後援を取り付けることができれば、開発の進行も一気に加速するでしょう。しかし、そのためには——」
話はスムーズに続いていく。
エリクの僅かな迷いがあったことに、周囲は気づかなかっただろう。
ヒストリカの補足は、まるで予定調和のように自然に組み込まれていた。
エリクはすぐに流れを取り戻し、話を続ける。
その堂々とした姿に、ヒストリカは微かに口元を綻ばせた。
彼の能力を疑ったことなど一度もない。
それでも、こうして目の前で順応していく姿を見ると、誇らしく思えてしまう。
エリクは自然に会話を続けながら、ヒストリカに視線を向けた。
(……まったく、君には敵わないな)
とでも言うような表情が、ヒストリカの視界の端に映る。
それを見て、ヒストリカは何も言わず、ただ静かに微笑んだ。
◇◇◇
しばらくして、マーゼル子爵は満足そうに微笑み、軽く頭を下げた。
「テルセロナ公爵閣下、本日は貴重なお話をありがとうございました」
その言葉は、礼儀としてのものだったが、先ほどの会話の流れから察するに、彼はエリクの話しぶりに一定の評価を下したのだろう。
ヒストリカはそれを敏感に察しながらも、表情には出さず、ただ静かに見守っていた。
「いえ、こちらこそ勉強になりました」
エリクは謙虚に返すが、その口調には先ほどまでのぎこちなさはなかった。
「また、ぜひお話しさせていただきたいですな」
「光栄です」
エリクが応じると、マーゼル子爵は満足げに頷き、その場を後にした。
彼が去ると同時に、エリクはふっと息をつく。
少し気を張っていたせいか、彼の肩がわずかに落ちたのがヒストリカには見えた。
「……緊張した……」
小さく呟く彼の様子を見て、ヒストリカは微笑ましく思う。
「エリク様、お疲れ様でした」
そう囁くと同時に、ヒストリカはそっとハンカチを取り出した。
エリクの額に滲んだ汗を、何の躊躇もなく拭っていく。
「ヒストリカ?」「動かないでください。少し拭くだけです」
エリクの体が一瞬、強張る。
しかし、すぐに観念したように微かに息を吐き、彼女の動きを受け入れた。
ヒストリカの行動は決して不自然なものではなかったが、周囲の貴族たちはそれを目にし、そっと目を見合わせていた。
(……やはり、目立つ行動だったかしら)
ヒストリカはそう思いながらも、手を止めなかった。
この国の男尊女卑の風潮を考えれば、公の場で妻が夫の額の汗を拭うという行動は、珍しいことだったかもしれない。
だが、彼女にとってはそんなことよりも、今目の前にいるエリクのことを気遣う方が重要だった。
エリクも、それを理解したのだろう。
彼は何も言わず、ただ静かにハンカチを受け入れていた。
「……ありがとう」
ようやくヒストリカが手を引くと、エリクは苦笑しながら口を開いた。
「さっきは助かったよ」
「造作もないことです」
ヒストリカは穏やかに微笑みながら答えた。
彼女にとっては当然のことだったが、エリクが感謝してくれるのは悪い気はしなかった。
「テルセロナ公爵閣下」
新たな貴族が、エリクの元へと歩み寄ってきた。
先ほどの様子を見ていたのか、彼は興味を抱いたようだった。
「お話を伺いたいのですが、よろしいでしょうか?」
(どうやら、まだ休む暇はなさそうですね)
ヒストリカは心の中でそう思いながらも、視線をエリクへと向けた。
「もちろんです」
エリクはそう返しながら、ちらりとヒストリカを見た。
彼女は小さく頷くと、控えめに彼の背中をぽんと叩いた。
その仕草は声に出さずとも、彼への激励と信頼を伝えるものだった。
エリクは小さく息を整え、再び次の会話へと足を踏み入れた。
◇◇◇
パーティの最中、次々と貴族たちがエリクに声をかけてきた。
エリクは公爵という立場もあり、ほとんどの貴族たちは彼に挨拶をしにくる。
彼は落ち着いた表情で一人一人に応じ、話を広げていった。
緊張を滲ませながらもエリクは要点を押さえた会話を展開し、自然と貴族たちの関心を引き始める。
ヒストリカは隣で静かに彼の様子を見守りながら、時折さりげなく補足を入れた。
(……いい流れね)
