第二話 デートをしよう
「それじゃあ、付き合ってみようか」
突然の申し出に、僕はしばらく呆然と、口をぽかんと開けていた。
「つまり、私たちは恋愛を知らない。だから、恋愛小説を読んでも、それに共感もできなければ、感想も書けない。ならば、恋愛を知ればいい。幸い、私たちは思春期にあり、都合良く男女のペアじゃないか。交際して、恋人らしいことをしてみれば、何やら新しい発見があるかもしれん」
雪吹さんは、まるでそれが名案であるかのようにのたまった。言わんとするところの意味は理解できる。確かに恋愛を知ることができれば、感想だって書けるだろう。
「けど、別に僕たちは好き合っていない。少なくとも、僕は雪吹さんを親しい人だと思っているし、好感も持っているけど、それは読書仲間で、文芸部員としてのことだよ」
「奇遇だな。私もそう思っているよ」
雪吹さんは実に愉快そうに笑って、ゆっくりとソファから立ち上がった。音もなく、窓際まで歩み寄り、そっとカーテンを閉じる。
「何事も、まずは形からだ。案外、本当に好き合ってしまうかもしれないぞ?」
「形から入る恋愛なんて、聞いたことがないよ」
「当然だ。恋愛をするために交際するのだからな」
なるほど、完璧に目的と行動が逆転している。僕は少し考える。恋愛について、興味がなかっただけに、知識は乏しい。しかし、年頃の男女の集う高校に通っていれば、恋愛の話題などいくらでも耳にする。伝え聞く恋愛とは、お互いを想い合い、心が通じた上で成り立つ、とても甘く、切なく、高尚なものだと聞く。間違っても形から入るものではない。恋に恋する乙女がこの事態を聞くと、さぞかし怒ることだろう。恋愛を馬鹿にしているのか、と。
「まあ、それもありかな」
ただ、残念ながら僕は甘く切なく、それでいて高尚な恋愛を知らない。ゆえに、形からはいることに、さしたる嫌悪感はなかった。というか、形からでも入らなければ、一生知ることなんてできないだろう。
「よし。ならば、私たちは今から恋人同士だ。よろしく」
「ああ、うん。よろしく」
妙なことになった。そう思いながらも、たまにはこんな出来事があってもいいと納得してしまう自分が決して嫌いではなかった。
こうして、この日。僕は生まれて初めての恋人ができた。否、できてしまったというほうが正しい。
僕たちは早速行動に移した。恋人らしいこととは何かと話し合った結果、まずはデートなるものを試してみることにしたのだ。僕たちの乏しい恋愛観は、その答えに至るまでに一時間を要した。
幸い、交際開始日は金曜日で、翌日に二人して出かけることにした。場所は僕が決めることになっている。なんでも、そっちのほうがデートらしいから、ということらしい。
さて、どこに行けばいいのだろうか。そう思ったが、ここは初心に返ってみることにした。そう、僕と雪吹さんが恋人となった原因である、一冊の恋愛小説である。高校生男女の恋愛を描いたこの小説は、間違いなく参考になる。
僕は学校帰りに書店と喫茶店に寄り、二時間ほどを一杯のコーヒーで粘り、件の小説を読破した。
「……なるほど」
僕はとりあえず小説の行動をなぞってみることにした。まずは、明日の待ち合わせ場所と時間をメールで送らないといけない。どこに行くかも送っておいたほうが親切かとも思ったが、主人公はあえて報せなかった。不親切なヤツだとは思ったが、折角なのでそれも真似してみた。
翌日の朝、十一時。僕は駅前の広場にやってきていた。勿論、人生初のデートのためである。
小説の主人公は待ち合わせの一時間前に到着して、ひどく落ち着かない様子で時計を眺めていたが、僕は五分前について、ぼんやりと雪吹さんを待った。五分前行動は僕の美徳の一つである。
「やあ、お待たせ」
かくして、十一時きっかりにやって来た雪吹さんは、相変わらずの男らしい口調で、不敵な笑みを浮かべていた。
ただ、いつもと違う点は、彼女の服装が制服でなかったことだろう。僕のイメージでは、雪吹さんはラフで動きやすい、シャツにジーンズというスタイルだったのだが、その予想は大きく外れていた。
淡い桃色のワンピースに、おしゃれなハンドバッグ。サンダルとハイヒールを融合させたような履き物は、確かミュールと呼ばれていたはずだ。
