冷暗所に持ち込まれる日
夏の暑い日頭が沸いて出来ました。
「あー涼しい……けど暑い―」
ただいまより先に不平を訴えながら、ひなたは自身を捧げる場所へと戻ってきた。
それにフロアからはお帰り、お疲れとの声がかかる。
「ただいまですー。もー滅茶苦茶暑いんですよ。日差しはジリジリするし、汗はベタベタするし。ああもぅ、夏なんて大っ嫌いだ」
デスクの書類でパタパタと自身を扇ぎつつ、彼女は力の及ばない相手に怨嗟の声を吐いた。
冷房は入っているはずだが、それよりも自分の身体が熱すぎる。
天井の空調に向かって我に冷気を!と唱えていると、近くで先輩が噴き出した。
「相変わらずすごく暑がりね」
笑いながら言い添えられ、ひなたは自身の奇行に少しばかり恥じ入りつつも頷いた。
暑いのは嫌いだが、こんな風に職場が暖かいのは最高だ。
出先でのことが嘘のように気が緩む。
「そうなんですよ。だいたい28度越えると溶け出すんです」
「28度って、チョコレートなの?」
「上手いこと言いますね。冷暗所で保存してくれますか?」
「悪いけどあんたを置いといても、美味しい思いは出来ないわ」
そう言ったのは、ひなたに外回りのいろはを教え、自身の頻度を減らした先輩だ。
彼女に言われてしまうと、ですよねと項垂れるしかない。
「竹垣さん、そろそろ次へ取り掛かろうかな」
「う、すみません……」
とうとう直属の上司にもお叱りを頂いてしまった。
怒鳴らないのに、締めるところは締めてくれる。
そういうところが、この部署の人間関係を上手く回しているのだろう。
凄いなぁと思いつつ、ひなたが大人しく席に座った時だ。
「暗いかどうかは別として、早く涼しいところで働けるように頑張ろうね」
そう言って、上司はひなたに微笑みかけた。
――フォローが優しすぎる。
(もう大好きです……っ)
内心悶えながら、ひなたは自分のパソコンに向かった。
***
日が沈みきった頃、為すべき業務に一段落つく。
借り暮らしの住まいへと戻ったひなたは、夕食の支度を始めた。
(今日も暑かったし、さらっと食べたいなぁ……。でも男の人はがっつりかもだし……)
悩んだ結果、冷凍してあった豚肉をレンジで半解凍し、冷しゃぶを作ることにした。
ポン酢の酸味が食欲をそそるので、疲れていても食が進むだろう。
元がずぼらなので、料理はあまり得意とは言えない。
レパートリーもさほど多くない中で作り出せたメニューに、ひなたがよしよしと満足していた時だ。
「ただいま」
「! お疲れさまですっ」
その声を聞いて、ひなたは咄嗟に習慣化した挨拶を返した。
すると近づいてきた相手がぴっとひなたの鼻を摘まむ。
みっ、という声に笑ったのは、秋月昴――ひなたの、大好きな上司だった。
「家でそれはナシかな」
「お、お帰りなさい、です」
鼻を押さえて言い直せば、昴はよく出来ましたと頭を撫でてくれた。
(っ、うわぁ……)
この仕草に、ひなたは何度も殺されている。
付き合ってから割と経つのに、いつまでもこんな調子だ。
ちょこちょこ『公』が先に出るのも、ふとした時にとにかく好きだと思うのも。
憧れ続けていた先輩だから仕方ないと言い訳し、ひなたはすぐ熱くなる自身をパタパタと手で扇いだ。
***
昴に振り向いてもらった切っ掛けは、ある日の残業だった。
部下の面倒を見てくれる優しさは有難かったが、入社時に一目惚れした相手と密室で二人きりになり、ひなたはがちがちに緊張した。
それを焦っていると取って、和ませてくれようとしたのだろう。
『――竹垣さんって小動物みたいだよね』
俺も昔飼っていたんだ、と言って笑い掛けてきたのだ。
思わぬプライベートの公開と無防備な笑顔に、頭が真っ白になったひなたは言った。
――じゃあ、私も飼ってくれますか、と。
その時のことを思い出し、ひなたはぬいぐるみを締め上げる。
昴が宥めようとすればするほど自爆して、仕舞いには彼の方が顔を覆う事態に発展した。
予測終了時刻を遥かに過ぎて帰ったことは言うまでもないが、ひなたにとって幸せな一日にもなったのだった。
――と、そんな風に回想で悶える家主の腕の中では、笑顔のくまが声なき悲鳴を上げているのだが……止める人は誰もいない。
唯一宥められそうな昴はキッチンで食後の片づけをしているのだ。
というか、そうなったのは彼のせいだと言ってもよい。
家事の奪い合いになった時、抵抗する彼女をひょいと抱え、ぬいぐるみと並べて置いたのは昴だったりする。
ざぁざぁと水を流す音を聞きながら、ひなたはゆるゆると顔を上げる。
視線の先ではテレビの画面がニュース番組を映し出していた。
続いては、と語るアナウンサーには良い話を届けるつもりはなさそうだ。
溜息と共に聞き流し、終わりに流れる天気予報をぼんやりと眺めていると。
「えぅ……っ」
「どうしたの?」
思わず漏れた呻きに、キッチンから可笑しそうに仔細を訊ねる声がした。
その優しい声音に、ひなたは全力で『それ』を報告する。
「明日の最高気温は36度です……! これ以上はもはや発熱ですっ」
「まぁ、最近の夏はそうだよね」
しょうがないねと笑いながら、昴は蛇口を締めて手を拭いた。
頼れる先輩でもこればかりはどうすることも出来ないのだ。
「私の快適な日々はいずこ……」
ひなたは穏やかな気候を思って項垂れる。
すると隣に腰を下ろした昴が頑張れと言って、また頭を撫でてくれた。
「……頑張ります」
「うん。――あ、そういえば」
素早く復活したひなたに微笑んでから、彼は不意に何かに思い至ったように声を上げた。
それにつられて顔を向ければ、大好きな相手のどこか楽しそうな表情が目に映る。
「それで思い出したんだけど、昼間面白い話してたよね」
「? 何でしたっけ」
昴が喜ぶような愉快な話をしただろうか。
こてりと首を傾げれば、彼は目を細めて口を開いた。
「ひながチョコレートだっていう話。今まで小動物だなぁとは思ってたけど、それもあながち間違ってないなって」
「なぜまたそのような判断に?」
「――だってすごく、甘いから」
艶やかな笑みを向けられて、ひなたはぴきっと固まった。
時々、昴には小動物を可愛がりたい病が起こるが、それに近い気配を感じたのだ。
抱えられたままのぬいぐるみが、また徐々にその身を潰していく。
「暑いとダメなんだよね。ならもう、冷暗所に持ち込もうかなぁと思うんだけど……」
「……」
「溶けないと思う?」
優しく問う昴に、上手く答えが返せない。
彼の言う冷暗所にとても心当たりがあったのだ。
そこは今いるLDKの隣。エアコンがよく効き、厚めのカーテンがある――ひなたの寝室だ。
「…………た……食べれば、流石に溶けると、思います……」
真っ赤になって答えたひなたの耳に、じゃあ確かめてみようかなという声が聞こえた気がした。
大変です!沸いてます!
ご訪問、感謝です!