PROLOGUE-前夜-
ー朱鳥は自宅の寮へ続く街の大通りを足早に歩いていた。
人の流れに身を任せ、赤信号の交差点で立ち止まる。
様々な雑音が耳を通り抜け、人々の話す話題のなかから聞こえた、あと一月ちょっとでクリスマスだ、という話題がかろうじて今日の日付を意識させた。
やがて信号機は赤から青に変わり、人の流れは再び流れる。
朱鳥は先程より更に、更に足を早め始めた。
そして路地裏に体を滑り込ませると、奥へ歩き突然身を翻して足を止める。
後ろには見知らぬ男が立っていた。
カーキ色のロングコートと黒のタートルネック。
ジーンズに黒のレザーブーツ。
深い緑がかった髪の眼光の鋭い男だ。
「俺になにか用か?」
朱鳥は淡々と言葉を投げた。
すると男は突然両手を叩いて拍手し始める。
「いやぁ流石は特殊紋章班のエース。ルーキーにしちゃ合格、いや出来すぎだ。何処から気付いてた?」
―…こいつ、俺の素性を知っている…
朱鳥は警戒を強めて男に意識を払いつつ、語気を強めた言葉を紡ぐ。
「答えろ、何の用だ」
「まぁまぁ落ち着けって。お前の敵じゃない。俺はIBHアジア地域東都地区第一紋章班班長、朱木 焔。階級は大佐だ。よろしくな、九蓮曹長」
笑顔で男-焔はそう言った。
その笑顔を見ながら朱鳥は血の気が引くのを感じた。
班は違えど上官に対してのあの言動。
素性を知っていたのだって今出てきた情報量なら納得できる。
朱鳥は冷や汗を流しつつ取り繕う様に敬礼する。
「申し訳ありませんでした。まさか上官とは気付かず…」
「いいっていいって。んなことよりさ、ちょっと色々話したいんだけど時間ある?」
「いや、ちょっとこのあと予定があるので…」
軽い調子でナンパでもする様に誘ってくる焔に朱鳥は咄嗟に嘘をついた。
確かに夜は予定があるが時間がないわけではない。
ただ一つ、些細な引っ掛かりが朱鳥に嘘を吐かせた。
―…何でこの人はわざわざ尾行してきた?だいたい違う班の人間の話なんか聞いてどうする?何が目的だ?
それは、本当に些細な疑問だ。しかし、疑いの芽は一度芽吹けば溢れるように沸いて出てくる。
その猜疑心は朱鳥に半歩後退りさせた。
「そっかそっか、ならしょうがないな。無理言って悪かった。じゃあもし今夜暇だったらこの店に来てくれ、いつも12時位には一人酒やってるからさ」
そう言って投げてよこした一枚の名刺。
“BAX”と書かれたそれは飲み屋の名前らしい。
視線を一度名刺に落とし、再び焔に目を向けると背を向けてふらふらと手を振って表通りに消えていった。
朱鳥はその姿が完全に消えるまで待つと徐に携帯タブレットから電話をかける。
「もしもし、俺だ。ちょっといいか…」
電話越しに話ながら朱鳥も人混みに紛れていった。
******
ー朱鳥は喫茶店のテーブル席の窓際に座っていた。
店内に充満する芳ばしい香り。古ぼけた木製の椅子やテーブル。人は疎らだが、その顔ぶれは来るたびに見かける常連だ。
知る人ぞ知る隠れた名店。そんな雰囲気のこの店“ル・モア”は、前に教官である本郷が朱鳥たち4人に教えてくれた店だ。
いつものアメリカンコーヒーを口にして待ち人を待つこと5分、滅多に鳴らない店の扉に付けられた鈴が鳴る。
そして、金髪の青年がゆっくりと歩いてくる。
「悪いな一樹、急に呼び出して」
「気にすんなよ。で、電話の話の続きだがな…」
言いかけたところで、朱鳥が前もって頼んでおいた一樹のエスプレッソコーヒーを持って店員がやって来て会話が止まる。
白髪だらけの男性は静かにカップを一樹の前におくと、小さく頭を下げて去っていく。
店員が離れたのを確認しコーヒーを一口含むと、一樹は再び話を始めた。
「…俺にも接触があったよ。ちょうどお前らと別れてすぐだな」
「本当か!」
「あぁ、俺は女の子だったけどな」
そう言って一樹は笑って茶化す。
そんなことを言っている一樹に失笑を浮かべる朱鳥。
朱鳥や他の仲間が緊張しているときや思い詰めているとき、必ず一樹がその場の空気を変えている。
