あやかし姫の幻想曲
赤砂を含んで叩きつけてくるような強風も止み、夜とはうって変わって清涼な空気が満ちる爽やかな朝の、まだ日が昇って間もない頃。
玄関でまどろんでいた紫色の鴉は急に首を掴まれて目が覚めた。振り返ろうにも、頭ごと鷲掴みにされていて動くことすらままならない。
「じゃあ行ってくる」
どことなく間延びした、犯人と思しき男の声が、家の中へ投げかけられる。家族からの返事を背中に受けて男は庭を歩き出し、紫鴉は呆気に取られたまま、己の意思とは関係なしに強制連行されていく。
初めの内は人形のように為すがままにされていたが、このままではどこへ拉致されるかわかったものではない。抗議の意味をこめて羽を激しくばたつかせると、あれ、と男が顔を覗き込んできた。
「おや、起きておったか、天河」
水色の長い髪を紅い珠のかんざしで高くにまとめ、黒い羽織に鼠色の袴と脛までを被う黒革のブーツという、およそ常識からかけ離れた身なりの男が、さも驚いたと言わんばかりに目を丸くしている。
――お前に起こされたんだ、お前に! ……まあそれはいい。どこへ行くつもりだ。
鴉が声ならぬ声で問い掛ければ、奇抜な服装の男はすぐそこまでと答え、肩から落ちかけた荷物を担ぎなおした。薄汚れた袋と一緒くたに背負われた琵琶が酷く目を奪う。弦が張られておらず、楽器としての機能は持たぬであろう、玉石の琵琶だ。疵一つ見られずとても艶やかで美しい。
妙な服装と優美な石琵琶が相まって男の外観は非常に派手なものだったが、この街で彼を珍しがるものは今更いなかった。長年同じような恰好をしていれば誰だって見慣れるものである。現に今も、早朝から積もった砂を掻く作業に出てくる者はちらほらと見受けられるが、特に気にした様子はないようだ。
「あれまあ藍玉、お前がこんな早くから出かけるなんて珍しいねえ。今日は雨かいね」
「やあ、酷い言われ様じゃなあ。俺が出かけるのはそんなに珍しいかの」
道行く途中ですれ違う者達から次々に声をかけられ、藍玉と呼ばれた男は気さくに応えながらも足を止めようとはしない。鷲掴みにされたままの天河は、藍玉が腕を振る度に強い遠心力を身体に受けるので、いい加減に苦しくなってきた。ぐぇ、と弱々しく鳴くと、ようやく察して藍玉は手を放してくれた。目を回している紫鴉をそっと懐にしまいこみ、首だけを表に出してやる。
さて、天河は男の羽織の中で揺られているうちに、景色の流れから駅に向かっているのだと気がついた。
駅から伸びる線路は二本。往路と、復路。通称『最果ての街』ともいわれるこのムリョウの地から、キンコウ、ケイ、ナカバ、フタエ、シドウの街を経由して、そして高い外壁に囲まれているという太極国の、入り口にあるキノトの街へと続いている。駅に向かうということは列車に乗るということで、列車に乗るということは街を出ることを意味する。となれば。
――ちょっと待て!
「はて、何じゃ」
呼び止められたのが不思議だとでも言いたげに、藍玉は軽く首を傾ぐ。
――列車に乗って街の外まで行くのが〝すぐそこ〟だと抜かすつもりか。
「そうじゃよー。なぁに大丈夫、ちょいと野暮用を済ませたらすぐ戻るつもりじゃて。ニ、三日中には帰る予定さね」
確かに藍玉の恰好はとても身軽で、彼の感覚としては、どうやら日帰り旅行と変わらないらしい。
しかし、よくぞ切符を買えたものだと天河は感心した。需要の多さから貨車が車両の大半を占め、わずかばかり存在する客車の切符は、捻出すれば一般人にも手が届く額だったが、それでも、おいそれと財布の紐を緩める気になれない程度には値が張るものだ。ましてや青年は二十歳を過ぎてなお職にはつかず、親の脛を齧っては日々気侭な生活を送っているのである。そんなに融通の利く金を、青年が個人的に所持しているとは思っていなかった。
「いやあ、そりゃまあ懐具合はかなり寒くなったが、以前から計画していたことじゃし」
――ほう、そうか。まあそんなことはどうでもいいが。じゃあ行って来い、私は先に帰……
「そうはイカの塩辛よ!」
面倒臭げに言い置いて飛び立とうとした天河を、藍玉が慌てて押さえ込んだ。それでもなお逃げ回ろうとする鴉と青年で軽く乱闘になる。
――ええいこら放せ放さんか何をする、私が行く意味などないだろう!
「大いにあるわい、おぬしの為に用意してやった旅行だというのに」
――いつどこで誰が頼んだかそんなことを。帰る、私は帰るんだ!
だが、初めに頭を押さえ込まれた天河の方が圧倒的に分が悪く、結果は藍玉の勝利に終わった。首に紐がかけられ、手綱を握られた状態となった鴉は憮然とそっぽを向いてしまった。
――安眠妨害だけならまだしも嫌だといっているのに何故行く気もしない場所へ拉致されなければならんのかもっと他人の迷惑も考えてくれないと困るし云々……
「ははは、すまんな。じゃがとりあえず損はさせないつもりだから我慢してくれ」
ぶつぶつと愚痴を零し続ける懐の相棒に苦笑しつつも、藍玉は意気揚揚と駅の門を潜った。
駅員に切符を見せて、乗り込む前に黒光りする列車の胴体を改めて眺め回してほうと嘆息し、好奇と期待とそして――僅かな寂しさを瞳に宿す。懐の中で余所見を続ける天河は藍玉の表情の変化に気付かなかった。
一人と一羽はそれぞれ異なる想いを胸に抱きながら、車内に足を踏み入れた。
発車合図の鐘が駅中に鳴り響き、列車がゆっくりと動き出す――。
「で、どうしてこんな羽目になっておるんじゃね」
寂寥とした赤砂の平原に、ぽつんと取り残された青い髪の青年。身を包む黒い羽織と袴はすっかり砂にまみれ、青年の手にした紐の先では、紫色の鴉が相変わらずそっぽを向いている。
彼らのすぐ傍らには変わらず線路が真っ直ぐ伸びているが、列車はとうに手の届かぬ遠くへ行ってしまった。
「まだ一つの駅も通過してなかったというのに……!」
大きな掌で己の顔を被い、大袈裟に嘆いてみせる。しばらくは無視を決め込んでいた天河だったが、藍玉があまりにも執拗に喚き続けるので、堪りかねてとうとう叫びだした。
――やかましい。さっきから同じ事を何度もしつこくしつこく、そんなに私が悪いか?
「おぬしがじゃなきゃ誰が悪いと抜かす気かこの阿呆鴉」
じろり、と指の隙間から鴉を睨む。藍玉と天河の間でしばし火花が飛び交ったが、先に目を逸らしたのは天河の方だった。やはり多少は罪の意識があるのだろう、がくりと項垂れて溜息代わりに小さく鳴いた。
――だって、帰りたかったんだもん。
「だもん、じゃねえわくそったれ。なんじゃ、あれか、可愛らしく拗ねていれば許されるとでも思うておるんかおぬしは。大体な、そういう口調は可憐なおなごが使ってこそ許されるんじゃい阿呆たれが。おぬしみたいないい歳こいた野郎が使っていい言葉じゃないんだよ」
文句を垂れ流すうちにどんどん藍玉の柄が悪くなってきた。それほど腹に据えかねているのだろう。
「言い訳なんぞ聞く気もないわ。無駄になった切符代を返せ、今すぐ全額返せ!」
そう叫ぶ彼の足元を、風に煽られ運ばれてきた紙片が転がっていく。その紙片こそ、無駄になってしまった列車の切符であった。
事の顛末はこうである。
列車に乗り込んだ二人(正確には一人と一羽)は、初めのうちは大人しく座席に着いていたのだが、飽きっぽい性格の藍玉は次第に手持ち無沙汰になって、退屈しのぎに石琵琶を掻き鳴らし始めた。
慣れた手付きで撥を動かす度に、弦が張られていない筈の石琵琶から奏でられる音色が聴く者の耳を心地好く撫でた。流麗で優美でありながらどことなく大胆不敵な力強さを感じさせる不思議な音色だ。まるで幻想のような――
事実、幻である。幻術を駆使した、この世ならざる音楽。
だが幻とはいえ、誰もが〝聴こえる〟と認識すればそれは紛れもない真実の音であり、美しい音色に魅了された人達が藍玉たちの周りに集まり始めた。この街の人々において藍玉の奏でる琵琶は耳慣れたものだったが、それでも飽きることなく誰もが自ずと耳を傾けた。
列車が走り出した頃には、すっかり小演奏会の様相を呈していた。
弾き終えると、お捻り代わりの菓子や煙草などが差し出され、すっかり気を良くした藍玉は満面の笑みを浮かべながら周りを囲む人たちと談笑していたのだが、一時間ほど経った頃だろうか、しばらく進んだところで車掌が切符の点検にやってきた。乗り込む前にも切符の提示はしたが、進行中にも数回、こうして見回りに来るのである。
まだ車掌は隣の車両にいる。こちらの両へやってくる前に用意しておこうと窓辺に置いた手荷物を漁って切符を探すが、貰った菓子などで袋の中身が溢れかえってしまい見当たらない。引っ掻き回すうちに中身がぼろぼろと床に落ち、拾おうと慌ててしゃがみ込んだその時、彼は握っていた天河の手綱を放してしまった。
帰りたがっていた天河は絶好の機会と見て、嘴を器用に使い大急ぎで窓を開ける。風が車内に吹き込んできた。思いのほか強い風に面食らったが、すぐ向かい風に抵抗して翼を羽ばたかせる。
藍玉が今にも飛んでいきそうな天河の様子に気がつき、しかしまだ両手が拾った菓子で塞がっていたので慌てて袋に詰めた。その拍子に、袋の奥底で縫い代に引っ掛かった切符を見つけ、また荷物に紛れ込んでしまわないうちに確保しようと咄嗟に手に取る。同時に天河が飛び立ち、既に身体の半分以上が列車からの脱出に成功していた。が、幸い――或いは不幸にも――紐はまだ手の届く範囲にあって、慌ててもう片方の手を伸ばし、掴んだ。
紐を引かれて首を絞められる形となった天河の悲鳴は無視して、どうにか車内に引き摺り戻すことに成功するものの、抵抗を止めようとしない鴉と押さえつけようとする藍玉で再び乱闘が起こる。
ふと、天河の視界に切符が飛び込んだ。藍玉の手を逃れた隙に嘴で切符を咥え、そして、
「あ、あぁ―――――っ!」
