熱くて寒くて、温かい日
秋口にふと落ちてきました。
ピピッピピッピピッ
高い電子音が部屋に響き、ひなたは脇からそれを取り出した。
白く細長い機器のほぼ中央、切り取られた枠の中、ある数字がはっきりと示されている。
(……はちど、ごぶ……)
今の自身の体温だ。一般的に高熱とされるそれに、ひなたは深く溜め息をついた。
夜中から寒くて胃の具合が悪くて、怪しいなぁとは思っていたが。
(っうぅぅ……さいあく、会社……)
都合よく休みに熱は出ず、今日も今日とて仕事であった。
ふらっと移動し鞄を漁り、自身の手帳を繰ってみる。
訪問や電話をする予定だった相手のことを一人、二人と指折り数え――がくりと崩れた。
結構痛い。
当然代打は立てられるのだが、体調管理の出来ない相手だと思われると、信用とか信用とか、信用とかが悲しい結果になってしまうのだ。
仕方ないけど気分が落ち込み、のろのろと着替えを進める。
足も気持ちも引き摺って、顔を洗い終える頃には電話をするのに丁度良い時間となっていた。
(……昴さん、もう来てるよね……)
スマホの電話帳から部署の直通番号を探しだし、タップする。
耳に当てればプルルというコールの後に、はい、と女性の声がした。
馴染みの部署と名字を聞いて、ひなたも電話に向かって口を開く。
「おはようございます、竹垣です」
……こういう時、無駄にしゃきっとした声が出るのはどうしてなんだろう。
余計なことを頭の片隅に浮かべつつ、朝から失礼しますと見えない相手に頭を下げた。
「あぁ、ひなちゃん。おはよう、どうしたの?」
「えっと……すみません、課長居ますか?」
「うわ、惜しい。用があるって先刻下に降りちゃったわ。ひなちゃん、もしかしてお休み?」
「うぅ、はい……。少し熱が出て……」
すみませんと謝れば、先輩はあららと声を上げ、最近冷えるものねと言ってくれた。
「ちなみに何度出てるの?」
「今は38度です。薬を飲めば多少下げられると思うんですけど……」
「だからって仕事には来させないわよ。病院行って、今日はしっかり休みなさい。課長には私から伝えておくわ」
「ごめんなさいぃ……」
「こういうのはお互い様なの。他に聞いておくことはある?」
「えと、それなら――」
改めて手帳を開き相手のいる予定を伝えれば、デキる先輩は二つ返事でそれを請け負ってくれた。
「――分かったわ。じゃ、ちゃんと温かくして寝るのよ。それから出来るだけ食べること、いいわね」
しかも優しい気遣いつき。思わず深々とお辞儀をする。
「ありがとうございますぅぅ……。復活したら馬車馬のように働きますから……!」
「ふふ、期待してるわ」
お大事に、との言葉を最後に、カチャリと音がし通話が切れた。
ツーツーという電子音を暫く聞いていると、不意にふにゃーっと力が抜けた。
アットホームな職場でも、こういう連絡は緊張する。
(……とりあえず、びょーいん行かなきゃ……)
もそりと動き、ストックしてある解熱剤を取り出した。
それを一つ口に入れ、鞄を掛けて壁に凭れる。
開院時間まではまだ時間がある。
横になってしまうより、そうしている方が楽だった。
***
「うーん、いつものだろうねぇ」
「えへへ、やっぱりそうですよねー」
半時間も経つと薬が効き始め、まだまともに動けるようになっていた。
ぽてぽてと歩いてバスを乗り継いで、着いた先でお馴染みの先生が苦笑を浮かべる。
「最近忙しかった?」
「えと、そうですね……どこも一緒かなって気がしますけど」
「うーん、相変わらずだねぇ……」
思っていることを答えれば、素直な主観も大事な情報なんだよと諭すように言われてしまった。
「熱が高いし、とりあえず今日明日は点滴した方がいいかな。もし採血の数値が高かったり、明日も調子が変わらなかったりするようなら、紹介状、書くからね」
