第八話 別れ話をしよう
吹雪実代という女性と交際して、三週間。
その期間が長かったのか、短かったのかはわからない。ただ、そのひとときが僕にとって有意義だったことに変わりはない。
できることならば、もっと彼女とままごとを続けていたかった。
だけど。
「誠二……もう、喧嘩は経験した。意趣返しならば、受けて立つが?」
僕の「別れよう」という言葉に、実代はいつものように不敵な笑みで返した。
相変わらずの文芸部室。昨日のようにロッカーに隠れたりせずに、ちゃんとソファに座って実代を待った。きちんと、別れるために。
実代は少し考えた様子の後に、ふと顔を上げた。
「……確かに、別れ話というのは未だに体験していなかった。ある意味、これも恋人らしいことなのかもしれないな」
なるほど、僕の言葉を「恋愛らしいこと」の一環と捉えたらしい。実代は幾度も頷いて、「それは考えつかなかった」と呟いた。
「流石に喧嘩で出尽くしたと思っていたが、まだあったのだな。しかし、いいのか。これをすると、その、終わってしまうのだが?」
実代はやや腑に落ちない様子で、僕を見ていた。当然だろう。僕たちはまだ、恋がどんな感情であるのかなど、全然理解できてなどいないのだ。今、終わってしまえば、感想文を書くことはできない。
「終わらせようって、言ってるんだ」
それでも、その言葉が口からすんなりと出たのは、昨晩から自らを洗脳するかのように、何度も練習したからだろう。
「……なるほど、恋愛を知るための一環ではなく、誠二がそう決めたということか」
実代はやはり、とても頭が良い。僕の少ない言葉で、すぐに理解してくれた。そして、彼女のことだ。理由も聞かずに、頷いてくれるのだろう。
僕たちはずっとそうだった。お互いのプライベートに深く関わることはせずに、ただずっと、本という世界だけで繋がっていた。だからこそ、穏やかな時間を共有することもできたのだし、その関係を快く思っている。
ただ、それだけの繋がりで、恋人と名乗るのは烏滸がましいことだった。恋がどんなものかなんてわからないけど、恋をしている人間の気持ちに触れてしまった。あの真っ直ぐな想いの前で、僕は実代と手を繋ぐ勇気が持てなかった。
「他に、好きな人でもできたのか。それならば、是非その気持ちを感想文に活かしてもらいたいが」
実代が再びにやりと笑んで、僕を見た。少しだけ、呆気にとられる。
そんなことを聞かれるなどと、夢にも思っていなかった。
「違うよ。別に、そういうわけじゃない。僕は、相変わらずさ」
辛うじてそう呟いて、微かに覚えた違和感をじっくりと見つめ直した。
何かが、少しだけ違う。そう、非常に小さな違和感だけど、それをはっきりと感じることができる。
「……つまり、それは文芸部を廃部にするということか?」
実代は少しだけ眉をひそめて、僕を真っ直ぐと見据えた。微かに怒気を孕んだ瞳に、僕は少しだけ安心した。
「そのつもりはないよ。存続はさせるさ」
僕の言葉に実代は満足そうに頷いた。確かに不破の気持ちに対して、僕たちの関係があまりにも許せないものだが、それと同じくらい、僕たちも文芸部が無くなることは許せない。
僕だって色々と考えた。不破が生徒会長なのだから、いっそ交換条件で文芸部を存続させてもらうよう頼んでみようかとも思った。だけど、それは実代を生け贄に捧げるようなものだ。不破もいい顔をしないだろう。
ならば、どうするか。恋愛感情とは違うが、実代との交際で得たものはあった。心地よい時間と、ただ、幸せだとしか表現できない安寧。課題の主題からは外れるが、自らの感情と、作品の主人公の感情の比較などを書くのが良いだろう。これならば、単なる「感動した」という旨を記した、茶を濁すような類の感想文にはならないし、オリジナリティだけならば抜群だ。
「……嫌だと、言えばどうする?」
僕が少し考えている間に、実代は元の笑みに戻り、ゆっくりと問いかけた。
まただ。また、違和感を覚えた。さっきよりも、強く。
今度はどこがおかしいのか、はっきりとわかった気がする。今まででは、絶対になかったことが、起きているのだ。
何故、実代はこんなに食いついてくるのだろうか。
僕たちは決して同じ人間ではない。そりゃそうだろう。鷹成誠二と、雪吹実代。名前からして違う。生まれた年は一緒だけど、血液型も誕生日も違う。ましてや、性別すら違うのだ。同じであるはずがない。
しかし、それでも僕と実代は同じだった。つまり、性格や考え方、趣味などが。