無情にも窓の外へ吸い込まれていく小さな紙片。
窓枠にすがり付いて手を伸ばしたが時既に遅く、ひらひらその身を回転させながら砂の大地に吸い込まれていく。
藍玉は愕然として、開いた口が塞がらなかった。
取り巻いていた観衆も絶句している。
天河は自分が大それたことをしたのだとようやく思い至り、硬直した。
車掌が両を移動してきた。
「えー、乗車券のご提示をお願いいたします」
藍玉の耳を打つ無情な言葉。車掌が彼のもとまでやってきたが、肝心の切符は失われてしまった。口の端が引きつるのを自覚しつつ、得意の人懐こい笑みを顔に貼り付けてみる。
「はは、それが実はじゃなあ、いや実はですね、その」
しどろもどろになりながらも、切符を無くした経緯を語ってみた。多少は酌量してくれないだろうかという、痛切な願いが込められていたのだが、車掌は営業用の笑顔を少しも歪めず言い放った。
「大変申し訳ございませんが、乗車券をお持ちでないお客様のご利用はお断りしております。別途料金を頂いてしまいますがよろしければ再発行致しましょうか?」
職務に忠実なのは結構なことだが絶対に出世は出来ない人間だな、と目の前の車掌を白けた思いで判断した。無慈悲な車掌に藍玉は返す言葉も見つからない。
助力を期待して辺りを見回したが、薄情にもいつの間にか人の輪は崩れ去って、誰もが関わりあいを避けるように目を背けている。
本当はこのまま乗っていたかったが、切符を再発行できる手持ちはないので諦めるほかはなかった。一度だけちらりと窓の外に目をくれ、まだ大した速度は出ていないことと赤砂の中に硬いものや突起物がないことを確認すると、死にはしないだろうと腹を括って、
「ふはははは、さらばじゃ皆の衆――」
出来る限り笑顔を保ったまま窓から車外へ身を投げた。
砂原に飛び込んで赤砂まみれになりながら、怪我の一つもなかったことは幸運だったかもしれない。徐々に遠くなる列車の尻を見詰め、しばらくは呆然としていたが、次第に連れの紫鴉に腹が立ってきて――現在に至る。
「俺の金が!」
――やかましいぞさっきから金金かねカネ、貴様は金の亡者かみっともない。
「仕方なかろう、おぬしがあんな真似さえしなければ俺とてこんな文句なぞ言いはせんし今頃悠々と列車の旅を楽しんでおった筈じゃ。どう責任取ってくれる気じゃ、ええ?」
ぐっと言葉に詰まる天河だが、すぐに反駁する。
――聞いていれば私にばかり責任をなすりつけているが、貴様が私を拉致してこんなところへ連れてさえこなければ、初めから問題など起こらなかったんだ。何の目的があるのか、それすら説明していないだろう。理由も聞かされずに黙ってついていけると思うな!
すると今度は藍玉の目があらぬ方を向き、しばし考え込んだ後、得意の人懐こい笑顔で精一杯爽やかに、言った。
「ひ、み、つ、じゃよー」
――もう怒った。帰る。本気で帰る。今すぐ飛んで帰るからさっさと手を放せ。
人は本気で怒ると逆に冷静になるというが、今の天河もその状態らしい。平板な口調で言い捨て、紐を引き千切ってでも飛んで行きかねない勢いだったので、藍玉は掌を返して猫撫で声で機嫌取りをする。
「すまん、本当にすまん。でもどうしてもおぬしについて来てもらいたいんじゃ。頼むよお願いだよ、無情なこと言わんともう少しだけ待ってくれ。なあ色男、優しさを見せておくれよ」
懸命に拝み倒されると、天河はしばらく逡巡してみせた後、諦めたように溜息をついた。
――そんなに言うのなら、あと少しだけ付き合ってやる。
長い付き合いだ、彼の我侭は今に始まったことではない。そう考えて天河が折れると、藍玉はあからさまに安堵の表情を浮かべた。逃げないことを確認し、ようやく首に括りつけていた紐を外してくれた。
――ただし、だ。目的は今ここで吐いてもらおう。交換条件としては安い筈だ。
「うむ。花見をしようと思ってな」
――は? ……すまんがもう一度、わかりやすく簡潔に述べてくれないかな。
「だからさ。太極国の大壁に沿って花畑が広がっているという話くらいは聞いたことがあろう。それを見に行かんかと言っている。……ほらそこ、胡乱なものを見るような目つきをすな。一度承諾した以上は文句言わずに黙ってついてきてくれなきゃ困るじゃないか。な?」
――……いいけどね。
私はどうやらこの子に甘すぎるかも知れん、と内心で苦笑しながら、訊ねてみる。
――ついていくのはいいが、これからどうする気だ。まさか歩いていくとでも?
藍玉は当然といった様子で頷いた。
「列車には置いてけぼりにされてしまったのじゃし、歩くより他はあるまい。線路沿いに、せめて夕方までにはキンコウの駅に着きたいな」
服や髪の毛についた砂を払い落とし、荷物を抱えなおすと、さっさと歩き出す。
「ほれ、早うせんか。急がないと風除け出来る場所の確保が出来なくなるでの」
砂原に足を下ろしたままの鴉を拾い上げ、懐にしまいこんだ。
「うーむ、列車の中で寝て過ごすつもりじゃったが、些か予定が狂ってしまったのう。やれやれ、のっけから前途多難じゃな、今後どうなることやら」
だが幸いまだ午前中だ。口では色々言いつつも、そこまで悲観的には見ていなかった。一歩足を出すたびに乾いた音を鳴らす赤砂を踏み締めながら、平原を歩いていく。
最果ての街ムリョウ、藍玉の実家。
一人息子が外出してからまだ然程の時間も経たぬうち、夫婦はなにやら忙しげに家の中を行き交いしていた。
「母さん、荷物はどこへ置いておけばいいかね」
「もうすぐ金剛が来てくれる頃だと思うから、玄関にでも置いといて下さいよ」
まるで夜逃げするかのような大荷物を抱え、父が玄関脇に下ろすと、計ったかのように戸を叩く者があった。
「ちわーっす、親分はご在宅ですかー?」
溌剌とした笑顔で挨拶するのは、やや長身で引き締まった体躯の、金茶色の髪が目を引く若者で、名を金剛といった。藍玉より一つか二つ下といった辺りで、青年と呼んで差し支えない年の頃だが、褐色の大きめな瞳とにこやかな表情にはどこかあどけなさが残っている。藍玉を親分と慕う彼は、こうして訪ねてきては藍玉とともに日がな一日遊び回っているのである。
「生憎だけど馬鹿息子は家出したよ」
「……ええ? そんな話聞いてないっすよ!」
黙って俺を置いていくなんて、と嘆きだした彼に、父親が用意した大荷物の一部を手渡して、庭の車庫に手招きした。
「いや家出ってのは流石に冗談だがね。まあまあ、詳しいことはこれから話すからちょっと荷物運ぶの手伝いなさい」
車庫に入ると、砂上でも難なく走れる大型駆動車が威風堂々と待ち構えていた。この駆動車、太極国の都会では比較的普及し始めているらしいが、この街にはこれ一台しかない。燃料の補給と故障に気を使ってさえいれば列車よりも足の速い優れものだが、維持費もかかる上、そう何度も列車の世話になる者もいないので、駆動車一台買うよりは切符一枚買った方が遥かに安上がりだ。問屋を営むこの家は経済的にとても恵まれた環境にあるのだが、だからこそ息子が脛齧りになるのかもしれない。
車の後部扉を開けて荷物を詰め込んでいく。
「親父さん、どこかへお出かけでもするんすか」
「お前がな」
へ、と話が飲み込めずに頓狂な声を上げる金剛の背を、後からやってきた藍玉の母が軽く叩いた。
「ちょっと頼まれて欲しいことがあるんだけれどね」
曰く、たった今積んだ荷物を彼の人に届けて欲しい、とのことだった。その報酬に、なんとこの駆動車をくれるのだという。
随分な大盤振る舞いに驚いたが、喜びよりも疑わしさの方が先に立った。こういった美味い話には、必ず裏があるものだ。案の定、「但し」と条件を付け加えられた。
「――聞いてくれるね? そうかそうか聞いてくれるか有り難う感謝するよ」
「えぇーっ! まじっすか、もしかして俺に拒否権ない?」
藍玉が外出した理由から依頼から条件まで詳細をすべて聞かされて、その上勝手に引き受けたことにさせられて、金剛は顎が外れるほど愕然とした。それでも最低限の抵抗を試みて、ねだるような甘えるような猫撫で声で、胸の前で掌を重ね合わせて懇願した。
「車はくれなくて構わないんで、届けるだけで終わりじゃ駄目?」
「こっちもちょっとはお前に悪いと思ってるから、代償として車をやるって言ってるんだろ」
「じゃあ他の暇な奴に頼むとか。天河の兄貴とか」
「天河は藍玉と一緒に行ったよ。それ以前にどうやって鴉に運転させる気か。大体息子と一番仲がいいのはお前だろう、お前も充分暇を持て余しているじゃないか」
その後もあれこれ提案してみるが、全て斬り捨てられた。これ以上何を言っても勝てないと知って、泣く泣く諦める。
「わかりやした。その役目、謹んでお受けいたしましょう。ところで藍玉親分にはこの事話してありますよね?」
金剛の問いに、両親はまず顔を見合わせ、そして言い切った。
「ない!」
「いいんすかそれで?」
実家でそんな会話がなされているとは露知らず、藍玉は大股で赤砂を踏み締めて先を目指していた。しかしこれほど長時間砂原を徒歩で行くのは初めてのことで、砂に足を取られて想像以上に体力を奪われていた。
結局、夕方までに最初の駅に辿り着く事は叶わず、途中に重なり合う大岩と大岩を見つけたので、その隙間に身を潜めて一晩を明かすことにした。
溜息とともに荷物を置き、腰を下ろす。もともと滅多に運動をしない彼にとっては、長く歩くだけでも重労働だ。足が疲れて仕方がない。ブーツと靴下を脱いで素足を晒すと、通り抜ける風が心地好かった。
「うおぉー、靴ん中が激しく臭いわ」
――いちいち匂いを嗅ぐな。
懐から突っ込みを入れる紫鴉を取り出して、ついでに花紙も取り出して鼻をかむ。
「おぉ、ほれ見てみい、赤砂のせいで鼻水も真っ赤じゃほれほれ」
――汚い! いちいち開いて見せるな!