「ひぇ」
「当たり前だから。落ちやすいの、分かってるでしょ」
「……、ぁぅぅ……」
かかりつけ医が弾き出したこの、『いつもの』。それとひなたは十年来の付き合いだ。
それゆえに、油断すべきでないとも理解している。
でも出来るなら、明日にでも出勤してやろうと思っていた。
これ以上職場に迷惑を掛けるわけにはいかないのだ。
――と、そんな考えが伝わったのだろうか。
先生は『お大事に、また明日ね』と笑って念押ししてくれた。
お陰でひなたはポタポタと落ちる点滴を眺めつつ、定時で終われば何時に来られるか、などと算段することになったのだった。
***
そうこうして点滴を終え、はや十分。
ひなたは待合室で会計を待っていた。
繁盛などというと語弊があるが、患者の多い病院はとにかく色んな場面で待つということを余儀なくされる。
そうすると――。
(……う、切れてきた……)
少しずつ、ぞわりとした感覚が強くなる。
朝の薬の効果が薄くなってきているのだ。
手持ち無沙汰に見ていたスマホを膝に伏せ、重い体を背凭れに預ける。
立っていられないから開院時間に合わせて来てみたが、早朝から並ぶ人達や、予約の患者さんでひなたの診察は思った以上に遅かった。
でもそれは、仕方のないことだと思っている。
『――夜に行く』
昴からの簡潔なメッセージを思い出し、送った返事を頭の中で繰り返す。
大丈夫。
すぐ良くなるから、大丈夫。
目を閉じて、魔法の呪文に集中した。
暫くすれば少し重さがましになり、ほっと息を吐いて瞼を開く。
――と、受付の女性が目の前にいた。
「大丈夫、ですか?」
「――だ……大丈夫、です……!」
慌てて手を振れば、ほっとしたように彼女の顔が緩んだ。
「お待たせしてすみません、お会計が出来ましたので……」
「え、わっ、はい! すみませんっ」
どうやら暫く呼ばれていたらしい。
わたわたと鞄から財布を取り出せば、小銭がぽろぽろと零れ落ちる。
近くに座っていたおじさんが笑ってそれを拾い上げ、ひなたの手に載せてくれた。
顔を赤くしながら支払いを済ませ、感謝の言葉と共にぺこりと頭を下げて病院を出る。
(……はぁぁ……)
一気に疲れを感じつつ、今度は近くの調剤薬局へ入って受付をする。
そこで薬の詰まった袋を貰い、またぽてぽてと歩き出した。
横断歩道を渡った少し先、一つ目のバス停が見える。
その姿は、思ったよりもずっと小さい。
(…………、……タクシー……)
近くの電柱に手をつく。
結構痛い出費だが、道端でくたばるよりはまだましだ。
体が重い。熱くて痛い。なのに異様に寒かった。
流れていく車の中、緑のナンバーを探して手を上げる。
すると一台の黒い車が滑るようにして停車し、ハザードランプを点けてくれた。
おしゃべりな人だったらどうしよう、と思いながら乗り込めば、寡黙な運転手でほっとする。
目を閉じ座っているだけで、ひなたはアパートの玄関を潜ることが出来た。
部屋で衣服を楽なものに替え、壁を伝って『装備』を揃えに動き回る。
快適に休むため、色々欲しいものがあるのだ。
(……水分……)
出来れば寝たまま飲みたいところだ。ストローでも買ってくればよかった。
というか、薬。あと頭も冷やしたい。
(……タオル、取って……)
ふらふらと洗面所へ向かい、タオルを取り出す。
しゃがみこみつつキッチンへ移動し、冷凍庫から保冷剤と氷枕を取り出した。
(……こんな、ものかな)
ようやく寝台に腰を掛け、束になった薬を端から口へと放り込む。
戸棚はあちこち開けっぱなしだ。
仕方ない。良くなればいつでも片付けられるだろう。
そう諦め、こてりとベッドに転がった。
***
それから寒気と頭の痛みで寝返りを繰り返していたら、いつのまにか眠っていたらしい。
ふと目を開くと、辺りは真っ暗になっていた。
(何時、かな……?)