「初デートではこのような出で立ちがいいという、友人の助言だ。どうだろうか?」
「イメージとは違うけど、似合ってると思うよ」
実際、雪吹さんの言動と態度さえ気にしなければ、その服装は不思議なくらいに似合っていた。いや、当然といえば当然かもしれない。彼女は上背があり、スタイルも良く、容姿も整っている。似合わない服装のほうが少ないくらいだろう。
「鷹成君も、中々映えるではないか」
「そうかな。まあ、とりあえず行こうか」
自分の服装に大した興味はない。姉に見繕ってもらった服装を素直に着ただけである。
「そういえば、まだどこに行くか聞いてなかったな。デートということで、それもさもありなんと思っていたが」
「うん。まあ、大した所じゃないけどね。映画を観に行こうと思う」
姉に話すと、あまりにも定番過ぎて面白みがないということだったが、せっかく定番になっているのだから、それを逃す手はなかった。小説でも、確かに女の子は少し呆れていたが、あいにくと僕たちは呆れるほどの知識も持ち合わせていない。
「おお、それはなんだか、とてもデートらしいな」
案の定、雪吹さんは呆れるどころか、納得の表情だった。
かくして、僕たちは駅前広場から歩いて五分ほどのところにある、けっこう大きな映画館に足を運んだ。現在公開中の映画は七本。ホラーと、サスペンス。アクションが二つと、ラブストーリー。それとアニメが二本。雪吹さんの好みもあるだろうし、敢えて決めてはいなかった。
「デートらしさを突き詰めれば、ラブストーリーなのだろうが……果たして楽しめるかは微妙なところだな」
「僕もそう思う」
これはデートなのだから、デートっぽくしなければならない。それはそうなのだが、本来のデートとは楽しむべきものだとも思う。つまり、何の感想も言えないラブストーリーよりは、他の作品の方が僕たちにとってはデートに相応しい。
「サスペンスはどうかな。けっこう評判も良いみたいだいだよ?」
「うむ。そうするか」
結局、僕たちはサスペンスを選んだ。デートというのはどうやら男が奢るものらしいが、僕たちは割り勘にした。一応、奢る覚悟と用意はしてきたが、雪吹さん曰く「奢られる理由がない」とのことだ。まったくもってその通りなので、頷くしかなかった。
さて、映画はというと、それなりに楽しめた。
僕も雪吹さんも、小説ばかり読んでいるが、映画も嫌いじゃない。二時間の映画の後、近くにある喫茶店に入り、しばらく感想を言い合ったりした。
「主人公の最後の行動は、何かを隠すためだったと考えられるだろう。だから、私が思うにヒロインは死んだと考えるべきだと思うのだが」
「隠すためだったという可能性は確かにあるね。けど、僕はヒロインが死んだと直結させるには、少々情報が少ないと思う。DVDが出たら、借りてもう一度観てみようか」
「そのときは、名実共に恋人ならば一層楽しそうだな」
雪吹さんの言葉は、起こりえない未来を語っているようで、やはりこの試みには無理があったのではないかと、ふと考えた。
僕の考えはひとまず置いておき、さてこれからどうしようかという話になった。
初デートの目的は映画を観ることであり、それは既に達成した。感想も述べたし、もう他にすることは見当たらなかった。しかし、日はまだ高い。
「どれ。少しぶらつくか」
雪吹さんはまだデートを続ける気のようだ。取り立てて予定もないので、僕は素直に頷いた。
喫茶店を出て、繁華街を歩く。休日ということもあって、人は多い。特に僕たちのような男女の連れが目立った。おそらく彼らは、僕たちのような訳のわからない関係ではないだろう。仲良く手を繋ぎ、微笑み合いながらゆったりとしたペースで歩いている。
「私たちも、手を繋いでみるか」
「え。ああ、そうだね」
すいと差し出された雪吹さんの手を、自分の手で握る。正直なところ、女の子の手を握るのは初めてだ。柔らかくて、小さくて、細い。ドキドキするということはないが、手から伝わる温かさは嫌いじゃない。
「鷹成君は、思っていたより手が大きかったのだな。優男のような雰囲気をいつも出しているから、女のような手だとばかり思っていたが、けっこう無骨なものだ」