嘴で眉間を突付かれて、あまりの痛さに声も出ず蹲った。涙目になりながらも時間を置いてどうにか復活すると、傍らに置いた玉石琵琶を手に取って、砂を丹念に払ってから乾布で丁寧に磨き始めた。
信じられない程外れた音程でさも愉快そうに歌いながら、その表情はいつになく真剣で、琵琶を大切そうにいとおしそうに見詰める様は、まるで男が慕う女性を見詰めるときの視線を思わせる……とは天河の勝手な想像だが、そう外れたものではないだろうと彼は思う。
琵琶の名を貴人という。琵琶が人であったときからの名だ。本名かどうかは知らないが、少なくとも彼女自身はそう名乗っていたし、周りもそう呼んでいた。
今の藍玉がしているように、彼女もまた、気侭に生きる人間だった。あるときふらりと最果ての街へやってきて、そのまま居着いた彼女。暇があれば木陰で琵琶を掻き鳴らして聴く者を魅了し、人と自然と戯れる日々を送っていた。周りにはいつだって彼女を慕い取り巻く者達がいたものだ。
絹のように滑らかな緑の黒髪を垂らしたうなじは真珠のように白く、真っ赤な珊瑚の唇にかんざしの珠と同じ紅瑪瑙の瞳。確か三十代の中頃だった筈だが、年齢を感じさせない不思議な魅力を持つ美しい女だった。ただ、天河は彼女との初対面で何故か散々こけにされたので、苦手意識の方が強かったのだが。
藍玉も貴人を取り巻く一人であった。少年時代、今からでは想像も出来ぬほど内向的で無口な子供だった藍玉にとって、貴人は数少ない貴重な友人だったのだ。今の彼を築き上げたのはほとんどが彼女から受けた影響だと言って差し支えないだろう。琵琶を嗜むのも、かんざしを刺すのも、真似しているつもりでしきれていない中途半端な口調さえも。
『妖姫』と呼ばれる存在が、この世にはいる。正体は人間以外の何者でもないが、ただの人間と違うのは、特殊能力を有していることである。何もないところから火を起こしたり、雨を降らせたりするような類いだ。姫と付くだけあって女性にしか現れない存在で、貴人もまた妖姫であった。
彼女の能力は、幻を操る術。藍玉が琵琶を奏でることによって見せる幻術は、彼自身が持つ力ではなく、彼女の能力を借りているだけに過ぎない。
貴人が人としての身を捨てて今の姿に変化したのは六年も昔のことだ。それ以来、藍玉は玉石琵琶と、形見となった紅瑪瑙のかんざしを片時も手放そうとはしなかった。だから藍玉がこうして心を込めて琵琶の手入れをするのはわかるのだが、その想いは友人や恩師に対するそれではなく、恋慕の情に近いのではないだろうかと、天河は何となく邪推してしまうのだ。
――いつまで過去を引き摺るつもりなのやら。
途端、藍玉が勢いよく振り向いた。胸中で呟いていたつもりが、どうやら声にしてしまったらしい。悔やんだ時には既に遅く、上下の嘴を片手ずつに掴まれて、力尽くで裂けるほど目一杯に開かされた。
「おぬしに言われたくはないねぇおぬしには。未練たらしく百年も幽霊やってるのはどこのどいつじゃ、ええ?」
口の端を吊り上げて意地の悪い笑みを浮かべながら、容赦なく捻りあげる。紫鴉は堪らず悲鳴を上げるがどうにもならない。
「全く呆れたな。自分のことを棚に上げて人にばっかり意見するでないよ」
ようやく手を離してもらえたときには、既に半分ほど意識を手放していた。頭を振るって気力を奮い起こす。
――うーむ、自分では今が楽しければそれでいいという考え方をしているつもりでいたのだがな。
そう言ったら、「ほざくな」と一蹴されてしまった。
琵琶を拭き終えて、貰った菓子で腹を足すと、明日に備えて藍玉は寝る準備に取り掛かった。といっても寝具があるわけでもなく、ただ下着を取り替えただけなのだが。
会話が途切れると、岩陰の外で鳴り響く風の音がよく聞こえた。昼の間は穏やかに流れるだけの風が夜になると急に強く吹き荒れるのが特徴で、舞い上がる砂が世界を真っ赤に染め上げるのだ。風上は決まって太極国側で、線路に沿うように、遠く離れた最果ての街まで叩きつけてくる。だから夜間に外出する者などいない。藍玉が夕方までに一番近くの街へ着きたがっていた理由はこれである。
歩き疲れたせいか、岩壁に寄りかかるだけですぐに眠気が襲ってきた。しかし眠りに着く前に、藍玉は傍らの紫鴉に声をかけてみた。
「なあ天河、おぬしには心を寄せる娘御などはいなかったのか?」
――突然何を言い出すかと思えば。寝惚けているのか?
「はぐらかすなよ」
――さあ。もう忘れたな、私が人だったのは百年も昔の話なのだから。
「……ふぅん」
言葉を濁す天河に釈然としない様子だったが、それ以上は追及しなかった。一旦瞼を閉じて、
思い出したように目を開けてもう一つ問い掛ける。
「なあ、声が聞こえないか」
天河は驚いたように目を瞬かせて周囲を見渡し、耳を済ませてみるが、聞こえてくるのは砂嵐が鳴り響く音のみ。首を振ると、藍玉は何故か苦笑した。
「聞こえんか。そんな筈はないと思ったがな、特におぬしには」
おやすみと言い残し、すぐさま目を閉めて眠りに入ってしまった。残された天河は、藍玉が何を言いたかったのかわからずに、しきりに首を傾げるばかりだった。
『行くのか、どうしても』
短く刈った紅い髪の女が、天河を見上げて訊ねる。
『酷な質問をする。私に選択権がないのは知っているだろう、罪人なのだから』
『何が罪だ、ありもしないものを着せられて、何故貴方は抵抗もせずに受け入れる?』
彼は目を伏せ、返答しようともせず顔を背けた。射抜くような女の視線が痛い。それでも彼は言えなかった。女から離れる為の口実があればよいのだ、などとは。
天河は自分がわからなかった。己の心が、己の想いの在処が。きっと女が関わっているであろう事だけはわかるが、答えが見つけられない。だから彼は逃げるのだ。考えることを放棄すれば、少なくとも悩み苦しむことはなくなるのだから。
天河の向かう先は、この太極国を囲う高い壁の向こう。壁の外へ出るということは追放を意味していた。再入国が認められる筈もなく、追い出された者は文明もない広野で孤独に生きねばならない。それは実質、死ねというも同然だった。
女が背を向けようとする天河の胸倉を掴み、自分の方へと引き寄せた。散々責め罵倒して、そして縋りついて泣きながら言う。
『わかった、もう引き留めはしない。けれど代わりに一つだけお願いだよ、約束して。どうか、どうか絶対に――』
女の願いを聴いて、天河は嘆息せずにはいられなかった。本当に、何て酷な事を言ってくれるものか、と――
叩き付けられる衝撃に驚いて目が覚めた。
急速に現実へ引き戻されて、心臓が暴れ回っていた。荒い息を吐き出して、深呼吸することで冷静さを取り戻し、状況を確認する。まだ夜は明けておらず、辺りは暗い。自分の背には藍玉の手が乗っかっていた。どうやら気付かぬうちに眠っていたらしく、藍玉が寝返った際に投げ出した腕で叩き起こされたようだ。
眠ったり起きたり鼓動が高鳴ったりという感覚は、自分が幽霊であるということを考えると妙な気はするが、それは媒体となってくれている鴉が現実の感覚に合せているからだ。鴉が天河のような魂だけの存在と現世の間に仲立ちとなってくれるから、彼は藍玉たち人間と接触を持つことが可能なのである。
ところで天河は不機嫌だった。藍玉に叩き起こされたから、ではない。それはたった今まで見ていた夢に起因する。
全く懐かしい夢だった。生前の夢を見ることは久しくなかったから、余計印象に残る。しかし、よりによってあの時の事を今になって思い出さなくても良いではないか。きっと寝る前に交わした藍玉との妙な会話のせいに違いない。
朝になったら一番に藍玉に言おう。やはりついて行くことは出来ないと。せめてキンコウの駅までで、そこからすぐに帰らせてもらおう。
彼は自分でも理由はわからないが、急いていた。漠然とした不安に襲われて意味もなく苛立ってしまう。早く朝になってくれないものだろうか。そう願う場合に限って、時間の流れが異様に遅く感じられるのだった。
焦燥感と退屈さに耐え切れなくなって、岩壁の隙間から表の様子を覗いてみる。相変わらず吹き荒れる赤い砂嵐は、生前にはなかったものだ。埃を被った不確かな記憶では確か、赤砂が舞い始めたのは己が魂のみの存在となってから数年ほど後ではなかったか。初めは少量だった赤砂も、積もり積もって今ではすっかり一面を赤一色で覆ってしまった。赤い砂漠は元来のものではなく、この地にも雨は降るし四季だってあるのだ。
赤砂ばかりではない。昔は線路だって通っていなかった。そもそも太極国の壁の外はかつて未踏の地とされ、まさか近年になってこんなにも短い期間で人間社会が進出するとは想像さえ出来なかった。列車という便利なものが出来たのも本当にここ数十年の話でしかないのだ。近頃は、更に技術の発達した駆動車とかいう乗り物もあるようだが。
何となく思い立って、人だったときの姿を表に出してみた。
鴉の上に重なるように、青年の姿が浮かび上がる。〝魂の記憶〟とでも言うのだろうか。本来は霊体という形を持たず目に見えない存在でありながら、失った筈の――生きていた頃の姿を形作ることが出来るのは。
琥珀色の髪を揺らし、長身に纏う暗灰色のロングコートは彼によく似合いこそすれ洒落気のない地味なもので、ああそうだ、確か腰に剣を帯びていた筈だと、とうに薄くなった記憶を探れば腰周りに重みを感じるようになった。この姿は天河の最後の記憶、彼女と別れたときの、そして死んだときの装いそのままだ。
『綺麗な瞳の色だね。貴方の名前と同じ河の色だ』
そう彼女が評価した瞳は、残念ながらもう見る術がなかった。鏡にすら映らぬ霊体では望むべくもない。否、別に望みはしないから構うまい。彼女に瞳の色を言われる度に、妙に不愉快な気分になったことを憶えている。
視界に捉えられる範囲の自分の身体を見下ろし、五本指の大きな手をじっと見詰める。本体は鴉だから、半分透き通ったその身体では物体に触れることは適わないけれど、確かにかつてはこの手に剣を握り、警邏隊の一員として任務を果たしていたのだ……彼女と共に。
「その姿を見るのは久しいな」背後からかけられた声に驚いて振り返る。いつの間に起きていたのか、藍玉がキセルに煙草を詰めながらにたにた笑って天河の半透明な姿を眺めていた。
――起きていたのか。
「今目が覚めたところじゃ。いやそれにしても、うん、やはり美人さんじゃの。俺が年頃の娘だったら絶対放ってはおくまいに」
からかい半分、しかしもう半分は本気で藍玉は言う。
「というか、もてていたのじゃろ本当は。ほれ、とぼけてないで正直に白状せんか。いい人の一人や二人はいたんだろう?」
――下世話なことを聞きたがる奴だな。
「話を逸らすな」
