表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夏風

作者: ling-mei

「かったるい」

 朝起きるなり、康隆はそうつぶやいた。昨晩閉め忘れた部屋の窓からは、夏の生温く湿った風が吹き込んでくる。たまらず窓を閉め、クーラーのリモコンを手に取ると、スイッチを押し、クーラーの風量を最大にした。昨日の夜は珍しく涼しくて、つい窓を開けっぱなしにしてしまったのだった。しかし、朝になると一変、まったく涼しい風など吹きそうもない。

「疲れた」

 もう一度つぶやく。夏休みが今日から始まり、本来なら楽しい休暇をエンジョイするところだった。しかし、何故か体が重く、何に対しても興味がわかず、やる気も起きなかった。学校の制服は、妙に部屋になじまず、ハンガーにつるされ、情けなくだれている。

 机の引き出しから、おもむろに煙草を取り出した。1本加え、ライターで火をつけ、思い切り吸い込んでやった。いつもならこれで少しはスッキリするのだが、今日はスッキリするどころか、イライラが増すだけだった。康隆は携帯電話を開いた。昨日ベッドに横たわりながら見ていたメールがそのままになっている。

『私のコト何だと思ってるワケ?』

 そう1行だけ書かれたメール。

「知らねーよ」

 康隆は煙草を口から抜き取って、窓の外に誰もいないのを確かめてから、外に投げ捨てた。まだ半分も吸っていなかった。



 目を閉じてベッドに仰向けになっていると、廊下の外をバタバタと慌しく走る音がして、部屋のドアが強く開いた。母・涼子だった。

「康隆!今すぐ田舎に行くから準備して」

 涼子は目を大きく開いて、すっかり青ざめていた。

「おばあちゃんが倒れたって!急ぎなさい!」

 おばあちゃんというのは、父親、英輔の母親のことだ。田舎で一人暮らしをしている。康隆は重そうにため息をしてから、ベッドからゆっくりと起き上がった。涼子は起き上がった息子を見るなり部屋の臭いをかぎながら言った。

「あんた、また煙草吸ったの?」

 康隆は目をそらして無視をした。

「未成年は吸っちゃいけないのよ?知ってるくせに。体にも良くないんだから」

 涼子はそれだけ言い放つと、なお何も言わずにそっぽをむく息子にあきれた顔をし、そのまま部屋を出て行ってしまった。そして、廊下からもう一度叫んだ。

「急いで準備するのよ。着替えとかも入れなさいよ」

 康隆は頭をかきながら、のっそりとベッドから立ち上がると、クローゼットから適当なカバンを取り出し、そこにシャツやらタオルやらを突っ込んだ。母親に反抗する気も起きず、言われたとおりに必要と思われるものだけを簡単に入れ終えると、部屋を出て洗面所に向かった。

 洗面所に立ち、鏡をのぞき込んだ。耳元ではシルバーのピアスが光っている。明るい金髪に染めた頭は、枕に押しつぶされてなさけなくぺしゃんこになっている。つぶれた髪の毛を触っていると、台所の方から、またけたたましい涼子の声が響いてきた。

「準備できたー?」

「うるせーな…」

 眉をひそめながらも、顔を洗ったり、髪の毛を整えたりと、何とか出かける準備を整えた。荷物を抱えて玄関まで行くと、もうそこにはすでに化粧も着替えも完了した母親が立っていた。涼子は康隆の格好を上から下までじろじろ物色し始めた。

「おばあちゃんの家に行くのに、あんたそんな格好でいいの?」

 康隆はジーパンに黒のTシャツを着ていた。細く引き締まった康隆の体によく似合い、これと言って悪いようでもなかったのだが、どうやら涼子にとっては、自分の夫の母親の家に行くのに、そこらの若者が着ているようなラフな格好は気に食わなかったようだった。

「そんなネックレス付けて…もっとマシなのはなかったの?」

 涼子は康隆の首元に手を伸ばすと、シルバーのネックレスに触れた。けっこう自分でも気に入っており、出かけるときはほとんどそれを身に着けていたので、康隆はますますイライラが募った。しかし、ここで反論してもどうにもならないと思い、小さな声で、いいよ、とだけ言った。

すると、涼子は首を傾げながら、また言った。

「そんなに荷物少なくて、大丈夫なの?」

「大丈夫だって」

 康隆は疲れきったように言った。涼子は何かまだ物言いたげだったが、それでも一応了解したらしく、康隆を引き連れて玄関を出た。

「次の急行に間に合わせるからね」

 涼子は早口にそう言うと、後ろで不満げな顔をする康隆を尻目に、どんどん歩いていった。康隆はカバンを肩にかけなおし、母親と一定の間を保ちながら歩いた。

 ジーパンのポケットの中で、携帯電話が音をたてた。メール受信の音。しかし、康隆はまったく気付かなかった。都会の道のど真ん中で、人々が交錯し、自動車のエンジン音が響く中であったため、無理もなかった。





 蝉の声が高くなった。康隆は、田んぼ沿いの道の上にいた。康隆の祖母の家、つまり、父・英輔の実家に来ているのだ。電車の中、いつのまにか眠りに落ちていた康隆は、一体どのようにここまで来たのかすらよく分からなかった。ただ母親に促されるままに歩き、ここまでたどり着いたのだ。

 母親の涼子が、祖母の家の戸を開ける。

「ごめんください」 

 家の中にそう呼びかけると、中からバタバタと慌しい音で誰かが走ってくる。康隆の祖母、ハルだった。

「あらあら!どうなさったの!」

 ハルはとても驚いた様子で涼子に問いかけた。涼子も、倒れたと聞いてやってきたのに、倒れたなどと思えないほど元気に走り寄ってきたハルに、驚きを隠せなかった。

「お義母さん…倒れたんじゃなかったんですか?」

「倒れたって…何のことだい?」

 涼子は間の抜けた顔をしてハルを見つめ、そしてあっけにとられたかのように言った。

「じゃぁ…別に倒れたわけじゃなくて…」

「このとおりピンピンしとるよ」

 ハルは軽く胸を叩いて見せた。康隆は心のなかで喜んだ。もうこんな辺鄙な田舎にいる理由はなくなったのだ。これで家に帰ることができるだろう。しかし、次の瞬間、康隆が聞きたくもない会話が、涼子とハルの間で続いた。

「せっかく来たのに。この夏はもうここでお義母さんと過ごそうって決めてきたんですよ」

「いらない心配かけたねえ。夏中ここにいてくれても、私はかまわないけどもね」

 康隆は耳を疑った。まさかこの辺鄙で何もない田舎にこの夏ずっと留まるつもりなのだろうか。

「本当ですか!もう都会暮らしは飽き飽きしてたんですよ。じゃあ、お言葉に甘えようかしら…」

 その母親の言葉を聞いた康隆は、呆然として何も言えなかった。いっそう高くなる蝉時雨の騒がしい音が、目まぐるしく康隆の頭の中を巡っていた。



「じゃぁ昼寝してただけってことですか?」

 涼子が含み笑いをしながら言った。

「そうなの。ちょうど長さんが通りかかってね。呼んだのに返事がないからって。寝てただけだってのに」

 夕方の涼しい風が、縁側の戸を通り抜けて家の中まで駆け抜けてくる。康隆は、騒々しい母親と祖母の会話にイラつきながら、風に吹かれて縁側に腰掛けていた。ふと思い出したように、携帯電話をポケットから取り出した。そこには1件のメールが届いている。

『リサ様からメールを受信しました』

 携帯電話の画面はそう告げている。一瞬康隆は戸惑ったが、ボタンを押し、『リサ』からのメールを見た。

『何で無視するの?そーいうのマジムカつく』

 小さく舌打ちをし、康隆はそのメールを消去した。

「ウゼぇ」

 金髪の毛をかきながら、康隆はその縁側から立ち、自分のカバンのところに行き、携帯電話をいちばん奥に突っ込んだ。それの代わりに煙草とライターを取り出した。縁側に戻って一服しようとしたところへ、電話が鳴った。

「康隆―!電話出てー!」

 涼子が叫んだ。康隆は重たい足取りで、玄関のところの電話へ向かった。昔ながらの黒電話だった。生で見るのは初めてだ。

「…もしもし」

 小さく低い声で受話器に話しかけた。すると、聞きなれた間抜けな声が、受話器の向こうから響いてきた。

「おっ、ヤスか?」

「オヤジ」

 康隆の父親、英輔からだった。建築会社で働いており、今朝は抜けられない仕事があったので、田舎へはいっしょに来なかったのだった。母親の存在を少々煙たく感じている康隆にとって、まともに話のできる大人の1人が、父親の英輔だった。

「どうだ? ばーちゃんの様子は?」

「ピンピンしてる」

 康隆は背後に、うるさい母親と祖母の笑い声を聞きながら答えた。

「そうか!そりゃよかった!」

 英輔は自分の母親が無事だったと知り、ほっとしたようだった。受話器の向こう側からでも、それは康隆にも伝わってきた。英輔は続けた。

「明日は仕事が休みだから、昼ごろにはそっちに着けると思う。」

「俺、いつまでここにいればいいの?」

「この夏中はそっちで過ごすんだろう?母さんから聞かなかったのか?」

 嘘だ。康隆はそう思うしかなかった。生まれてから今まで、ずっと都会の中で暮らしてきたのに、今さら田舎暮らしを始めろなどと言われても、こんな辺鄙な環境に、康隆がすぐに適応できるとも思われない。

「俺だけでもそっちに戻れない?」

 康隆は最後の希望をこめて聞いた。しかし、帰ってくるのはまったく希望とは正反対の答えであった。

「そう言うな。慣れれば田舎もいいもんだぞ。これを機に、ばーちゃんの畑でも手伝え」

 父親らしく、英輔は康隆をなだめた。康隆は、もう諦めて父親の言うことに従った。英輔は、祖母のハルをしっかりいたわるように言った。康隆は機械的に返事をしてうなずくだけだった。

 英輔は康隆が何とか納得したように思ったので、安心して受話器を置いた。康隆は、受話器を持ったまま、絶望にかられていた。しかし、あの父親の頼みだ。約束を破るわけにもいかない。唯一まともに話ができる大人だったし、下手に怒らせれば相当な制裁が降りかかるからだ。だてに建築会社で働いているわけではない。力はかなりのものだ。そこらのチンピラなら、あっというまに片付けるほどの恐ろしい父親だ。

「康隆、電話誰からぁ?」

 涼子が居間から廊下に顔を出しながら聞いた。

「オヤジ」

 平坦な声で、康隆は答えた。それから続けた。

「明日の昼過ぎに来るって」

「そうなの」

 涼子はそう答えると、ハルとまた騒がしく話し始めた。康隆は一刻も早く、この騒がしい家から出ようと、玄関の戸を開けかけた。玄関の戸の向こうに、何か人の気配がした。康隆は気になって、そろそろと戸を開けてみた。

 そこには1人の少女が立っていた。

 蝉時雨が一瞬止んだ気がした。





 少女は大きな真ん丸の瞳で、黒いサラサラのショートカットだった。白いTシャツと、少し色あせたジーパンをはいていた。白くほっそりした腕と、美人ではないが、きれいに整った顔立ちが印象的だった。両手に抱えていた籠には、今まさに取り立てといった感じの野菜がぎっしり詰まっていた。

「お客様?」

 少女は言った。康隆はうまく声が出ず、その場に立ちすくんだままだった。すると、奥から、祖母の声が響いた。

「ナッちゃんかい?」

「うん、ごめんね、遅くなって。今すぐ夕飯作るから」

 『ナッちゃん』という少女は、康隆が困惑したような表情をしているのを見ると、クスッと小さく笑って言った。

「どうぞ、中でゆっくりしていってください。喉渇いたでしょう?今日は暑かったから」

 康隆は、家を出て散歩でもしようと思っていたが、少女のほのかな微笑につられて、家の中へ戻ってしまった。居間に入ると、そこには2人してごろりと寝転がった祖母と涼子がいた。涼子は、『ナッちゃん』が入ってくるのを見ると、驚いて起き上がり、正座をした。

「あの…」

 戸惑う涼子を見て、ハルは笑いながら言った。

「ナッちゃんだよ。亡くなった隣のばーさんの孫」

 涼子はそう言われると、今まで図々しくふるまっていたのに、急にしとやかになって言った。

「はじめまして。柴田涼子と言います」

 『ナッちゃん』は笑ってあいさつした。

「香山夏です。ハルちゃんの家に居候してます」

「夏っていうの?いい名前ねぇ。私夏って大好きなのよ」

 康隆は何も言わなかった。それを見かねた涼子が、頭をポカンと殴る。

「何すんだよ」

「あんたは礼儀ってもんを知らないのねぇ!恥ずかしいったらないわ!」

 『ナッちゃん』はまたもや笑い出した。――よく笑うやつ――康隆は心のなかでそう思った。しかし、別に嫌な感じではなかった。『ナッちゃん』は康隆の方を見て言った。

「はじめまして。名前、聞いてもいい?」

「ホラ!挨拶なさい!」

 涼子に促されながら、康隆はかすれる声で答えた。

「柴田康隆」

「康隆くんね」

「ヤスって呼んじゃっていいのよ」

「じゃあ、ヤスくんって呼ばせてね」

 相変わらず康隆はむっつりと黙ったままだった。すると、夏は思い出したように言った。

「そうそう、ご飯作るんだった」

 ハルは台所をさして言う。

「冷蔵庫にたいしたものが入ってないけど、大丈夫かね?」

「さっき畑に行ってきたから」

 そう言って、夏は台所に行き、調理台の上のエプロンをつけると、冷蔵庫を開けたり、鍋を出したりと、せかせかと動き始めた。ふと思い出したように、食器棚からコップを3つ取り出し、そこに氷と麦茶を入れ、お盆にのせて、涼子たちのいるところへ運んできた。

