第九話 友達になろう
「それが答え、か」
相変わらずの文芸部室。据えた本と、コーヒーの香りが漂い、チープなジャズが流れる、僕にとってはこの上なく落ち着くことの出来る場所だ。
本来ならば、この場にいるのは部長たる僕と、副部長にして恋人の実代の二人の筈なのだが、今日は少々面子が違う。
眼前でコーヒーを啜るのは、生徒会長であり、実代に恋をしている男。銀縁眼鏡が妙に似合う、落ち着いた風貌の不破だった。
「ああ。一度は承諾しておいて、しかもたった二日で反故にするのも悪いけどね」
僕がそう言うと、不破は苦笑して手をひらひらと振った。
「いやいや。そんなものだろう。失って初めて気付くのが、大事なモノさ。失う前に気付けた君は、僥倖だ」
あまりに穏やかに不破は、僕の反故を許した。わけがわからずに狼狽える僕を、不破はおかしそうに笑う。
「君たちは、生半可な気持ちで交際に至った。これは事実だと思うがね。結果、お互いを失いたくないと思うようになった。否、なっていたというほうがいいか。どちらにしろ、雪吹実代という女性は鷹成誠二のものだと、言えるようになった。そこに戯れの気持ちがあるとは思えない。きっかけがあろうことか自分自身だとも思いたくはないが、まあ、雪吹さんの幸せを願う身としては、万々歳さ」
「万々歳なはずないだろう。不幸にしてでも、奪いたいと言っていただろう?」
「不幸を願うわけではないさ。幸せなのが一番に決まっている。悔しいとも思うし、今からでも、と思わないでもないが、男が交わした約束を、舌の根が乾かぬうちに違えるのは、君の本意ではなかったはずだ。だが、それをしたということは、それだけ君たちが、君たちの思っている以上に強い絆で結ばれていたと言うことだろう。正直、道化を演じた気分……否、まさしく道化だな」
そう言って笑う不破の笑顔は、やはり本物だった。それだけに辛い。
「僕からこういうのもおかしいけど、不破のおかげだと思う。まだ恋愛がどんなものなのかって、はっきりとはわかってないけど、少なくとも、僕と実代は本当の恋人になれた気がするんだ」
礼にもならない。さらに苦しめるだけの言葉なのかもしれない。けれど、これはけじめだと思った。本音で語った不破に対して、僕が本音を語らないというのはおかしい気がした。ありがとうとは流石に言えないが、せめて、目の前の男が単なる道化ではなかったことを伝えたかった。
「君たちは、恋人だよ。僕はそれを認めて、許せる」
それだけ言うと、不破は満足そうに頷いて、コーヒーを啜った。
苦い顔をしたのは、コーヒーの所為だけではなかったのだろうと、思う。
結局、僕と実代に目立った変化などはない。
実代が恋とは面倒なものだと言い放ったものだから、てっきり恋愛感情を知ることができたのかと思ったが、その辺りは本人にもよくわかっておらず、彼女の言葉を借りるならば、こうらしい。
「別れを切り出された瞬間、強く嫌だと感じた。離れたくない、とな。別に恋人同士でなくとも、部室に来れば嫌が応でも顔を合わせるというのに、あのときは離れてしまうと真剣に危惧した。これが恋なのならば、本当に面倒臭いものだ」
僕が考えるに、どうやら恋愛感情とは、ひとつのものではないようだ。
実代が感じたのは、失うことへの焦りや、悲しさだ。それが恋愛感情だと定義するにはあまりに単純すぎる。
しかし、それが恋愛感情が生み出したものならば。或いは、恋愛感情の一つであったならば。僕たちは、答えに近づいているということになる。
「帰りに本屋に寄りたいのだけど、付き合って貰えないだろうか」
昼休みに、クラスメイトと弁当を食べていると、突然不破が僕の所にやってきた。
実代と別れ話をして、すぐに仲直りしたのが三日前。不破とそのことについて話したのが一昨日になるから、当然ながら僕は訝しんだ。
腹いせに文芸部を潰そうとするような男でないことはわかっている。しかし、だとすれば不破の行動はどういう理由から来るものなのだろうか。
「部活があるんだけど」
僕がとりあえずそう答えると、不破は実代ばりの不敵な笑みを見せて、眼鏡を人差し指で整えた。
「サボって咎められる部活でもあるまい。なに、雪吹さんには既に了承済みさ」
嫌に用意周到な誘いである。たかが本屋に寄るためだけにそこまで手回しをするとなると、ますますもって怪しい。
「おっと、勘違いしてくれるな。僕は別に、雪吹さんと君を引き裂こうとするつもりは毛ほどもないんだ。そんなことをしては、僕が雪吹さんに嫌われるだけさ。よもや、好きこのんで想い人に嫌われる真似はするまい」
「やっぱり、まだ好きなんだ?」
「そう簡単に消える想いなら、あのような行動には出ないさ」
不破はやけに明るく笑い、あまつさえ僕の肩に手を置いた。その親しげな態度がいっそう僕を怪訝な表情にさせるのだが、不破は知ってか知らずか、お構いなしに話しかけてくる。