口振りの割に、藍玉の顔は真剣だった。言い逃れることを決して許さないというように、厳しい目付きをしている。何故この話題に執着するのか理解出来ない天河は、話を切り替える為に、翌朝になってから言おうと思っていたことを今、口にした。
――聞いてくれ、藍玉。すまないが、私はやはりついて行くことは出来ない。お前を近くの街まで送ったら、悪いが私だけでも帰らせて欲しい。
藍玉にとっては唐突な申し出だった筈だが、予め知っていたかのように眉一つ動かさず、冷静に訊き返す。
「ほう。それは、何故?」
理由を問われて、天河は答えることが出来なかった。理由が自分でもわからない。だが心のどこかで訴える声があるのだ。お前には国に近づく資格はない、許されないのだ、と。
――理由なんて……正直に言えば、私にもわからん。けれど私は……そう、強いて言うなら……帰りたい。帰りたいんだ。だから……。
天河の悲痛な訴えを、よりによって藍玉は鼻で笑い飛ばした。愕然とする天河に対し、更に問い重ねる。
「帰りたい? ……どこに?」
対面する彼らを取り巻いて、表では変わることなく砂嵐が甲高い音を鳴らしながら吹き荒れ続けていた。
風が止んでなだらかになった赤砂の上に、藍玉の足跡が次々と刻まれていく。
藍玉と天河は会話を交わすことなく、稀に藍玉が独り言めいた呟きを漏らす程度で、あとはただ黙々と、先に進むことだけに専念していた。太極国に向かって歩いているのは昨日同様だが、進路は明らかに線路から逸れていた。藍玉の駅に向かうまいとする露骨なまでの魂胆だ。
天河は藍玉が線路から逸れて行く事に気付いてはいたが、何も言えずにいる。脳裏では昨晩藍玉に言われたことが繰り返し繰り返し巡っていた。
帰りたい、と思った。それは嘘ではない。今の天河にとって帰る家といったら、居候先である藍玉の実家しかない。ない筈だ。
更にこうも言われた。『そんなにも帰りたいのならば何故振り切ってでもすぐに帰ろうとしなかったのか』と。藍玉一人を僻地に置き去る事は出来ないから、というのが理由のつもりだが、もしかしたらこれは言い訳に過ぎないのだろうか……?
「うわぁ」
気の抜けるような藍玉の声に、天河は思考を中断させられた。藍玉の肩の上から行く手を見下ろせば、蛇がのたくったかのような曲線が砂の上に残されていた。少し目を奥のほうへ向けてみれば、現在も一筆書きが続けられている。
――砂虫か。どうする、引き返したほうが……
「絶対に嫌じゃー」
――いや、あのな。せめてここ一帯は避けたほうが良いんじゃないかと言っているだけで。
「駄目!」
他人の言い分を聞こうとしない藍玉の態度に、天河は内心で絶叫していた。人間の手があったら頭を掻き毟っていたかも知れない。藍玉の我侭で頑固で子供じみた性格はよく知っていて慣れてもいるが、こんなときばかりは腹が立つ。
砂虫は名に〝砂〟を冠するが、名をつけられたのはごく最近だ。元々地中の浅いところに潜り込んで生息していたのだが、赤砂が積もったお陰で表層まで出てくるようになった。肉食ではなく凶暴性もあまりないから極端に警戒することはなさそうに思えるが、いかんせん体が大きすぎる。長い胴体に両手を広げたほどの横幅があれば重量も相当なもので、万が一体当たりされでもしたらただでは済むまい。だからこそ回避するに越したことはないのだが、藍玉は「まっすぐ進む」の一点張り。
――もしものことがあったらどうする、ご両親になんと詫びる気だ!
「もしものことが起きる前にさっさと突っ切れば問題ないわい!」
などと言い張る藍玉だが、既に息が上がっている。慣れない砂道と、朝から歩き通しのせいで、まだ昼前なのに目に見えて足取りが重くなっている。砂虫も俊敏とはいえないが、それでも直線の動きなら人間の足よりずっと速い。
――無理するなと言っているのに……。
「いーやー、じゃー! 嫌じゃ嫌じゃいや……おや?」
ふと何かに気付いて、口論を中断して遠くを見た。自分達が歩いてきた方向から砂埃が上がっているように見える。いや、気のせいではない。それどころか徐々にこちらへ向かってきている。更に目を凝らせば、砂埃の中心にはどこかで見覚えのある車。それは実家の車庫に置いてある筈の、父親の駆動車ではなかろうか?
「パパ?」
こんな所に何の用だろうと首を捻る。ところが藍玉たちの前で停車して中から降り立ったのは父親ではなく、藍玉の子分を自負する男、金剛であった。
「うわーい、やっと見つけたっすよおやぶーん!」
降りた瞬間、飛び込むように藍玉にしがみつく。天河は咄嗟に上空へ逃げたが、事態が飲み込めない藍玉は体当たりをもろに喰らって尻餅をついてしまった。
「はぁ? なんなのなんなのお前、何でこんな所におるんじゃね」
「やだなあもう何言ってんです親分を探してたに決まってるじゃないですか寂しかったっすよ昨日いっぺんキンコウの駅に行ってみたらそこで下車した人にたまたま出会えて親分は途中で窓から落ちてったとか言うじゃないですかしょうがないから一度始発駅まで戻ってはみたもののやっぱり親分はいなくてそのうち夜になっちゃうし車ん中で一晩過ごすの辛かったっす心細くて心細くてそんで今日になってぐるぐるぐるぐるあちこちを探し回ってたらようやく足跡見つけてやっと親分に辿りついたんですよもし行き倒れてたり砂に生き埋めになってたりはぐれ竜に食われてたりしたらどうしようかと本気で心配したんですからねもうすっごい不安だったんすようわぁん親分会えて良かった生きてて良かったー!」
機関銃のように捲くし立てる金剛と対照的に、藍玉と天河は呆気に取られて声が出ない。
しばしの間を置いて、藍玉が考え込むように眉間を親指と人差し指で挟みつつ、要点をまとめるべく金剛に質問する。
「うむ、お前が俺を追ってきたというのはわかった。いいか、これから俺が一つずつ訊ねるから正直に答えおれ。まずは、一体何の用じゃ」
「はいっ、親分の親父さんとお袋さんに頼まれて荷物をお届けにあがりやした!」
余程藍玉に合流できたのが嬉しいのか、いつも以上に明るく笑顔で朗らかに声を張り上げる。
「は、パパとママが? 俺に荷物じゃと?」
「うん。積んできた荷物全部だそうで。報酬としてこの車をあげるからって」
「えぇぇ、なんで息子の俺より先に金剛にやっちゃうのかなあ」
「あ、俺と親分と共同で使えとのお達しっす」
「なんじゃ、そうかえ。安心したわ」
駆動車の譲渡と聞いて不満の声を上げるが、自分にも所有権があると知ると安堵の息をつく。藍玉も気に入っていたこの車が、もし知らぬ間に第三者の手に渡ってしまっていたら、間違いなく憤慨したであろう。それに比べれば、可愛い子分とで共有ということなら文句のあろう筈はない。ちなみにこれは余談だが、街に一台しかない車を譲ってしまって両親は平気なのだろうかと首を傾げれば、既に新車の購入予定があるらしいと金剛が教えてくれた。
「おお、話が脱線してしまったな。ところでこの荷物じゃが、随分と多すぎはしまいか。こんな大荷物、俺にどうせよというのか」
後部扉を開けると、両手では抱えきれないほど荷物の山、山、山。袋の口から覗いてみると、衣類や食料、その他日用雑貨が溢れかえっている。まるで引越しか或いは夜逃げかと紛う程だ。そもそも二日三日程度で帰宅するつもりなのだから、こんなに荷物があっても困るばかりだ。頭上に疑問符を浮かべていると、金剛があっけらかんと言い放った。
「なんかね、勘当らしいっすよ」
「……なんじゃて?」
聞き間違いかと思って訊ね直すが、やはり金剛の回答は変わらなかった。
「親分のご両親がね、今まで甘やかしすぎたから修行させたいって。いい機会だから外で見聞を広めて来いとか言ってました。しばらく家に帰ってくるな、だそうな。いやあ、俺までとばっちり受けちゃいましたよぉあははははー。でも俺、しばらく帰れないのは寂しいけど親分と一緒ならたとえ火の中砂の中、どこにでもついて行けるっすよ!」
「――って、笑い事じゃなか! え、ちょっと待てよ。俺、もしかして追い出されたの?」
愕然として傍らの天河を見る。鴉も呆けたように藍玉を見上げて微動だにしない。つと視線を動かして金剛を見ると、朗らかな表情のまま、
「そういうことになりますねー」
と頷いて返した。少しの間、事態が飲み込めなくて瞬きをする。そして状況を掴むなり、絶叫した。
「パパーッ! ママァ―――――ッ!」
……その声が両親に届く筈はなく、辺りには藍玉の悲鳴が空しく響き渡っていた。
藍玉は目を見開いて顎を落としたまま硬直する。そのまま固まること数分、今度は機械仕掛けのようにぎちぎちと、不自然な動きで天河を振り返った。心なしか、声まで固くぎこちない。
「……ふふ、ふえへへ……ふげへへへ。聞いたな天河、これで帰る理由はなくなったぞ。大人しく着いてくるよな?」
藍玉の水色の瞳が爛々と怪しげな光を放っている。天河は殺気にも似た視線に身の危険を覚え、しきりに頷いた。この状態で逆らったら何をされるかわかったものではないからだ。
天河の反応を見て藍玉は笑んだ。満足げというよりは、自棄だ。天河も金剛もわかってはいたが、敢えて何も言わずにおく。
金剛が何気なしに藍玉から視線を逸らすと、砂が盛り上がりながら曲線を描き、とてつもない勢いで進んでいることに今更気がついた。しかもこちらへ向かって来そうな気配さえする。
「うっわ。やばいよ親分砂虫がこっち来るっす!」
金剛の声に驚いて振り返れば、なるほど、今のままの進路では正面からまともにぶつかってしまうだろう。こういう時に限って砂虫は方向転換する兆しを見せない。
「おおぉ、こりゃいかん。乗り込め金剛、すぐに車を出しとくれ!」
大慌てで二人と一匹は車に飛び込み、急発進させた。初めから出力全開、全力で車を走らせるも、砂虫はなおも追い縋って来る。しばしの間奇妙な追いかけっこをする羽目となったが、やがて諦めたのか気紛れを起こしたのか、とにかく砂虫の進路が逸れてくれた。ほっと吐息した時には、既に結構な距離を進んでいた。
『女が三人集まれば姦しい』とはよく言うが、どうやら男が三人集まっても同じことになるらしい。車内は酷い喧噪に包まれていた。
「パンツは、俺様のパンツはどの袋じゃ。靴下はどこじゃい」
「あー、俺は積んだだけなんで把握してないなぁ。ところでそろそろ茶ぁしばきませんか。お袋さんが水筒に香花茶淹れてくれたんですけど」
「わぁ、飲む飲む。やあ助かった、俺が持ってきた水はもう底が見えておったからのう」
――なんでそんな高級茶を惜しげもなく飲めるかな。これだから贅沢に慣れた人間は……。
「ほらそんな斜に構えてないで。兄貴も飲みたいんでしょ?」
――飲む飲む飲むとも飲ませて下さい。うん、この香り高い……臭い! こら藍玉、人の頭に脱いだ靴下を乗せるな馬鹿者!