そんな一樹の、本人も気付いていないであろう才能が、今朱鳥たちの生きている要因の一つなのだ。
「青髪、やせ型、158cm、紺のブレザー、チェックのスカート」
「おい、冗談もその辺に…」
「まてまて、マジなんだって」
一樹の言葉に朱鳥は混乱した。明らかに一樹の言ったキーワードはただの女子高生だ。
それがなぜ隠蔽された組織の班長と繋がるのか。朱鳥は一樹の言葉を待つことにした。
「その子とは外に出てすぐに会った、多分待ち伏せてたと思うんだが…爽乃 京子って名乗ってたな。 東都地区第一紋章班班長補佐だとよ 」
そう言うと、一樹はコーヒーを口にして小さくため息をついた。
暗い影と悲しみに揺れる青い瞳でぼんやりコーヒーの中の波紋を見つめる。
「…なんつーかさ、嫌なもんだよな。明らか高校生だぜ?なのに俺らとおんなじ世界でいつ死ぬか知れない生活ってよ… 」
「それを人に言えるほど俺たちも上等な人生な訳じゃないだろ?」
朱鳥は少し突き放すようにそう答えた。
その瞳に一樹は何を見たのか、朱鳥と視線を合わせると自嘲気味に笑った。
「確かにな…」
「それより、そいつや朱木の裏は取れたのか?」
「あぁ、間違いなく身内だよ」
一樹は答えると、携帯タブレットの画面をいじり朱鳥に見せる。
「一班のメンバーリストのコピーだ。コピーするときはヒヤヒヤもんだったぜ」
そう言って笑う一樹から携帯タブレットを借り、朱鳥は資料に視線を走らせた。
開かれたそのページには確かに“朱木 焔”が一班の班長であることが記され、色々と記述がある。
しかし別にプライベートが知りたいわけではないのでページを次に送ると、次に開かれたのは“爽乃 京子”のページだ。やはり班長補佐となっている。
どうやら彼らの供述は全て確かなようだ。
するとやはり気になるのは何故尾行や待ち伏せを行ったのか。自分達にコンタクトを試みたわけは?
際限ない疑問がまたぶり返す。
そんな朱鳥の難しい表情を見つめ、一樹は深くため息をつくと口を開いた。
「疑り深いの、お前の悪い癖だぜ?同じ仲間だって分かったんだからいいじゃねぇか」
「それは…まぁ…そうなんだが…」
「よし!じゃあこの話は終いだ。まだ時間もあるし何か食っていこうぜ」
そう言うと、朱鳥の返事を待たず一樹はテーブルの隅にあるメニューを手に取り選び出した。
そんな一樹を見ていると、真剣に悩んでいる自分が馬鹿らしくなり思わず朱鳥は小さく笑ってしまった。
―…ホント、こいつには敵わないな
朱鳥の気を紛らすつもりなのか、本当に腹が減っているだけなのか、掴み所のないところもまた、一樹の魅力であるのかもしれない。
そんな背中を預けられる戦友であり、こんな話も出来る親友に釣られ、朱鳥もメニューに手を伸ばした。
******
ー「かんぱーい!!」
賑わう居酒屋の角の席で威勢のいいかけ声と共に4つのジョッキが音をたててぶつかり合う。
そして寅泰が一気にビールを煽る。
「ぷっはーッ!!いやぁ久しぶり飲んだぜぇ」
「そんなにいっぺんに飲むと、またすぐ潰れちゃいますよ?」
満足げに笑う寅泰に呆れたように言う夏奈子。
しかし寅泰は夏奈子の忠告など聞く耳持たず、はやくもジョッキをひとつ開けてしまった。
「12時」
「11時」
寅泰の飲み方を見ていた朱鳥と一樹はそれぞれ口にする。
寅泰は不思議そうに首をかしげて二人を見つめた。
「なんの時間だよ」
「「お前が酔い潰れる時間」」
声を揃えて答える朱鳥と一樹。
二人の返答に夏奈子は思わず吹き出し、寅泰声を張り上げる。
「んだよそれッ!よーしわかった、お前らが潰れるまで飲み続けてやるからな!」
そう宣言すると、寅泰は二杯目の中ジョッキをオーダーする。
そんな寅泰を一樹は声をあげて笑い、朱鳥は小さな笑みを浮かべてゆっくりとジョッキに口をつける。
いつもの殺伐とした戦場から解放され、仲間と、家族と過ごすこの時間は、朱鳥だけでなく他の者にとってもかけがえのない時間だ。
