第七話 恋を知ろう
せつなる恋の心は尊きこと神のごとし
樋口一葉
不破。確か名前は俊彦だったろうか。
我が校の生徒会長であり、同学年。同じクラスになったことがないし、面識もないので彼を詳しくは知らないが、いかにも生徒会長らしい生徒会長、というのが僕の感想だった。
銀縁眼鏡が似合う、端正な顔立ちは、女生徒からも人気が高いだろう。やや神経質そうでもあるが、物腰は至って穏やかで、礼儀正しい。本人が壇上で語っていたことだが、中学生の頃から生徒会長をやっていたらしい。一年生の頃に、先輩を相手取って選挙に勝ち、今年度も間違いなく彼が会長を務めると言われている。
「先ほどのやりとりの後だが、敢えて聞こう。私には既に恋人がいるのを知っての告白か?」
僕が突然の出来事に呆然としているうちに、実代はいつもと変わらぬ様子だった。それは不破も同じで、愛の告白らしからぬ、抑揚のない声で後に続ける。
「勿論さ。浮気相手になるつもりもない。鷹成君と別れて、僕と交際してほしい」
再び自分の名前が挙がって、ようやく事態を把握する。
実代と僕が別れる。そして、実代と不破が交際する。
「残念だが、お断りしよう。誠二と別れるつもりはない」
僕がどうこう思う前に、実代は答えを出していた。僕は少し安心した。この環境は気に入っているのだ。未だに好きだとか、惚れた腫れたを理解できない僕たちだが、お互いを気に入っていて、今が心地よいと感じているのは事実の筈だ。実代の本音を知ることはできないが、きっと同じように感じてくれているのだろう。
「あっさりとフられてしまったか。なるほど、かなりショックだよ」
不破は言葉とは裏腹に微笑みながら、コーヒーを啜った。やはり、相当苦かったのだろう。顔をもう一度しかめて、大きく溜息をついた。
不破はそれからしばらくして、不意に立ち上がると「失礼するよ」と、割と爽やかな表情で部室を後にした。
「……やれやれ」
実代は断りの言葉を口にして以来、久しぶりに呟いたかと思うと、ぽふ、とソファに身体を大きく倒した。
まいったことに、完全に出ていくタイミングではなくなってしまった現状に、どうしたものかと思い悩む。今、いきなりロッカーから僕が出て行ったらどうなるだろうか。普段なら実代は呆れた顔の一つで済ませるだろうが、正直なところ、この状況の実代は想像ができない。
僕がどうしたものかと狭いロッカーで首を捻っていると、実代が不意に立ち上がり、そのままスタスタと部室から出て行ってしまった。そして、がちゃりという施錠の音が聞こえる。
「……はあ」
僕が来ないので、先に帰ったのだろう。とりあえずしばらく待ってから僕はロッカーから抜け出した。
「……何やってんだろ」
無性に情けなくて、気を紛らわせるように一人ごちる。しかし、我ながら妙なタイミングで悪戯を試みたものだ。心から、スカートめくりをしなくてよかったと思う。もしも、今日にスカートをめくっていて、あの不破に見つかっていたら、即刻廃部だっただろう。
それにしても、その不破という生徒会長。一体どういうつもりなのだろうか。およそ告白らしからぬ雰囲気での、真っ向からの告白。
「失礼する」
「うわぁっ!?」
不意に先ほどと同じ声が聞こえ、がらりと扉が開いた。びっくりして振り返ると、何故か、去ったはずの不破が、真っ直ぐと僕を見据えていた。
「え、えと……どうして?」
査察が目的なのか、それとも告白が目的なのか。そんなことは知らないが、用事は終わったはずだった。なのに、何故またここに来るのだろうか。
「なに、僕の位置から、ちょうどロッカーの通気口から覗く人影が見えていたものでね。文芸部で、雪吹さんがあの場にいて、そんなことをするのは、鷹成君だけだろうと踏んだまでさ」
不破は爽やかとも、冷徹とも取れる笑みを浮かべて、肩を竦めた。そういうポーズがひどく似合うのは、彼の長所なのか短所なのか。
「まあ、雪吹さんとの会話を聞いていただろう。僕の気持ちは知って貰えたと思う。その上で、少し話があるんだ」