おそらく、彼女もはじめて男の手を握ったのだろう。僕の手の中で、彼女の手が遠慮なくもぞもぞと動き、僕の手を吟味している。
「これはこれで、頼もしくて良い。折角だ、このまましばらく歩こうか」
「ああ。そうだね」
お互いの利害が一致したところで、僕たちはお互いの目を見て頷き、宣言通り、ずっと手を繋いだまま歩いた。
普段はロクに入らないブティックや、アクセサリーショップ。僕たちの中では定番の本屋。全部手を繋いだままだった。お互いの熱でしっとりと汗をかいていたが、それを気にするほど、僕たちは他人というわけでもない。少なくとも、名目上は恋人同士。相手の汗を嫌がる道理はなかった。
結局、気付けば夕方になっていた。雪吹さんは部室の中よりも明るく、楽しそうだった。僕も不慣れな繁華街だというのに、そんなことが気にならないほど、退屈をすることなく楽しめた。
もしも、恋愛感情を理解できる人間だったならば、僕は真剣に雪吹さんを好きになっていたかもしれない。こんな日が続くのならば、確かに恋愛は素晴らしいものだ。
このママゴトのような関係が終わるのは、おそらく感想文が完成した、その日だろう。僕たちは、そのために交際しているのだから。
だけど、もしも許されるのであれば、この関係をもう少し続けていたい。繋いだ手はこのまま、離れないでいてくれないだろうか。恋しいとは思わないが、この手が離れるのが惜しい。
「鷹成君。ここがお互いの家から最も近い場所ではないか?」
あれこれと考えているうちに、僕たちは繁華街を抜け、住宅街を歩き、家のすぐ近くに来ていた。雪吹さんの家と、僕の家は割と近く、徒歩で十分というところだ。
「今日は楽しかった。そうだな、初デートの最後らしく、何かしらの記念らしいものがあればいいのだが」
「記念?」
雪吹さんの言葉に、僕は首をかしげる。
「思い出というほどの意味さ。私たちの初デートとして、思い出に残る何かがあれば、それを思い返せるだろう。そういうことを大事にするのが、恋人というものじゃないか?」
確かにそうなのかもしれない。だけど、もう繁華街を抜けて、今は住宅地である。何かを買うにしては、少々場所が悪い。
ならば、形として残るものでなくてもいいかもしれない。そう、たとえば。
「キス、とかいうのはどうかな。実に恋人らしい気がするんだけど」
「ほう。それはまた、大胆というか。確かに手を繋いではみたが、親と手を繋ぐことはあった。しかし、キスともなれば、これは確かに恋人同士でしかしないことだな」
僕の提案に、雪吹さんは意外なほどに乗り気だった。
彼女の言うとおり、キスという行為は、あまりにもダイレクトに恋人という関係を表している。僕たちのような、真似事の恋人同士が、はたしてしていいものなのかもわからない。
「もしも、この先に本当に好きな人が出来たときのために、とっておくのもいいかもしれないけどね」
少し不安になって、僕はすぐに反対案も出した。だが、雪吹さんは首を横に振り、僕の顔を真正面から見た。
「このままだと、一生出来ないさ。それに、もしも好きになるとしたら、私は鷹成君を好きになるだろう。ならば、きっと良い思い出になる」
ふと、少し嬉しくなってしまった。雪吹さんも、僕と同じ気持ちだったのだ。確かに僕たちは、恋愛感情を知らない。けれど、もしも知っていたなら、間違いなく相手を好きになっていただろうとも思う。
じゃあ。きっとこの行動は、間違いではない。いや、いつか僕たちが恋愛を知ったときに、きっと間違いでなくなるだろう。
僕は右手を繋いだまま、左手で、そっと、雪吹さんの肩を抱きよせた。意志の強そうな瞳が、僕の目を真っ直ぐに見ている。そこに怯えや不安の色はない。
「いわゆる、ファーストキスというやつだな。鷹成……いや、誠二に捧げるのならば、今の私には本望だよ」
「……僕も、実代としたい」
ああ、これではまるで。
本当の恋人同士のようではないか。いつか観たドラマのようなワンシーンに、今僕たちは立っている。
すうっと、実代の目が閉じられる。薄くリップを塗っているのであろう、瑞々しい唇に目が奪われる。
恋じゃない。愛でもない。けれど、僕たちはキスをする。ただ、お互いがそれを求めたから。
ゆっくりと彼女の唇に、自分の唇を重ねる。
とても柔らかく、あたたかかった。