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人の波に、横合いから飛び込む。ある人は驚いて、ある人は苛立ちながら、ある人は面倒ごとを避けるように私に道を譲る。気が付かなかった人は、悪いけど突き飛ばした。
〝あの人〟の背中が見える。
もうすぐで手に届く。
と、〝あの人〟は右に曲がって姿を消した。その曲がったところまで走り、その方向に目をやると、突き当たりでさらに左に曲がるところが見えた。
必死に追いすがる。今見失ったら――一生、会えない!
走りながら気付いたのだが、そこは薄暗い路地裏だった。
幅は、普通サイズの女性が三人ぎりぎりで並べるくらい。看板なんかが並んでいて、夜は狭い居酒屋が軒を連ねているのだろう。
仄暗い道を、全力で駆け抜ける。息はもう上がっていて息継ぎするのも苦しい。気を抜けばすぐに足が崩れ落ちそうだった。
全力で走ったのなんて、いつ以来だろう。こんなに必死に、何かを求めたのなんて。小さいときはよく走っていた。女子と遊ぶより男子とスポーツをするほうが好きだったから。
今となっては、すっかりしおらしくなって(自分で言うのもなんだが)運動なんかほとんどしていない。
しだいに。
いつのまにか。
小さいころの私は、私の中から消え去っていって、新しく出来た私が、私の中に居座っている。
時間が経って。
全てが変わっていく。
何もかもを巻き込んで、世界は刻々と蠢く。
「はぁっ……はぁっ」
〝あの人〟が曲がった道を、同じようにたどる。前方には〝あの人〟の背中が見えた。
もう少し。
倒れこみそうになりながら、眼前を目指す。
黒髪の一本一本が、服の皺一つ一つが、はっきりと見え始めた。
もう目の前だ。
一度も振り向かず、速度も緩めず歩く背中に、手が届くまで。
右腕を伸ばす。
〝あの人〟の背中が――曲がった。
「えっ!」
突然掴む対象を失った右手はさまよいながら空を切る。つんのめった体を立て直すために壁に手を当てた。陽の届かない路地裏の壁は、ひんやりと冷たかった。
焦りを感じながら、すぐさま視線をめぐらせる。〝あの人〟は、
どこにも、見えなかった。
「……………………え?」
声にならない呻きの様なものが、喉からこぼれる。上がっていた息はいつのまにか戻っていて、頭の中を、さーっと、ノイズが走るよう。膝が笑って、その場に腰を下ろした。下ろした、というより、尻餅をついた、というほうが正しいかもしれない。
いくら周りを見渡しても、人影はどこにもない。それどころか人が通るような場所ではなかった。
〝あの人〟が来るような場所ではなかった。
体中から力が抜けて、壁にもたれかかった。蝿が視界をさえぎる。羽音がうるさい。
「……そう、……だよね…………」
力なく漏れたのは、諦めの台詞。
いや、もともと、諦めることすらないのだ。最初から、諦めていたようなものだ。
そうだよね。
ただ、淳哉の言うように〝あの人〟が現れたから、追いかけたのだ。
自分を騙して。
そうだよね。全て分かっていた。もう会えないことだって、分かっていた。
でもそれが信じられなくて、〝あの人〟の影を追い求めていた。
自分を騙して。騙して騙して。
嘘を吐いて吐いて吐き続け。
そうやって自分の心を保ち続けていた。
そんなことを、私は私に気付いていた。
「…………」
でも、もう終わりかな。
虚構を、ぶち破られた。
はっきりと。完膚なきまでに。私に突きつけられた、どうしようもない現実。
もう、逃げられない。
〝あの人〟は死んだんだ。
だから私の目の前にはいないんだ。
空を仰ぐ。
建物と建物の隙間には、空。青空は、黒い雲に覆われていく。
さぁ、さぁ。
私の心ごと洗い流すかのように、空のシズクが切れ間から落ちてくる。
ざぁ、ざぁ。
瞳から、透明なシズクが溢れ出した。
叫ぶ。胸のそこから、搾り出すように。
〝あの人〟の名前は、はじけるシズクの音に掻き消された。