第五話 ときには喧嘩もしてみよう
一体、恋愛とは何ぞや。思い浮かぶのは得てして曖昧で抽象的な言葉でしかない。
実感の伴わない言葉に、果たして意味などあるのだろうか。そして、その意義がわからないままに続ける、実代との関係とは、何なのだろうか。
などと考えてみたものの、実代の唇は柔らかくて、あたたかい。一体どういう仕組みなのかはわからないが、キスというのは随分と心地がいいものだ。
ああだ、こうだと考えるよりも、唇を重ね合わせたほうが、よほど建設的なんじゃないだろうかと、思考の放棄に至るぐらい、僕と実代は部室で長いキスを交わしていた。
「ん……はふぅ」
普段なら決して聞くことのできない間の抜けた実代の声は、それだけで蠱惑的だ。気付けば、僕の右手が自覚もないままに、実代の胸元をまさぐっていた。
「……だ、駄目だ」
実代は微かに僕を押して抵抗するが、それが一層、僕の嗜虐心に火をつける。文学少年らしく、理数系の科目は苦手だが、抵抗が1を下回ると、力が上がっていくことぐらいは知っている。微弱過ぎる抵抗は、欲望を肥大させるのだ。
「そ、それは、アンペアの基準を1に据えているからだ。基準が0だと都合が悪かっただけで、決してこの状況の説明として正しくな……ふぁっ!?」
「燃えさかる火に、ちょっとの水を垂らしたところで、火の勢いは増すばかり……っていうほうがよかったかな?」
律儀に訂正する実代に、さらに指を這わせる。妙に気障な会話が僕たちなりの照れ隠しであることはお互い承知だろうが、つまるところ、照れてはいるが、嫌がってはいないわけで。
「……優しく、してくれ」
実代はそう呟いて、僕の胸に顔をうずめるのだった。
さて、そんなふうに割と順調に進んでいる交際が二週間を過ぎた辺りで、実代が一つの提案をしてきた。時間は放課後。場所はいつもの通り、文芸部室。
「私たちはこれまで、恋人らしいことをしてきたわけだが、まだやっていないことがあった」
この言葉に僕は少し驚いた。もう、全部やり尽くしたと思っていたからだ。
デートにキスにセックス。手も繋いだし、のんびり喋ったりもした。僕の知りうる限りの恋人らしい行為は、これで全部だ。一体、他に何があるというのだろうか。
「わからないのも無理はない。およそ、私たちには無縁だったからな」
最早トレードマークのような不敵な笑みで僕を見据える実代だが、実は最近、その不敵な笑みから感情を読み取れるようになってきた。別に細やかな仕草で判別しているわけではなく、雰囲気だけなのだが、これが割と当たる。遂に恋人らしさもここまで来たかと嬉しくなるが、肝心の感情だけが求めるところに追いついていない。
ちなみに、今の実代はあまり喜んでいる様子ではない。むしろ、少し迷っているという感じだ。はて、恋人らしいことを見つけた割には妙である。
「折角だから、挑戦してみたいけど、難しいの?」
「う、うむ。おそらく、私たちにとっては、かなりの難関だ。その、せ、せっくすよりも」
実代は普段の態度とは裏腹に、割と純情というか、いわゆる下ネタ系に弱い。セックスという単語を口にするだけで内心では恥じらっているようなのだ。
しかし、そのセックスよりも難関となると、これは相当である。僕たちのような似非と呼ばれても仕方ない関係に、果たしてチャレンジすることが許されるのかも疑問だ。
「……とりあえず、聞くだけ聞こうかな」
「ああ。まあ、聞けば理解できるだろう。まだしていないのは、喧嘩だ。つまるところ、痴話喧嘩というやつだな」
実代の言葉に、僕はがくっと姿勢を崩した。一体どんな難しいことが待ち受けているのかと思ったら、たかだか喧嘩だったか。
「……いや。喧嘩、か」
あまりにも有り触れた言葉に思わず脱力してしまったが、よくよく考えてみれば、確かに難しいかもしれない。
僕と実代は仲が良い。気が合うし、趣味も合うし、お互いの話をよく聞こうとする。意見が衝突することもあるが、そうなると、二人とも冷静に意見を交換して、話を前に進めようとするタイプである。喧嘩どころか、そういう意見の食い違いが楽しくて、積極的に相手と違う意見を見つけようとまでしてしまうほどだ。
お互いがそれを楽しんでいる節があるので、本来ならば喧嘩に発展するようなことも、笑顔でやってしまうわけだから、そういう意味では、セックスよりも難しい。
