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第三話 心と体を重ねよう

 僕たちの日常は、以前と何も変わらない。

 雪吹実代ふぶきみしろという女性と交際することになって一週間。相変わらず、僕たちは本を読むだけだ。事の発端である恋愛小説の感想の〆切は当分先なので、僕たちはまだ焦ってはいない。

「誠二。以前に借りた小説を、もう一度貸してくれないか」

「うん、いいよ。僕も実代のをまた借りたい」

 日常という大雑把な括りでは、確かに変わっていない。けれども、些細なことに目を向けるならば、変わったと言わざるを得ないだろう。

 誠二。実代。

 お互いの名前を呼び合うようになった。

「そろそろ帰ろうか」

「そうだね」

 少し遠回りをして、二人で帰るようになった。手を繋いで。

 端から見れば、それは紛れもない恋人同士なのだろう。二人きりの部活動が、恋に発展した。事情を知らない人間からすれば、それはあまりにも納得のいくものに思えるというのが、僕の予想だ。

 実際に、実代と一緒に帰るのは楽しかった。本を読むという趣味以外に接点がなっかったはずの二人が、今では手を繋ぐという、あまりにも直接的な接点を持っている。

 ただ、聞いていた恋愛とは違う。胸がどきどきする。切なくなる。そんなあまりにも陳腐なフレーズを、僕たちは感じることができなかった。

「付き合って一週間経つが、誠二はどうだ。私としては、楽しくはあるが伝え聞く恋愛とは違うというのが感想だが」

おおむね同じかな。手を繋ぐのも、キスをするのも悪くないというか、気分が良いんだけど、多分、他の人のような感覚じゃないんだろうな、と思う」

 キス。その単語を口にした回数と、実際に唇を重ねた回数の、どちらが多いのだろう。

 いわゆるファーストキスを経験してから、僕と実代は何度か放課後の文芸部室で唇を重ねてきた。お互いがその感覚が案外気に入ってしまい、人目を憚る必要のない場所にいる時間が長いものだから、半ば当然の成り行きだった。

 名実ともに恋人同士。周囲からは交際していると思われているし、僕たちも交際していることをお互いに認めている。手を繋ぎ、キスをする。行為も恋人のそれである。名も実も伴っている。しかし、本来は最も大切であるはずの、お互いの気持ちだけが、重なることはないようだった。

「いっそ、身も心も重ねて、というのもアリかもしれないな」

 ふと、実代が呟いた。いつもの堂々とした、自信に溢れた声ではなく、僕が聞き取れなければそれでいいというほどの、独り言に似た呟きだった。

 僕は少し戸惑った。それはつまり、セックスのことを指しているのだろう。

 恋人同士がすること。僕たちの年齢ならば、特に男子にとっては最終目標と言っても過言ではないもの。

 断っておくが、僕は恋愛を知らないだけで、性欲は人並みにある。我ながらよく集めたモノだと思うほどの小説が詰め込まれた本棚の影に、エロ本が数冊、仕込まれている。そういう意味では、実代の言葉は実に興味深い。

 改めて実代を見ると、すらりとした上背と、整った目鼻立ち。スタイルもいいと思う。

 もし、彼女とセックスができるのならば、それを断る道理はなかった。

「……いいのかな?」

 ただ、相応の倫理観も僕は持っている。交際期間一週間。少し早い気もするし、恋愛感情という根本的なものを理解できない僕たちが、果たしてその行為に及んでしまってもいいものか。

「一応、校則では認められていない。良い悪いで言えば、悪いのだろうな。正直なところ、不安もある。最初はひどく痛いと聞くし、誠二にも経験があるようには思えない。リードなど期待できないしな。こういう性格なので、羞恥心はさほど感じないが、わざわざ痛い思いをしたくはない」

「そりゃあ、そうだろうね」

「ただ、私も興味がないと言えば嘘になる。慣れれば気持ちいいという話も聞く。女の幸せの一つに掲げる人間もいるらしい」

 実代は迷っているようだった。提案するほどなのだから、嫌ではないのだろう。しかし、キス以上に、「はじめて」を大切にしなければならないものだとも聞く。

「誠二はどうだ?」

「正直に言えば、興味はある。有り体に言えば、男なら誰でも一度はやりたいことだと思うよ。まあ、恋愛云々ではなく、性欲に従っている気もするけど」

 正直に言ってしまうのは、僕の美徳であり、悪癖でもあると思う。もし、ここで恋愛らしいことだと断言していれば、実代は意を決していたかもしれない。

「なるほど。では、また機会が訪れたときにでも、ということにしようか。どのみち、今からするというわけにもいくまい」

 実代は淡々とそれだけ言って、それからしばらく、僕の顔を見なかった。

 もしかしてけっこう恥ずかしかったのではないかと気付いたのは、家に着いて、私服に着替え終えた後だった。


 本来なら、家に帰った僕はうるさい弟たちの相手をしながら、宿題に勤しむところだが、今日は違った。実代から電話があったのだ。

『家に帰ると、家族が不在だった。今日は帰らないという書き置きを残してな。その、なんだ、機会が、来てしまったようだ』

「あ。ああ……そう、みたいだね」

 先ほどの会話が脳裏に蘇り、僕は大いに慌てた。実代にしては随分と歯切れの悪い言葉が、電話越しに彼女の緊張を伝えている。

 しばしの沈黙が続く。恋人同士の電話ではないな、と思った。

『待っている』

「……うん」

 不意に呟かれた実代の言葉に、僕はほとんど何も考えずに頷いていた。

 それから、慌てて下着から全部を着替えて、転げるように家を飛び出した。自分でもよくわからないが、とにかく急いだ。呼吸が乱れるのも、汗をかくのも、全部走っているせいにできるから、かもしれなかった。