「どうぞ」

 夏はコップを3人の前に並べてやると、また台所へ戻って料理を始めた。涼子はその夏の姿を見ながら言った。

「いい子ね」

「あぁ、いい子さ。今両親が出張でね。お隣もいないから、私が預かってるんだよ」

「今ナッちゃんは何歳なの?」

「確か…高校生だね。えっと…」

「2年よ、ハルちゃん」

 夏が台所から肩越しに言った。ハルは続けた。

「そうそう、高校2年生だ」

「じゃぁ康隆と同い年ね!良かったじゃない、かわいい子がいて」

 涼子ははしゃぎながら康隆の金髪をくしゃくしゃっとかき回した。康隆はうっとおしそうに立ち上がると、部屋を出て行った。涼子は康隆の後姿に向かって問いかけた。

「どこ行くのよ」

「散歩」

「夕飯までには帰るのよ」

 康隆は何も言わずに玄関を出た。ハルが心配そうな顔で涼子に言った。

「ヤスくんどうしちゃったの?昔はもっとよく笑う子だったのに」

「反抗期なのよ。きっと」

 涼子は慣れたように言うと、またごろりと横になった。ハルもあまり気にしない様子で、茶舞台の上に新聞を広げて読み始めた。一方、台所にいた夏は、包丁の手を止め、一瞬考えるような様子だったが、すぐにまた包丁を動かし始めた。

 風は吹くのをやめ、さっきまで音を立てていた風鈴も、すっかりおとなしくなってしまった。





 さっきまで茜色だった夕暮れの空が、いつの間にか薄暗く濃い群青色に染まりだしていた。遠くの森で、カラスが鳴いている声が聞こえる。蝉時雨はまだどこかかすかに残っている。康隆は田んぼの隅の草むらの上に腰を下ろし、ライターで煙草に火をつけた。

「香山夏」

 小さくつぶやくと、康隆の頭の中に、笑顔で話しかけてきた夏が思い浮かんだ。変わった奴だと思った。初対面でああまで親しげに話してくる人は初めてだった。

田んぼを渡る風が、煙草の煙を辺りに撒き散らした。康隆は、まだ吸い始めたばかりの煙草を、田んぼの隅に投げ捨てた。煙草は田んぼに張られた水につかると、ジュッと小さな音をたてた。汗ばんだ体に、田んぼの風はとても心地よく、康隆はいつの間にか目を閉じ、眠りに落ちていた。

 鈴虫の音色が当たり一面に響き始めたころ、康隆は自分を呼ぶ声を聞いた。うっすら目を開けると、自分の顔を覗き込む顔が見えた。驚いて康隆は体を勢いよく起こした。その拍子に、覗き込んでいた顔の額と、自分の額がもろに激しくぶつかってしまった。

「痛ぁい!」

 女の子の声がした。康隆は痛みに耐えながら、その声の主の顔を確かめようとした。すっかり薄暗くなってしまった中で、ようやくその顔を見た。夏だった。夏は痛そうに額を手でさすりながらも、笑いながら言った。

「もぉー! いきなり起きないでよ」

「…ゴメン」

 康隆は申し訳なさそうに言った。夏はまた笑いながら言う。

「ご飯だよ。帰ろう」

 夏は康隆の手を握り、引っ張ろうとしたが、康隆は立ち上がろうとしなかった。夏は思いとどまり、その手を離した。そして、康隆のすぐ横に腰を下ろした。

「東京から来たんだよね」

 夏は康隆に問いかけた。康隆は小さくうなずいた。そして何を思ったか、急に話を変えて言った。

「お米ってね、田んぼからできるんだよ」

「それくらい知ってる」

 少しムキになって康隆は答えた。夏はまるで子供をあやすような顔になって続けた。

「田んぼを吹く風って、夏の匂いがするでしょ?ほら」

「…わかんない」

「そっか。そのうち分かるといいなぁ」

 夏はそう言うと、グッと伸びをし仰向けに寝転がった。

「ヤスくんは夏中ずっとここにいるの?」

「あのオバサンがそう言ってるから。そうなんじゃないの」

「つまんないでしょ」

 康隆はドキッとして夏の顔を見た。夏は相変わらずの微笑みで康隆を見た。

「だって、田舎じゃ何もすることないもんね」

「…別に」

「嘘。だってすっごく嫌そうな顔してたもん。何で俺がこんなとこにいなきゃならないんだーって」

 康隆は何も言わなかった。何も言えなかった。夏が自分の心境を見透かしているなど、まったく思いもしなかったからだ。夏の言っていることは、すべて自分の思いと一致していた。夏は康隆の横顔を見て言う。

「でもね、田舎もそれなりにいいところあるんだよ」

「オヤジも言ってた」

 夏はまた体を起こし、田んぼを見渡しながら言った。

「田んぼからお米がとれるって、さっき言ったじゃない」

 康隆は何も言わずにうなずく。

「お米って、あたしたちが毎日食べてる大事な食べ物でしょ」

 夏は康隆の様子をうかがいながら続けた。康隆は耳だけを夏に傾け、さっき夏がやったように、仰向けに寝転がった。

「だから、私たちにとって、田んぼはすっごく大事なものなの。昔の人からずっと続いてきたものだもん」

 それだけ言ってから、夏は少し間を空け、それから照れたように言った。

「これ、ハルちゃんからの受け売りだけどね」

 康隆は一番星が輝く空を見上げ、夏の声に聞き入っていた。どんな歌よりも気持ちの良い歌を聴いている気分になった。夏は立ち上がって言った。

「帰ろう」

 康隆は、今度は素直に夏に続けて立ち上がった。夏は康隆の手を握り、子供をつれて帰るように、優しく引っ張った。康隆は心が静かになっているのに気付いた。さっきまでざわついていた心が、雨上がりの森のようにひっそりと、柔らかになっていた。



 康隆と夏が家につき、玄関の戸を開けると、中から温かいいい香りがしてきた。康隆は、朝から何も食べていなかったことに気付くと、急に空腹感を覚えた。

 夏は康隆の手を握ったまま、居間に入っていった。涼子とハルは、夕飯を食べ始めていた。丸い茶舞台の上には、夏が作ったと思われる料理が所狭しと並んでいた。

「ナッちゃん、どこに行ってたの」

 ハルが聞いた。涼子は、夏と康隆が手をつないでいるのを見ると、嬉しそうに言った。

「あら、仲良くなったんじゃない!良かったねぇ、ヤス」

 康隆は焦って手を離した。夏は笑って康隆を見た。そして、茶舞台の開いている席へ座るように勧めた。康隆は素直にそれにしたがった。夏も茶舞台の周りにすわると、康隆の給仕をした。

「はい、どうぞ」

 康隆は夏に差し出された茶碗を受け取ると、一口食べた。こんなに美味しいご飯を食べるのは久しぶりだった。ここのところ、蒸し暑くて飯が喉を通らず、まともなご飯を食べていなかった。勢いよく進む康隆の箸を、夏は嬉しそうに眺めていた。

「ナッちゃん、明日なんだけどね、涼子ちゃんと町の方に行ってくるから」

 ハルが焼きナスをつまみながら言った。

「分かった。気をつけてね」

「ここから町までどれくらいなの?」

 涼子がハルに聞いた。

「そうねぇ、バスで30分くらいかね」

「あら、意外と早く着くのね」

「トンネルが開通してから、だいぶ便利になったもんだよ」

 ハルは言った。そして涼子とハルは、明日の話に盛り上がり始めた。康隆はふと思い出して言った。

「明日オヤジが来るのに、出かけてていいの?」

 涼子はご飯を口に運びながら、いいのいいのと言った。この夫婦はどうなっているのかと、康隆は少しばかり父親が不敏に感じられた。しかし、これでこの夫婦は吊り合いが保たれているのだろう。

 康隆は夕飯に箸を進めながら、夏をこっそり見ていた。夏の穏やかな表情から、どうしても目が話せなかった。

 静かな鈴虫の音色を聞きながら、康隆は久々の充実した夕飯を満喫した。



 鈴虫の声と縁側の風鈴の音が、うまい具合に重なり、とても心地よい音が響いていた。康隆は夕飯を腹いっぱい食べ、縁側で涼んでいた。少しだけ、田舎も悪くないと感じ始めていた。

 夏は台所で食器の後片付けを終えると、縁側の康隆のところにやって来て、隣に座った。

「ごちそうさま」

 康隆は風鈴の揺れるのを見ながら言った。

「お粗末さまでした」

 夏はわざとらしく頭を下げながら言った。康隆は少し笑った。唇の右端が、キュッと歪む。その笑顔を夏は見逃さなかった。

「ヤスくんの笑ったところ初めて見た」

 夏は嬉しそうに康隆の顔を凝視した。康隆はつい目をそらしてしまった。女の子に見られるのは、クラスメイトなど、東京での生活で慣れているはずだったのだが、何故かこのときばかりは照れてしまった。

「ねぇねぇ、ヤスくんのその頭って、地毛なの?」

 夏は康隆の金髪に無邪気に触れながら言った。

「地毛に決まってるじゃん」

「じゃぁハーフとかなの?」

「オヤジがアメリカ人」

 康隆がふざけて言うと、夏は笑って自分の髪の毛をつまんでみせた。

「じゃぁあたしは純日本人だね」

 夏は康隆の耳元のシルバーのピアスに目をやった。こんなにたくさんのピアスをつけている人を、夏は生まれて初めて見た。ピアスは銀色のかすかな光を放っていた。

 康隆は夏の視線の先に気付いた。夏が興味深そうに問いかける。

「穴、自分であけたの?」

「そう」

「痛かった?」

「まぁまぁね」

ふーん、と言いながら、夏は自分の耳たぶを触ってみる。

「あたしも開けられるかな」

「やめとけ」

「何で?」

「泣きそうだから」

 夏は笑い出した。康隆はポケットから煙草を取り出そうとしたが、夏が見ている前だったので、手を止めた。そのとき、康隆は急に何か思い立ったように立ち上がった。

「どこに行くの?」

 夏は不思議そうに聞いた。康隆はトイレと答えた。夏は納得すると、空を見上げ始めた。康隆はトイレに行くふりをし、足を玄関先へと向けた。





 田んぼの畦道からも、鈴虫の音色は豊かに聞こえた。康隆は、夕方、夏と一緒に腰を下ろしたあたりの田んぼにやって来た。そして、道路わきの薄暗い電灯の光だけをたよりに、田んぼの隅を探索し始めた。

 さっき、夏と話しているとき、ふと、夏の言葉が頭をよぎったのだ。

――田んぼはすっごく大事なものなの――

 その一言が頭から離れず、康隆は昼間捨てた煙草の吸殻を思い出したのだった。夏の純粋な瞳を見ていると、自分がやった行いが、ひどく馬鹿げて感じられたのだ。

 


薄暗い光の中で、康隆は田んぼの隅にはいつくばって、煙草の吸殻を探した。確かにこのあたりに捨てたと思われる場所を、しらみつぶしに探したが、広い田んぼの中の1個の吸殻を探すのは、相当難しい。懐中電灯を持って来ればよかったと、心の中で後悔したが、今家に戻れば、夏にばれてしまうかもしれない。母親や父親、ハルにはばれてもぜんぜん構わないと思った。だが、何故だか夏にだけはばらしたくないと思った。

 少し深くかがんだとき、ズルッと足が滑った。康隆は一瞬慌てて体勢を持ち直そうとしたが、足は見事に田んぼにはまってしまった。しまったと思いながら足を引き抜こうとすると、そこに見慣れた煙草の吸殻があった。思わず笑顔がこぼれた。

 康隆は急いでそれを拾い上げた。確かに昼間、康隆が吸っていた煙草の吸殻だった。吸い始めてすぐに捨てたため、まだ箱から取出したままの長さで残っていた。康隆は吸殻をジーパンのポケットに突っ込んだ。そして、夏が心配しないうちに、急いで家に帰ろうと足を急がせた。


 家に戻り、夏にどこに行っていたのと問われたことは言うまでもないが、康隆は本当のことは言わなかった。苦し紛れに、食後の散歩だと言っておいた。夏は笑いながら、怪しいなぁとからかってきた。

夏は、康隆の靴が片方だけ泥まみれでぐしゃぐしゃなのに気付いた。康隆はすべって水の中に足を突っ込んでしまったと答えた。夏は笑いながら、明日靴を洗ってあげると言った。

 その晩は、とても気持ちの良い夜だった。夏は2階の部屋で、康隆と涼子は1階の部屋で眠った。周りが静かなせいか、康隆は、久しぶりに夢も見ずに深く眠った。





 次の日は、前日の涼しさからぶりかえしたように暑い朝だった。蝉はここぞとばかりに大声で騒ぎ立てていた。康隆は暑さと蝉時雨で目が覚めた。布団からはい出して居間に行くと、茶舞台の上に書置きがあった。涼子の字だった。

『帰りは夕方になるので、ナッちゃんと仲良くお留守番していてね』

 少し癖のある字で、涼子はまるで保育園くらいの子供にあてたような内容の書置きを残したのだった。康隆は壁にかかっている時計を見た。古びた時計の針は、すでに10時すぎを指していた。

「腹減った」

 ちょうど康隆がつぶやいた瞬間、玄関の戸を開ける音がした。足音がかすかにして、居間に夏が入ってきた。

「あ、今起きたとこ?」

 康隆は自分のよれたTシャツを直すと、慌てて茶舞台のところに座った。何故か急に焦りだしてしまった。どうも、夏と会ってから、いつもの自分ではない気がしていた。

 夏は、茶舞台で、康隆と向かい合わせに座った。夏は、シンプルな淡い水色のシャツと、ジーンズの膝丈のズボンをはいていた。

「何やってきたの?」

 康隆は言った。夏は窓から庭を見て言った。その視線の先では、康隆の靴が洗濯物の物干し台の隣で、竹ざおにひっかけられて滴を垂らしていた。

「靴洗ってきたの。昨日どろどろだったでしょ」

「…ありがとう」

「どういたしまして」

 夏は首を傾げ、康隆の顔をじっと見つめた。康隆はまたもや目をそらしてしまった。しかし、あまりに夏がじっと長いこと見ているので、耐えかねて言った。

「何そんなに見てんだよ」

「ヒゲ」

 康隆は赤くなって、頬のあたりを触った。確かにザラザラしていて、ヒゲがそのままだった。急いで立ち上がると、持ってきたカバンからシェーバーを取り出し、洗面台のところへ走った。夏は小さな子供のようにそのあとをついて来た。