「でも、わざわざすることじゃないよね?」
どうせなら、喧嘩などしないに越したことはないように思う。確かに痴話喧嘩という言葉があるぐらいなのだから、喧嘩というのは恋人らしい行為なのかもしれないが、多くの恋人達はそれを回避しようとするのではなかろうか。
「私とて、誠二と喧嘩などしたくないし、そもそもどうすれば喧嘩になるのかも見当がつかない。罵倒したところで、誠二はそれを受け止めてしまうだろうしな」
実代は苦笑して、コーヒーに口をつける。なるほど、そこまでわかっていてなお、提言するというからには、何かしらの展望が望めるということか。
「雨降って、地固まるとでも言えば、わかりやすいか。喧嘩をして、お互いの生の感情をぶつけ合った後は、より強固な絆で結ばれる。今までは行為というもので恋人らしくあろうとしたが、今度は感情だから、今までよりも一層、近づけるように思う」
言われてみれば、確かにその通りである。だが、しかし。
「僕たちは、一体何について喧嘩すればいいんだろうね?」
「さっきからそれを考えているが、何を話したところで喧嘩になりそうにない。いやはや、年中喧嘩をする恋人もいると聞くが、今だけは羨ましい」
結局、その日はどうにか喧嘩に発展しないものだろうかと、お互いに相手の駄目なところを指摘する流れになったが、お互いが「確かに」とか「気をつけるよ」と、すぐに首肯してしまうので、ちっとも喧嘩にならなかった。それどころか、今まで微かに気になっていた点が改善されてしまい、ますます喧嘩から遠ざかってしまったほどだ。
「どうやら、倦怠期というのを待つしかないか」
「来ればいいんだけどね」
望んでいては、絶対にやってこないだろうと思いながらも、そう呟かずにはいられなかった。
しかし、案外チャンスというものは早くやってくるものだ。セックスをする機会を窺ったら、当日中に叶ってしまった僕たちである。数日を間に挟んだだけ、喧嘩のほうがやはり難関だったのだろう。
「誠二。まさか君が浮気をするとは思わなかった。見損なったぞ」
「だから、あれは姉さんで、受験でピリピリしてたから、散歩に連れ出しただけだってば」
「そのような言い訳、聞きたくはない。姉と仲が良いからと言って、腕を組むはずがないだろう。確かに私たちは恋人として間違っているかもしれないが、きちんと恋愛ができるのならば、そう言えばいい。私の身体が目当てだったか?」
「だから違うって。姉さんが貧血起こして、寄り添って歩いただけだって。大体、身体目当てって言うけど、そもそも誘ったのは実代じゃないか」
絶対に喧嘩はしないと思っていたのだが、いざ始まってしまうと止まらない。僕がどれだけ誤解だと言っても、実代はそれに耳を貸さず、終いには「もう別れる」とまで言い出す始末である。
「今、別れたら文芸部はどうするのさ」
「知らん。浮気性の女好きと一緒にいると思うと虫酸が走る。廃部でいいだろう」
「……へえ。浮気も女好きもどうでもいいけどさ。最後のはちょっと、許せないね」
なるべく冷静に誤解を解こうと思っていたが、あろうことか、実代が言ってはならないことを言ってしまった。
文芸部が廃部になるだと。僕がようやく見つけた、最高の読書の環境を、実代は要らないというのか。
「ものの弾みだとしてもね、廃部でいいなんて言っては駄目だ。ここがどれだけ、僕にとって大切な場所か、実代はわかっていないみたいだね。ずっと探していたんだよ。落ち着いて、心ゆくまで読書ができる場所を。それに、僕たちはここを守るために交際を始めた。実代は、そのために処女まで捨てたじゃないか。実代にとってもそれだけ大切な場所だったはずだ。そこまでしているのに、要らないなんて言うのは駄目だ。この場所もだけど、自分ももっと大切にしないといけない」
長い台詞を一息で喋り、実代の様子を窺う。何か言葉を探すように、視線を中空に漂わせているが、まだ折れる様子はない。ならば、わからせてやる。僕がいかに、この場所を大切にしていて、それと同じくらいに実代も大切に思っているのかを。
「……というわけで、文芸部は絶対に廃部にしない。実代と一緒にいるのは楽しいし、実代も楽しんでいると思うから、実代と別れるのも嫌だ。確かに恋愛とは少し違うかもしれないけど、僕たちにはお似合いだと思うし、先には本当の恋愛が待っているかもしれない。そもそも、事の発端の誤解は今度、家に来ればわかるさ。姉さんを紹介する」
