116「あむあむと食む」
「ならハコロク殿か? 柿渋の正体を知ってる……いや、実は三人目の柿渋だったりしてな」
「それは流石に……」
「ないと言い切れるか?」
いつになく凄むタロウに、僅かに怯んだカシロウが気付く。
「あ! いつの間に! お主はヨウジロウと同い年だろう!?」
知らぬ間にタロウは、カシロウの目を盗んで酒を舐めていた。
徳利で丸々一本ほど。
「何を言うか。儂は貴様と同い年のトータル六十、酒は呑んでも呑まれはせぬわ!」
「……いや、明らかに呑まれてるぞ」
タロウはカウンターに突っ伏して、一つもカシロウを見る事なくそう宣っていた。
しかしそれでもタロウは言う。
「儂は酒に呑まれたのかもせぬ! しかし! わわわわ儂のしししし親友が悩んでおるのだ! 力になれんでどどどどうするか――」
そう言うや否や、タロウは鼾をかき始めてしまったが、カシロウの心は少し、ジンワリと暖かくなった。
眠ったタロウの横で暫し、カシロウはヒルスタの美味を肴に一人盃を舐めた。
そして徳利一本だけを空け勘定を済ませ、タロウを負ぶってお宿エアラへと歩く。
繁華な城下南町ではまだまだ人出があるが、とっぷり暮れて日没から一刻半程と言ったところ。
しかしこんな夜半にオーヤ嬢に出会した。
「あらヤマオ様。タロさんと二人で夕食ですか?」
「ええ、たまには構わぬとヘソを曲げますから。オーヤ嬢はこんな夜分にどちらへ?」
「天狗様の所へ。まだ戻ってはおられませんでしたけど」
ハルとの未来しか要らぬと言ったオーヤではあるが、さすがに失われた記憶への興味もあるらしい。
「そう言えばオーヤ嬢」
「なんですか?」
「かつて習った忍術に、体型を変える術はありましたか?」
カシロウが思考の中で気にかかった事の二つ目がそれ。
「太から細だと私には難しいですけど、ありますわよ?」
「私には?」
「ええ。だって私、太った事がありませんから訓練のしようがありませんの」
仮にオーヤ嬢が太ったならば、ある程度細く化ける事は出来るだろうと言う。
太って見せるのは衣装に細工するらしいが、細く見せるには帯で体を締め付けるそうで、こちらはちゃんと訓練が必要だと。
「…………ありがとう。参考になった」
「どういたしまして。では」
ペコリと頭を下げたオーヤ嬢は、フワリと跳び上がって姿を消した。
用心のために屋根の上を行ったのであろうと、カシロウは再びお宿エアラ目指して歩き始めた。
戸を叩き、タロウをエアラへと託して歩み去る。
しかしカシロウはぼんやりと、真っ直ぐ王城を目指さずに再び東へと歩を向けていた。
タロウのせいで思ったほどにはヒルスタで食えなかったと、どことなく腹が寂しいカシロウはほぼ無意識に蕎麦屋を目指して歩いていた。
その間も、タロウに言われた事もオーヤから聞いた話も勘案し、頭の中はぐるぐると回っている。
――天狗がハコロクを連れてきた日のこと。
――長身の柿渋を斬った日のこと。
――辻斬りダナンを斬った日のこと。
――イチロワと戦い、そしてクィントラをバラバラに斬り裂いた日のこと。
――リストルを失った日のこと。
それら色々が綯い交ぜにぐるぐると頭を駆け回り、蕎麦屋の暖簾を潜る頃、カシロウの表情にはなぜか、どこか怪しい笑みが浮かんでいた。
「あ、これはヤマオ様。珍しいですね、こんな夜分に」
「珍しく呑んできたのでな。ここの蕎麦で締めようかとな」
盛りを一枚頼んで待つ。
店の中はそれなりに客もいて活気もある。
カシロウの様にすでに呑んだ者たちも多いらしい。
速やかに給仕された蕎麦を箸で手繰り、口へ運び、あむあむと食む。
あむあむと。
あむあむあむあむと。
「……うん、美味い――」
「かーっ! 美味い訳あるけぇー!」
どうやらカシロウの呟きに対して上げられたらしい大声が店内に響き渡った。
声の主の方へとカシロウが視線を移すと、箸と蕎麦つゆ碗を手にした大男。
「蕎麦ってぇのはさ、こうやって食うんだよ!」
男はそう言うと、惚れ惚れする程の見事な啜りっぷりでズルズルズゾゾと蕎麦を啜ってみせた。
「こうやって食わなきゃ旨くねぇんだよ。おたく下天のチョンマゲだろう? あんなアムアムみっともねぇったらねぇよ」
呆れたような素振りでそう言う男に対し、ゆったりと箸と碗を置いたカシロウが立ち上がる。
右掌を開いて男に向けたカシロウは、悠然と、冷たく冷え切った視線と共に腰の兼定の鯉口を切る。
「――殺すか」
なんでもない事のようにそう言い、同時にカシロウは店内の客の全てに向けて殺気を放った。
今のカシロウの剣の腕ならば、瞬き二つほどの間にこの場の全ての命を葬り去ることが出来る。
獅子の檻に放り込まれた兎のように、全ての客が冷や汗と共に動きを止めた。
しかし唯一人、幸いなことに、その殺気を跳ね返した男がいた。
「なぁおい、そこまでにしろ。その剣、抜いてくれるなよ」
「――お前……戻ってたのか?」
「ついさっきな。ってそんな事は良いのよ。とにかく座って蕎麦をあむあむ食いやがれ」
男の言う通り、カシロウは椅子に腰を下ろしたが、大人しく蕎麦を食む気はさすがにせずに、黙って男に視線を投げた。
しかし男はどこ吹く風。
「皆の衆! 言って良いことと言っちゃならん事がある! 分かるな!? 分かれば黙って蕎麦を食いやがれ!」
男は遊ばせた前髪を指で弾き、やや大袈裟な身振りとともにそう言った。
店内の張り詰めた空気が幾らか解れはしたが、見事に蕎麦を啜った大男、彼だけは立ち直っていなかった。
信じられないほどの汗と顔面蒼白、か細い呼吸と震える手。
その手から蕎麦つゆ碗が滑り落ち、ガシャンと床で割れて砕けた。
「ちっ、ほんと面倒な事しやがって」
男はチラリとカシロウへ視線をやってそう呟き、震える大男へと駆け寄った。
手際良く大男を座敷に運び、治癒魔術も使ってテキパキと介抱し始めた。
そんなやり取りを尻目に、カシロウは再び思考へ潜る。
――いま、私は何をしようと……?
――そんな些細なことで、魔王国の民を叩き斬ろうと……?
――それではまるで私は、ダナン殿と変わらぬではないか……。




