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第四話 のんびりしよう

 微かな音で流れる、ラジカセの安っぽいジャズの音。

 コポコポと音をたてる、コーヒーのドリッパー。

 春のそよ風はカーテンを揺らして、頬を撫でる。これ以上ないほどの、最高の環境だと僕は思った。ひたすら穏やかで、心ゆくまで読書を楽しむことができる。文芸部という場所を手に入れることができて、本当に良かったと思う。

「すまない、遅れた」

 僕が感慨に浸りながら、コーヒーを淹れているところに、実代みしろが相変わらずの不敵な笑みで現れた。恋も知らないままに交際をはじめ、あろうことか身体まで重ねたのが昨日。僕たちは土曜日だというのに高校の文芸部室にやって来ていた。

 初デート。ファーストキス。初体験。

 恋人がすることを通り一遍試してみた僕たちは、改めて、そもそもの発端である恋愛小説を読んでみることにしたのだ。もしかすると、何かしらの感銘を受けたり、共感を覚えるかもしれない。

「コーヒー、いるかな?」

「ああ、いただこう」

 鞄を置き、一冊の文庫本を取り出した実代に、湯気の立ったコーヒーカップを渡した。

 この一年で、僕たちはお互いに小説について意見を多く交わし合ってきた。故に、お互いの小説の趣味は熟知しているつもりだが、それと同じくらい、コーヒーの趣味も知っていた。

 実代は、女性にしては珍しいほどの苦党だ。口がひん曲がってしまうのではないかと思うほどの、苦いブラックコーヒーをこよなく愛している。僕も酸味より苦味を好むが、彼女の好みに合わせるのは無理があった。結果、僕が美味いと思う限界の苦味にしている。

「これもいただくよ」

 実代はカップを机に置き、ドリッパーの近くに置いてある角砂糖とミルクを手に取った。僕が知る限り、彼女がそれをコーヒーに入れるのを見たことがなかった。僕も普段は使わないが、疲れているときなどは、甘いものも欲しいので、一応置いてあるのだ。

「珍しいね。実代はブラック派なのに」

「破瓜というのは、思っていた以上に難儀でな。一晩経っても、痛みがたまにズキっと来る。おかげで、あまり眠れなかった」

「そ、そうなんだ。それは、なんというか、大変だね」

 男には決してわからない痛みだと思う。謝るのも彼女の覚悟に対して失礼かと思い、ひどく曖昧な言葉で茶を濁すことしかできなかった。

「異物感というかな。まだ、中に入っているような感覚がある。痛みよりも、むしろこちらが寝不足の原因かもしれん。もしかすると、君は立派なものを持っているのかもしれないな」

 昨晩のことを棚に上げるならば、実代の言葉はセクハラだった。どう答えていいのかわからず、僕はソファに座り、コーヒーを啜った。

「私はそれなりの体型を維持していたし、先日の身体測定では周囲に羨まれた。そこそこのものと自負していたが、どうだった?」

 昨日の恥じらいはどこへやら。実代は好奇心なのか、僕をからかいたいだけなのか、昨晩の話を続けた。

「比較対象が無いから、わからないけどね。綺麗だと思ったよ。それに、可愛かった」

 僕はつとめて冷静を装いながら、思わず脳裏で昨日の実代を思い出してしまった。

 荒い息。汗に濡れた、火照った肢体。とろんとした瞳。

 目の前に悠然と佇む人間と、同一人物とはとても思えない。今の実代は綺麗という言葉があてはまるが、昨日は確かに、可愛いと思った。

 俗な言い方をすれば、今は見惚れるだけだが、昨晩はそそった。

「可愛いと言われたのは、はじめてかもしれないな。なるほど、悪い気分じゃない」

 実代は満足そうに頷いて、コーヒーに角砂糖を二つ落とした。ティースプーンでそれをゆっくりと掻き回し、ゆっくりと口をつける。

「じゃあ、反対に聞くけどさ。僕はどうだったかな。別に自負するほどのものはないけど」

 どう反応していいかわからず、僕は彼女に倣って尋ねてみた。実代は逡巡してから、ふとにっこりと笑った。

「普段の君は、落ち着いていたが、昨晩はとても一生懸命だった。なんというか、可愛いと思うほどにな」

「……可愛いと言われたのは、はじめてだよ。複雑な感情ってやつかな」

 呵々(かか)と彼女が笑うのを見て、次はもっと冷静になろうと思った。もっとも、昂ぶる気持ちを抑えては、そもそも行為にならないのだろうけど。


「しかし、昨日をかんがみるに、感情の起伏がないわけではないのだな」

 いよいよ読書をはじめようかと思っていると、実代がぽつりと呟いた。

「どういうこと?」

誠二せいじは、私の前で声を荒げるどころか、大声で笑ったことすら無かったからな。昨晩、必死な顔をして、熱に浮かされたように好きだと連呼してくれた。私も、自分があれほど乱れるとは思っていなかった。感情が薄いから、恋愛を理解できないのかとも考えていたのだが、それはなさそうだ」

「なるほどね」

 確かに、僕も実代も滅多に声を荒げることはしない。苛立つこともあれば、悲しんだり、喜んだりもするのだが、それらを表に出すのが得意ではないだけだ。

 つまらない男。空気が読めない。そんな自分の風評を聞いたことぐらいはある。やはり人よりは起伏が大人しいのかもしれない。多少なり悲しくはあったが、己の行動を見れば至極当然で、仕方ないと、それきり考えなくなってしまったのだから。