お互いの考えていることが大体わかったし、予想外の行動に相手が出たとしても、結局は「実代らしいね」「誠二ならば、それもありか」という感想に至る範疇だった。実代が交際を提案してきたときでさえ、僕はさして焦りはしなかった。
知り合って一年間。最初の半年はお互いをほとんど知らなかったとはいえ、沈黙の中でさえ、お互いに同類だと感じていたほどなのだ。少なくとも、違和感という言葉は、僕と実代のストーリーには存在しなかった。
それが、ここにきて不意に頭をもたげた。一体、何故だろうか。何故、実代は黙って頷かないのだろうか。今までの彼女ならば、そうしてくれたはずだ。立場が逆ならば、僕だってそうした。それでこそ、僕たちらしい関係だったはずなのに。
何故、実代は、僕の言葉に頷かないのだろうか。
「私は、誠二と交際していて楽しい。恋愛感情を知るためだということを、忘れるほどにな。無論、文芸部を存続させたいとは思うし、そのためのことだというのも重々承知しているが、何でもない日が楽しみだと思える幸せを、私は知らなかった。終わらせるには、あまりにも惜しい」
僕が深く考え込んでいると、実代はふっと頬を緩めて、穏やかに語り始めた。
「私といることが苦痛ならば、引き留めはしない。正直なところ、その線は無いというのが見解だが」
「うん。苦痛どころか、僕も楽しいと思っている」
「だろうな。ならばこそ、わからない」
実代は苦笑して、コーヒーを啜る。そして、ゆっくりと目を閉じて、大きく息を吐いた。
その仕草が、やりきれない様子というよりも、面倒臭いといった様子であることがわかるあたり、僕はもう実代マニアと呼べる状態なのかもしれない。
否、今はまだ恋人だ。恋人だから、ということにしておこう。次に続く言葉が僕を脅かすことすら理解できてしまうのは、僕たちが仲睦まじい恋人だからだ。
そう、信じたかった。
「あの、不破という生徒会長の差し金か」
実代が「あまり考えたくはなかったが」という顔で言った。
「決めたのは、僕の意志だけどね」
僕はすかさず、用意していた言葉を返す。実代のことだから、不破の存在が僕に別れ話をさせていることぐらい、見抜くと踏んでいたのだ。もしかしたら、先日ロッカーに潜んでいたことすら、実代なら気付きかねない。
「不破と付き合えなんて言わないけどね。少なくとも、彼の気持ちは本物だった。真剣に実代を好いている人がいて、僕はその前で実代と手を繋ぐことは、できないよ」
「……誠二、らしいよ。まったくもって」
実代は肩を竦めて見せると、すっくと立ち上がった。真っ直ぐに僕を見据えて、つかつかと目の前にやってくる。
「立ってくれないか?」
「え……あ、ああ」
一発殴られる覚悟はしてきた。流石の実代ももう少し怒るだろうと思っていたので、少々拍子抜けしただけだ。
僕が立ち上がると、まず一発。ぺしっと軽く、頬を叩かれた。ちっとも痛くない。
「実代?」
「これが答えだ、馬鹿」
馬鹿はひどいだろうと、抗議しようと思ったときには、僕の唇は実代にふさがれていた。
肩をぐっと握られて、そのままソファに押し倒される。思いがけない強い力に、抗うことすら忘れて、僕たちは今までで一番長いキスを交わした。
「真剣な不破よりも、ぼんやりとした誠二の気持ちのほうが、私にとって嬉しい。そんな簡単なことすら、誠二はわかっていない」
「けど、不破は本気なんだ。多分、実代が思っているよりずっと、ずっと真剣で」
「ならば、世の中のストーカーと呼ばれる人間は、歪んだ形であれど、これ以上ないほどに真剣だろうに。真剣か否かで恋愛をする資格が問われるならば、そもそも私たちは交際してはいけなかった。そうだろう?」
返す言葉がなかった。ぽかんと開いた口が、再び実代に塞がれる。
どうしてだろうか。別れを決意したはずなのに、実代とキスをしていると、それが段々と馬鹿げたことのように思えてくる。確かに不破の気持ちには申し訳ないが、それでもなお、僕は実代のキスを拒む気が失せていった。
「……恋とは、素晴らしいと聞いたが、ちっともそうじゃない。こんなに面倒なものだったとはな」
どこかやりきれない表情の実代がぼそりと呟くのを聞いて、僕はようやく、実代をぎゅっと抱きしめた。そして、その温もりと存在感を感じたときに、不意に目から涙がこぼれた。
「……ほんと、厄介なものだね」
僕たちは恋を知らない。
けど、もしもその前提が間違っていたのならば。
ずっと前から、僕たちはお互いに恋をしていて、それに気付いていないだけなのだったら。
そうだったら、それこそ三流小説だと自嘲しながら、僕はずっと実代を抱きしめ続けた。
少し更新が遅れ、申し訳ありませんでした。