移動速度について ~わしをもっと褒めてくれてもよいのじゃ!~
かかかっ! わしじゃ! わし! わし!
むむっ!? わしが誰か、だって!?
ばっかもーん!
わしと言えば、わししかおらんじゃろ!!
関白じゃ!
か・ん・ぱ・く!
豊臣秀吉じゃ!!
今回は「移動速度」がテーマというから、わしが特別に登場してやったという訳じゃ!
では、早速いくとしようかのう。
おいっ! 佐吉!
あとは頼んだ!
……御意にございます。
ということで、佐吉こと石田三成より、「戦国時代の移動速度」についてご紹介させていただければと思います。
よろしくお願い申し上げます。
さて、「速度」のお話をする前に「手段」についてお話をするとしましょう。
戦国時代の主な移動手段は以下の三つでした。
(1)船
(2)馬
(3)徒歩
厳密に言えば「駕籠」や「牛」なんてもありますが、まあこの際、無視して構わないでしょう。
では、それぞれどれくらいの速度だったのでしょうか。
順番に見ていくことにいたしましょう。
◇◇
(1)船
様々な種類があり、航路や風の影響などで大きな差異がありましょう。
そこで、実際の行軍を例にとって、速度の感覚を掴んでみることにいたしましょう。
例に挙げるのは「文禄の役」と呼ばれる、殿の暴挙……失礼。
殿の号令により日本から朝鮮へ攻め込んだ際のことです。
日本軍一番隊は、下記の日程で行軍いたしました。
4月12日 午前8時 対馬 出発
4月12日 午後2時 釜山 到着
つまり「対馬」~「釜山」をおよそ「6時間」で移動したことになります。
港の位置や航路にもよるとは思いますが、地図で二点を最短距離で結ぶと、「約60km」となります。
この距離を「6時間」で渡ったのですから、「時速10km」(5.4ノット)程度で移動したことになりますね。
なお、大坂~江戸の海運では、沿岸航法と呼ばれる陸沿いに進む航路で、およそ1カ月もかかったそうです。
(2)馬
こちらも例をとって見てみましょう。
もっとも速度を必要とするのは「早馬」とか「伝令」と呼ばれるもので、いわゆる連絡係です。
戦況を遠く離れた大将に届けなければならないとなると、それはもう一刻の猶予も許されません。
そこでこの時代では最も速い移動手段とされる「馬」が使われました。
あまり乗り気ではないのですが、憎き徳川家康を例といたします。
私と彼の一大決戦である関ヶ原の合戦。
その発端とも言える、西軍の伏見城攻撃が始まると、城代である鳥居元忠は、小山にいる家康に向けて伝令を飛ばします。
つまり「京都」~「栃木」を、馬を使って移動した訳です。
距離にして「600km」。
それを「6日間」で走破しました。
つまり1日100kmもの距離を移動したことになります。
なお、この頃は既に「伝馬」と呼ばれる、馬の乗り換えの制度が整備されておりましたから、決して一頭の馬だけで移動した訳ではありません。
(3)徒歩
だぁ! ようやくこの時がきおったか!
徒歩での速度を語るんじゃったら、わしを抜きにしては語れんじゃろ!!
なんと言うても、「中国大返し」じゃ!
備中高松城から京山崎までの、約200kmを……。
な、な、なんと!
わずか10日間で行軍したのじゃ!!
すごいじゃろ!?
すごいじゃろ!?
もっとわしを褒めてよいのじゃぞ!
……ん? お馬さんなら1日100kmも進めるから、1日20kmだったら大したことないのではないか……じゃと……?
ばっかもーーーーん!!
だぁ! なーんもわかっとらんのう!!
考えてもみろ!!
重い甲冑を着て、片手には武器も持って、1日20kmを10日間も連続で走ってみろ!!
まったく動けんぞ!
もう、足がパンパンになって、まったく動けなくなっちまうじゃろが!!
それをわしの兵は疲労困憊の体に鞭を打って、明智軍に対して見事な勝利をおさめたのじゃぞ!
どんだけすごいことかよう分かるじゃろ!!
ええ、殿。ほんとうに素晴らしいです!
かの憎き徳川なんて、へなちょこでしたから。
殿の真似をしようとした徳川秀忠が、大坂の陣の際に江戸から伏見までの500kmを約17日間で行軍したそうです。
一日にして約30km。
しかし肝心の戦になったら、みな足がガクガクしてしまって、まったく戦えなかったというではありませんか(笑)
やはり豊臣と徳川とでは比べ物になりません。
そうじゃろ! そうじゃろ!
かかかっ! もっと褒めておくれー!!
◇◇
なお太閤はこの後も柴田勝家との決戦である賤ヶ岳の戦いで「美濃大返し」なる強行軍を実施いたしました。
なんと52kmを5時間で走らせたそうです。
さらに間髪入れず猛将の佐久間盛政の軍勢に襲いかかり、完膚なきまで叩きのめしました。
マラソン選手が42.195kmを約2時間ちょっとかけて走る訳ですから、アスリートでもない普通の兵が同等以上の距離を5時間で走破して、なおかつ戦場で活躍したというのは、まさに『化け物』と言っても過言ではありません。
※秀吉の兵たちは軽装で駆けて、到着した先で装備を整えたそうです
そして先ほど三成さんに小馬鹿にされてしまった徳川さんですが、なんと言っても「神君伊賀越え」という「超逃避行」を成し遂げております。
甲冑を着用していないのではないかと思われますが、その距離なんと「210km」以上!
しかも平坦ではなく、山あり谷ありの、険しい道のりです。
それを、(諸説ありますが)およそ3~4日ほどで走破したそうです。
山登りありで「1日70km」を「3日連続」で……。
そりゃあ、
「死ぬかと思った……」
とおっしゃるのもうなずけますよね。
ちなみに少し後の時代にはなりますが、江戸時代で庶民の間で流行した「お伊勢参り」では江戸から伊勢までを25日間かけて往復したそうです。
距離にして往復で1,000kmですから、1日あたり40kmほどを25日連続で歩いたことになります。
まさにアスリートですね。
このように「自動車」「飛行機」「電車」などが存在する現代とは大きく異なり、「移動」は非常に難儀でした。
そしてそれは「情報の伝達速度」も同様となります。
例えば九州で起きた反乱や戦の状況を、江戸で知るには、およそ一カ月程度かかると考えてもよい訳です。
この状況は明治維新が起こり、「電信」が発達するまでは大きく変わりません。
家康を恐れた秀吉が、東海から関東へ家康の領地を変えさせた理由は、もしかしたら「情報の伝達を少しでも遅らせるため」だったのかもしれませんね。
これらを頭に置いて、大将たちが「今どんな情報を持っているのか」を想像しながら小説を読むと、さらに深みが増すと思います!