 実代は、学校帰りに別れる場所で待っていた。デートでもないのに、この前と同じ、お洒落なワンピースを着ていた。

「やあ。早かったな」

 言葉はいつもの彼女のものだった。しかし、微かに頬に朱が射している。恥ずかしくないはずがない。今から僕たちは、色々な問題を蹴り飛ばして、セックスをしようというのだから。

 実代の先導で、僕は彼女の家に通された。手は繋がなかった。

 高級マンションの一室。そこが彼女の家で、僕の緊張は余計に高まった。通された実代の部屋は、女の子にしてはあまりに簡素というか、自分の部屋と大差がなかった。

 ベッドと、クローゼットと、勉強机。後は本棚が幾つも。それだけだ。趣味と呼べるものは読書しかない。実代らしいと、少しだけ安堵した。

「さて。では、早速だが……しようか」

「あ、ああ。そうだね」

 何をすればいいのか。僕の頭はいよいよ混乱した。アダルトビデオを参考にしようにも、頭が真っ白になって、何も思い出せない。実代は僕の顔をじっと見据えたままだった。

 自分でも、鼓動が早くなるのがわかる。息が荒い。僕は今、何をしようとしているのだろう。恋愛感情を知らない僕が。いや、僕たちが身体を重ねる。それは果たして許されるのだろうか。さっきから考えていたことだけが、ぐるぐると頭を駆けめぐる。

「実代……僕は、わからない。本当に、こうしていいのかな。君は後悔しないで済むのかな。僕はとても、冷静でなんていられない。傷つけてしまうかも、しれない」

 熱に浮かされたように、言葉が口からあふれ出す。初体験を目前にした、健全な若者男子の言葉ではなかっただろう。素直に、性欲に従ってしまえば、それでいいはずなのに。何故、僕は立ち止まってしまうのだろうか。

 今、このとき。僕が実代を愛していられたならば。そう願わずにはいられなかった。

「……誠二。わかっていないようだから言うが、君は喋るたびに、私の選択が間違っていなかったと確信させている」

「へ?」

「男が盛って、空気もムードも無いまま押し倒された友人の話をよく聞く。それに比べ、君は愛していないはずの私を、心配してくれている」

 実代は、穏やかな顔で僕を見ていた。今までとは違う。不敵な感じがする笑みはどこかに消えて、ただ、優しいだけの笑顔がそこにあった。

「確かに、私たちは恋を知らない。愛しているなんて、実に嘘くさく聞こえる。けれど……」

 実代はそこで一旦言葉を区切り、そっとキスをした。今までで一番短いキスだった。

「嘘でいい。好きだと、そう言ってくれれば、私は……一生後悔なんてしない。誇りに思って生きていくよ」




 はじめてのセックスは、想像していたよりもあっさりと終わった。

 それだけ、僕は夢中だったのだろうか。よくわからないが、痛みを堪える実代にキスをしたときに、彼女の表情が和らいだことだけは、妙に脳裏に焼き付いている。

 気持ちが良いとか、そういう感覚はよくわからなかった。ただ、熱い。それだけだ。

「……優しく、してほしかったものだ」

「ごめん」

 実代としての感想は、ひたすらに痛かった、とのことだった。

 お互いがはじめてで、上手くできるはずがない。やはり、するべきではなかったのだろうか。

 ただ、実代の仕草がかわいいと思ってしまったのも、抗えない事実だった。美人だとは思っていたが、今までかわいいと思ったことはなかった。決して、得たものがないわけではない。

「……痛かったが、決して悪い気分ではなかった。それにな、好きだと言われるたびに、痛みが少し和らいだ。キスをされるたびに、気持ちよくなった。やはり、後悔などしていない。それどころか、嬉しくすらある」

 照れたような笑みを浮かべ、実代は毛布で身体を包み、僕の頭をくしゃりと撫でた。

「誠二……この気持ちが、恋、なのか?」

「わからないよ……ただ」

 ただ。

 もしそうならば、どれだけ幸せなことだろうか。この感覚が恋と呼んでいいものならば、僕は今すぐにでも、恋愛偏重主義者になる自信がある。

 セックスの快感に取り憑かれたわけじゃない。二人が穏やかな笑みを共有できる、この感覚。リラックスなんてしていないのに、とても落ち着けるこの空気。

 胸が切なくなるという感覚など、未だにわからない。だけど、これが恋ならば。

「もし、そうなら。僕は、とても幸せだよ」

 僕はそう呟いて、実代と唇を重ねた。  

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