「ねぇねぇ、ヒゲっていつごろから生え始めるの?」

 夏は、鏡を通して康隆に聞いた。康隆は、一応シェーバーを持ってきておいて良かったと思いながら、夏の質問の答えに詰まっていた。いつから生えたかなど、詳しく覚えているはずもない。仕方なしに、苦し紛れに適当に答えた。

「中学生くらいじゃないの」

「ふーん」

 康隆はシェーバーのスイッチを入れた。シェーバーがのんきで不思議な振動音を立て始めた。夏は興味深そうに、シェーバーを持つ康隆の手の動きを見つめていた。そしておもむろに手を差し出した。

「ねぇ、ちょっとやってみたい」

「ヒゲなんか生えてないだろ」

「いいじゃん、ちょっとだけ」

「ばか」

 康隆は笑いながら言った。まるで妹か何かの相手をしているようだ。夏はどうしてこうも無邪気なのだろう。夏は、康隆がシェーバーを貸してくれないと分かると、あきらめて台所に入り、そこから康隆に言った。

「お腹すいてるでしょ?」

 康隆はヒゲ剃りに一生懸命で、返事はできなかったが、夏は康隆に朝食を作り始めた。康隆はヒゲを剃り終わると、ついでに顔を洗い、寝癖を直し、持って来た着替えの紺色のシャツとジーパンに着替えた。居間に戻るころには、部屋中温かい味噌汁の香りが立ち込めていた。康隆は茶舞台のところに腰を下ろし、あぐらをかいた。

「そういえばさ」

 夏は台所で豆腐を切りながら言った。

「ヤスくんって好き嫌いある?」

 康隆は間髪入れずに答えた。

「グリーンピースとメロン」

「緑色が嫌いなの?」

 夏は味噌汁の入った鍋と、鍋敷きを運びながら言った。

「ピーマンもキュウリもキャベツも食える」

 康隆があまりムキになって言うので、夏は思わず笑い出した。

「そうなの。ウチはグリーンピースもメロンも育ててないから大丈夫だよ」

「育てる?」

「畑でね」

 夏は茶碗やら箸やらを慣れた手つきで運んだ。

「ご飯、どれくらい食べる?」

 しゃもじと茶碗をもって、夏が聞いた。

「たくさん」

康隆はあぐらの足を組みなおしながら言った。夏は言われたとおりに大盛りのご飯をよそって差し出した。

「多すぎ」

康隆は茶碗を見るなりいった。いつだったか、教科書で見た気がした。平安時代の貴族が食べるような、山盛りのご飯。夏はわざと舌を出して答えた。

「男の子はこれくらい食べるのかなぁと思って」

「ばか」

康隆は笑った。夏は笑って頭をかいた。たったそれだけあどけないしぐさが、何故だかすごくかわいいと思った。夏は続けて味噌汁をよそうと、康隆の前に置いた。康隆は待ってましたといわんばかりに箸を動かし始める。夏はそれを眺めながら話しかけた。

「今日お父さんが来るのよね」

 康隆は口の中のものを一度飲み込んでから答えた。

「昼ごろに」

「じゃぁ夕飯何がいいかなぁ。ハルちゃんたち、何か買ってきてくれるかな」

「あいつが携帯も持ってるから、電話して頼めば?」

「あいつって?」

「お袋」

「そっか、じゃぁそうしようかな」

 康隆は軽く返事だけして、また食べることに集中し始めた。夏は夕飯の献立を考えているようだった。康隆はそんな夏の何気ない表情からも、目が離せなかった。夏がこちらの視線に気付くと、すぐに目をそらした。どうも夏とは目があわせられないのだ。嫌いではないし、夏はいい子だと思っているが、目をみると、心臓が急に激しく動き出すような気がして、妙に苦しくなって耐えられないのだ。どうしてこうなるかも分からないので、なおさら目など見ることはできない。

「ごちそうさま」

 康隆は手を合わせ、夏が片付けやすいように食器を重ねた。夏は食器を持って流し台へ行った。康隆は、自分のカバンのところに行って、昨日奥に押し込んだ携帯電話を取り出した。二つ折りの携帯電話を開くと、昨日の『リサ』からのメールを思い出した。一瞬また心がイラッとしたが、それを振り払うように、康隆はわざとパチンと音を立てて携帯電話を閉じた。

 食器を洗い終えて、台所から出てきた夏は、康隆が持っていた携帯電話を見ると。目を輝かせた。

「わぁー!すごーい!」

 康隆は思わぬ反応に驚いた。

「ね、ね、触ってもいい?」

 夏ははしゃいで康隆から携帯電話を受け取った。そして開いたり閉じたりを繰り返した。

「そんなに珍しい?」

 康隆が首を傾げた。

「うん!だってこの辺じゃ持ってても意味ないもん」

「意味ないって?」

「ホラ、ここ」

 夏は携帯画面の左上を指差した。

「ね、これ、圏外ってことでしょ?電波がとどかないから、使えないってことなんだよね?」

「え!」

 康隆は思わず叫んだ。夏は声に驚いた。

「しまった!そうだよここは圏外なんだ!」

「今まで気付かなかったの?」

「そんなことずっと見落としてた。これじゃ東京の奴らとメールできないじゃん」

 夏はイマイチ康隆の話についていけなかったが、とにかく東京の人にとっては『圏外』というのは良くないことなのかと思っていた。

「電話ならうちの使えばいいし、たまにはそんなの放っておいて、のんびり過ごそうよ、ね?」

 康隆は夏のせりふに納得した。確かに、いつも携帯電話のメールや着信ばかりを気にしていたような気がする。いっそ、『リサ』からのメールをすべて忘れて、のんびり過ごすのも、夏の言うとおり、いいことかもしれない。

「涼子さんの番号分かるの?」

 夏は康隆の携帯電話を開き、画面を覗き込んで言った。

「それなら、そこのボタン押して…」

 康隆がそう言いかけると、夏は画面を康隆に見せながら、康隆に近寄った。康隆は思わず夏から離れてしまった。夏はどうしたのと言うような目で康隆を見た。康隆はどぎまぎしながらも気を取り直し、夏にボタンを教えた。

「これ?」

 夏が無邪気に言って、教えられたとおりのボタンを押した。そして、涼子の携帯電話の番号が画面に表示された。夏はその番号を一言つぶやくと、廊下にある黒電話に向かった。

「おい、番号分かるの?」

「うん」

 夏は廊下から言った。そして、黒電話の方へ康隆も行った。夏は、迷いもなく黒電話のダイヤルを回した。康隆は、夏は何て記憶力のいい奴なんだろうと思っていた。

夏は電話の向こうの呼び出し音に耳を済ませた。そして、音が4回鳴ると、向こう側で誰かがもしもしと答えた。涼子の声だ。夏はすかさず言った。

「涼子さん?夏です。番号ヤスくんに聞いてかけたんですけど」

 涼子はよく響く声で答えた。受話器に耳をあてていない康隆にもその甲高いピーピーした声はよく聞こえた。

「ナッちゃん?どうしたの?何かあった?」

「夕飯の買い物頼みたいんですけど」

「いいわよ。何がいるの?」

 それからしばらくは2人の電話越しの会話が続いた。康隆はそばで、かすかに受話器からもれる涼子の声を聞いていた。夏はさらさらと必要なものを答えた。涼子もそれに了解したようだ。涼子は、隣にいると思われるハルに、電話が夏からだと告げているようだった。康隆は何だか長い電話になりそうだと思い、居間に戻って、畳の上に折りたたまれていた新聞を開いた。テレビ欄を開いても、おそらくこのあたりでは放送されている局もほとんどないだろう。康隆はすぐにテレビ欄をとじ、スポーツ記事を読み始めた。

 一通り読みたい記事を読み終わったころ、夏がようやく電話から開放されて来た。

「長かったな」

「涼子さんって話し好きなのね」

 夏は苦笑いをしながら言った。どうやら相当いろいろ話し込んだようだ。

「あいついつも近所のオバサンと話しばっかりしてるんだ。こっちもかなりウザくなる」

「私も涼子さんくらいになったら、あれくらい話し好きになるのかな」

 夏が少し不安そうな顔で言う。康隆はわざとからかってみた。

「おまえも相当な話し好きになると思うぞ」

「えー!そうかなぁ…」

 夏は本気で心配する表情を見せた。康隆は思わず噴出して笑い出した。夏は自分がからかわれていたと気付くと、少しばかり頬を膨らませた。

 そうこうしているうちに、古びた時計は12時を指し、低く鈍い音をたてて、鐘を12回打った。ちょうどそれと同じようなタイミングで、玄関の方から、こんにちはと、男の間抜けな声が響いた。康隆はすぐにその間抜けな声の主が父親の英輔だと分かった。康隆は立ち上がって、玄関までその父親を迎えに出た。夏も後に従った。

「ヤス!いい子にしてたか?」

 英輔は太くたくましい腕を大げさに振った。康隆は英輔のそばまで行くと、英輔が両手に抱えていた荷物を受け取った。かなりの重さだった。康隆は不思議に思い、中身は何かと聞いた。

「おまえの宿題だよ。学校のカバンの中にそのままになってだたろ。ちゃんと休み中に済ませろよ」

 康隆はため息をした。そんなもの持ってこなくてもいいのにと思った。すると、英輔は康隆の後ろに立っている少女に気付いた。

「その子は?」

 夏は礼儀正しく自己紹介をした。

「香山夏と言います。ハルちゃん…あ、ヤスくんのおばあちゃんに2年ほど居候させてもらってます」

 康隆は、2年もこの家でハルと2人だと初めて知らされた。英輔はにやっとすると、康隆にこっそり耳打ちした。

「おまえ、こんなところで浮気してていいのか?」

「浮気って…」

 英輔は夏に気付くと、ますます声をひそめて言った。

「実はな…すごいお客さんも一緒でな」

「お客?」

 すると、開けっ放しの玄関の戸の影から、茶髪のロングヘアーの女が顔をだした。マスカラにグロスがべっとりで、バッチリ化粧が施された顔をしていた。胸元の大きくあいた派手なキャミソールを着ており、ジーンズのミニスカートを履いていた。ちょうど、雰囲気も服装も、夏と対照的だった。

「リサ」

 康隆は思わずつぶやいた。夏は茶髪のリサという女の顔を見つめた。この女の人は誰だろうと。

「ヤス!」

 リサはひどく怒った顔で、康隆に近づいた。夏はその気迫に圧倒された。こんな女は知り合いにはまったくおらず、それこそ自分にとって異国の人と同じような存在に感じられた。

 リサは康隆の腕を無理やり引っ張った。そして外に出るように言った。そのとき夏は、康隆の靴がまだ洗って、庭に干されたままであることに気付き、リサと康隆の隣をすりぬけ、急いで靴を持ってきた。太陽がよくあたったせいか、もうすっかりカラカラに乾いていた。夏は無言で康隆に靴を差し出した。

「ありがとう」

 康隆は靴を受け取ると、リサにせかされながら靴を履き、あっという間にリサに強引に腕を引かれながら、玄関から飛び出ていってしまった。夏と英輔は、その2人の後姿を呆然とただ眺めていた。英輔は、立ち尽くしている夏に声をかけた。

「えっと…」

 名前を呼ぼうとしたが、うっかりド忘れをしてしまったらしい。英輔は必死に思い出そうとした。

「夏です。みんなナッちゃんって」

 英輔は笑って頭をかいた。笑ったときの口元が、康隆にとても似ていた。唇の右端だけが、左端よりもおおげさに歪む。夏は康隆の笑顔を思い出した。

「ナッちゃんだね。悪いね、もう1人連れてきちゃって。なかなか派手な子だろ」

「いえ…あの、リサさん…でしたっけ?ヤスくんと何か?」

 英輔は苦笑いして言った。

「あの子ね、ヤスの彼女なんだわ」

「へぇ、そうなんだ」

 夏はいつもと何ら変わらぬ口調で答えた。

「昨日の夜、急にウチに来て、ヤスがどこかしきりに聞いきてさ。電話しようにも出ないって。それで、田舎にいるってことを教えたら…」

「ついて来ちゃった」

 夏は英輔の言葉の続きを言った。英輔はうなずいた。そしてまた続けようとしたが、夏に中に入るように言われ、靴を脱ぎ、カバンを抱えて居間に入った。夏は冷たく冷やした麦茶を持ってきた。喉が渇いていたらしく、英輔はそれを一気に飲んだ。夏が、自分の分の麦茶を注ごうと台所に立っていると、英輔はまたさっきの話の続きをはじめた。

「俺さ、あのリサちゃんはいい子だと思うし、別に嫌いじゃないんだけどもね…どうもあの茶髪と化粧がね」

 英輔は少々汗ばんだ額を、首に巻いていた白いタオルでぬぐった。夏は麦茶をコップに注ぎ、自分も少し口に含んだ。コップに口を付けながら、台所から肩越しに英輔の話を聞いていた。

「リサちゃん気が強いみたいでね。何だか今、ヤスと激しくケンカ中みたいで」

夏は飲み終わって空になったコップを流し台に置き、それから微笑みながら言った。

「ヤスくんは優しいから、大丈夫ですよ」

 英輔は一瞬、その言葉に驚いたようだったが、すぐにとても嬉しそうに笑った。

「そうか。ヤスは不器用だから、そんなふうに分かってもらえる子がいて良かった。あいつ最近むしゃくしゃしてるみたいなんだ。ナッちゃんのところに来て、少しは素直になったのかな」