ああだこうだと、僕が喋ること十数分。すっかり胸の内を吐き出して、思わず大きく一息ついた。さて、実代はどうしただろうと彼女の様子を窺うと、何故か優しく笑っていた。
おかしい。何故喧嘩をしている最中なのに、彼女は笑っているのだろうか。
不敵な笑みなら理解できる。あの余裕のある表情で見られると、少し萎縮してしまう。喧嘩のときの表情としては効果的だ。しかし、まるで僕を見守るような笑顔というのは、これいかに。
「……実代?」
「まさか、そこまで私のことを考えてくれていたとは驚きだよ。いやはや、我ながら中々の役者だと思ったが、誠二のまさしく心からの言葉に、思わず素に戻ってしまった。シナリオ通りならば、ここから私の屁理屈が並ぶはずなのだが……返す言葉がないとはこのことだ」
実代の言葉が理解できずに、首をかしげる。
役者。素に戻る。シナリオ。
まるで、実代が何かを演じていたかのような言葉だ。もし、そうだとするならば、この喧嘩らしきものは――
「どうだろうか。誠二が掛け値無しに怒るなら、文芸部のことだと思ってな。ただ、いきなり廃部にしようと言っては、怪しまれて終いだろう。そこで、昨日偶然見かけた様子を利用して、別の話題から入ってみた。まがりなりにも、痴話喧嘩を体験できたと思うのだが」
やられた。
そうだ。よくよく考えてみれば、実代が意固地に浮気だと言い張る時点でおかしかった。僕が説明して、納得がいかなければ、納得のいく証拠を求めるだろう。それもなく、僕の意見を封殺しにかかる時点で、実代の思惑に気付くべきだった。
「……ひどいよ。僕が独り相撲をやってただけ、か」
「いやいや。あながちそうでもなかったぞ。誠二が文芸部を大切に思っているのは知っていたが、まさか、私もあそこまで大切に思ってくれているとは、本当に驚いた。これが、相手の生の感情というやつなのだな」
嬉しそうに言われては、こちらも返す言葉がない。
ただ、本気で廃部になればいいと考えていたわけではなかったようで、一安心だ。それに、これも実代なりに考えての行動だったのだろう。事前に僕を騙す相談を持ちかけられては、僕が騙されるはずがない。
「……まあ、それでも騙したことには違いない。今後のしこりにしないためにも、誠二も何らかの報復で返してくれ。一応、拳骨ぐらいの覚悟は決めてきた」
実代はふと表情を引き締めて、真っ直ぐと僕を見た。
彼女は、本当に解っているのだろうか。そういう態度が、いっそう報復なんてものを遠慮させることに。
ただ、一度決めた覚悟を無碍にしないのは、やはり僕の美徳の一つである。報復とまではいかないが、せいぜい、悪戯ぐらいなら許されると思う。それに、僕だけ生の感情でぶつかったのも恥ずかしい。
「じゃあ、目を瞑ってくれないかな?」
「む。ゲンコかと思ったが……視覚を奪うとは恐怖心を煽るのが上手いな」
実代はちっとも怖そうな素振りを見せずに、目を瞑った。僕はそれを確認すると、なるべく音を立てないようにゆっくりと実代に近づく。
「まさか、キスというオチか。中々に粋だが、それでは手打ちにならないぞ?」
実代が僕の気配を察してか、先手を打つ。しかし、残念ながら外れである。キスは別にこの機会でなくてもできる。
僕は黙って、さらに彼女との距離を詰める。お互いが手の届く程度の場所まで近づき、そこで勢いよく、実代のスカートをめくりあげた。
「――きゃあっ!?」
ふわりと舞うスカート。真っ白な太腿と、微かに見えた薄桃色の下着。そして何よりも、真っ赤になってスカートを抑え込む実代の様子。
「うん。生の感情っていうか、生の表情だけど、悪くないね」
僕が実代を真似て不敵な笑みを浮かべると、彼女は頬を赤く染めながらも、ぺしぺしと僕の胸板を叩いてきた。その様子がなんだかかわいくて、ぽふぽふと頭を撫でる。
なるほど。これだけのことで、昨日よりもなんだか幸せな気分になってくる。
たまには、喧嘩をしてみるのも悪くはないかなと、僕は思った。
ちょっと趣向を変えて、ラヴコメ風味の話にしてみました。
本領発揮と気張ってみたのですが、実代にグッときてくれたなら嬉しいです。