「俺の着替えが見つからないのじゃよぅ」
――なら裸にでもなっとけこのすっとこどっこい! 私に靴下を乗せる理由がどこにある?
「まあまあ落ち着いてくださいな兄貴、そんなに興奮するとパンツ脱げるよ」
――穿いておらんわ!
「鴉のストリップはやはり羽根を一枚一枚捥いでいくのかね。少しばかりえぐいのう」
「丸裸の鴉……わああ想像しちゃった、怖いよー!」
――私、私……こいつらとよく付き合っていられるなあ……泣きそう。
など、こんな会話は一部分に過ぎない。三人は妙な熱気を持って騒ぎ立てていた。特に藍玉と天河は、昨晩の諍いを忘れたかのように、意味のない話題を拾い上げては不自然にはしゃいだ。とはいえ、故意に盛り上がろうとしたところで無理が出るのは至極当然。次第に話題も尽きていき、今度は逆に身動ぎの微かな音さえ耳に響きそうなほど沈鬱な空気が場を支配してしまった。
静寂を破かぬよう、気まずい思いを堪えて金剛は黙々と運転を続けている。普段は気にも留めない車の振動音さえ耳障りに思えてきた。第三者である金剛がこうなのだから、藍玉と天河はもっと神経質になっているのではないかと思って鏡越しに二人の様子を盗み見ると、各自物思いに耽っているようで気にした風はない。杞憂だったろうかと息をつきかけた瞬間、急に天河が顔をあげ窓にへばりつき、外の景色を確認して興奮の態で金剛に向かって叫んだ。
――停めろ! そうだ、ここだ。早く!
金剛が仰天して車を急停止させるよりも先に、天河は嘴でどうにか窓を開けようと奮闘していた。が、やはりそう器用には開けられない。手伝おうと運転席から身体を捻って腕を伸ばした金剛を制して、藍玉が天河の小さな身体を後ろから包むように捕えた。
「ここが、どうしたんじゃ?」
――ここは……。
天河は目を閉じて、過ぎし日に思いを馳せた。もう当時の景色とは大分変わってしまったけれど、肌で感じ取る。そうだ、ここは最後の場所――自分が眠っている場所。もうとうに土へ還ってしまっているだろうが、この砂の下に、百年も昔に別れた自分の身体がある筈だ。
そしてあの時、死の直前に決意したことを思い出す。
私は二度とここから引き返さない。
二度と、彼の地へは戻るまい。
彼女のもとへは帰らない、と。
――私はこれ以上行かない。いや、行けない。私の旅はここまでだ。ここで降ろしてくれ。
「ここでって、こんな何もないところで? それにもうすぐ夜っすよ、嵐の中どうやって過ごす気ですか!」
考え直すように説得するも、天河は首を左右に振るばかり。すると、何故か藍玉が突然怒り出した。
「馬鹿か、何が『私は行けない』じゃ、ふざけおってからに。どうせおぬし一人が勝手に誓っておるだけじゃろう、誰に強制されたわけでもないくせに、何故そんな頑なになる。いいや知っとるぞ、決意なんてものは言い訳じゃ。おぬしは逃げておるだけじゃろう!」
天河の首を絞めかねない勢いで、子供が駄々を捏ねるように鴉の身体を振り回す。急激な遠心力もそうだが、藍玉が怒り出した理由がわからなくて天河は目を白黒させた。
――お前、何を言って、
「おぬしにはこの声が聞こえんのか? ずっと呼び続けている、この声が!」
「親分、落ち着いて」
金剛の制止で藍玉は手を離し、肩を大きく揺らして荒く息を吐く。呼吸を整えると、何を思ったか扉を開け放って砂地に踊り出た。車の方へ振り返り、舞台役者のように両腕を大きく開いて彼は語る。
「貴人に聞いた事がある。この砂と夜毎の嵐は、風姫が想い人へ伝えようとする言葉なのだそうな」
風姫、と聞いて、天河は胸を衝かれた。心当たりは確かにあった。だがすぐに気の迷いだと思い込もうとして頭を振る。そんな彼を責めるように強い口調で藍玉は更に続けた。
「風姫がこれほど長い間呼び続けているのに、当の想い人は目を逸らし耳を塞ぎ、気付こうとはせん。無視され続ける風姫は憐れよな。なあ、天河。相手の男は何てあくどいんじゃろうな。男はきっと、己の偽りの平穏を守る為だけに、顧みるべきを顧みず辺境の地に埋もれて満足した振りをしてるんじゃろうよ。そのくせに後ろ髪を惹かれるから右往左往して、結局自分で帰るべき場所を見失っている。実に滑稽じゃて……なあ?」
藍玉は嫌味な笑みを貼り付けて首を傾げる。彼は言外にこう語っているのだ。
〝風姫が呼び続けるのはお前だ〟
気付けぬほど天河は愚かではない。しかし認めたくはなかった。認めてしまっては決意が鈍ってしまうから、決心した意味がなくなってしまうから。
なおも頭を振る鴉を見て、藍玉はむくれた。このわからずや、と吐き捨てると、俄かに貴人を抱えて歌いだした。
空に向けて、瞼を閉じて腹の底から息を吐く。昨夜の調子のはずれた音程とは全く別物の歌声。張りがあってその上深みを持つ鋭い歌声こそ、藍玉の真の声。空に溶け込むような音色に、つられて天河も空を見上げた。
時刻は既に黄昏に近く、空は紅を差したように淡く赤に染まりはじめていた。地平に向かって段々と色濃くなっていき、斜めに差し込む日の光で金色に縁取られている。微妙な彩りが魅せる幻想的な美しさに目も心も奪われた。その景色は彼に懐郷の念を抱かせる。
遥か昔、こんな空を眺めながら家路に着いたものだ。懐かしい光景が瞼の裏に鮮明に浮かぶ。
私はどこへ帰るのだろう。ふと疑問が胸に甦った。帰る場所はきっとあの空の向こう、だが私の帰りを待つ者はいただろうか。私は帰らないと決めたのだ。もとより帰れる筈がない。
追放されて広野を当て所なく彷徨いながら、何度も踵を返しそうになった。決意しておきながら挫けそうになる己の弱い心に鞭打って、ただただ歩き続ける。そのうち、歩いている理由さえわからなくなった。どうせ行く当てなどないのだ、ならば誰か、私の旅に終わりを告げてくれればいい――
望みに応えるようにして、一匹の竜が雲の上から降りてきた。常は天空を住処とするこの生物は、ごく稀に気紛れを起こして地上へ降りてくる。獰猛な生物は手頃な餌を求めて。
天河ははぐれ竜を見て、逃げる気も起きなかった。喰われるならそれも一興と、呆然とはぐれ竜を見詰めている。やがて竜が牙を剥き、彼に向かって進んできた。そうだ、私は百年前にこうして生を終えたのだ。
『それでいいの?』
有り得ない声。ここにいる筈はないのに。振り向けば、そこにいた。
彼女が。
はっと気付いて再び空を見る。はぐれ竜は確かにこちらへ向かってくるが、その標的は自分ではなかった。頭上すれすれを竜の胴体が掠めていく。誰が狙われているか察した瞬間、考えるより先に、咄嗟に足が駆け出していた。
――どうして。
天河は強く舌を打つ。
――どうして、お前はいつも、いつも!
走りながら腰に帯びた二本の剣を引き抜く。
――どうしてお前は、いつもいつも私を苛立たせる!