 そういえば、ここに来たときの康隆は、妙に笑わなかったし、話しもしなかった。何がきっかけなのかは知らないが、康隆は夏にいろいろ話しかけてくれるようになったのだった。夏は、昨日からの康隆を思い出した。

 英輔は茶舞台を離れると、隣の部屋でしばらく昼寝をすると言った。

「お昼はどうしたんですか?」

「電車で軽く食べちゃったから。大丈夫だよ。ありがとう」

夏の言葉に笑って答えると、英輔はすぐに隣の部屋に入ってしまった。さすがに生まれたときから住んでいた自分の家だけあって、どこがどの部屋かはしっかり把握している。夏は、英輔が隣の部屋に行ってしまったので、自分も2階に上がっていった。宿題でもしていよう。そう思って2階の部屋に行ったが、リサを見た瞬間の康隆の顔が頭に焼き付いて離れず、やりかけの英語の問題集は、はじめに開いたページの真っ白のままで、何も書くことができなかった。

 さっきまでは雲1つなく晴れていた空に、どこからか雲が流れてきた。雲に覆い隠され、太陽はしばらく光を地上に届けてはくれなかった。夏は、少しだけ、肌寒さを感じた。





 ガラガラガラッと乱暴に戸が開いた。夏はその音を康隆と思い、迎え入れようと階段を急いで駆け下りた。ところが、玄関に立っていたのは、あまり見慣れぬ茶髪の長い髪の女だった。夏は言葉を失くした。その茶髪の長い髪の女は言った。

「ねぇ、英輔さんは?」

 夏は戸惑いながらも何とか答えた。

「中で休んでます」

「そぉなの」

 茶髪の女は、耳元の長い髪の毛をいじりながら答える。夏は応答に困ってしまった。どうしてか、この人はやりづらい。本能的にそう思った。ちょうど、食べられない異物を無理やり口の中に押し込んでしまったような、そんな違和感があった。

「アタシのこと、英輔さんから聞いたよねぇ?」

 夏は何も言わずにうなずく。

「しばらくアタシもここにお世話になるからぁ、よろしくお願いしまぁす」

 語尾を独特の調子で伸ばす話し方は、どうも夏には馴染まない。夏は喉が詰まるような思いだったが、何も言わないわけにはいかない。仕方なく、初対面ということで、自己紹介でもしておこうと思った。

「あの、あたし…」

「夏って言うんでしょぉ?」

 茶髪の女は夏の言葉を遮って言った。夏は息が一瞬止まった。

「ヤスからいっぱい聞いたの。昨日知り合ったばっかだけどぉ、すっげぇいいヤツだぁって」

 夏は思わずうつむいた。康隆が自分のことを『いいヤツ』と表現してくれていることが、少し嬉しくて、何だか顔が上げられなかった。茶髪の女は、そんな夏におかまいなしに話を続ける。

「アタシ、伊藤りさ。ヤスの彼女」

 そう言って、茶髪の女―リサは、顔の前でピースを作って見せた。爪はひどく伸びていて、カラフルなネイルアートが施してあった。夏はその鮮やかな赤色に目を奪われた。そしてしばらくぼんやりしていると、リサは勝手に、ゴールドのラメの入ったミュールを脱ぎ捨て、そろえもせずに家に上がりこんだ。夏ははっと気がつき、急いで台所で麦茶の用意を始めた。

「夏さんさぁ、ヤスのことどう思ってる系?」

 リサは畳の上に座り込むと、肘を茶舞台の上に置きながら、夏が聞きなれない口調で話を仕掛けてくる。夏は麦茶と氷で満たされたコップを片手に、居間に入り、茶舞台の上にコップを置いた。そして、また台所に引っ込もうとすると、リサは引きとめ、自分の前に座るように勧めた。夏はどぎまぎしながらも、言われるがままに座った。すると、リサがまたさっきの質問を繰り返した。

「で、夏さんはヤスについてどう思ってんの?」

 夏は目を合わせないで静かに答えた。

「いいお友達だなぁって」

 リサは一瞬止まったようになったが、すぐにまた、溢れ出すように喋りだした。

「マジでぇ?良かったぁ!なんかさ、ヤスってば妙ぉに夏さんのこと買ってるってゆうかさぁ。さっきヤスと話してるとき、あの子誰って聞いたわけ。そしたらあいつ、夏さんのこと話すとき、かなりのろけまくりでさ。超ムカつくんだよねぇ。あぁいうの」

 夏はただうなずいた。実際、うなずいてはみたものの、何をリサが話しているかなど、まったく理解できなかった。ただ唯一分かったのは、リサが自分のことを良く思っていないことだった。

「で、ウチら今ケンカ中でさぁ。もぉ、せっかくの夏休みなのにさぁ、ぜんぜん楽しめないっつぅの?もう最悪なんだよね!アイツどーもアタシのこと気に入らないらしくてぇ、休み前に別れろっつってきたの。もぉ信じらんないよねぇ?!有り得ないよぉ。マジで」

 リサはそこまで言うと、はーっと深く息を吐き出した。そして、今まで手付かずに置いてあった麦茶のコップを手に取ると、喋りすぎてカラカラになったのどに、ゆっくりと冷たい麦茶を流し込んだ。夏はそれをただ呆然と眺めていた。そんな夏を見たリサは、さっきとは打って変わった調子で話しかけた。

「ゴメンね。こんなふうに愚痴るつもりじゃなかったんだけど。何てゆうかぁ…ヤキモチ?」

「やきもち…?」

 夏は困惑の表情で言った。

「そ。ヤスがすっごく夏さんのこと楽しそうに話すから。だからちょっと荒れてるんだよね。いつもはこんなことないんだよ?マジ!マジで!それにあいつとケンカしてるってのもあるし」

 夏は、リサと会って初めて自分から口を開いた。

「…ケンカって?」

 リサは一瞬戸惑いの表情をした。夏は焦って、今言ったことを取り消そうとした。しかし、リサはすぐにもとの軽い表情になって言った。

「ヤスね、アタシに妙ぉに冷たいの」

 夏は思わず首を傾げた。康隆は誰にでも優しい人だと思っていた。行為からそう思ったわけではないが、何となく、直感的にそう思ったのだ。

「…てゆーか、アタシだけじゃなくって、クラスの女子とかにも結構冷たいし。絶対アイツあたしらのことばかにしてる」

「そんなことないよ!」

 夏は思わず叫んだ。リサはその夏の真剣な表情に一瞬驚いた様子だった。そして思わず苦笑いしながら言った。

「えぇ?何よそれ?」

 夏は自分が叫んだことを理解した瞬間、一気に恥ずかしくなり、また黙り込んでしまった。

「夏さんって面白い子ねぇ。でもね、夏さんがどう思ってるかなんて知らないけどさ、ヤスって実際、女の子好きになったことないんだよぉ?信じられる?高校生にもなってよ?」

 リサは足を縁側に向かってグーッと伸ばした。そして続けた。

「あいつの男友達から聞いたんだけどねぇ…。アタシ、いろいろ聞きまわったんだよ。あいつのこと。アタシを好きになってくれてないって気付いたら、すっごぃ悔しくなってさー。…それで、あいつの友達教えてくれたんだけどぉ、あいつ、女の子には興味あるし、ちゃんとそこらの男どもみたく、女ってものは大好きなの。でもね、生まれてから今まで、特定の子にこだわったことないんだって。信じられる?」

 今まで気付かなかったが、夏はリサが涙ぐんでいるのにようやく気付いた。下を向いていたせいで、リサの顔など直視しなかったからだ。リサも、涙をこらえながら淡々と語っていたため、夏が気付く余地もなかったのだ。

「伊藤さん」

 夏がそう言いかけると、リサは涙をぬぐいながら言った。

「リサでいいよ」

 夏はそう言われると、今まで硬くしていた顔を和らげ、いつもの太陽のような笑顔で笑った。リサはその笑顔を見ると、一瞬見とれたようだったが、負けじとリサも笑顔を作った。そして夏は言った。

「あたしのこともナッちゃんって呼んでね」

 風が通り抜け、縁側の風鈴を鳴らした。リサは風鈴を見つめると、小さい声で言った。

「こんなふうに初めて会った人に話すの、何か変な感じ」

 夏は照れくさそうに笑った。

「ナッちゃんとは仲良くできそう。ヤキモチしちゃったのは事実だけど」

 リサの笑顔は、グロスがべとべとの唇も、マスカラで太く濃くさせたまつ毛も、つり上がらせた眉毛も、その瞬間、夏にきれいに見させた。

 さっきまで雲に覆い隠されていた太陽は、いつのまにか顔をのぞかせ、白く強く輝いていた。止んでいた風が、急に柔らかく吹き出し、縁側の風鈴は音を立てて止まなかった。





 壁の古びた時計が、4時を差そうとしたころ、玄関が勢い良く開いて、ハルと涼子が帰ってきた。

「ただいまー!」

 涼子の元気で甲高い声が、家中に響き、それと同時に英輔も隣の部屋から出てきた。すっかり打ち解けた夏とリサは、縁側で氷を削ってカキ氷を食べていた。英輔はそれを見て、驚きのまなざしを2人に向けた。あまりにも意外すぎる組み合わせだったからだ。

「おはようございます、英輔さん」

 リサがわざと礼儀正しく言った。その外見からは想像もつかないほど慎んだ態度で言ったので、夏は思わず笑い出した。英輔は少し困ったように頭をボリボリとかいた。そして涼子とハルが居間に入ってきた。涼子もハルも、心置きなく買い物を楽しんだという感じで、スッキリした表情をしていた。

「英輔さん、来てたのね」

「おまえ、夫が来るのにのんきに買い物か?」

 英輔はふてくされて茶舞台の周りでぐてっと伸びた。涼子は両手に抱えていた買い物袋を下ろすと、亭主のご機嫌取りに精を出し始めた。ハルはあきれてそれを見ていた。英輔はリサのことを思い出すと、ハルと涼子にことのいきさつを細々と話した。リサも少し口をはさみながら、英輔と事情を説明し始めた。夏はその間、持っていたカキ氷を置いて、買い物袋から夕飯の材料をチェックしようと、涼子が下ろした買い物袋のところへ寄って行った。すると、そのときハルは不思議そうに部屋を見回して言った。

「ヤスくんはどこに行ったの?」

 夏ははっと気付いて、リサの方を見た。リサは分からないというように肩をすくめた。英輔はリサの顔を見て尋ねた。

「リサちゃん、ヤスと出て行ったよね?」

 リサは相変わらずの語尾を伸ばす不思議な口調で答える。

「そりゃ、最初は一緒にいましたけどぉ。1時くらいまでかなぁ…アタシ途中であいつにキレて勝手に帰ってきちゃったし」

 涼子は戸惑ったような顔で言った。

「じゃぁ家を出てかなりたつってことよね…まさか道に迷ってたりして」

「そんなことはないよ。あいつも17だし。問題ないって」

 英輔は間抜けな笑い顔でなだめた。リサも隣でそうだと言うようにうなずいていた。

「あたし、迎えに行ってきます」

 夏は早口にそういうと、すくっと立ち上がって、何も聞かずに家を跳び出した。後ろで誰かが何か言ったような気がしたが、そんなことはどうでもよかった。



 夕暮れの畦道に、夏草がザワザワと音を立てて揺れていた。田んぼの脇の埃っぽい道を、夏は必死で走った。特に何か考えて走っていたわけではないが、頭の奥では、目的地は一つだった。

 しばらく行くと、このあたりでは見かけない金髪の頭が見えた。昨日、康隆と会って、初めて一緒に座って話をした田んぼの脇の草むら。

 康隆は目を閉じ、仰向けに寝転んでいた。夏はそっと音をたてないように近づくと、ゆっくり康隆の顔を覗き込んだ。康隆はその気配に気付いたらしく、いきなり目を開いた。夏と目が合った瞬間、康隆は驚いて体を勢いよく起こした。夏と額が激しくぶつかる。

「痛ぁ!…もう!昨日と同じだよお」

「…ごめん」

 またしても康隆は気の毒そうに謝った。夏は口を開けて笑い出した。康隆もその笑顔につられて、大声で笑い出した。心の中の曇りを吹き飛ばそうと、半分はムキになっていた。

「ねぇ、みんな心配してるから、帰ろうよ」

 夏は康隆の手を昨日のように優しく握った。康隆は小さく言った。

「先に帰っていいよ」

 康隆は金髪の頭をかいた。夏は手を離すと、また昨日のように隣に座った。

「ヤスくんって、お父さんに似てるって言われるよね?」

「はぁ?」

 何の脈絡もない話に、一瞬戸惑いながらも、康隆は答えた。

「まぁ…けっこう言われるけど」

「やっぱり!笑ったときの顔がそっくりだもん!」

 風が夏の黒いつややかな髪を揺らした。康隆は思わず、そのサラサラの髪の毛に触れたくなったが、じっと手を固めて動かさなかった。夏は純粋な瞳で田んぼを見つめていた。そしてまたもや、何の脈絡もない話を持ちかける。

「夏の香りって分かった?」

 康隆は鼻をひくひくさせながら首を傾げる。

「まだ」

「そう。早く分かるといいなぁ」

 夏はのんきにのびをする。康隆はいまだに頭の中でもやもやしたものが揺れている気がしていた。夏と話してもなかなか消えてくれない。昨日は、少し話しただけで、いつの間にやら消えていたのに。