盗み見ていたことを怒っているような節はない。むしろ、不破の口ぶりからすると、敢えて僕に告白のシーンを見せたかのようですらある。どういう、ことだろうか。
「……コーヒーを淹れるよ。今度は、そこまで苦くないものをね」
僕がそれだけ言うと、不破は満足そうににこりと笑った。
「恋愛においては、恋したふりをする人のほうが本当に恋している人よりもずっとうまく成功する。これはフランスの高級娼婦として有名な、ニノン・ド・ランクロという女性の言なのだけどね」
向かい合ってソファに座った途端、不破はまるで先手を取るかのように、ぼそりと呟いた。そして、それは実に効果的だったと言える。
恋したふり。その言葉が、ぐさりと僕の胸に突き刺さった。これだけ遠回しな単刀直入もはじめてである。不破は、一体どういう経緯なのか、僕と実代の関係がどのようなものであるのか、気付いているらしい。
「吉野先生から聞いたよ。恋愛小説の感想文を投稿するそうじゃないか。そして、それを堺に、君と雪吹さんは交際を開始した。前々から雪吹さんに関心を持っていたのだが、およそ彼女は、恋愛に興味を持つ人間には思えなかった。だからこそ、僕も行動に移せなかったのだが……そうなると、実に不思議だ。僕の見立てが間違っていたのならば、問題はない。声をかける勇気が持てなかった僕が、悪い。しかし、こう考えるとどうだろう。もしかして、雪吹さんは、件の感想文を書くために、恋愛を経験しようとしているならば、と」
不破の推理が当たっていることは、先ほどの言葉からもよくわかっていた。しかし、改めて道筋立てて聞いてみると、鮮やかすぎる。自分たちの学校の生徒会長が頭の良い人間で、勘も鋭いことは有り難い話であるが、この状況では喜べない。
「僕は、これほど自分が生徒会長であることを感謝したことはなかった。生徒会長でなければ、吉野先生から感想文の話を聞くこともなかっただろうからね」
黙り込む僕を尻目に、不破は朗々と語る。湯気の立ったコーヒーは、お互い口をつけることなく放置されていた。
「……僕たちを、笑うのかな?」
僕は、ようやく一言だけを呟くことができた。
これは直感であって、他の何物でもないけれど。多分、不破は本当に実代のことが好きなのだと思う。
恋を知る男は、一体どんな風に僕たちを見るのだろうか。自分の好きな人を、その人のことを好きではない男が奪ったのだ。悔しいのかもしれない。悲しいのかもしれない。僕は、そんなことすらわからない。
ただ、このあまりにも巫山戯た、ままごとのような恋愛を見て、滑稽だと思わない人間がいるだろうか。当人である僕ですら思うのだ。この関係が、いかに滑稽で、馬鹿馬鹿しいのかと。
「笑えるほど、達観しちゃいないさ。正直なところ、実に悔しい。君が彼女を好きならば、或いは許せたのかもしれないけどね。どうやら、君も雪吹さんと同じのようだ。恋愛を、知らないのだろう?」
「……ああ、そうだよ」
仮に、僕がここで否定したら、不破は僕を許しただろうか。妙に素直なのは、僕の美徳であると同時に、やはり悪癖だ。
不破は僕の様子をじっと窺っていた。まるで、僕の仕草から、本質を捉えようとするかのように。実代と似ているが、少し違う。彼女に見つめられているときは、心地よかったが、今は妙に落ち着かない。
「別れてくれ」
そして、その言葉は唐突に飛び出した。
「君たちの関係は、君たちが決めたことだ。本来ならば、僕が口出しして良いものではないと思う。けれど、僕には許せない。雪吹さんが、好きでもない男と並んで歩くこと。その男が、雪吹さんを好いていないこと。君には、わからないだろう。この辛さは」
冷静だったはずの不破の言葉に、微かに感情の色が見え始めた。表情はあくまでも変えずに、ただ、淡々と言葉を並べているだけのはずなのに。不破の言葉に熱が混じっていることがわかった。