互いに役割を分担しながら、スムーズに会話を進めていく。
貴族たちも、最初は探るような目を向けていたが、次第にエリクの話しぶりに興味を持ち始めた。
「なるほど、テルセロナ公爵閣下のご意見、非常に参考になります」
「ありがとうございます。これからも情報交換させていただければ幸いです」
エリクはにこやかに応じながら、次々と挨拶を交わしていく。
彼の姿は、もはや「社交に不慣れな公爵」ではなく、堂々と貴族たちの中に溶け込んだ公爵としての風格を纏っていた。
ヒストリカは密かに微笑みながら、エリクの腕を軽く引いた。
「落ち着いてきましたね」
「ああ。……最初はどうなるかと思ったけど、案外なんとかなるものだね」
エリクがそう言いながら苦笑する。
ある程度、挨拶を終えて落ち着いたその時。
「ヒストリカ様、お久しぶりですわ!」
明るい声が響き、彼女を呼び止めた。
振り向くと、華やかなドレスを身にまとった令嬢が、柔らかく微笑みながら近づいてくる。
「シャルロッテ嬢……」
ヒストリカがその名を口にする。
彼女の後ろには、他の令嬢たちも興味深そうに集まっていた。
ヒストリカは一瞬、驚いたように彼女を見つめたが、すぐに表情を戻した。
「まさか、本当に公爵夫人になられるとは思いませんでした……それに、とてもお綺麗で……!」「ありがとうございます」
シャルロッテ・エインズワースは、ヒストリカの貴族学校時代の後輩にあたる。
当時のヒストリカは、男子学生たちから疎まれながらも、その才気と気高さから一部の令嬢たちには憧れの対象でもあった。
男に媚びず、理知的でありながらも冷静で毅然とした彼女の姿勢は、抑圧されがちな女性貴族たちにとって、一種の理想像だったのかもしれない。
もっとも、ヒストリカ自身はそれを鼻にかけることはなかったが。
(こうして、また会話を交わすことになるなんてね……)
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
ヒストリカは静かに身を引き、隣にいるエリクを示した。
「こちら、私の夫であるエリク・テルセロナ公爵よ」
「初めまして、エリクです」
エリクが落ち着いた声で挨拶すると、シャルロッテは驚いたように目を瞬かせた。
彼の端正な容姿に驚いたのか、それとも社交界にほとんど姿を見せなかった人物が目の前にいることに戸惑ったのか——。
「噂とは、全く違うのですね……」
彼女がぽつりと漏らした言葉に、エリクは微かな苦笑を浮かべた。
すると、ヒストリカが口を開く。
「ええ。噂というのは、あることないことを誇張するものですから。特に社交界では、実際にその人と会って話をするまでは、本当の姿はわからないものです」
シャルロッテは、ハッとしたようにヒストリカを見つめた。
「確かに、その通りですわ」
ヒストリカの言葉に、周囲の令嬢たちも頷く。
「そういえば、私たちも、ヒストリカ様のことをお話ししていた時がありましたわね」
「優秀で才気に溢れた方だけれど、少し冷たく見えてしまうところもあったと……」
その言葉を聞いたシャルロッテは、ふと何かを考え込むような表情を浮かべ、ヒストリカをじっと見つめた。
「どうしました?」
ヒストリカが問いかけると、シャルロッテは少し戸惑ったように言葉を選びながら答えた。
「いえ……なんだか、ヒストリカ様、変わりましたね」
「変わった?」
その言葉に、ヒストリカは思わず瞬きをした。
「以前は、もう少し近寄りがたい雰囲気がありました。でも、今日は……とても柔らかい印象ですわ」
周囲の令嬢たちも、その言葉に賛同するように頷く。
「確かに、私もそう感じました」
「雰囲気が、穏やかになられたような……」
次々と口にされる言葉に、ヒストリカは少しだけ困惑した。
(……そうなのかしら)
自分では意識していなかったが、エリクと共に過ごしてきた日々の中で、自然と態度が変わっていたのかもしれない。
ヒストリカはそっと隣のエリクに視線を向けた。
その視線の意図を測れず、エリクは不思議そうな顔をしている。