と、ふいに夏奈子はジョッキから口を放すと思い出した様に言った。
「そういえば、教官も誘えばよかったですかね」
夏奈子が何の気なしに言った一言に、それまで和やかだった空気が凍り付く。
「…夏奈子…教官と飲んだことなかったっけ?」
「?。いえ、ありますよ?いつも一件目で帰りますけど」
一樹の言葉に夏奈子が答えると、男性陣から同時にため息が漏れる。
状況の掴めない夏奈子は首をかしげて聞いてみた。
「何かありましたっけ?」
「…あの人が酔ったとこ、夏奈子は見たことあるか?」
寅泰にそう言われ思い返してみる。
本郷と飲んだことはそれこそ数える程度だが、確かに酔った様子を見受けられたことはない。
「自分が酔うまで人をつれ回すんだ。でも朝までかかっても結局酔うことはなかった」
朱鳥がゲッソリした表情で語る。
きっと酔っていないわけではないだろうが、表には出ずらいのだろう。
そんなシラフな状態の人間に泥酔状態の人間がついていけるはずもない。
夏奈子には心底本郷へ連絡しないでよかったと感じた瞬間だった。
「あの人ホント無茶苦茶だかんなぁ」
「まったくだ。教官と同行した任務で死にそうな思いをしないことはなかったからな」
寅泰の言葉に一樹は懐かしむような口ぶりで話す。
その一樹の言葉に、朱鳥も思わず昔を思い返した。
最初に本郷の任務に同行したのは7年前。まだ朱鳥が15の時だ。
それが最初の任務だった朱鳥は歴戦の戦士と言うべき相手に遭遇し、圧倒的な力の差に死を覚悟した。
しかし、その相手を本郷は一刀の元に切り捨て朱鳥の命を救ったのだ。
あの時の本郷の姿を今でも朱鳥は鮮明に思い出すことが出来る。
そのような体験を恐らくはこの場の全員がしているであろう。
故に、彼らの本郷への信頼は厚い。無愛想で威圧感の強い男だが、表出されない本郷の愛が彼らの信頼を集めているのだ。
「あの“ル・モア”って喫茶店も教官に朱鳥の誕生会やりたいって話したら紹介してくれたし、なんだかんだやっぱ俺らにとっては外せない人だよな」
寅泰は感慨深げに頷きながらそう口にすると、夏奈子は思い立ったように携帯タブレットを握り締める。
「そうですね。やっぱり教官に電話…」
「「「かけなくていい!!!」」」
夏奈子の言葉を三人が声を揃えて制止した。
本郷は期待を裏切らない、そんなある意味の信頼も彼らの、特に男性陣には根強くあるようだった。
******
ー深夜2時。
朱鳥は1人、街頭と飲み屋と時々通る車の明かりを光源に、昼間の活気をなくした大通りを歩いていた。
他のメンバーはと言えば、寅泰は予想に反して1時までは粘ったが結局グロッキー。その寅泰を担いで一樹は反対方向へ、夏奈子とも先程交差点で別れたのだ。
-久しぶりに楽しかったな
朱鳥は心のなかで呟くと小さく笑う。
しかし次の瞬間、瞳に鋭い光が宿り表情は緊張していた。
朱鳥は自宅の寮に向かっているわけではない。
その足は飲み屋の並ぶ道の地下へと続く階段の前で止まった。
朱鳥はゆっくりと階段を降りていく。
店の入り口となる木製の扉の横には“BAX”と書かれたプレートが掲げられ、扉にはOPENの文字。
朱鳥は慎重にドアノブを捻り扉を開いた。
店内はいい具合に照明が落とされ、静かにジャズの流れる雰囲気のある店内だった。
朱鳥は目的の人物の横に座る。
「まだいらしたんですね」
「まぁな。夜は暇なもんで」
そう自嘲気味な笑みで答えたのは焔だった。
ウイスキーのグラスを片手に遊ばせながら、視線は朱鳥を見ることなく正面の棚に並んだビンに注がれている。
「本当に0時から?」
「そう言っちまったからな」
「来ると約束はしてませんよ」
「いや、必ず来るって信じてたぜ」
今度は朱鳥を見て焔は笑って答える。
朱鳥は理解できないと肩をすぼめて首をかしげた。
「何を根拠に信じたんです?」
「んなもん、勘だよ勘。それより飲まないのか?」
「…バーボン、ロックで」
「おっ!渋いねぇ、じゃ俺も」