ああ、成る程。これが、恋なのだろう。誰かを想うことで、自分が口出ししてはいけないことにまで、口を出してしまうこと。あくまでも、恋という感情の一端でしかないのだろうが、少なくとも、この不破の行動は恋によるものなのだ。
「できるなら、奪いたい。僕が、雪吹さんの隣に立つ男でありたいと思う。けれど、雪吹さんはそれを望んでいない。彼女を本気で好きな僕より、ままごとの相手である、君を選んだ。けれど、それで諦められるならば、君たちを許していただろう」
怒り。嫉妬。悔しさ。
きっと、それは負の感情なんかじゃない。思わずそんなふうに考えてしまうほど、不破の言葉は真っ直ぐだった。
雪吹実代という女性を、不破俊彦という男は、真剣に想っている。だから、真剣でない僕たちを許すことができない。どうして自分では届かないのかという嫉妬すら、真っ直ぐな想いを象徴しているかのような、強さがあった。
未だ崩さぬ表情の裏に、不破は一体、幾ばくの想いを抱えているのだろうか。恋を知らない僕には、それを理解する術を持たない。
「……別れてくれないか。僕の勝手な気持ちには違いないが、僕は君たちを認めない。僕が君以上の人間だなんて言わない。彼女を今以上に幸せにできる保証など何もない。けど、僕は彼女の不幸にしてでも、この状況を許すことができない」
それだけ言って、不破は大きく息を吐いて、コーヒーに口をつけた。まるで、それが言いたいことを全部言った証であるかのように、僕は思った。
僕は、一体どうするべきなのだろうか。
恋を知らない僕ですら、わかってしまうほどに、不破は真剣に実代を想っている。
僕と実代の関係を見抜くほどに、頭の良い人間が、あまりにも愚直に僕に別れを求める。それは、きっと恋をしているからだ。彼ならば、もっと計画的に僕たちを別れさせることもできただろう。それだけの行動力がある人間だと思う。
しかし、不破はそうしなかった。あくまでも、真っ直ぐに実代に想いを伝えた。あまりにも下手くそな伝え方だったが、それも、想いの強さ故なのだ。冷静な表情を変えなかったのは、強さ故の弱さだ。
普段の彼ならば、情に訴えかけることもできただろう。もっと、ムードを作ることもできただろう。しかし、好きな人を前にして、それができなくなった。
ただ、表情を変えずに。ムードとは無縁の、淡々とした調子でしか愛を語れなかった。幾万の歯の浮く台詞よりも、真っ直ぐで、強い想いだったのだ。
気付きたくなかった。否、正確に言えば、こんな形で気付きたくはなかった。
恋愛の強さと弱さ。不破の想いが、僕にそれを教えてしまった。そして、同時に理解させてしまったのだ。
僕がどう足掻いたところで、不破ほどに実代を想うことなどできない。いくらキスを交わし、身体を重ね、手を繋いだところで、知ることなど出来ないものだったのだ。
これが、恋愛だ。僕たちが求めて、愚行を繰り返した先には決してなかった、恋愛感情というものだ。
「ひとつ、教えてもらって良いかな?」
僕の言葉に、はじめて不破の表情が変わった。少し、驚いていたようにも見えたが、僕にはその表情がどのような感情の表れなのかわからなかった。
「何故、実代を好きになったんだ?」
我ながら、馬鹿げた質問だと思う。ただ、知りたかった。
何故、不破はそれほどまでに実代を想えるのか。その理由は何なのだろうかと。
もし、僕がそれを知ることができれば、或いは、僕も実代を――
「ジェローム・K・ジェロームというイギリスの作家を知っているかい。彼はこう言った。恋ははしかと同じで、誰でも一度はかかる、とね。はしかに罹る理由を、僕は知らない」
思考を遮る不破の言葉に、僕は項垂れた。
ジェローム。『ボートの三人男』という旅行小説の筆者だ。カート・ヴォネガット同様、ユーモアのセンスに富んだ作家で、僕も幾度となく彼の著書を読んでいる。好きな作家の一人だった。
「肺炎よりも、はしか、か」
僕の呟きは、おそらく不破にはわかるまい。だが、それでいい。
僕は一度顔を上げてから、もう一度下を向いた。
項垂れではなく、首肯という形で。