(……きっと、エリク様と過ごしてきた日々が、私を変えたのですね)
そう考えると、胸の奥がじんわりと温かくなった。
──そんな穏やかな空気を、聞き覚えのある声が引き裂く。
「随分と楽しそうにしているじゃないか」
皮肉げな響きを帯びた声が、会話の輪の中に割って入る。
ヒストリカが振り向くと、そこにはハリーとアンナが立っていた。
その瞬間、シャルロッテを含む令嬢たちは気まずそうに視線を逸らす。
「で、では、また改めて……」
そう言い残して、そそくさとその場を離れていった。
社交界で権力を持つガロスター伯爵家の嫡男であるハリーと、彼の婚約者であるアンナ。
その二人がヒストリカに行った事も鑑みて、波風を立てるのは得策ではないと判断したのだろう。
ハリーは相変わらず自信に満ちた笑みを浮かべているが、表情に一抹の不快感を滲ませているように見えた。
そして、その隣で優雅な微笑みを湛えているアンナは、まるで見下すような目でヒストリカを見つめている。
(来たわね……)
ヒストリカは、心の中で小さく息を吐く。
「主催の僕に挨拶に来ないなんて、ずいぶん冷たいじゃないか」
ハリーは冗談めかして言いながら、肩をすくめた。
その目には挑発の色が浮かんでいる。
ヒストリカは平静を保ったまま、ゆっくりと口を開く。
「申し訳ありません。ですが、あなたほどのご身分であれば、主催者自ら客人の元へ足を運んでくださることもあるのではなくて?」
「はは、相変わらずだな」
ハリーは乾いた笑いを漏らしながらも、その目は鋭く光っている。
彼は最初からヒストリカに絡むつもりでここへ来たのだろう。
「まさかヒストリカが、テルセロナ公爵夫人になるとはね。これは驚いたよ」
彼はわざとらしく目を細めながら言った。その声には、明らかに侮蔑が滲んでいる。
「私も、自分があなたの元婚約者としてこうして話をすることになるとは、思ってもみませんでした」
ヒストリカは微笑を崩さぬまま、淡々とした口調で返した。
相手の意図が分かっているからこそ、余計な感情を見せるつもりはない。
そのやり取りを、エリクは黙って見ていた。
普段は穏やかな彼だが、その瞳には冷ややかな光が宿っている。
ハリーとアンナの態度に、明らかに不快感を覚えているのが、隣にいるヒストリカには分かった。
「それにしても、公爵夫人とはいえ、急な結婚だったじゃないか。何か理由があったんじゃないのか?」
「理由……?」
「ほら、公爵閣下はご存じの通り、社交の場にはほとんど顔を出されないお方だし、そもそも……あまり目立たないお方だっただろう?」
ハリーは笑みを深め、視線をエリクへと移す。
「そんなお方が、急に婚約を持ち出すなんて……まるで財力目当てで動いたようにも見えてしまうなあ」
遠回しな言い回しながらも、その意図は明白だった。
「君は金目当てで結婚したんだろう?」
ハリーの言葉に追従するように、アンナが言葉を継ぐ。
「まあ、元婚約者のあなたが見る影もなくなったのですものね。行き場を失って、仕方なく公爵家に嫁ぐしかなかったのでしょう?」
彼女の甘ったるい声は、侮蔑に満ちていた。
この発言に、エリクの表情が一瞬で変わった。
「随分と、無礼なことを言うんだね」
――静かに、しかし確かな怒気を孕んだ声が響いた。
いつも穏やかで、どこか控えめな彼が、明らかに怒りを滲ませていた。
鋭い眼差しがハリーを捉え、冷え冷えとした空気が周囲に流れ込む。
「……公爵閣下?」
ハリーが困惑したように眉を寄せる。
(馬鹿ね……)
ヒストリカは、内心で呆れたように思った。
ハリーは事前に「エリクは気弱でおどおどしている男」だという情報を仕入れていた。
だからこそ、これくらいの言葉で揺さぶれると考えていたのだろう。
だが――予想は大きく外れた。
「僕の婚約者を侮辱するような発言は、許さない」
ヒストリカの肩に手を回し、そっと引き寄せるエリク。
そんな彼の声には、はっきりとした怒りを伴っていた。
エリクはハリーをまっすぐに見据え、微塵の揺らぎもない眼差しを向ける。
「……っ」