「ごめん」

 康隆はまた謝った。夏は何のことかと言うように、目を大きく開いて康隆を見た。康隆は田んぼを渡る風にもかき消されそうなほどの小さな声でつぶやいた。

「リサのこと」

 ようやく風のそよめきの中から聞き取ったその言葉に、夏は唇を硬く閉ざした。しばらく重い沈黙が流れた。夏はしばらく考え込んでから、康隆のように小さな声で言った。

「無理しないで」

 康隆ははっと気付いたように夏の顔を見た。今まで夏が、何の脈絡もない話をしてきた理由がようやく分かった。言われようもない安心感に包まれ、康隆は思わず微笑んでいた。

「あ、その顔」

 夏は、何かきれいなものを道端で見つけた子供のような、透き通った瞳で康隆を見て言った。

「お父さんにそっくり」

 康隆は自分の顔に触れてみた。いまいちどこが似ているのか分からなかったが、自分の頭の中のねっとりとした塊が、夏の優しさにゆっくりと溶け出していくのだけは分かった。





「絶対ヤスに惚れてる」

 グロスをべとべとに塗りたくった唇で、リサは夏に詰め寄った。

「そんなんじゃないよ。友達だもん」

 夏は困ったような表情で応答する。しかしリサはそれをまったく聞き入れようとしない。

 リサがこの田舎にやってきてから、3日目の朝のことだった。康隆の父親、英輔にくっついてやって来たリサは、1日目の夜から、ひたすら夏にこの言葉を浴びせていた。どうやら康隆がひどく夏のことを買っていることを知ったせいらしい。本人はただのやきもちと言っているし、夏とはかなり打ち解け、仲良くなっているが、この質問を浴びせるときのリサは、ただの恋する乙女で、友情も何もない様子だ。

「だってさぁ、一昨日ヤスのことすっごい心配して迎えに行ったじゃん?それってぇ、やっぱ惚れてるってことしか考えらんないもん」

「友達だからだよ」

 リサは夏の言うことをまったく信じない。独特の口調で、夏に好きという言葉を吐かせようと必死になっているようだ。夏はすっかりうんざりしてしまった。それでもリサは悪いやつではないし、実際リサのことはいいやつだと思っている。だから、無視するにも無視できない状態なのだ。

 壁の古びた時計が12時過ぎを差したとき、ふすまが開いて、寝起きの康隆が居間に入ってきた。

「おまえ起きるの早いな」

 寝ぼけた口調で、頭をかいていた康隆は、夏が自分のあごのまわりをじっと見ているのに気付くと、焦って洗面所に走った。夏はそれを見て思わず噴き出した。リサはどうしたのと夏に聞いた。夏は康隆がこちらに来てから2日目の朝のことを話した。その話し声が洗面所にまで届いていたのか、康隆はシェーバーを動かしながら居間にいる夏に向かって言った。

「そんなこと話すなよ!」

「ごめーん」

 夏は笑いをこらえながら返事を返す。リサはその2人の会話に、心地よい表情はひとつも見せなかった。リサは、康隆とこのような会話はしたことがなかったからだ。康隆の方から話をしかけることなど一切なかった。こちらに来てから、何となく嫌な予感はしていたが、その嫌な予感が現実のものとなりかけているような気がしていた。

 ヒゲを剃り終えた康隆が居間に戻ってきた。

「親父たちどこ行ったの?」

 アゴを撫で、ヒゲが残っていないことを確かめながら、康隆は夏に聞いた。

「畑に行ったよ」

「畑?」

 あぐらをかきながら康隆は言う。

「うん。ここから歩いてすぐなの」

 夏と康隆が和気あいあいと話をしている声は、リサの耳にはまったく届かなかった。夏のことは友達だと思っている。自分の話も親身に聞いてくれる。いきなり転がり込んできた自分にも、優しく接してくれる。そうは思っているものの、康隆と話しているのを見ると、夏が憎らしく感じてしまう。そんな自分に、リサは少々腹立ち気味だった。自分のことを気にかけない康隆が、他の女の子には妙に優しいのが、とても悔しかった。

「アタシ、散歩してくる」

 リサは跳ねるように素早く立ち上がった。夏と康隆はリサを驚いて見つめた。リサは何も言わずに出て行ってしまった。

「リサさん怒ってた?」

 康隆は夏の言葉には答えなかった。ずっとしかめっ面をしていた。

「追いかけなくていいの?」

 夏は恐る恐る聞いた。康隆は仏頂面で庭の木々を見つめている。夏はどうしたものかと不安になった。リサは康隆が好きだということはよく知っている。問題は、康隆がそのリサに応えることができるかどうかだった。

「どうして行かないの?」

 康隆は表情ひとつ動かさない。

「付き合ってるんでしょ?リサさんのこと、少しも好きじゃないの?」

 夏がそれだけ勢い込んで言うと、康隆はするどい目つきで夏を見た。一瞬、違う人物がいるという錯覚にとらわれた。夏は思わず身を引きかけた。こんな表情の康隆は初めてだったし、さっきまで見せてくれていた優しい柔らかな表情とは、まったく別物だったからだ。

「ヤスくん…あのね…」

 夏がしどろもどろになって言いかけたとき、康隆はまたもとの表情に戻った。そして、いつもの調子で言った。

「すぐに戻るから」

 そう言って、夏の頭に軽くポンと触れた。そして、静かに出て行った。夏は頭の上に、康隆のゴツゴツした大きな手の感触がまだ残っている気がした。



 リサは田んぼの畦道を、かかとの高いゴールドのラメの入ったミュールで歩いていた。ときおり転がっている土の塊や、石ころにつまずきながら、行く当てもなく、のそのそと歩いていた。

「今のアタシって超ダメダメじゃん」

 自分に対し、精一杯の怒りの言葉を吐いたつもりだった。だが、その言葉も、今の気持ちを言い表すには到底足りなかった。康隆の顔が浮かんだ。だが、その顔は仏頂面をしており、決して笑顔を見せてはくれない。

「ヤス」

 その名前をつぶやいた瞬間、目から涙が転がり落ちた。そうなるともう止めようがなかった。水道の蛇口をひねったように、止まることなく涙はひたすら流れ落ちた。

 涙をぬぐおうと立ち止まったとき、誰かが後ろから強く肩を引いた。驚いて振り向くと、そこには仏頂面の康隆が立っていた。

「ヤス」

 康隆は何も言わなかった。リサは涙を見られまいと、必死にその場でぬぐった。

「ねぇ何で?」

 固い顔をしながら、康隆は小さな声で言った。

「あいつ…夏に追いかけろって」

「ナッちゃんに言われてきたんだ」

 康隆は静かにうなずく。リサは涙をごまかそうと、笑いながらたずねた。

「ヤスってさぁ、ナッちゃんが好きだよね」

 何のことか分からないというような顔をした康隆に、リサはまた同じことを聞く。

「ナッちゃんが好きなんでしょ?」

 それでも康隆は、表情一つ動かさず、そこに立ち尽くしたままだった。リサは首を傾げた。すると、かすれた低い声で、康隆はゆっくりゆっくり、話し始めた。

「好きとかじゃないと思う」

 リサは眉をひそめた。だが、何も言わず、康隆の話したいがままにしておいた。康隆が自分の考えや気持ちを言い表そうとすることなど、リサとの間では一切なかったからだ。

「ただ、あいつといると落ち着くっていうか…素直に笑えるっていうか。まだ会ってちょっとしか経ってないけど、でも…あいつは今まで会った奴らとは違う。何ていうかすっげぇ自然体で、普通ハズくて言えないことも簡単に言っちゃうし。…俺の言葉じゃうまく言えないけど」

 リサは目をこれ以上ないくらい大きく開いていた。これほどよく話した康隆が、とても新鮮だった。少しかすれた声も、心地よく感じた。

「それってさぁ」

 リサはわざと目を合わせないように田んぼの方を見て言った。

「好きっていうことなんだよ」

 とてもつらくて、言いたくない言葉を言った。今までで一番言うのがつらい言葉だったかもしれないと、リサは思っていた。どんなにいろんな男と付き合い、相手にふられたときでも、ここまでつらいと思ったことはなかった。

 康隆の困惑した表情を見ると、リサは続けた。

「人好きになったことないって聞いたの。それってマジだよねぇ?」

 静かにうなずく。

「好きってそういうことなんだよ。一緒にいたいってそういう気持ち?それが、まぁ…好きってことなわけ」

 リサはそれだけ言うと、康隆を後にして、家に戻ろうとした。康隆はそのリサの背中に向かって言った。

「ごめん」

 リサは戸惑ったが、振り向き、ふっと笑って言った。

「いいよ」

 そして、ミュールのかかとを地面に打ちつけながら、茶髪の髪をなびかせて、リサは戻っていった。康隆は、長いことその場に立っていた。

 カラカラに乾いた田んぼ沿いの道は、白っぽくて埃っぽかった。じりじりと首筋に照りつける太陽は、火傷しそうなくらいにまぶしく、熱かった。康隆は、リサが言った言葉を、何度もリフレインしていた。

 ――好きってそういうコトなんだよ――





 リサはその翌日に帰っていった。夏はもっとここにいてもいいのにと言ったが、リサは聞かなかった。別に、急ぎの用事があったわけでもなく、ここでの生活が嫌だったというわけでもない。リサは、ハルと涼子に頭を下げ、そして独特の口調でさよならを言った。

 夏は、リサを家の門のところまで見送った。本当はバス停まで送ると言ったのだが、康隆と話がしたいからと、リサは夏の申し出は丁重に断った。夏もそれならと承知をした。

 夏の家の門の前で、リサは夏に言った。

「アタシ、いつかナッちゃんみたいな女になるから。きっと何年後かには、ナッちゃんよりいい女になってる」

 夏はそれを聞くと、嬉しそうに笑った。リサは、素直に言葉を受け止める夏の笑顔を見て、どうして康隆が夏を好きになったのかが分かるような気がした。

 リサは康隆と一緒にバス停まで行った。バス停は歩いて5分くらいのところにあって、家の前の道を真っ直ぐ行けばつく。リサは、話があると言っておきながら、バス停まで何も言わずに、ミュールのかかとだけを鳴らして歩いていた。康隆は、リサの荷物を持つのを手伝いながら、同じく何も言わずにリサの後ろを歩いていた。

 バス停につくと、リサは荷物をベンチの上にどっかりと下ろした。ペンキがところどころはげてはいたが、ベンチとしての役割はしっかり果たしているようだった。バス停は心地よい木漏れ日の中にあり、ほどよく冷たい風が通り抜けていた。蝉時雨は相変わらず激しく鳴り響いてはいたが、その音はすっかりリサの耳を抜けて素通りして行った。

遠くからエンジン音が響いてきた。おんぼろのバスがやって来た。ガタガタの道に小刻みに揺れながら。乗客をほんの数人乗せて、バスはのっそりのっそりやって来る。リサは、重たく閉ざしていた口を、ここに来てようやく開いた。

「別れてやるから、とっとと告れ」

 それだけ言うと、バスはリサの前に停車し、きしんだ音を立てて扉を開けた。リサがバスに乗ろうとすると、康隆は小さな声で言った。

「ありがとう」

 リサは意標を突かれた顔をし、康隆を見つめた。そして、そのままバスの一番奥の端の席に座った。バスは扉を閉めて走り出した。康隆がバスの進むのを見ていると、リサは、窓をガタンと開けて最後に言った。

「昨日、ヤスがいろいろ話してくれて嬉しかったよ」

 そして、リサは力強く手を振った。康隆も、高々と手を挙げた。バスは、ガタガタと音を立てながら、でこぼこ道を進んでいった。康隆はひとつ、大きく深呼吸をして、家路を行った。



 家の前では夏が座り込んでいた。植え込みでちょうど日陰になったところにかがんで、地面に絵を描いていた。康隆は、わざと何も言わずに、その姿を見ていた。小さな女の子が1人で遊んでいるような、そんなかわいらしい様子だった。夏を抱きしめたい衝動にかられた。今までもそんな気分になったことはあったが、今日は一段と強かった。

 夏は地面に絵を描いていた木の棒を離すと、立ち上がって康隆の方を見た。靴の裏で地面の線をかき消し、そして康隆が立っているのを確認すると、満面の笑顔で走りよってきた。

「おかえりなさい」

 夏にそう言われると、康隆の今まで強張っていた顔にも笑顔がこぼれた。

「ただいま」

 それだけの言うと、夏はいつものように優しく手を引いて、康隆と家の中に入っていった。たったあれだけの会話だったが、康隆にはものすごく中身の濃い会話のように感じられた。そして、白く小さな夏の手は、何よりも温かく、柔らかかった。

 家の玄関のあたりまで来たとき、田んぼの方から一陣の風が吹き寄せた。そのとき、康隆は、『夏の匂い』を感じた気がした。





 リサが帰った日から、康隆は何故か時間がものすごく速く感じられた。夏と一緒に過ごす時間が、ひどく短いような気がしていたのだ。少しでもそばにいたい。そう素直に感じていた。リサの言った言葉は、確かに本当だった。康隆は、心のそこから夏を好きだと思っていた。おそらくこれが、康隆の初恋ということなのだろう。あまりに遅い時期の初恋は、康隆の心には少々重たく、つらく感じられた。夏のあどけないしぐさや、笑い声一つにどきまぎさせられ、そのたびごとに、夏の身体を抱きしめたい衝動にかられた。それでも何とか理性は保たれており、耐えることはできた。しかしそれも時間の問題かと、康隆は感じていた。

「ヤスくん」

 夏はいつものあどけない調子で康隆に話しかけた。康隆はちょうどそのとき爪を切っていた。涼子に言われ、そろそろ切るようにしつこく言われたのだ。左手の中指の爪にさしかかったとき、夏は声をかけてきた。その声にやたらと敏感に反応してしまった康隆は、思わず深爪をする始末。これが人を好きになることなのかと思うと、康隆は嫌になってしまう。

 夏は深爪に眉をゆがめている康隆を見た。その視線の先の左手の中指を見る。ひどく短く切られ、見事に深爪となっていた。

「大丈夫?これじゃ痛いよ」

 康隆は大丈夫と言うようにかすかに笑って見せた。夏は爪切りを貸してと言った。康隆は持っていた爪切りを夏に渡した。

「切ってあげる」

 夏はまるで母親のようにそう言うと、康隆の手を握った。康隆は思わず手をふりほどいた。夏は驚いて康隆を見つめた。そしてしぼんだ風船の様になってしまった。康隆は思わぬことをしてしまったと後悔した。夏の身体の一部がそっと触れるだけで、自分の心が跳ねて落ち着かないのだ。