彼女とはぐれ竜の間に身体を滑り込ませ、二人の身を守るように双剣を構えた。
はぐれ竜が彼らを飲み込もうと大きく口を開ける。双剣と牙がぶつかり合う――瞬間、酷く鋭い破裂音が耳を劈いた。
気がつけば、天河は鴉に戻っていた。手にしていた筈の剣は消え失せ、はぐれ竜も、彼女さえも姿を消していた。代わりにあるのは、駆動車の傍で不安そうに佇む金剛と、ピストルを上空に向けた藍玉の姿だけ。ピストルからは微かに煙が上がっている。ようやく、今まで見ていたのが幻だったのだと理解した。
「過去を引き摺っているのはおぬしじゃろう」
音を鳴らすしか能がない玩具のピストルから使用済みの火薬を抜き取り、藍玉は淡々と言葉を紡ぐ。
「随分と必死の形相をしておったな。それだけ大事な人というわけか」
――……何故、お前があいつのことを知っている?
色々と言ってやりたい事が多かったが、どうにか搾り出せた言葉はそれだけだった。
「誰のことじゃ。幻を見たのはお前だけ、お前が誰を見ていたのかなんて俺は知らんよ」
意地悪く口の端を上げる様を見て、天河は嵌められた事を知る。絶句する鴉を快活に笑い飛ばし、貴人を大袈裟に抱き締めて藍玉はこう言った。
「夕べ、おぬしは俺が過去を引き摺っていると言ったが、俺は別にそれを悪いとは思わんな。それよりも、同じく過去に執着しているくせに否定して誤魔化そうとするほうが余程どうかと思うぞ。やはり自分には正直に生きないといかんて。俺は貴人が大好きで、だからこうしてずっと貴人と一緒にいる。おぬしも、そろそろ本音を出したらどうじゃ?」
天河は何も言わない。何と答えるべきか、適した言葉が見つからない。藍玉も返事を期待していたわけではないようで、この話はこれで終わりというように、手を打って声を張り上げた。
「さて、太極国へ行こうか!」
散々迷った挙句、天河は首を縦に振った。
結局、未練は断ち切れていなかったのだ。彼は認めざるを得なかった。己を騙して百年もまごつくくらいなら、例え根性無しと罵られようが、さっさと納得のいくように行動すればよかったのだ――
「……えー、お取り込み中申し訳ないんすけどぉ」
雰囲気を台無しにするような金剛の情けない声に、二人の腰が砕けた。親分と兄貴分からじろりと睨みつけられて狼狽しつつ、やけっぱちの笑顔で上を指差した。
「お、お客様でぇーす」
金剛の台詞とどちらが先か。ふ、と視界が影に覆われた。まだ日は落ちきっておらず、不自然な影に二人は恐る恐る目線を持ち上げる。ぞろりと蠢く長い物体。それはたった今まで天河が幻視していた、
「は……はぐれ竜――」
三人は引きつった笑みを貼り付けつつ顔を見合わせる。そして一斉に、絶叫した。
はぐれ竜は砂虫のように気紛れな動物とは訳が違う。好戦的で且つ血肉を好み、餌として目をつけられた人間が逃げ延びる可能性は五割に満たないといわれている。人間にとって幸いといえるのは、はぐれ竜はそう滅多にお目にかかれるものではないということだが、こうして出会ってしまった彼らは運が悪かったとしか言いようがない。
「俺が何をしたというのじゃい、日頃の行いだって清廉潔白、非の打ち所は全くないのに!」
――抜かせ悪童、貴様のどこをどう取って清らかだというつもりか。鏡を見直して来い!
逃げ惑いながら罵りあう藍玉と天河に、同じく逃げながら金剛が仲裁に入る。
「まあまあ二人とも、無駄な体力つかわないで。それより親分、一丁決めましょうよ」
そう言って片目を瞑る金剛を見て、意を得たとばかりに藍玉は背負っていた貴人を身体の前に回し、急反転して撥を構えた。突如立ち止まって呑気に琵琶を弾き出した藍玉を目に留め、はぐれ竜が好機と見て襲い掛かってくる。逃げる気配を見せない人間に牙を大きく剥いて、一息に丸飲みした。
が、確かに捕えた筈の肉の感触がないことに怒り狂い、雷鳴を思わせるほど重く響く声で咆え猛る。
「や、ごめんね」
謝罪の言葉をはぐれ竜が理解したかどうかは定かではない。しかし、首の後ろに何かがいつの間にか乗っていたことは確かに理解した。
理解した刹那、走る激痛に咆哮する。それもすぐに途絶え、全身の均衡を失って砂の大地へ雪崩れ込むように墜落した。地響きと共に大量の砂埃が舞い上がる。
「金剛、無事か?」
「ふえぇ、だいじょうぶでぇす」
墜落したはぐれ竜に駆け寄ると、金剛が目を回しながら竜の首に縋りついていた。墜落時の衝撃に頭が揺さぶられはしたものの、傷らしい傷は負っていないようだ。藍玉はそっと安堵して、子分を助け起こした。
――うわ、本当に退治するとは。無謀というか何というか……。
天河が呆れて溜息をつく。彼は一部始終を見ていた。
藍玉が立ち止まって琵琶を弾いたのは僅かな間。それからすぐにその場を離れていた。幻術によって餌がまだそこにいると思い込んだはぐれ竜が地上ぎりぎりまで接近した時、両手剣を手にして首筋に金剛が飛び乗った。不安定な足場にありながらしっかりとした足取りで、驚くほど鮮やかにはぐれ竜の首を切り払う。強固な鱗と骨に阻まれて切断するまでには至らなかったが、傷口を覗けば首の半分は切り開かれていた。
「さすがは俺様の子分じゃ、相変わらず見事な馬鹿力よな」
「えへへ、まあそれが取柄なんで」
親分に誉められて照れ笑いを浮かべる。
さて、と藍玉が目配せすると、金剛は車に戻り、何やら漁った後ごそりと荷物を抱えて戻ってきた。
――何をする気だ?
と天河が問えば、二人は声を揃え、
「解体」
と簡潔に答えた。
――おい、先を進むのではなかったか。そんな物は放っておけよ。
すると恐ろしい形相で天河を睨み、非難するように彼らは叫ぶ。
「金になるのに?」
竜の鱗や牙は武器や装飾品などの上質な材料として、肉は珍味として重宝されるのだ。貴重な商品は、当然高値で売れる。欠片でも相当な価格で売れるのだから、丸一匹もあればしばらくは贅沢したい放題だ。
――……。……もういい、勝手にして。
眩暈を起こす鴉を他所に、二人ははしゃぎながら解体作業に没頭した。
「よし、まず鱗を全部剥がそうかの。それから牙も引き抜こう。肉は持っていけるかな」
「保冷箱あるっすよ。ただそんなに大きくないから持って行けるだけにしときましょ」
「なら生肉と、保冷箱に入りきらない分は焼いて袋に詰めようか」
――おーい。もうすぐ日が暮れるからさっさとしろよー。
半ば投げやりに忠告して、一人車内に戻って二人の作業を眺めている。楽しそうな彼らを見て、呆れる傍ら内心では微笑ましくも思っていた。
百年も未練がましく地上に留まり続けた惨めな魂を、彼らは笑って受け入れた。彼女に抱く感情とは全くの別物だけど、天河は藍玉たちが好きだった。共に過ごすうち、天河にとってかけがえのない、家族とも呼べる仲間となっていたのだ。
まあ、手のかかる弟たちだと思えば腹も立たんか。相変わらず解体に勤しむ二人をぼんやり見物しながら、そんなことを考えていた。
――私が生前に勤めていた警邏隊にね。居たんだ、風の妖姫が。
車内から外の砂嵐をぼうと見やって、天河は言う。夜の帳が下りる時刻、遅々としてはいるものの車は進み続けていた。車体は強い風に煽られて、赤砂が視界を埋め尽くして走行を阻むが、着実に前進している。
訥々と、紫鴉は自身の過去を、生前の思い出を語る。
妖姫の存在は広く知られていて、極端に珍しいものではない。けれど、特殊な力はそれだけで異端だった。藍玉らが貴人を受け入れたように土地柄にも寄るだろうが、彼女等は迫害を受けることはないにしろ概ね疎んじられる傾向にあった。
太極国を取り囲む高い壁の、外界へ繋がる唯一の門を有する街、キノエ。この地を治める領主の娘がまた妖姫であり、娘の扱いに困った父親が彼女に与えた職が、私設警邏隊の長という地位だった。父の為に街の為に、役に立てる良い仕事だと勧めたらしい。それは事実でもあるが、半ば家から追い出す形で無理矢理つかされた地位でもあった。世間体は繕える、体の良い厄介払いである。
それでも娘は父の期待に応えようと、華奢な身体で背伸びして、慣れない剣を片手に奮闘していた。だが、そんな懸命な姿が面白くない人間もいた。他でもない警邏隊の面々だ。
天河もその一人だった。分不相応としか思えない小娘に隊長面をされて、いい気分でいられる筈がない。更に不愉快なことに、副隊長の座に任ぜられていた彼は『隊長の補佐』という名目で世話役として彼女の面倒を押し付けられる羽目になった。彼女が何か問題を起こせば、天河までが責任を負わされるという意味だ。これでは気が滅入ろうというもの。
これらの事情から、天河が彼女を見る目は相当厳しいものだった。ほとんど監視に近いと言っていい。一挙手一投足あらゆる点で、少しでも妙な真似をしないように見張るのだ。
初めはそんな見方しかしていなかった筈なのに――いつの間に違う意味で目が離せなくなったのだろう。
そうだ、彼女という人物そのものを嫌悪していた訳ではなかった。立場などは抜きにして、ただの個人として出会っていれば、全く違う印象を抱いていたと思う。与えられた地位に相応しい人間となるべく凛と立ち振る舞う姿が、仔犬を見ているようで嫌いではなかったのだ。
そうかと思えば、時に思いがけない表情を見せたりもした。
いつだったかはもう忘れたが、警邏隊本部として構えられた邸の露台で夕涼みをしていたことがあった。ずっと隊長の監視の為に気を張り続けていたからか、随分と疲弊していたことを憶えている。息抜きのつもりで、一人きりになれるこの場所を選んだ。