エリクの放つ怒気に、ハリーは言葉を失った。アンナもまた、わずかに後ずさる。
貴族社会では、夫が妻を守るのは当然のこととはいえ、エリクがここまで強く出るとは思っていなかったのだろう。
「私は、自分の意思でエリク様と結婚しました」
ヒストリカもまた、冷静な口調で言葉を添える。
だが、その内心では、ハリーの侮蔑的な態度にじわりと怒りが滲んでいた。
(相変わらず、くだらない人ね)
彼は昔からこうだった。
自分が気に入らない相手を貶め、見下し、嘲笑する。
それで自分の優位性を確認し、満足する。
だが、今日は違う。もう彼の支配の下にいるわけではない。
自分はテルセロナ公爵夫人として、エリクと共にここに立っている。
ヒストリカは、まっすぐにハリーを見据え、僅かに目を細めた。
その瞳には、冷え冷えとした怒りが宿っている。
「あなたが何を想像しようと勝手ですが……」
静かな声の中に、ほんの僅かに棘を忍ばせる。
「少なくとも、私たちの関係に不躾な推測を挟むのは、伯爵家の嫡男としていかがなものかしら?」
冷ややかな微笑を浮かべながら、ヒストリカはゆっくりと言い放った。
その言葉には、軽んじられることを許さないという意思がはっきりと込められていた。
彼女の言葉に、ハリーの表情が僅かに引きつる。
周囲の貴族たちの視線が、突き刺さるように彼に注がれている。
(……まずい)
とばかりにハリーは唇を噛むのを、ヒストリカは見逃さなかった。
テルセロナ公爵家は王家と深い繋がりを持ち、その立場は絶対的だ。
それに対し、ガロスター伯爵家は王家からの補助金を受けている立場。
ここで事を荒立てるのは得策ではない。
「……失礼した。公爵閣下、ヒストリカ」
ハリーの声には、明らかに屈辱が滲んでいた。
しかし、彼にはこの場で謝罪をする以外の選択肢はなかった。
唇を噛み締めながら、彼はどうにか冷静さを保ち、頭を下げる。
握り締めた拳は震えていた。
(……この人が、私に頭を下げる日が来るなんて)
ヒストリカは、目の前で屈辱に耐えているハリーの姿を見つめながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。
かつて彼は、自分を見下し、貶めることを躊躇しなかった。
だが今、彼は明らかに劣勢で、悔しさに唇を噛みながら自ら頭を下げている。
なんとも皮肉な光景だと思った。
しかし一方で、アンナが憤然とした声を上げた。
「なっ、ハリー様!? こんなやつに頭を下げるなんて……!」
激情に駆られたような叫びとともに、彼女はハリーの袖を掴む。
しかし、その手を振り払いながら、ハリーは低く叱責した。
「いいからお前も頭を下げろ!」
声には苛立ちと焦りが混ざっていた。
アンナは明らかに納得がいかないという顔で歯噛みしながら、それでもハリーの圧力に抗えず、悔しそうに頭を下げた。
エリクは冷ややかな視線を二人に向けたままヒストリカの肩を抱き、ゆっくりと踵を返す。
「この無礼、主催者ということに免じて今回だけは許してやろう」
静かだが、確かな威圧を含んだ声だった。
その言葉が、ハリーの中にさらなる屈辱を刻んだのは間違いなかった。
彼はこのパーティの主催者だ。
ここでは彼が最も中心的な立場であるはずなのに、その場を完全に支配しているのは、彼ではなくエリクだった。
そう思い知らされることが、何よりも悔しい。
しかし、エリクはそんなハリーの思惑など気にも留めず、ヒストリカとともに堂々と歩み去る。
去り際、ヒストリカはふと、突き刺さるような視線を感じた。
気配を察して振り返ると——そこには、アンナが物凄い形相をしていた。。
憎悪と嫉妬を宿したその瞳は、まるで獲物を狙う獣のようにギラついている。
まるで、こう呟いているかのようだった。
──絶対に許さない。
その視線を真正面から受け止めながら、ヒストリカは顔色ひとつ変えなかった。
アンナの表情が歪む。
その顔を背後に残しながらヒストリカは再び前を向き、エリクとともに歩み去った。
◇◇◇
(何よ、何よ、何よ……! むかつく、むかつく、むかつく!)
