4「千切れ飛ぶ小指」
「先に寝ていて良かったのに」
自室に戻ったカシロウを出迎えたのは妻のユーコー。
「何を言うんですか。勤めに出た亭主を待つのは妻の役目ですわ」
口に手を当てカラカラと笑いながらそう言うユーコーを見やり、心配そうな目を向けるカシロウ。
「しかしお前の体がな。リストル様にも労ってやれと言われた所だし」
「もうヨウジロウが産まれて半年よ? 貴方も魔王様も心配しすぎなのよ」
「……まぁ、そうかも知れんが……」
「私はいたって健康よ。そんな事よりね、何か召し上がる?」
そう言われれば、カシロウは急な招集でロクに夕食を食べていなかった事に気付いた。
何かしらの段取りがしてある素振りの妻の期待に応える為にもカシロウは頷く。
「ん、そうだな。何か軽く……湯漬けでも頼む」
「畏まりました。ちょっとだけお待ち下さいね」
その間にカシロウは寝室へ入り、ベビーベッドで眠るヨウジロウの寝息を聞いてから腰の刀を刀掛けへ掛け、堅苦しい羽織袴から寛いだ着流しへと、手早く装いを改めた。
食卓につき、ユーコーが準備した湯漬けを啜る。
「お? これは……、いつもの焼き味噌に……、生姜か」
「正解! 貴方やっぱり流石ねぇ。で、どうかしら?」
カシロウは、何が『やっぱり流石』なのかよく分からなかったが、正直に味の評価を下した。
「はっきり言って美味い。いつもの焼き味噌の湯漬けがグッと旨くなった。しかし、おろし生姜を入れたようだが若干風味が飛んでいる。時間がある時は火を入れる直前におろすか、生姜の絞り汁を入れるべきだな」
「…………流石ねぇ」
この世界には、カシロウと同郷からの転生者がかつて幾人もいたらしい。
近いところで言えばウナバラ・ユウゾウもそうだ。
ちなみにウナバラはカシロウよりも後の時代、チョンマゲが一般的ではない時代を生きたらしい。
カシロウは先達たちに感謝する。
彼らの努力のおかげで、前世とほぼ同じような食事が摂れるのだから。
「ところで魔王様はなんのお話だったの?」
「ん? ああ、人族領の転生者に『勇者認定』が与えられたそうだ」
ユーコーがその美しい翡翠色の瞳を閉じて、んー、と暫し考え口を開く。
「それって……、ワタシたち魔属にとって結構大変なんじゃない?」
「ああ、大変だ。しかしな、その勇者はヨウジロウと同い年らしい」
「そう。それなら暫くは何も変わらないわね。でもちょっと嫌ね。大きくなったヨウジロウが絡まれなきゃ良いけど」
● ● ●
『勇者』が生まれたからと言って特に何かが変わることも無く、しばらくはいつもと同じ日々の生活が続くはずだった。
カシロウたち十天の若手で構成される四青天は、主に軍事と公共工事の差配を担当している。
とは言えこの数十年は平和な世の中であり、軍事と言っても訓練ばかりである為、公共工事が主な仕事と言っても過言ではない。
その軍事を司る四青天の中でもカシロウは、軍を動かす才能が欠片も無く、代わりに個としての武、剣の才能には目を瞠るものがあった為、軍は率いずに剣術指南などを行っている。
――余談ではあるが、軍を動かす才能と言えば、前世で仕えた主君にもその才能が無いとよく言われたもので、カシロウが命を落とした戦において旧主も落命している――
カシロウは普段、十日の内の五日は工事の差配(現場に出る日もあれば執務室に篭る日もある)、三日は国営道場で兵士に剣を教え、残りの二日は休みという生活を送っている。
そんないつも通りの生活がしばらく続いたある日、事件が起こった。
ユーコーの母、フミリエ・トクホルムの小指が千切れ飛んだのだ。
カシロウはその日、以前に氾濫した河川の改修工事に出ていたが、その日の作業が終わった直後、現場に飛び込んできたハルの報せでその事を知った。
一体何があったとハルに尋ねても明確な答えは得られず、兎にも角にも急ぎ戻ろうとハルを従え城下を走り、魔王城自室のリビングに飛び込んだ。
「義母上! ご無事ですか!?」
「あら、カシロウさん。今日は早かったのね」
ケロっとすまし顔のフミリエに拍子抜けしたカシロウが、汗を拭って聞いた。
「ハルからは小指が飛んだと聞きましたが……」
「そうなのよ。急に千切れて飛んじゃったから、ワタシびっくりしちゃった!」
生来呑気な性格の義母では埒が開かんと、ヨウジロウを抱くユーコーへと目をやる。
「ぐずるヨウジロウをあやしてくれてたんですけど、私が目を離した間に「あいたっ!」て声が聞こえて慌てて戻ったら……」
そこまで言って、ユーコーがリビングの壁を指差した。
指先を追って視線を動かすと、壁に点々と赤い染みの跡が。
「……一体何があったんです?」
「……さぁ? ホント分かんないのよ。慌ててヨウジロウちゃん取り落す所だったから、原因なんて調べる余裕もなかったの」
「そうですか……。それで怪我の具合は?」
左手を開いてカシロウへと向けるフミリエ。
「まぁ千切れちゃったもんは戻んないけど、ハルさんが一級の治癒術士さんを呼んでくれたから、もう痛くもなんともないわ」
なんと言っても城内における怪我だったのが幸いだった。
このフミリエ・トクホルム、今では城外に住んでいるが、二日と開けず孫の顔を見に日参している孫バカ。
こう見えて魔王リストル幼少期の家庭教師を務めた才女である。
早くに母を亡くしたリストルが二人目の母とも慕うフミリエ。
そのフミリエが怪我をしたと聞けば、国内トップクラスである王城詰めの治癒術士が駆けつけるのは当然の事であった。
「もちろんワタシもヨウジロウちゃんも刃物なんて持ってませんよ」
「部屋中確認したんすが、これと言って怪しいものは見つかりやせんでした」
フミリエの言葉を裏付けるようにハルがそう言って寄越したが、フミリエの千切れ飛んだ指を確認してみても、綺麗に治癒されており切断面からの検証も難しかった。
飛んだ血痕のやや上部、壁に小さな刀疵がついていた事に、如何に剣術の達人であるカシロウとて気付く事は出来なかった。