「折角の縁なんだ。こうなった以上、お互いの禍根を流して、友達になろうというのが僕の考えだ。雪吹さんさえいなければ、僕たちはきっと、とてもいい友達になれると思ったものでね。ならば、僕たちの間に雪吹さんという存在を挟まずとも成立する絆を作ってしまえばいい。さしあたって、お互いに読書を趣味としているようだし、本屋という線は悪くないと思ったのだが」
ここまでダイレクトに「友達になろう」と誘われたのははじめてである。
確かに、不破は気性や性格をみれば、友達として過不足なくやっていけそうである。基本的にこのような手合いと仲良くなれるのは、実代で証明済みだ。
「まあ、いいけどさ。ただ、友達ってさ、なろうとしてなるものじゃないと思うんだけど」
「恋人も然りさ」
そう言われてしまうと、身も蓋もなかった。
実代にメールで確認したところ、不破がわざわざ実代に了解を得たのは本当らしい。放課後の予定を半ば強引に奪われてしまった僕は、不破と帰ることになった。
「しかし、快諾してくれるとは思わなかったよ。雪吹さんと一緒にいることを優先すると思っていたからね」
「毎日一緒だし、たまにはいいよ。それに、強引な手段を使ってまでお膳立てされたんじゃ、断るのも気が引けるしね」
別に実代と毎日いることが苦痛とはちっとも思わないが、実代と毎日一緒じゃないと気が済まないというわけでもない。
「まあ、強引だったことは認めるよ。ただ、折角気の合いそうな男がいるのに、単なる恋敵で終わるのも勿体ない。君にとっては、少々会いたくない人間かもしれないが」
プラス思考とでも言うのだろうか。きっと不破は、敵を作りながらではなく、味方を増やしながら生徒会長になり、精力的に活動してきたのだろう。
「会いたくないわけじゃないさ。どういう顔で会えばいいのかとは思うけど」
「ならば、今までのことはお互いの意志のもとの行動ということで、全てを水に流すというのはどうだろうか。僕は君と雪吹さんの関係を妬んだりしない。君は、僕に遠慮や気遣いをしない。先にも言ったが、そういう面倒なことを全てうっちゃってしまえば、きっと僕たちは仲良くなれる」
不破がそれでいいのならば、敢えて僕からは何も言うまい。
本屋に到着するなり、不破と僕はお互いの好きな作家を並べあい、その微妙なズレと合致を楽しんだ。
「外国人作家の台詞を流用していたから、てっきりそっちがメインかと思っていたが、そうでもないんだね」
「当然だろう。僕は日本人で、日本の文化に染まっている。同じ文化を共有している人間が書いた文章を嫌う道理はない」
「でも、ライトノベルまで好きだとは思っていなかったよ。僕は、そっちはあまりわからないんだけど」
「年相応の読み物だとは思うがね。得てして、文章や構成、ストーリーに難があると思われがちだが、冒険活劇などになると、多少なりシンプルなほうが映えることもある。すべての本がそうだとも思わないが、それはライトノベルに限ったことでもないだろう?」
不破はその役職としては当然ながら、喋るのが上手い。薦められるがままに僕は三冊ほどのライトノベルを購入することになった。
「この作者はとても良いよ。外連味に溢れているのに、嫌らしさがない。むしろ、それが何よりの味になっている」
「ふむ。ならば、一冊読んでみようか。君が持っていない作品はあるか?」
不破は僕が指さした本をすぐに手に取り、懐に抱えた。
「気に入ったら、君の持っている本も借りてみよう。勿論、僕がこれを読破すれば、君に貸すよ」
「いい案だね」
実代とも繰り返したことだが、不破と実代と僕は、みんな少しずつ趣味が違う。友達が増えて、まさか読める本の種類まで増えるとは思っていなかった。特に、不破の好むライトノベルは図書館にも置いていないので、試してみようにも手が出にくかったのだ。
僕たちはそれからしばらく本屋をうろつき、いざレジに並ぼうとしたところで、平積みになっている一冊の文庫本に目がとまった。
『恋』
表紙にはいい加減な水彩画でぼんやりと、二人の男女が手を繋いでいる様子が描かれている。たった一文字のタイトルは、隅の方にちょこんと表記されていて、一見するとそれがタイトルなのか解らない。
それでも、僕が一目でタイトルだとわかったのは、その表紙を幾度となく眺めたことがあるからだった。
「これが、君と雪吹さんの縁か」
おそらく、吉野先生から聞いたのだろう。不破は神妙な面持ちで『恋』をじっと眺めていた。僕は頷いて、不破と一緒にその文庫本を眺めた。