アンナの心の中には、黒く渦巻く激情が燃え上がっていた。
それは嫉妬か、憎しみか——いや、そんな言葉では生ぬるい。
怒りとも悔しさともつかない、ただただ胸を灼き尽くす感情が、身体の芯まで染み渡っていた。
彼女は拳を握り締め、唇を噛みしめる。
――また、こうして私の前に立つのね、ヒストリカ。
さっきまでの自信に満ちた態度はどこへやら。
ハリーと共に頭を下げさせられた屈辱が、焼きつくように胸の中で燻っている。
この場で最も敬われるべき存在であるはずの自分が、どうしてあんな女なんかに屈辱を味わわなければならないのか。
ヒストリカは、まるで何事もなかったかのように立っていた。
変わらぬ優雅さ。何一つ変わらぬ気品。
まるで、社交界で最も輝いているのは自分だと、当然のように思っているかのように。
――昔と、何も変わらない。
貴族学校時代、アンナは常にヒストリカの背中を見ていた。
ヒストリカ・エルランド。
男尊女卑が根強く残るヒーデル王国の貴族社会において、女性でありながら傑出した才能を持つ存在。
学業、マナー、政治、文化、すべてにおいて完璧だった。
誰よりも秀でていた。
誰よりも気品があった。
誰よりも堂々としていた。
アンナは、そんな彼女が大嫌いだった。
ヒストリカが優秀なのはわかる。
だが、それを当然のこととして受け入れているのが、気に入らなかった。
貴族の令嬢である以上、美しく、優雅であるべきなのは当然。
だからこそ、アンナは自分を飾ることに力を注いだ。
華やかなドレス、繊細なアクセサリー、流行の香水。
男たちの視線を集めるためなら、どんな甘い言葉も囁いた。
媚びることも、演じることも、当たり前のことだと思っていた。
なのに、ヒストリカは違った。
彼女はただそこにいるだけで称賛を集めた。
男に媚びることなく、まっすぐに生きているだけで、令嬢たちの憧れとなった。
「ヒストリカ様は、やっぱり素敵ですわ……」
「ええ、才色兼備という言葉は彼女のためにあるようなものですわね」
「どうすればあんなに聡明になれるのかしら……」
令嬢たちはヒストリカを称えた。
──気に入らなかった。
(私のほうが、ずっと美しく、可愛らしいのに!)
男たちの視線を惹きつけるのは、アンナのほうだった。
彼女は自分こそが"女"としての理想であり、貴族社会で最高の令嬢であると信じていた。
けれど、ヒストリカは、そんな彼女を一度たりとも意識しなかった。
賞賛を浴びても、注目を集めても、それを当たり前のことのように受け止め、何の感動も示さなかった。
まるで、称賛されることに飽きてしまったかのように——。
(そんなの、ずるいじゃない!)