そろそろ中へ戻ろうとして扉へ近づいたとき、いきなり目の前で火花が散った。強かに打ちつけた鼻柱を押さえて蹲り、涙を堪えて上目で扉の方を睨むと、向こうで隊長が目を丸くしている。状況を理解した天河は、痛む鼻を押さえたまま彼女へ大股で歩み寄った。
『扉を開けるのにいちいち風を起こすなと前にも言ったろう、手を使え手を! 不精するんじゃない!』
『す、すまない……大丈夫か? でもほら、私だって他意があった訳じゃないし、これは事故だよ。だからそんな怒るな』
『他意があってたまるか。よからんことを考えようものならその場で叩き伏せているところだ。だがな、せめて力を使う前に周囲の確認ぐらいは出来んのか貴様は』
吐き捨てると、隊長は苦笑いを浮かべて首の後ろを掻いた。しかしすぐに人の悪い微笑みへ顔を変える。
『まあいいじゃない、どうせこのことは貴方と私だけの秘密なんだから。だってそうでしょう、これを取り沙汰されたら困るのは貴方だ。私のせいで扉に鼻をぶつけただなんて報告をしたとして、万が一そんな下らない問題を理由に私が処罰されるとしたらどうする。私が罰せられたら、貴方だって監督不行き届きとして責任を負わされるんだよ。そうしたら恥を掻くのはそっちだ。だったらここは、水に流した方が良いじゃないか。ね、だからさっさと忘れなよ』
あっけらかんと無かったことにする彼女の言葉に、天河は二の句が継げずにいた。人の弱みを握って随分好き勝手な真似をしてくれる。頭痛を覚え、額を押さえて舌を打つ。
『どうしたの、眠いの?』
『貴様のあまりの幼稚さに呆れているんだ』
思わず声を荒げてしまう彼に対し、彼女は頬を膨らませて反論する。
『短気な貴方より余程ましでしょ。それに他人を子ども扱いするのはやめてよ、貴方とほとんど歳離れてないんだから』
と言うので年齢を問えば、二十二歳だという。
『二つも違うじゃないか。私の年齢を超えたら、子供じゃないと認めてやるよ』
『うわ、何その態度。凄く腹立つなあ』
鼻で笑う天河に憤慨して地団駄を踏んでいたが、不意に何かを見つけ、途端に彼女は腕を引っ張って露台の手摺りに駆け寄った。面食らう彼に、日が沈む方角の遥か遠くを指し示す。
『ほら、綺麗だろう。この街よりずっとずっと遠くに、貴方と同じ名前のとても澄んだ河があってね。水面に反射する夕焼けは、水さえ燃やすかのように激しい赤色をしているんだ。一度実物を見せてあげたいよ』
懐かしむように遠い目をしてしばしの間。我に帰ると、手摺りから身を乗り出して眼下に広がる赤く染め上げられた街並みを見下ろす。
『私はここから眺める景色が大好きでね。ここは見晴らしも良いし、いつだって清清しい風が吹いているから』
そう語る彼女の横顔を天河は眺めた。風に煽られる赤い髪は、夕焼けよりも美しいと思ってしまった……不覚にも。遠くを見詰める表情は、普段の気負った表情とは全く違う。
『貴方にも気に入ってもらえたら、凄く嬉しいんだけどな』
振り返る彼女の鮮やかな笑顔が、いつまでも天河の瞼に焼き付いた。
――私が彼女を本当に意識し始めたのは、恐らくその頃からだ。
けれどその感覚が不快だった。どういう目で彼女を見たいのか、彼自身わからなかったから戸惑ったのだ。
自然、接する態度がぎこちなくなった。面と向かうのが躊躇われて、意図的に目を逸らすようになる。彼女に惹かれていると認めたら自分の弱さを証明してしまうような気がして、嫌っているから顔をあわせないようにしているのだと思い込もうとした。が、自分の気持ちを誤魔化すのにも限界がある。次第に足元が雲を踏んでいるように不安定になりだして、逃げ出したくなった。
そんな折、彼の身に降りかかった出来事が、身に憶えのない殺人未遂罪だった。
警邏隊隊長がある晩に襲撃された。幸い被害者は軽傷で済んだものの、目撃者は無く、被害者も犯人の顔は見ていなかった。が、犯人は逃走際に凶器を落としていた。それは副隊長が常に携行している短剣で、同じ型は存在しない。副隊長は常日頃から隊長への不満や恨みを周囲に漏らしていた為、彼が殺意を持って犯行に及んだことは明白である――あらましはこういうことらしい。
明らかに冤罪だったが、天河は控訴することもなく処罰を受け入れた。当時の刑罰では、殺人という禁忌に抵触した者は例え未遂であっても永久追放と定められていた。彼はそれを、彼女から、というより己の煩悶から逃れる為の手段として利用したのだ。そうして天河は国を去り、広野ではぐれ竜に襲われ孤独に息絶える。けれども心の中には強い未練が残っていて、紫鴉の身体を借りてまで百年もの間地上に留まり続け、現在に至る、という訳だ。
「どうして兄さんがそんな濡れ衣を着る羽目になったんです?」
――さあ。理由なんてどうでもよかったから調べもしなかった。ただその時は、罠だとわかっていても目の前の餌に飛びつかずにはいられなかったんだ。とにかく彼女と距離をおきたかったから。
与り知らぬところで恨みを買ったか、或いは何者かの企みに利用されたか。全く彼に関わりの無いことで命を落としたというのに、天河は冷静に受け止めている。
――〝何故〟というのは、大した問題ではないから構わない。重要なのは当時の私と彼女の気持ちかな。……実はね、最後に見た彼女の泣き顔が忘れられないんだ。
百年もの未練はそれが起因だと、今なら受け入れられる。泣きながら突きつけられた『約束』は、承諾せずしかし拒絶もせず、無視する形で逃れてきた。
――でも、いい加減に答えをださないといけないね。
天から若干闇色が薄れてきて、東の空の地平線辺りがぼんやりと白んでくる。彼誰時、一行の車はとうとう太極国を囲む大壁の麓まで辿り着いた。
列車の終点であるキノトの街からは離れていて、右も左も圧倒されそうな高い壁が続く。壁に沿って、足元には地面を被い尽くすように夥しいほどの白い花が咲き乱れていた。
白い花は、ところどころで枯れているものも見受けられた。枯れた花は赤茶けて、腐ることなく乾燥している。芯まで乾燥したものから順に、風の力で粉々に砕け散っていく。これこそが赤砂の正体で、ここから最果ての街まで風によって運ばれ続けていたのだ。
「これほど大量に咲き誇るこの花も、元を辿ればたった一輪から分かれたものらしくてな。その一輪だけは、百年もの間枯れることなく咲き続けているのじゃと」
かつて貴人から教わったのだと付け加えて、藍玉は天河をつれて車を降りた。風はまだ止まないが、空が明るむとともに段々と弱くなってきている。こうして表に出ても目を開けられないほどではない。
妖姫は個人ごとに能力の特色が異なるが、ただ一つだけ共通する能力があるという。
それは人としての生と引き替えに他の存在へと己を変える、『転化』と呼ばれる能力。貴人が琵琶に姿を変えたように、この花も彼の人が姿を変えたものであることは疑いようがない。
藍玉が両手に抱えた紫鴉をそっと手放して、〝一輪の花〟を探すように促した。けれど、天河は首を振る。探すまでもない、と。
何故なら。
足元を埋め尽くす花畑の一点に、淡く輝く箇所がある。天河は迷うことなく近づいた。
――あ、
緊張の為か、一旦言いかけた言葉を飲み込む。だがすぐに意を決して、再び呼びかけた。
「――浅緋」
百年近く慣れきっていた感覚とは全く違う声の出方に驚いて、咄嗟に咽喉へ手をやった。それからふと咽喉に当てた五本指の感触が人間の物であることに気付く。身体を見下ろせば、やはり四肢を備えた人間の男の背格好。
どういうことかと深く考えるより先に、眼前の風景が一変した。輝いていた箇所から、音を立てて光の洪水が視界いっぱいに広がった。世界が白一色に包まれる。そして――
「遅かったね」
懐かしい声。気がつけば、周囲は先ほどまでの花畑に戻っていた。しかし全体的に煌いた印象を受ける。立ち尽くす彼の横から聞こえてくる声に、恐る恐る振り向いた。
……記憶とは全く違った風貌の女が、そこにいた。
「……」
「……こら。何か言うことはないの?」
唖然として立ち尽くす天河の様子を見て、女が不満気に口を尖らせる。
「あー。……どちら様?」
そう口にした瞬間に顔面目掛けて拳が飛んできて、慌てて受け止めた。受けた掌がひりひりと痛い。この感触は紛れもなく生前のものと同一で、死した魂である自分には決して有り得ない感覚の筈。
と、そこまで考えてあることに思い至り、藍玉を振り返る。すると彼は貴人を肩に担いで右手の拳を前に突き出し、親指を立てて満面の笑みを見せた。成る程、〝生者同様の五感〟という幻覚を見せている訳だ。粋な真似を、と天河の口元が自然に綻ぶ。
兄貴の彼女さん美人ですね、と金剛が藍玉に囁く様子から見て、彼らにも彼女の姿は見えているのだろう。自分達の様子が筒抜けだと思うと天河は少し気恥ずかしささえ覚えた。
女は拳を止められた姿勢のまま、恨みがましい目付きで天河を睨む。
「第一声が『どちら様』とくるなんて驚いたな。どうなのよこれ、散々待たせた挙句がこんな台詞ってさ、これじゃあ私まるで道化じゃないか。ねえ、他にもっと大事な台詞があるんじゃないかな。普通は帰ってきたらまずなんて挨拶するべき?」
喚き散らしたいのを一生懸命我慢して冷静であろうとする女の声を聞いて、ようやく相手が記憶の中の彼女と同一であると実感した。いくらか戸惑いは残るが、それでも天河は百年越しの約束を果たす為、女の瞳を正面から見据えて、言葉を紡ぎだす。
「ただいま、浅緋。髪を伸ばしたんだな」
それに、容貌も少し熟した感さえ漂わせる。記憶より大人びた彼女は、けれども変わらぬ鮮やかな笑顔で天河を迎えた。
「お帰りなさい。貴方と別れてから三年、この髪はずっと切らずにいたんだ。ねえ、気付いてる? 私、貴方の年齢を超えたんだよ」