「ゴメン…別に嫌とか、そういうわけじゃなくて」

 焦りながら弁解する康隆を見ると、夏はまたもとの笑顔に戻った。

「いいよ。でも本当に気をつけて」

 康隆はそんな夏の笑顔に心を強く揺られながらも、淡い安心感を抱いていた。

 これが、康隆が生まれて初めて抱いた恋心であった。



田舎に来てからだいぶ日が経ち、もう8月の初めになっていた。涼子は相変わらずハルと大声で盛り上がるのが日課となり、一方の英輔は、リサが帰ってから二日後には、仕事のために東京に戻って行った。

珍しく朝の9時という時間に起きた康隆は、夏が作った朝食を食べながら新聞のスポーツ欄を眺めていた。田舎の空気もなかなかいいものだと、康隆はすっかり田舎に魅せられてしまった。こうして何もすることなくのんびりしているのも、気持ちのいいものだと気付いた。

台所で一通りの片づけを済ませた夏は、康隆が読んでいる新聞を、横から眺めた。ちょうど、スポーツ欄を過ぎたところだった。夏は、急に身を乗り出した。

「どうしたの?」

 康隆はご飯を飲み込んでから尋ねた。夏は黙って新聞のどこかを凝視している。

「おい」

 もう一度聞いたが、夏はやはり何も答えない。

「どこ見てるんだよ」

 康隆は夏の視線の先を探った。すると、小さな見出しに、ブラジルのサンパウロに向かう日本人旅行者のバスが、他の乗用車と衝突したというニュースが書かれていた。

「日本人旅行者か。大丈夫かな」

 何も考えずに康隆はつぶやいた。夏は目を上げて康隆を見た。

「大丈夫に決まってるじゃない。みんな軽傷だって書いてあるもの」

 夏は勢いよく指差した。確かにそこには夏の言うとおり、数人が軽傷を負っただけだと書いてある。康隆は、どうして夏がこんなにむきになるのかが分からなかった。そんなに自分がばかだから、夏はあきれているのだろうか。それにしてもこの表情は、明らかに普段の夏ではない。

 康隆は黙って新聞を閉じた。夏は、今まで取り乱していた自分に気付き、少し深呼吸をした。それから、気まずそうにうつむく康隆に言った。

「今日、あたし畑に行くの。ヤスくんついてくる?それともお留守番してる?」

「俺のことガキ扱いしてる?」

 『お留守番』のフレーズが気に食わなかったようだ。康隆は苦笑いしながら聞いた。夏は首を横に振ると、さらに続けた。

「スイカが大きくなってると思うから、そろそろ食べなきゃなぁって思って」

「おまえ、スイカなんか作ってるの?」

「あたしっていうか…ハルちゃんがね。私は手伝うだけ。」

「すげぇな」

 康隆はそう言うと、また箸を動かし始めた。

「で、どうするの?」

「行く」

 康隆は食べながら言った。夏は喜んだ。

「良かった!一人はキツイの。男の子がいるとラクなのよね」



 畑は暑い土と緑の香りがした。畑は、夏の家から歩いて約5分のところにあった。近場だが、康隆は初めてここに来たのだった。

 畑へ行く途中には、大きく太い樹がいくつも並んでいた。太い硬い根を張り巡らせ、地面の土を一緒に持ち上げていた。康隆は何度もその光景に息を呑んだ。蝉時雨は、畑に近づくほどに大きくなり、もう足音も何も聞こえなくなってしまった。夏との会話もできる状態ではなかった。東京の蝉とは大違いだった。

畑の中に入ると、太陽に輝いて美しく実った野菜がたくさんあった。葉っぱは濃い緑色に染まり、土はずっしりと重く、黒々と光っていた。畑の畝はきれいに整えられており、ゆるやかなカーブを描いていた。康隆はこのような畑は生まれて初めてだった。

「すっげぇ」

「でしょ?」

 夏は笑いながら答えた。

「…こんな畑初めて」

「そう?」

「きれい」

「ハルちゃんが丹精込めてるから」

 夏は、畑の奥の方に進んでいきながら、順番に野菜の名前をあげていった。

「あれがキュウリで、あっちがピーマンね」

 康隆はあちこちから飛び出ている野菜の葉っぱに肩をぶつけながら、何とか夏の後ろにくっついていった。

「えっと、あ、これが枝豆」

 康隆は枝豆のふくらんだ房を眺めた。そうこうしているうちに、畑のだいぶ奥のほうまで来たようだった。夏は指を差して言った。

「ホラ、あそこにスイカがなってるでしょ」

 そこには大きなスイカがごろごろしていた。夏は畑の土の上を軽やかに歩いていく。一方で康隆は、慣れない土の上を、もたもたしながらついていった。下ばかり向いて歩き、ふと顔を上げたところ、夏はすでに何メートルも前にいて、スイカのなっているあたりに到着していた。

「ヤスくん大丈夫?来られる?」

 夏は大きな声で呼んだ。康隆は必死で夏の方へと向かった。何とか追いついたころには、額も首も、背中中すべて汗まみれだった。対照的に、夏は涼しそうな顔をしていた。

「このスイカ、運ぶの手伝って」

 夏はスイカをひとつ切って、康隆に手渡した。

「これ?」

「そう」

 康隆はこの大きなスイカを抱えて歩くのかと思うと、眩暈がする思いだった。すると、驚いたことに、夏は康隆のスイカよりも一回り大きなスイカを抱えた。

「おまえ、それ運べるのか?」

 夏は何食わぬ顔で答えた。

「だって、ヤスくん初めてでしょ?こういうの。だから、あんまり重たいものは大変かなぁって」

「代わるよ」

 康隆は夏が返事を返す前に、自分のと夏のを無理やり交換した。スイカがずっしりと手にのしかかってくる。腕に力を入れ、康隆はそれをしっかりと抱え込んだ。夏は初め、驚きの目で見ていたが、すぐにいつもの目に戻って言った。

「ありがとう」

 康隆はまっすぐな瞳に見つめられ、何も言葉を発することができなかった。ただ、少し笑うだけで精一杯だった。2人は、畑の細い道を、畑の入り口へと向かって歩いていった。

 康隆の歩いている隣で、トマトの真っ赤な実が揺れた。カマキリが切り株の上でこちらを眺めていた。康隆はそれに気付く余裕もなく、大きく重たいスイカを抱えて歩いた。夏はその後ろから、康隆の背中を見ながら歩いた。

 何とか畑を抜けると、康隆は夏に聞いた。

「これ抱えたまま歩くのか?」

 夏は笑って言った。

「そんなの大変すぎるよ!あそこの小屋に一輪車が入ってるから、それに載せて運ぶんだよ」

 康隆はほっとした。この状態でまたもと来た道を歩けなどと言われたら、それこそ死ぬ思いだった。夏は畑を出たすぐのところに立っているボロボロの小屋に入って行った。ここに来たとき、康隆はあの小屋には気付かなかった。夏は一輪車を引いて出てきた。それを康隆の前に止め、スイカを載せるように言った。康隆はそっと重たいスイカを下ろし、夏も、地面に置いておいたスイカを持ち上げ、同じように載せた。

「じゃぁ行こうか。家についたら、井戸水で冷やして食べようよ」

「井戸があるの?」

「家の裏にね」

 夏は答えながら一輪車のハンドルをにぎると、バランスをとって一輪車を押した。康隆はその隣を歩きながら、一輪車を押す夏の手元を見つめていた。

「難しい?」

「これ?慣れれば簡単だよ。やってみる?」

 夏に言われて、康隆は真似をして一輪車のハンドルをにぎると、軽く押し出した。一輪車は傾き、危うくスイカが転がり落ちるところだった。

「そうそう、上手!」

 康隆は一輪車が傾かないように、注意深く押した。夏はその隣を歩き、傾きそうになると手を差し出して助けてくれた。

 康隆が一輪車を押し始めて電信柱のある曲がり角まで来たとき、夏は代わると言った。康隆はそろそろ交代したいと思っていたので、素直にハンドルを差し出した。夏は相変わらずの慣れた手つきで押し始めた。康隆は隣を歩きながら、何となく聞いてみた。

「おまえの親はどんな感じなの?」

 夏は急に表情をこわばらせた。康隆は少し質問したことを後悔した。すると、夏は静かに言った。

「2人ともいい人よ」

「そっか」

 康隆はそう言ったきり、しばらく黙っていた。蝉時雨の下を、2人は何も言わずに歩いた。そして夏は口を開くと、あの樹のところで交代しようと言った。康隆はうなずいた。

 夏が指定した樹のところにつくと、康隆は再びハンドルをにぎった。そして、また夏に聞いた。

「何で、今ばーちゃんと住んでるんだ?」

 夏はかすかに微笑んで答えた。

「本当のおばあちゃんが亡くなっちゃったから」

 『本当のおばあちゃんが亡くなっちゃった』?康隆には、それは自分の質問の答えになっていないような気がした。それに、康隆には夏の微笑が無理しているように見えた。これ以上聞いてはいけないのかと思ったが、夏の方から話してくれた。

「高校はバスで町にあるところに通ってるの。ハルちゃんが、一人暮らしは大変だろうって、うちにおいでって言ってくれたの」

 夏はわざと康隆と目を合わせないようにしているようだった。一輪車の上のスイカが揺れるのを、じっと見つめて歩いていた。

 康隆は何だか、何も言えなかった。構わず夏は続けた。

「ハルちゃんは本当のおばあちゃんみたいに優しいのよ」

 康隆は夏の方を見た。夏は思わず目をそらした。康隆は夏の目に涙が溜まっているのを見た。

「夏?」

 夏は目をこすると、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「交代するよ。疲れたでしょ?」

 夏は康隆の手からハンドルを受け取った。しばらく、2人の間には沈黙があった。康隆は、何か心の中に、粘っこい大きな塊がつっかえているような気がした。さっき目に涙を浮かべていたはずの夏は、まったく正反対に元気な顔に戻っていたが、康隆はその笑顔に違和感を覚えていた。だが、康隆には、何故夏が涙を見せたかがよく分からなかった。夏の両親がどういった人たちなのかも、夏がいつも笑顔でいるという理由も、何だかぐちゃぐちゃにかき乱されたようで、よく分からなかった。

 さっきまでひどくうるさかった蝉時雨は、一気に静まり返ったように感じた。夏の涙だけが、脳裏に深く焼きついていた。





 畑から戻り、康隆は居間に入った後、すっかり疲れて眠ってしまった。縁側には涼しく冷たい風が吹き込んでいて、暑さにむせ返っていた身体を癒してくれた。

 康隆は夢を見た。夏が泣いていた。ひどく顔中をぬらして。康隆は何も言うことができず、慰めてやれる言葉も浮かばず、ただ立ち尽くしていた。夏は、震える声で助けを呼んでいた。それでも康隆には何もできなかった。自分のふがいなさと無力さに、絶望していた。

 目を覚ましたとき、もう昼の3時になっていた。康隆は、ひどくぐったりとして疲れていることに気付いた。身体を起こそうとすると、ものすごく重たく感じられ、立ち上がることができなかった。

「あ、起きた」

 夏が縁側で宿題をしながら振り向いた。すると、康隆の顔を見るなり言った。

「どうしたの?顔が真っ赤」

 膝と手で四つんばいになって康隆に近寄ると、手のひらを康隆の額にそっと当てた。

「熱い」

 夏は驚いて声をあげ、急いで台所へ消えていった。康隆は意識が朦朧としており、何が起こったのかも、どうして夏があんなに焦っているのかも分からなかった。

「何?どうかしたの?」

 バタバタという音を聞きつけ、隣の部屋からハルと涼子が顔をのぞかせた。2人も康隆の顔を見て、熱があるのではと言った。ハルはタンスの上の救急箱から体温計を出すと、康隆に渡した。涼子にうながされるがままに体温計を脇に挟み、体温を測った。

「39度!」

 涼子とハルは、体温計の水銀の位置を見るなり、金切り声を上げた。夏は氷枕を持って台所から出てきた。そして康隆のために、隣の部屋に布団を敷いた。

「私、今日は別の部屋で寝た方がいいのかしら」

 涼子は康隆がゆっくり休めるようにと気遣い、ハルに聞いた。

「そうだね、ヤスくんも一人で静かに寝る方がいいかもしれないし。私が看病するから、涼子さんは2階の別の部屋で…」

「私が看てるからいいよ」

 夏がハルの言葉を遮った。

「ハルちゃん、いくら元気だからって、風邪がうつったら大変だよ。一応おばあちゃんなんだし」

「一応って何さ」

 ハルは笑って言った。康隆はふらふらと立ち上がると、夏が敷いた布団の上に倒れこんだ。夏は駆け寄り、康隆を仰向けに寝かせ、布団をかぶせた。

「ちょっと頭上げて」

 夏は康隆の金髪の頭を軽く持ち上げると、下にタオルにくるんだ氷枕を入れた。康隆は大きくひとつ、息を吐いた。洗面器に水を張り、水を含ませたタオルを額に乗せてやった。夏は不安そうにその真っ赤な顔を見つめた。

「ナッちゃん、たぶん夏風邪よ。ホラ、夏風邪は馬鹿がひくっていうでしょ?」

 涼子の言葉にハルは大笑いした。夏も何となく笑って見たが、いつもの康隆の表情でないことが心配で仕方なく、心から笑えなかった。

 その夜、夏は康隆におかゆを作って持って行った。康隆は熱くて仕方ないらしく、まったく寝付かれていなかった。

「ヤスくん、起きれる? 何か食べた方がいいよ」

 夏はそう言って康隆を起こしてやった。康隆はすっかり金髪がぺしゃんこになり、やつれた表情をしていた。夏はおかゆをすくって康隆の口に運んだ。康隆は、人から食べさせてもらうことが初めてだったので、少々不思議な気分ではあったが、恥ずかしいだの何だの言っている場合でもなかった。