アンナは、自分が主役でなければ気が済まない女だった。
男たちが彼女をちやほやし、羨望の眼差しを向ける。
それが当然の世界でなければならなかった。
なのに――ヒストリカはその世界を根底から壊した。
何もしなくても、ただそこにいるだけで、彼女は特別だった。
彼女はただそこにいるだけで、何もかもを手に入れる。
そんなの、絶対に許せない。
その憎悪は、アンナに行動力を与えた。
貴族学校時代、アンナはヒストリカに対し陰湿な攻撃を繰り返した。
最初は些細なことだった。
彼女の持ち物をこっそりすり替えたり、机に置いた本を意図的に落としたり。
それらはすぐに より巧妙なものへとエスカレートしていった。
授業中、ヒストリカの教科書を紛失させる。
試験前に 間違った情報を広め、彼女の答案に影響を与えようとする。
噂を流し、「ヒストリカは男に媚びるために勉強している」 などと嘲笑させる。
——けれど、それらすべてが 無駄だった。
ヒストリカは 何一つ動じなかった。
ノートを紛失しても、淡々と試験を受け、完璧な成績を収めた。
間違った情報を吹き込まれても、それが誤りだと瞬時に見抜いた。
噂が流れても、ヒストリカは何の反応も示さない。
むしろ周囲の方が「そんなはずはない」と信じようとしなかった。
(どうして、何も効かないのよ……!)
アンナが何を仕掛けようと、ヒストリカはそれを軽くかわした。
まるで 「あなたなんて眼中にない」と言わんばかりに。
それが、一層、アンナを苛立たせた。
我慢の限界を迎えたアンナは、ついにヒストリカの婚約者であるハリーに目をつけた。
彼は、ガロスター伯爵家の嫡男。貴族社会のなかでも、一定の影響力を持つ家柄の人物。
そう、アンナはヒストリカを打ち負かすために、わざとハリーを奪ったのだ。
彼が元々ヒストリカを疎ましく思っていたことは、アンナにとって利用するには十分すぎる材料 だった。
ヒストリカが「女のくせに」才知を誇ることを、ハリーは嫌っていた。
彼は 自分が上に立つことを望んでいた。
だからアンナは、ハリーの前でひたすら男を立てる女を演じた。
「まぁ、ハリー様って本当に素敵ですわ」
「そんなに賢くなくても、女は愛されていれば幸せなのに……」
「私はハリー様のような男性が、全てを決めてくださる方が安心ですの」
甘い言葉を囁き、彼の虚栄心をくすぐる。
自分を崇拝してくれる女を、ハリーが嫌うはずがない。
彼の劣等感と優越感を巧みに操り、ヒストリカへの不満を増幅させていった。
“ヒストリカより、私のほうがあなたにふさわしい”
そう思わせるのは、簡単なことだった。
そして、決定的な一言をハリーの耳に囁いた。
「ハリー様……あなたの隣に立つ女性は、もっとあなたを敬うべきですわ」
その瞬間、ハリーの決断は揺るがぬものとなった。
彼は、婚約破棄を言い渡した。
(これで、ヒストリカは取り乱すはず……!)
そう思った。
だが──ヒストリカは泣きもしなければ、取り乱しもしなかった。
まるで 「そんなこと、どうでもいい」とでも言いたげに、あっさりと婚約を受け入れた。
(どうして!? 私が、あなたから奪ったのよ!?)
アンナが仕掛けた策略は、結局のところ、ヒストリカに何の影響も与えなかった。
だからこそ、アンナは ますますヒストリカを憎むようになったのだ。
――そして今。
(私にはわかる……ハリー様も、ヒストリカのことばかり気にしてる)
確かに、今、ハリーは自分を選んでいる。
でも、彼はヒストリカの話題を出すたびに、苛立ちを滲ませる。
それはつまり、彼の心の中にまだヒストリカがいるということ。
ハリーは決してヒストリカを認めない。なのに、彼の心は、ずっと彼女に囚われている。
「あの女さえいなければ……」
思わず、言葉が漏れる。
アンナの唇が、強く噛み締められる。
(私は、ヒストリカに勝たないといけない)
どんな手を使ってでも——。
彼女の爪が、スカートの生地をぎゅっと握り締める。
その瞳には、執念と狂気が渦巻いていた。
(絶対に、恥をかかせてやる……!)
ヒストリカを引きずり落とす手立てを考えながら、アンナは業火を燃やし続けた。