時計を探し、視線を巡らせる。
すると、ベッドの近くにぼんやりとした明かりが見えた。
瞬き、それが携帯の画面から出ている光だということに気がつく。
(……あぁ、……)
そっか。
「……、……目……悪く、なりますよ」
光が照らすものに声を掛ければ、ごめんね、と優しい声が返ってきた。
たったそれだけで、ぽろ、と涙が零れ落ちる。
「電気、つけてもいい?」
「ちょっとだけ、」
待ってと願う。
保冷剤を包んでいたタオルで目を拭いて、深呼吸をひとつした。
「はい」
声を掛けると、続き部屋の方の電気がぱっと点く。
少し遠くから差し込む光が、明る過ぎなくてちょうど良かった。
一息ついて横を向くと、頭元の台の惨状が目に入る。
薬はどれも飛び散っているし、ペットボトルに至っては蓋が空いたままだ。
(閉めて、なかったっけ……)
帰ってきてからの記憶が曖昧だ。
ぶつかりながら歩いたことだけは覚えているのだが。
(とりあえず……閉めよう)
そう思い、ひなたはペットボトルをじっと見つめた。
するとしっかりとした手がそれを取り上げ、きゅ、と口を締める。
「ありがとう、ございます……」
「いいよ。そんなことより――」
軽く首を振って、彼はひなたの近くに膝をついた。
大きな手が、頭に触れる。
髪を梳くように撫でていく感触に、ひなたはすっと目を閉じた。
「……いっぱい、頑張ったね」
「……、ん」
頑張るのは当然だ。自分のことだし、生きるためだから。
でも、そう。
やっぱりとても、しんどかった。
だからこそ、幸せな事だと強く思った。
我慢を越えて涙が零れ、泣きながらふにゃりと笑みを浮かべた。
「……一人じゃ、ないって……すごく幸せ、ですね……」
しんどかったと弱音を吐いて、許してくれるひとがいる。
そのことに、ありがとうと言いたかった。
――けれど、昴はそうだね、とは言わなかった。
ごく、僅かな間。
それを置いて、深い――深い溜息を落とす。
そうして彼は熱で痺れた手を取って、自身の額に近づけた。
祈るような姿勢に少し驚き、ひなたの口から小さくくすりと声が漏れる。
「……過保護、です」
「過保護にならない方がどうかしてるよ……」
「お薬飲みましたし、……そのうち、良くなりますから」
「ならそれまでここにいる。いつでもいい。して欲しいこと、俺に教えて」
(……、して欲しい……こと?)
そのお願いを、鈍い頭で反芻する。そして、ふるふると首を振った。
来てくれた。それだけでもう、十分だ。
大丈夫。
部屋の有り様を見れば説得力はないかもしれない。
けれどちゃんと、できるから。
だから――。
「だめだ」
涙の痕を、指がなぞった。
「甘えて。ひな」
(……っ、それ……)
思わず声を上げかけて、けほっと咳いて沈み込む。
それは、ひどい。ずる過ぎる。
どれだけ緩くなっていると思っているのだ。
「……ぅー……」
昴のことが、大好きだ。
いつも溢れる気持ちがぽろぽろ零れる。
そんなどうしようもないものを、彼はちゃんと拾って大事にしてくれる。
ありがとうって笑って傍に居てくれる。
とても、優しい人なのだ。
面倒を、迷惑をかけてしまうのはすごく嫌だ。
なのに。
(――……っ)
体が、小さく震えていた。
それは寒さのせいだけじゃなかった。
額にあった保冷剤は全て溶け、もう頭の痛みを癒してはくれない。
でもそんなひなたを、撫でてくれる手があった。
枕元に散った、しわくちゃのタオル。それにごちゃごちゃの気持ちを吸い込ませ、少しだけ、前を向いてみる。
「ーー……すばる、さん」
「うん、どうしたの?」
「…………あの、ね、おねがい……していい?」
「――もちろん」
答えと共に、火照った頬を指が滑った。
包み込むような響きを聞いて、心からほっと、息をつく。
「……えとね、……レモネード、飲みたい……です」
「うん、いいよ」
「それから、頭……も、冷やしたくて……」
「新しいの持ってくる」
「……ごめん、ね、……でも……でもね……」
「うん」
「……からだ、は、ちょっと……寒いかなぁ……?」
繋いだ手をきゅっと握れば、強く力が込められた。
「――分かった」
応えた彼はひなたの頭をそっと撫で、熱を持った額へと顔を寄せる。
苦しく不快な部分に、柔らかなものが優しく触れた。
(……、あぁ……)
瞑った目から水滴が流れていく。
それを全て拭い去って、昴はようやく体を起こした。
「――よし、とりあえず何か入れようか。食べられそう?」
「……沢山、は」
厚意を否定する言葉を略すると、彼はそれでもいいよと頷いた。
くしゃりとひなたの髪をかき混ぜて、キッチンへと足を向ける。
そんな彼の広い背中を見つめながら、ひなたは心の中でごめんねとありがとうを繰り返した。
そして、早く治そうと改めて思う。
(……良くなったら、いっぱいぎゅぅってしたいなぁ……)
それで嬉しいのはまず間違いなく自分の方だが、他に感謝の送り方を考え付かない。
とことん甘えているなと反省しつつも、それが叶う時を思い浮かべ、ひなたはへにゃりと頬を緩めた。
気づけば泣いてばかりに。
でも気に入って下さる方がいると嬉しかったり。
ドキドキ。