朱鳥に便乗し焔もそう注文すると、カウンターのマスターは返事を返して離れていく。
「で、話とは?」
「ん?いやぁ実はさ、お前さんとこの班長、本郷とは昔っからの知り合いでさ。最近どうしてっかなって思ってさ」
焔の歯切れの悪い返答に朱鳥は違和感を感じた。
その程度の近況報告、知り合いなら直接聞けばいいのだ。
しかし、それをせず朱鳥を通して情報を得ようとする。何故か。可能性は-
-教官と本当は面識はない…いや、本当は違うなにかを探りたい。教官と知り合いであると仮定するなら確かにこの口下手な男では住所すら聞き出せないだろうからな
朱鳥のなかでは後者の方が濃厚だと感じた。
であれば、逆に何をなぜ聞きたいのかを引き出し、事情を整理しよう。
「教官、ですか?あまり教官のプライベートは把握していないのですが…」
そう答えた朱鳥の言葉に嘘はなかった。
本郷に里親として引き取られた時からあまり共に過ごすという時間はなかった。
それは今でも変わっていない。
「そっか、そりゃそうだよなぁ。本当は本人に聞けば一番早いんだけど、アイツなかなか掴まんねーしさ」
焔の返答に、朱鳥は嘘を見いだせなかった。
確かに本郷は自分達でも掴まえにくい程に神出鬼没で所在を把握できていない。
やはり知り合いというのは本当なのかもしれない。
「失礼ですが教官とは…」
「ん?あぁ、アイツとは紋章者になるまで三班の調査班で一緒に仕事してたんだよ。まだ暴走予備軍だった頃にな」
焔はそう答えると運ばれたバーボンを口に含んだ。
紋章者とは全人類の内に存在する“魔獣”と呼ばれる怪物を使役する者達の総称だ。
魔獣は目覚めるとその人間を内から喰らい、外にでて様々な被害を生み出す。
その目覚める危険がある状態の者を暴走予備軍と呼び、部隊における後方支援やサポート的役割の班へ割り振られる。
本郷が暴走予備軍だったとは、朱鳥は初耳だった。
といっても、殆ど自分のことを語らない本郷の過去が一つ掘り出されたくらいでいちいち驚きはしないが。
「ま、アイツ自分の話ししないしな。知らなく
焔は一瞬見開かれた瞳を見逃さなかったのだろう。
そう言ってグラスを傾ける。
ー観察力は高いらしい。あまり下手なことも言えないか
朱鳥はグラスの中の丸い氷を弄び、焔の次を待った。
沈黙がひととき流れる。
焔は懐から煙草ケースを取り出すと一本くわえ、朱鳥にケースを差し出す。
「吸うか?」
「いえ」
朱鳥が短く断ると、焔はケースを引っ込めジッポライターで火を点ける。
煙を肺に広げ、薄くなった紫煙を吐き出す。
空を舞う煙を眺め、焔は口を開いた。
「…そういえば、特殊班てのはどんな任務してんだ?」
焔の言葉に朱鳥は返答をつまらせた。
今までの任務なら他の班と大差ないだろうが、その返答で納得はするまい。
任務の内容は全て本部の端末に記録されている。
それらは自由に閲覧が許可されているため、わざわざこんな話しする必要はないのだ。
つまり、直に聞きたい話があるのだろう。
昼間のことといい、随分回りくどいことをする。
朱鳥は苛立つ自分を抑えられず、トゲのある言葉が飛び出した。
「随分回りくどい聞き方をするんですね。時間もないんで手短にお願いします」
「そう焦るなよ…それとも、明日何かあるのかな?」
茶化すようにそう言った焔の瞳に遊びはまるでなかった。
鋭く刺すような視線が朱鳥を射抜く。
ーつまり、明日の任務の話か?
焔の返答に思考が混乱する。
本当にそんな話しなのか?他に目的があるのか?
いまいち思考がまとまらない。酔いが回ってきているようだ。
「…そろそろ失礼します」
これ以上の接触は危険と判断し、飛鳥が立ち上がる。
「…なぁルーキー。お前さんはどっちだ?」
ふいに飛鳥へ向けられた言葉が背中へ投げられる。
朱鳥は一瞬振り返り何か言おうとしたが、言葉は出さずに焔の前から消えた。
「…親子は似る、ってことか」
焔は呟くと小さく笑って煙草をくわえる。
煙草の火種が煌々と薄暗い店内で輝いた。