これでもう年齢を笠に威張ることは出来ないね、と悪戯っぽく笑って見せて、不意に目を伏せた。
「三年もあれば人の顔を忘れるのに充分なのにね。馬鹿みたいに百年も待ち続けていたなんて」
別れの日以来、浅緋は夜になる度にずっとここを訪れていた。どうしても中で大人しく待つ事が出来なかったのだ。けれど門を通ることは出来ないから、壁の綻びから夜毎こっそり抜け出しては明け方になって街に帰る、そんな生活が続いていたのだと、彼女は語る。
寂しげに呟かれる言葉に、天河は苦虫を噛み潰すように渋い顔をした。こんな悲しげな声は浅緋には似合わない。何より、その原因を作った自分自身が許せなかった。すまない、と謝罪の形に口を開きかけた刹那、浅緋が急いで掌を差し出して台詞を遮る。
「気に病むな。私が一方的に押し付けた約束なんて、反古にされても文句言える立場じゃないんだから。それを忘れもせずに果たしてくれたことが、何より嬉しいんだ」
この言葉に偽りはない。浅緋は天河が義理を果たしてくれるなど期待していなかったから、こうして再び逢えたのは奇跡にも等しい喜びだった。天河もまた、浅緋がずっと待ってくれているとは思っていなかった。きっと諦めているだろうと決め付けていたから、今このように会話を交わせることがどれだけ嬉しいか自分でも計り知れなかった。それは、転じて言えば互いが互いを理解出来ていなかったということにもなるのだけれど。
百年前、浅緋は天河に約束を突きつけた。
帰ってきて、と。何があっても、どんなに時間がかかってもいいから帰ってきて欲しいと。十年かかっても百年かかったとしてもずっと待っているから、と。
「ああ、そうか」
一つ思い至って、天河は納得した。あの別れから、今日で丁度百年になる。天河にとっては唐突に思えた藍玉による拉致も、絶対に太極国へ行くのだと固持していた理由も、全てこの日の為、だったのだ。
「情けないな、私は。自分では何も決められなくて、誰かに教えられないと自分の望みさえわからないなんて」
自嘲気に呟くと、浅緋に頬を思い切り抓られた。
「根暗なのはそのままだね。ほら、折角の再会なんだから辛気臭い顔しないの」
頬を持ち上げて強制的に笑顔を作らせようとする。楽しそうな彼女の顔には、昔のような無理をした様子は微塵も見られなかった。見ぬ間に随分強くなったと思う。
会わずにいた間、彼女はどのように過ごしていたのだろう。――何故、三年分しか歳を重ねていないのか。何故花の姿に転化していたのか。訊きたいことは沢山あった。が、訊きかけて、やめた。知ったところで詮無いことだろう。
そんなことよりも、ずっと言えなかったこと、ようやく見つけた答えこそ、今彼女に伝えるべき大切なこと。緊張する気持ちを深呼吸して抑え、真っ直ぐ浅緋を見詰め、言った。
「どうやら、私はお前のことを憎からず思っている……らしい」
この期に及んで言葉を濁してしまう自分が情けなく思えて、天河は苦笑した。彼の性格はとっくに見抜かれていて、ふっと笑って浅緋が天河の胸を軽く殴る。
「言うのが遅すぎるよ、馬鹿」
たったそれだけのやりとりで、長年の胸の痞えが取れた気がした。
こんな簡単なことならもっと早いうちに素直になっておくべきだったと、今更になって後悔する。しかしその後悔は、満足感と裏表の感情でもあった。
―――――不意に、彼は自身の異変を感じた。寂しさに襲われて、藍玉と金剛を振り返る。
残された時間は、もう。
「ああ浅緋、紹介しよう。私がここ二十年近く世話になった子たちで、藍玉と金剛だ。二人のおかげで、私はここに来られたんだ」
促されて浅緋も振り向き、花の綻ぶ美しい微笑みを藍玉たちに向けて挨拶をした。
「はじめまして。ありがとう、この頑固頭を連れてくるのは大変だったでしょう?」
まったくです、と二人が異口同音に返事をすると、その様子を見て浅緋が可笑しそうにする。
「ふふ、私も転化じゃなくて紫鴉になればよかったかな。そうすれば自分から会いに行けた筈だよね」
冗談めかして言うが、紫鴉になったところで結果は変わらなかっただろう。きっと彼女はたった一つの約束に縋ってこの場で待ち続けた筈だ。彼女もまた、天河に似て頑固者なのだから。
二人を観察していた浅緋は藍玉が持つ玉石の琵琶に目を留めて、興味深そうに問う。
「その石琵琶、もしかして夢見姫? 黒髪に紅い瞳の」
「おや、貴人をご存知か」
「まあね。名前は聞かなかったけど、以前ここに立ち寄ってくれたことがあったんだ。旅の途中だと言っていたから、もし天河という名の男に会うことがあれば『馬鹿』って言っておいてと頼んだら快諾してくれたの」
「……お前か。お前だったのか」
初対面でこけにされた理由を知って項垂れる天河が滑稽で、残る三人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。三人の反応に一層落ち込む姿が、更に笑いと涙を誘う。しきりに馬鹿笑いする三人に天河は拗ねてみせたが、やがて彼も自棄になって笑いの輪に加わった。
散々笑い転げた後、自然と会話が途切れて言って、沈黙の帳が場に下りる。呼吸を整える音だけが聞こえて、無言のまま藍玉と天河は向かい合った。
「もう、いくのか」藍玉が問う。
「ああ。惜しいが、な」天河が答えた。
ここへ来た時点で、こうなることは明白だった。藍玉は承知の上で天河をつれて来た。百年越しの未練を果たせば、この世に留まる理由は無くなる――別れの時が来たのだ。
「はは、お前達に未練を残して留まり続けるのも一つの手かな。お前の家の贅沢な暮らしはなかなか魅力的だったからな」
「阿呆なこと抜かすな。いつまでもただ飯食らいを置いておけるか」
「親分、他人のこと言えないっす。それに勘当されたこと忘れてませんか」
金剛の指摘で思い出したように手を叩いて苦笑する。天河は仕返しとばかりに意地悪く口の端を吊り上げた。
「会ってすぐの別れなんて、勿体無いね」
仕方のないことだと言って、名残惜しそうにする浅緋の肩をそっと抱き寄せ、今一度、藍玉と金剛に顔を向ける。
「お前達のことも、それはそれで好きだったよ。手の焼ける弟が出来たみたいで楽しかった」
天河と浅緋の姿が薄れていく。
「実家に帰れたら、親御さん達にも礼を言っておいてくれ。じゃあな、達者で暮らせよ」
「そちらこそ」
それに合わせて、先程と同じように音を立てて光が世界を塗り替えていく。
――ありがとう。
最後にそんな声が聞こえて、光は消え去った。
既に日が開けていて、東の空が真っ白に染められていた。
二人は夢から覚めた面持ちで花畑に立っていた。嵐の気配は悉く消え去って、普段と何ら変わり映えのないごく日常の時間が着々と刻まれていく。
「行っちゃいましたね」
「そうじゃな」
「よくよく考えると凄いっすね、これだけ長い年月続いた砂嵐が、元を辿ればたった二人の恋愛沙汰に事を発するというわけですか」
「そういうことになるな。傍迷惑な話じゃが」
それももう終わったことだ。長年にわたり枯れずにいた一輪の花も輝きが失せ、じきに寿命を迎えるだろう。積もり積もった赤砂は無くならないが、もう毎夜の烈風に悩まされることはない。現在残る花々も、今後はなんら害の無いありふれたものとなるのだろう。そして、天河と浅緋という存在はいつしか忘れ去られる。
金剛は竜鱗を一枚取り出して、腰からナイフを引き抜いた。微妙な色合いをもつ水晶のような硬い鱗に、刃で力一杯傷をつけて矢印に似た傘を描き、傘の柄にあたる棒線部分を挟むように男女の名を刻み込んだ。
「何をしとる?」
「まじないですよ。聞きかじっただけなんですけどね、こうやって名前を書かれた二人は固い絆で結ばれるの何だの、近所の小さい女の子が言ってたのを思い出したんで」
そうして名前を刻んだ竜鱗を、土の下に埋めた。
「いやあ、こんなちゃちなまじないを本気で信じる訳じゃないけど、なんか形を残せたらいいなって思って」
「埋めたら土に還ってしまうぞ」
え、と顔を歪める金剛の髪を、嘘だよと言って掻き乱す。彼の不器用な気遣いが胸に沁みて、静かに瞼を閉じた。正直なところ寂しくて仕方がなかったのだ。幼少の時分からずっと兄のように慕っていた者との別れは、覚悟していたつもりでもやはり堪えた。だから、少しでも存在していた証を残そうとしてくれる金剛の行為を嬉しく思う。恐らく藍玉一人だったら意地を張ってしまって、何も残さずこの場を後にしていたかも知れないから。
「――さて親分、これからどうします?」
立ち上がって手の土を払いながら、金剛が訊ねてきた。藍玉は己の頬を両手で強く叩いて気を入れなおし、普段の調子を取り戻す。
「決まっとる。まずはさっさと街に入って、すぐ家に電話をするんじゃい」
勘当されたことに抗議するのだと言って拳を固め、足早に駆動車へ向かう。彼に倣って金剛も歩き出す。
「あ、ナイフが刃こぼれしちゃってる。やっぱり竜鱗をただの刃物で削ろうとするのが間違いでしたかね」
「新しいのを調達すればよかろう。売るもの売ったらしばらくは余裕できるじゃろ」
車の扉を開けて乗り込む直前、上から羽ばたきの音が耳に届いて天を振り仰いだ。
水色の瞳に反射する、時間の経過と共に青みを増す空。
白い小さな影が、眩しく輝く太陽の下を横切っていく。
―――――死者の魂を宿さぬ鴉は、その体色から白鴉と呼ばれる。
白い鳥は藍玉たちの頭上で弧を描くように飛び、一声鳴いて東へ向かって飛んでいく。
二人は鴉の姿が視界から消え去るまで見送って、やがて、未練を断ち切るように無言で車を発進させた。
〈了〉