僕と実代が付き合うことになった理由。それがこの『恋』だ。あまりにストレートなタイトルは、この作品の本質であると同時に、一種の伏線となっている。そこに描かれているのは、確かにとある高校生の恋物語であるが、その他にも、友情や、進路や、様々な悩みなど、高校生らしい複雑な感情が鮮やかな文体で綴られている。
幾度、読み返しただろうか。今までで一番多く読んだ本なのかもしれない。
恋という感情を知りたかった。知らなければならないという義務感よりも、知りたいという欲求のほうが強くなっていた。
そして、つい最近まで既に掴みかけていることに気付かないでいた。
全ては、この一冊の本から始まったのだ。
「本から恋をみつけた、とでも言うのだろうか」
不破は少しおどけた調子で言った。
なるほどと思いながらも、その言い回しに少しだけ、齟齬を感じる。
少しだけ違う。そう、実代の様子がおかしかったときのような、ほんの僅かな違和感だ。 僕たちは、本から恋をみつけたわけじゃない。
「本からみつける恋の文字、と言うほうが正しいかな」
ふと、背後から聞き慣れた声がかかり、僕と不破は同時に振り返った。誰であるかなど、今更言うべくもないだろう。
微かな違和感を打ち消す、その凜とした声の響きが耳に心地良かった。
「……言い得て妙と思ったのだが?」
不破が少しだけ肩を竦めて文庫本を手に取った。実代は答える気がないのだろう。少し挑戦的な目で、僕を見るだけで何も言わない。
僕に、答えさせたいのだろう。大丈夫だ。不破の言葉に覚えた違和感は、実代が消してくれた。その差は、たった一つだ。
「僕と実代は、恋愛感情を本からみつけたわけじゃない。あくまで、恋という文字だけだよ。この本はきっかけに過ぎない。僕たち自身の行動や、不破という存在がなければ、未だに文字でしか認識できていなかった」
僕の説明に、不破は納得したように頷き、実代は「我が意を得たり」とでも言いたげに頷いた。
「ついでに言えば、この表紙のタイトルがどこにあるのか探すのに手間取らないほど、熟読したというところにも掛けている。表紙通り、恋をみつけるのは、中々に難しかった」
からからと笑う実代に、不破は苦笑した。そして、手に取った『恋』をそのまま懐に抱えて、レジへと並ぶ。
「不破?」
「今更、僕は本から恋という文字はみつけない――否、みつけられない。既に知っているものを、改めて発見するというのは存外に難しいものだからな」
不破の表情に、曇りはなかった。むしろ、いつになくすっきりとした表情だった。
「ただし、知っているつもりで、知らなかったものを、みつけることはできるかもしれない。みつけたものが文字だとしても、君たちのように、そこから本物にたどり着けるかもしれない」
不破はそれだけ言って、会計を済ませるために僕たちに背を向けた。
僕が続いて並んだときには、手早く済ませたのだろう。不破はすたすたと歩き出していた。
「今日は楽しかった。雪吹さん、鷹成を借りてすまなかった。心配だったのか、会いたくなっただけなのかは知らないが、僕はこれで失礼するよ。また明日、学校で」
最後に振り向き、それだけを言い残して不破は先に行ってしまった。僕と実代は目を見合わせてから、しばらく不破の後ろ姿を見送った。
「それで、どうして来たの。本屋に寄るって言ったから、まさか偶然じゃないよね」
「なに。不破の言ったとおりだ。今日はほとんど会っていなかったから、誠二の顔を見たくなってな」
果たして、本気なのか、冗談なのか。実代のことは大抵わかるのだが、今回は判別し難い。きっと、実代もよくわかっていないのだろう。それが恋の欠片だということを、僕は知っている。
「……ところで、不破も律儀だな。あの本なら、誠二も私も持っているのに、わざわざ買うとは。貸してくれの一言ぐらい、あってもいいものを。本の貸し借りはしない主義か」
実代が不思議そうに首をかしげた。なるほど、それは実代にはわからないらしい。僕はすぐにわかった。
「不破のけじめだよ。僕と実代が持っている本をわざわざ買うことで、僕たちの『恋』には手を出さないって伝えたんだ。貸し借りは、別の本で約束したしね。たぶん、実代への想いにも、けじめをつけたんじゃないかな」
相変わらず、不器用だと思う。けど、それと同じくらい小粋なメッセージだとも思う。
「なるほど、説明されるまで気付かなかった。男の友情に言葉はいらないものなのだな」
実代の言葉に、逆に僕がひとつ気付いた。僕はもしかして、かなり鈍感なのだろうか。
不破。僕たちはもう、友達になれたみたいだよ。
心の中でそれだけ呟いて、僕は実代の手を取り、いつも通りの帰路へと向かった。
今回の話で誠二が不破に薦めた作家は、私の目標であり、誰よりも敬愛する浅田次郎氏という設定です。
日本語の真髄と、コメディの楽しさと難しさ。そして何よりも小説の素晴らしさを教えてくれた憧れの作家です。
是非、読んでいただければと思います。