 夏が3口目を運ぼうとしたとき、康隆は小さなかれた声で、もういらないと言った。口の中がまずくて、もう喉を通らないようだった。康隆はまた布団に転がった。夏は、額に乗せてあったタオルをまた水で冷やしてやった。

 すると、康隆がかすかに唇を動かした。夏はそれに気付かなかった。2度目、康隆が唇を動かし、かすれた声を出したとき、夏はようやく気付いた。

「何?」

 夏は康隆に近づいて聞いた。小さな声だったが、今度は何とか聞き取れた。

「おまえ、寂しくないの?」

 一瞬何のことだか分からなかった。夏が言葉に詰まっていると、また康隆は小さくかれた声で言った。

「親に会えなくて寂しくないの?」

 夏は昼間のことを思い出した。思わず涙をこぼしたことも、康隆が困惑した表情を見せていたことも。そんなことを、康隆は覚えていたのだと思うと、何だか心が痛くなった。

「寂しくないの?」

 康隆は何かの暗示にかけられたかのようにまた繰り返した。

「大丈夫」

 夏はわざと明るく言った。すると、康隆はゆっくりと身体を起こした。もう熱で身体はふらふらだろうに、それでも康隆は起き上がった。そして夏に言い寄った。

「何で無理して笑おうとするんだよ?」

 夏はそれを聞いたとたん、身体の中で何かが切れたような気がした。その瞬間に、目から熱い涙がぼろぼろ流れ落ちた。康隆は、ふらふらの身体で夏に寄ると、ぎこちないしぐさで夏の頬に触れた。

「無理して笑うなよ」

「ごめんね…」

 夏はそれだけ言うと、汗ばんだ康隆の胸に額を押し付けた。

「泣きたきゃ泣けばいいじゃん」

 康隆は身体の調子は最悪だったが、気分は不思議と落ち着いていた。今までにないくらいに静かで穏やかだった。

 まるで赤ん坊のようにしゃくりあげて夏は泣いた。泣いたのなんか何年ぶりだろう。康隆は夏の背中を軽く叩いてやった。夏はひとしきり泣いた後、康隆が布団に仰向けになっている横で、静かに話した。康隆が聞いているかどうかはもうどうでもよかった。今まで心の底で鍵をしめておいたことを、すべて出し切ることさえできればと思っていた。そのきっかけが康隆だったのだ。


「私のお父さんは外国で転勤してばっかりだったの。お母さんは、私の高校の入学式の次の日からお父さんのところに行ったの。

それまではお父さんは外国に一人で転々と暮らしていたの。さすがに外国暮らしが長かったから、お母さんも不安だったのかもしれない。

お母さんには、毎月、銀行の口座に生活費とかは振り込むからって言われて。私は街で一人暮らしするはずだったの。私のおばあちゃんはもう亡くなってるし、行くところもなかったから。そこに、おばあちゃんとすごく仲の良かったハルちゃんが、うちに来てもいいよって言ってくれて。…夏休みとかにおばあちゃんの所に遊びに来ると、必ずハルちゃんの所にも遊びに行ってたから、だから私もハルちゃんのことは本当のおばあちゃんみたいに思ってたし、別に嫌じゃなかった。嬉しかった。

でもね、夜とか、すっごくお母さんとお父さんの顔が恋しくなるの。もう声も忘れかけてるのに…。たまには手紙をくれるけど、あっちは転々と暮らしていて住所もはっきりしないから、こっちから送ることはできなくて。

それにね、ニュースとかも、前より真剣に見るようになったの。海外のニュースで、お父さんたちの名前が出てないかって。今朝、ヤスくんが見てた新聞に、日本人旅行者って言葉を見つけたら、途端に緊張しちゃって、気が気じゃなかった。もしも、お母さんとお父さんが乗ってるバスだったらって思ったら…。ばかみたいだね。私って」

 

康隆は薄目を開けて夏を見た。

「おしまい?」

「うん」

 夏は静かにうなずいた。康隆は小さく言った。

「すっきりした?」

「うん」

「そっか」

「うん」

 夏は康隆の横の畳に寝転がった。康隆は目を閉じた。夏の肌のかすかな香りがする。音を立てないように手を伸ばし、夏の黒髪に触れてみた。それはとても柔らかく、さらさらしていた。何故かとても安心する。熱のあえぎもすっかり忘れ、深く眠った。

 風も吹かない寝心地の悪い夜だった。それでも、康隆はとても心地よかった。夏がそばにいるということが、何よりも嬉しかった。

 




 熱を出して寝込んだ翌朝、康隆は驚くような回復力を見せた。熱が下がり、体調が良くなったため、食べなかった分のツケが回ってきたのか、無償に腹が減った。

 布団の中で寝返りを打ち、ふいに手を伸ばすと、そこに何か温かいものが触れた。ゆっくりと目を開けると、そこには夏が寝ていた。布団もかぶらず、畳の上に突っ伏していた。康隆はその無邪気な夏の表情に小さく笑った。右側の頬に畳の跡がくっきりと残っていた。康隆は面白がって、その畳の跡のついた頬を撫でてみた。ザラザラしていて、夏の真剣に眠る様子までもが滑稽に見えた。

 すると、頬を触られる手に気付き、夏が目を開けた。顔を起こすと、康隆と目が合った。夏は一瞬赤くなって、また突っ伏してしまった。一体何事だろうと、康隆は首をかしげた。

「寝てるフリなんかするなよ」

 夏は何も答えない。

「おい」

 康隆は夏の横腹をくすぐった。すると夏は、ばたばたと足を動かし、必死にくすぐりから逃げようとした。康隆がいっそう面白がってくすぐり続けると、さすがに耐え切れなくなり、夏は勢いよく身体を起こした。

「やめて」

 夏があんまりにもむきになって言うので、康隆はびっくりして手を離した。

「ごめん」

「うん」

「怒った?」

「別に」

 夏が今日は何となく無愛想な気がした。何か気に食わないことがあったのだろうか。

「寝不足?」

「どうして?」

「ずっと看ててくれたんじゃないの?」

「うん」

「だから機嫌悪いの?」

 康隆が夏の顔を覗き込むと、夏はまた顔を赤く染めてそっぽを向いた。夏は静かな口調で早口に言った。

「泣きついちゃったから」

 康隆はやっと夏が無愛想なわけが分かった。夏は同じように続けた。

「昨日のあたし変だった」

 遠くから草刈り機の振動音が響いてきた。どこかの農家の人が、畦道の草を刈っているのだろう。康隆はその音がどうも気になって仕方なかった。夏は康隆が話を聞いていないようなのを見ると、声を少しだけ高めた。

「ヤスくんに会ってからだよ」

「何が?」

 康隆は声を高めた夏に、少し戸惑いながら聞き返した。

「何かあたし変なの。変になったの」

 夏はそれだけ言うと、部屋を出て行ってしまった。康隆はあとに残され、おかしな後味を味わっていた。変になった?それが自分のせいだというのか?

 食べ物を口にしていなかったので、少々ふらつきながら、康隆は居間へと向かった。涼子がそこで梨をかじっていた。康隆の顔を見るやいなや、涼子はいつもの甲高い声で騒ぎ立てた。

「アンタ、もういいの?熱はないの?」

「もう下がった」

 ぶっきらぼうに返事をする息子の頭を、涼子は軽く叩いた。

「人が心配してるってのに。もう」

 康隆は苦笑いだけして、茶舞台の上にあった梨を一切れつまんでかじり、そして縁側に腰掛けた。涼子がくるりと康隆の方に向きを変えて言った。

「英輔さんに、アンタが熱出して寝込んだって電話しちゃったから」

「はぁ?勝手なことすんなよ」

「いいから、電話して、もう大丈夫だって言っときなさい。かなり心配してたから」

 まったく、どうしてうちの親はこうも勝手なのだろうと、そう言う代わりに大きなため息をして、康隆は重い足取りで電話に向かった。しかし、途中で気がついたように居間に引き返すと、涼子に聞いた。

「今電話したらまずくない?」

 涼子はすっとんきょうな声を上げて言った。

「アンタ熱で頭がどうかなっちゃったの?今日なんて日曜日なんだから、家でゴロゴロしてるわよ」

 あぁ、そうか、今日は日曜か。康隆は心の中でつぶやくと、また電話へと向かった。家の電話番号を回し、受話器の向こうの電子音を聞いた。すぐに誰かが向こうで受話器を取った。

「もしもし」

 聞きなれた父親の声がした。康隆は自分だということを告げ、もう熱も下がり、大丈夫だということを伝えた。英輔はもちろん安堵のため息をついた。すると、すぐに声の調子が変わった。

「おまえ、明日には帰ってくるんだろう?」

 康隆は自分の耳を疑った。

「何言ってんの?」

「何言ってるって…母さんから聞いただろう?」

 英輔は涼子以上にすっとんきょうな声を上げた。康隆は英輔から詳しい事情を聞こうとした。

「そんなこと聞いてないんだけど」

「おまえが体調崩したから、早めに家に帰った方がいいってことになってな。本当に聞いてないのか?」

「聞いてねーよ」

「それにもう8月の真ん中だし。どうせ宿題も手を付けてないんだろう」

「…そんなこと……あるけど…」

「ホラ見ろ。それにあんまりそっちにいても、ナッちゃんの仕事増やすだけだろう」

 『ナッちゃん』というフレーズに思わず心臓が激しく震えた。康隆はしばらく黙り込んだ。英輔は構わず話を続ける。

「明日の夕方にはこっちに着けるはずだから。母さんの言うことをしっかり聞くんだぞ」

 康隆はまだ激しく鼓動を打つ心臓を押さえきれず、ただ適当に相槌を打った。英輔は満足そうに受話器を置いてしまった。そこまでで彼らの会話は途絶えた。

 放心状態のまま、康隆は居間へ戻った。そして、のんきにゴロゴロと転がる涼子を見て、耐え切れずに言った。

「何でいつもそう身勝手なんだよ」

 涼子は意標を突かれた顔をして振り返った。

「勝手に帰るとか話進めてんじゃねーよ」

「だってアンタが体調崩すからじゃない。優しい親心ってやつよ」

 康隆はあきれて物も言えなくなった。涼子は眉をしかめて言った。

「アンタ、帰りたくないの?」

「…」

「どうしてそんなふうに怒るのよ?」

 何も言わない康隆に、涼子はいよいよ怒り出した。

「言いたいこと言わなきゃ、相手に伝わりっこないじゃない」

 そう言い放ち、涼子はまたそっぽを向いてゴロゴロを始めた。台所から夏が不安げに康隆を見ている。康隆はそれにも気付かないほど動揺していた。ハルが玄関を開けて入ってきた音にも気付かず、その場に立ち尽くしていた。

「あれ、ヤスくん。良くなったの?座ってればいいじゃない。まだ病み上がりでしょう」

 ハルが気遣って言ってくれた言葉も耳をすり抜け、康隆はそのまま家を飛び出した。

「ヤスくん!」

 ハルが後ろから大声で叫んだが、康隆には聞こえていなかった。涼子は慣れた様子で相変わらずゴロゴロしている。夏は一瞬思いとどまり、追いかけようとしなかった。





 ふらつく足で、康隆はまた、あの畦道に向かった。むしゃくしゃしたときは、この涼しい風の吹く田んぼの畦道に座っているのが癖になっていた。暑くてうだりそうな日も、康隆はちょくちょくここに来るようになっていたし、涼子が口うるさかった日もここに来るようになっていた。そうすると必ず後から夏が来て、隣に腰掛けてくれるのだった。しかし、今日は夏の来る気配がない。朝から夏は様子がおかしかった。あんなにそっけない夏は、夏ではないような気がしていた。

「何なんだよあいつら」

 田舎で夏に会って、少しずつ解けてきていた心は、またきつく絞まりつつあった。夏が今日はまだ、あの向日葵のような大きな笑顔を見せてくれていない。あの笑顔に自分がそれだけ励まされていたかが、出会ってもう1ヶ月ほど経つという今、少しずつ分かりかけてきた。自分には夏が必要なのだろう。康隆は静かにそう思い始めていた。

――言いたいこと言わなきゃ、相手に伝わりっこないじゃない――

 涼子の声が頭に響いた。確かに自分は思ったことを押し殺していたし、相手に何となく合わせたりしていることが多かった。涼子の言うことはいつも黙って無視するか、素直に聞くかのどちらかだった。リサといたときも、自分が思っていることは何一つ言わず、リサが好きそうな方向へと話を傾けていた。ここに来てから、少しは素直に言いたいことを言えるようになった気もしていたが、やはり何も変わっていなかったのだと、今更になって気付いた。



 家では、夏は何も言わずに、唇を硬く結んだまま縁側に座って足をぶらぶらさせていた。涼子は夏の隣に座った。夏は何も言わなかった。涼子は、いつもはうるさくさえずる口を、嵐がおさまった波打ち際のように、静かに、静かに動かし始めた。