 おそらく、実代も同じだと思う。掴み所のない性格や、大仰な言い回し。すっかり慣れてしまった僕は気にもならないが、何を考えているのかわからないだとか、不気味だとか、近寄りがたい人間だと言われているようだ。

 勿論、最低限のコミュニケーションは取っている。クラスには友達もいる。実代は性格や言動はともかくとして、美人だから、男連中には受けが良い。実際、曲がりなりにも交際をはじめてから、羨まれることが幾度かあった。

「女に興味がないフリして、ちゃっかりしてるな、チクショウ」

 興味が無い故に交際に至ったと説明するのも面倒で、言われるがままにしておいた。いずれ、恋愛を知ることができれば、そのときに彼のぼやきが、真実になるかもしれないと、どこかで願っていたのかもしれない。

「この一週間で得たものは、人が言う恋とはかけ離れた、ひたすらに穏やかな心地よさと、好いても、好かれてもいない恋人。失ったものは、処女だというのだから、これを小説にしても、面白いかもしれないな」

 実代はさぞかし楽しそうに、口元をにやりと緩める。確かに、この二人の関係を小説にしたら、面白いかもしれない。ただ、僕には最も重要であろう、結末が想像できなかった。

 それよりも、この期に及んで、話を小説に持っていく実代は、流石はこの珍妙な部室にいるだけのことはあると、得心した。何よりもまず、小説ありき。実に僕たちらしい。

「実代は、どんな結末を考える?」

 少し興味が湧いて、この話を続けてみることにした。恋愛の話題よりも、よほど性に合っていると、内心で苦笑する。

「そうだな。単純な好みで言えば、このまま恋を知らずに終わるのが面白い。自分の知らぬ感情を求め、偽りの関係を続ける。疑問を持たないわけではないが、打破するだけの答えを持ち合わせることができず、当初の目標は達成されることはない。しかし、二人の曖昧な関係は続いていく。心情を巧く読ませる文章ならば、是非、拝読したいものだ」

「ひどく私小説的なものになりそうだね」

「突然恋愛に目覚め、笑顔で手を繋ぐ結末よりは、よほど読み応えがあるだろう?」

 実代の言葉に、僕は素直に頷いた。あまりに陳腐な大団円も嫌いではないが、小説の面白さを追求するならば、この物語はバッドエンドで締めるべきだ。アメリカの作家で、シュールコメディを得意としていたカート・ヴォネガットは、創作講座でそのようなことを言っていた。きっと、世間一般では大団円が望まれるだろう。ただ、氏の言葉を借りるならば、物語が肺炎にかかってしまう。

「創作意欲があれば、筆を執るのだろうが。いやしかし、もしそうであれば、このような話は考えなかったかもしれない。私小説であれば、なおさらだ」

 私小説は、作家自身の経験や感情をダイレクトに表現する。大正の時代に花開いたこのジャンルは、作者を主人公としたノンフィクションと言っても、あながち外れではない。田山花袋たやまかたいの『蒲団』はあまりにも有名だろう。

 創作意欲が無い文芸部員だからこそ起こったこの状況は、決して私小説として発表されることはない。実代はそう言いたいのだろう。

「今からでも、実代が書いてみたらどうかな。そうすれば、感想文は必要なくなる」

「昨晩のことも私小説として書くというのか――文芸部存続どころか、停学がオチさ」

「……ああ、確かに」

 昨日、実代も言っていたが、不純異性交遊は校則で禁止されているのだった。これでは私小説が、ただの暴露本に成り下がる。それに、僕の感情いくらが起伏に乏しいといっても、自分たちのセックスを文章で披露できるほど羞恥心が欠落しているわけでもない。

「誠二が書いてみるのはどうだ。昨日のことは、妄想とでも説明しておけばいい」

「昨日が印象的すぎて、ただの官能小説にしかならないよ。どのみち、よくて停学ってところじゃないかな」

 僕が答えると、実代は再び呵々と笑った。


 結局この日、手に取ってまでいた文庫本は、ついぞ開かれることがなかった。

 僕たちは安っぽい音色のジャズをBGMに、コーヒーを飲み、何の益にもならないことを、ずっと話し続けていただけだ。

 部室に来て小説を読まなかったのは、初めてのことだった。





※ヴォネガットの創作講座


1 赤の他人に時間を使わせた上で、その時間はむだではなかったと思わせること。

2 男女いずれの読者も応援できるキャラクターを、すくなくともひとりは登場させること。

3 たとえコップ一杯の水でもいいから、どのキャラクターにもなにかをほしがらせること。

4 どのセンテンスにもふたつの役目のどちらかをさせること――登場人物を説明するか、アクションを前に進めるか。

5 なるべく結末近くから話をはじめること。

6 サディストになること。どれほど自作の主人公が善良な好人物であっても、その身の上におそろしい出来事をふりかからせる――自分がなにからできているかを読者にさとらせるために。

7 ただひとりの読者を喜ばせるように書くこと。つまり、窓をあけはなって世界を愛したりすれば、あなたの物語は肺炎に罹ってしまう。

8  なるべく早く、なるべく多くの情報を読者に与えること。サスペンスなどくそくらえ。なにが起きているか、なぜ、どこで起きているかについて、読者が完全な理解を持つ必要がある。たとえばゴキブリに最後のなんページかをかじられてしまっても、自分でその物語をしめくくれるように。

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