「ねぇ、ナッちゃん」

 夏は相変わらず黙っている。

「康隆のこと、迎えに行ってあげて」

 涼子はなおも黙り続ける夏に、少し気まずい思いをしながら、それでも話を続けた。

「あの子、たぶんナッちゃんが大好きなのよ。きっと、初めて会ったときから」

 夏は目を大きく開いて涼子を見た。

「ナッちゃんに会ってからは、何だか顔も生き生きしてきたし。やっと…子供らしくなったっていうか」

 蝉がジジジ…と小さな泣き声を立て、空に舞い上がった。

「昔から妙に大人びてたのよね。きっと私たちがあんまり構ってやらなかったからだと思うけど」

「あたし」

「ん?」

 夏は小さな声で言った。

「ヤスくんに変なこと言っちゃった」

「変なこと?」

「ヤスくんのせいで、あたし変になったって」

「そう」

 涼子は遠い目をして、そして微笑んだ。

「私も英輔さんにあって変になったのよ」

 夏は、どういうことだろうと首を傾げた。涼子は夏の目をじっと見つめて言った。

「ナッちゃん、そのうち理由が分かるから。今は、康隆のそばにいてあげて」

 涼子はそういって、夏の頭を撫でた。

「でもね、康隆が出てったのは、ナッちゃんのせいなんかじゃないのよ。私が、身勝手なことばっかりするから」

「身勝手って?」

「東京に帰るって言ったの。そしたら、急に態度が変わっちゃって」

「…」

「きっと、…帰りたくないのかもしれないね」

 涼子は、夏がさっきしていたのと同じように足をブラブラさせ始めた。

「ダメなんだよねぇ、私」

 夏はそんなことないと言うように首を横に振った。

「全然親らしくないのよ。料理は下手だし、裁縫なんてもっての外!子供の気持ちなんか一切分かってあげてないし」

 風が吹き、ザワザワと、庭の木々が揺れた。

「あの子が幼稚園のころのことなんだけどね、幼稚園で使うカバン…サブバッグっていうのかな、それを親が手作りしなきゃいけないっていう決まりがあったのよ。でも私こんなんだから、もちろんそんな芸当できなくて。仕方なしに近所の安いお店で、手作りって言っても分からないようなものを買ってきて、あの子に持たせたの」

 夏は笑いをこらえた。涼子はそれを目ざとく見つけて言う。

「笑われるようなことだから、仕方ないけどね」

 涼子が笑うと、夏もつられて笑った。その笑顔を見て、涼子は言った。

「そう、その笑顔がなきゃ!ナッちゃんじゃないよ」

「うん」

 夏は小さくうなずいてみせた。少しだけ、心の奥のつまりが取れたような気がした。

「きっと康隆もその笑顔が大好きだと思うわ」

「うん」

 しきりにうなずくと、夏はすくっと立ち上がって言った。

「迎えに行ってきます。どうせいつもの所にいるんだから」

 どこからか、山鳩のポーポーというのんきな声が聞こえた。家の外に広がる広い空に、その声は高く響いた。





 康隆は畦道に座ったままだった。頭の中は真っ白で、何も考えられなかった。空腹のせいもあったし、夏のこともあった。

「夏」

 名前が思わず口をついて出た。何も考えられない代わりに、その名前ばかりを呼び続けた。何故か涙が目から零れ落ちた。

 遠くから誰かの足音が聞こえた。康隆は目をこすると、勢いよく身体を起こした。

「夏!」

 つい叫んでしまった。足音の主は、驚いて康隆を見た。ふるぼけた畑仕事のつなぎを来た、見知らぬじいさんだった。康隆は拍子抜けして、また寝転がった。じいさんは首を傾げて、それから持っていた鍬を持ち直し、ゆっくりと歩いていってしまった。

 康隆は空腹に耐えられなくなった。今ならこのあたり一帯の草でも食べられるような気がしていた。それでも、何より夏に会いたいと願っている自分がいた。リサが言っていた言葉がふと蘇った。

――好きってそういうコトなんだよ。一緒にいたいってそういう気持ち?それが、まぁ…好きってコトなわけ――

――別れてやるからとっとと告れ――

 リサが、あの気が強い負けず嫌いのリサが、夏への自分の気持ちを認めてくれた。それどころか、背中を後押ししてくれた。今の自分を見たら、リサは確実に腹を立てるだろう。

「腐ってんな。俺」

 自分があまりに情けなくて、目を開けていられなかった。さっきぬぐったはずの涙は、とめどなく目からあふれ出し、夏草の生い茂る地面に落ちた。この涙も、水として地中に潜り、草木の栄養となるのだろうか。

 しばらく寝転がっていると、自分が自然の中の一部になったような錯覚にとらわれた。空の中に溶け込み、瑞々しいあの空色の中にぽっかり浮かんでいるような気分だった。もうこのまま、本当に自然界の一部となってしまいたいと思った。

「ヤスくん」

 夢の中で、聞き慣れた夏の声を聞いたような気がした。これが現実だったらどんなにか嬉しいことだろう。康隆は、夢の中なら何でも伝えられるのにと思った。

「ヤスくん」

 声はまた、なおも康隆を呼んだ。そこで康隆は閉じていたまぶたをうっすら開けた。ゆっくりと身体を起こすと、誰よりも会いたかった人が立っていた。

「夏」

 硬く結ばれてしまった心が、今になってするりと解けた気がした。夏は恥ずかしそうな顔をして、うつむいていた。康隆は立ち上がり、夏に歩み寄った。夏は身体を硬くして突っ立ったままだった。

「ごめん」

 康隆は誤った。何に対して謝っているのかは分からなかったが、それでも何となく謝った。

「何で謝るの?」

 夏はうつむいたまま言った。

「私が悪いのに」

 なおもうつむいたままの夏の顔に、康隆は少し焦った。

「泣かないでってば!」

 しどろもどろにそう言って、夏の頭を撫でた。

「ふふっ」

 夏が小さく笑う。

「涼子さんそっくり」

 すると、夏はにっこりして顔をあげた。

「撫で方。そっくりだよ。涼子さんと」

 康隆はあっけにとられて何も言うことができなかった。てっきり泣いたとばかり思っていたのに。急に怒ったり、落ち込んだり、笑ったり。もうすっかりわけが分からなかったが、それでも夏がここまで来てくれたのはすごく嬉しかった。夏はいつもの調子で言った。

「帰ろうか」

 そう言って、優しく手を握った。柔らかく、小さい手が、康隆の心も捉えて離さなかった。このとき、康隆は、自分がどうしようもなく夏のことを愛していると思った。この瞬間の夏が、何よりも近く感じられた。この柔らかく、小さい手が、直接自分の心に触れているような気がしてならなかった。自分が感じている細々としたことも、この小さな白い手は、何でも知っているとすら思われた。





 家に着いたころには、もう昼飯時で、康隆を探しに出て行った夏の代わりに涼子が昼ごはんを作っていた。料理が苦手な涼子が、自分から食事を作ることなど、めったにないことだった。

「何やってんの?」

 目を白黒させて康隆が聞くと、涼子は頬を膨らませて言った。

「私が作っちゃいけないの?」

「そうじゃないけど」

 康隆は不安そうに涼子の包丁を持つ手を覗き込んだ。涼子は康隆よりも頭一つ分ほど小さく、容易に上からのぞき込むことができた。いつのまにここまで大きくなったのかと、涼子はしみじみ感じながら、慣れない手つきでじゃがいもの皮をむいた。

「涼子さん、皮むき器ならそこの引き出しに入ってますよ」

 夏が気を利かせて言った。しかし涼子は意地をはり、大丈夫と答えて、包丁を動かし続けた。康隆も夏も気が気ではないようで、眉をひそめてその手を見つめた。

「あんたたち、涼子さんはそこまで不器用じゃないよ」

 ハルが笑いながら台所に入ってきた。

「このあいだだって、ちゃんと梨を自分でむいたんだから」

「お義母さん!」

 涼子がむきになって言った。そのとき一緒に包丁もこちらの方へ向けたので、みんな驚いて後ずさりをした。ハルは何があるか分からないからと言って、救急箱を持ってくる始末だった。夏も康隆も、また包丁を向けられたらたまらないと、涼子から一定の間隔を置き、それ以上近づかないようにと言った。そんな周りを見て、涼子はすっかりすねてしまった。

「何よあんたたち。ヤスだって私の料理で育ったんだからね」

「はいはい」

 康隆は軽く相槌だけうつと、夏と笑いあった。ああ、この笑顔だ。康隆は思った。この夏の何気ない笑顔で、自分は本当に温かくなれると思った。夏がいなかったら、きっとこんなふうに母親と話すことも、祖母と関わりあうこともなかっただろうと思う。

 何とか涼子が作った料理は肉じゃがだった。じゃがいもの皮が所々に残っていて、形も無残だったが、食べられる味だった。ろくに食事を摂っていなかった康隆は、味は気にせず、とにかく食べることだけに集中した。

「ね、おいしいでしょ?」

 涼子が康隆に問いかける。

「腹減ってるから別に気にならない」

 そんな息子の返事を聞き、涼子はいつもの調子で康隆の頭をポンと叩いた。そんな光景に、夏もハルも笑い出した。

 人と一緒にいるというのは、とても楽しいことだと、康隆は思った。そんなことなど、東京にいたときは微塵も思わなかった。たぶん、夏がいなくてもそうだったかもしれない。笑い声を弾ませる夏の表情は、彼の心に刻み込まれ、けっして風化してなくなるようなことはないだろう。

 相変わらず山鳩はのんきな声を響かせているし、縁側の風鈴もいつもと同じ冷たくて心地よいをたてていた。



 その夜、英輔から電話が鳴り響いた。

「もしもし」

 涼子が一番に電話に出た。しばらく英輔と話した後、涼子は受話器を康隆に渡した。とくに何も言わず、目で何かを訴えた。康隆も何も言わずに受け取った。夏は、初め居間のふすまから顔をのぞかせて見ていたが、何だか見ていてはいけないような気がして、すぐに奥へと引っ込んでしまった。

「もしもし?」

 康隆が静かな声で受話器に向かって声をかける。電話線1本でつながった向こうからは、英輔ののんきな声が聞こえてきた。

「ヤスか。明日はどうするんだ?」

「どうしたらいい?」

 英輔はため息をひとつついた。

「そんなこと俺に聞いてどうする。おまえが帰りたいなら、母さんと一緒に帰って来い」

「ん…」

「イヤか?」

 康隆はしばらく間をあける。

「もし」

 ゆっくりと康隆は父親に問いかける。

「もしも俺が、こっちに残りたいって言ったら?」

 英輔は少し考えた。受話器の向こうで頭をかきむしった。康隆は、その動作が、雰囲気から感じ取れた。

英輔は小さく舌を鳴らした。舌を鳴らすのは、英輔が答えに詰まったときの癖だった。康隆は、面倒な問題を持ちかけたのかと、少し不安になった。しかし、英輔はまたのんきな声で言った。

「そっちに残って、おまえにとって何かプラスになるなら」

 康隆は息を止めた。

「帰るのは先延ばししてもいい」

「本当に?」

「ああ」

「母さんは?」

「言えば一人で帰ってこられるだろう。そこまでトロくはないからな。まぁ料理に関しては相当なもんだが」

 康隆は笑った。英輔も涼子の料理にかなり苦労させられたと見える。すると英輔が、急にマジメな声になって言った。

「おまえ、ちょっと変わったな」

「何が?」

「男らしくなった」

「そう?」

 英輔は嬉しそうに受話器の向こうで笑った。康隆はいまいち意味が分からなかったが、英輔に帰りの先延ばしの許しを得て、ただほっとしていた。

 電話で話しながら笑う康隆の声が気になり、ふすまから涼子は顔を出していた。どうやら話がうまくいったのだろうと、満足そうな微笑をたたえていた。

 康隆自身も、自分の思いを人に伝えられたことが、とても満足に感じられていた。伝え方がどうであれ、伝えた自分の意見を尊重してくれる人がいる。それが何よりもいいことだと、ほのかに感じた。





「ヤス、あんた本当に一人で大丈夫?」

 涼子は家を出る前に、何度も念を押した。

「大丈夫だって」

「本当に?」

「いつまでも子供じゃないから」

 涼子はそれでも不安そうにしていた。

「あんたが自分を子供じゃないと思っても、親にとっちゃずっとあんたは子供なのよ」

 康隆はそれを聞くと、少しばかり照れくさそうに頭をかいた。涼子はそんな康隆の顔を見ると、少し寂しいような、嬉しいような顔を浮かべた。そして、ハルにお礼を言って、玄関の引き戸を開けて、外に出た。

「じゃぁ、また来ますから。お世話になりました」

「気をつけて」

 ハルはしわの刻み込まれた顔に、いっそうのしわを浮かべて笑い、長い年月使い続けた手を高々と掲げた。ツクツクボウシが寂しげな声で鳴いていた。夏は涼子のもとに駆け寄ると、持っていた包みを渡した。

「これ、よかったら」

 涼子はその包みを触ってすぐに中身が何かが分かった。それは、ハルの手作りの草もちだった。涼子はこの田舎に来て、ハルの手製の草もちを始めて口にして以来、子供のようにしょっちゅうこの草もちをせがんでいたのだった。夏はそれをよく知っていて、ハルに頼んでいくつか作ってもらっていたのだった。

「ありがとう!大事にいただくわね」

 そういって満面の笑顔で夏にさよならを告げた。夏も笑顔でさよならと言った。最後に涼子は康隆の顔をみてウインクをした。康隆は、そのウインクの意味が何となく分かった気がした。

「じゃぁ、もう行きます」

 そう言って、涼子はバス停への道を急いで行ってしまった。

「本当にバス停まで送らなくてもいいのかね?」

 ハルは心配そうに康隆に聞いた。

「みんなに付いて来られると、もっとここに居座りたくなるからだって。だから大丈夫」

「そう。そんなに気に入ってもらえたんだね」

 康隆はうなずいた。ハルは嬉しそうに目尻を下げた。康隆は空を仰ぎ、深呼吸をした。ツクツクボウシはひたすら寂しげに鳴いていた。





 その翌日、康隆は田舎に夏とハルと3人きりになったが、あまり不安だとか、寂しいとかいう感情は持っていなかった。しかし、一つだけ、気にかかることがあった。それは夏の両親のことだった。

 康隆は、夏には直接聞くことができず、ハルに聞いてみようと思った。探りを入れているようで、夏に悪い気もしたが、それでも、夏のことをもっと知りたいと言う気持ちが強かった。康隆は、ハルが畑へ行くと言ったのを見計らって、ハルに話しかけた。

「ばあちゃん」

「何だね?」

 ハルは鍬を手にしながら言った。首の周りの手ぬぐいが、妙に似合っていて、何とも言えない温かみがあった。

「畑、手伝うよ」

「あぁ、ヤスくんいい子だね。ありがとう」

 康隆はハルの持っていた鍬を持ってやった。ハルは、嬉しそうな顔をして、康隆の横に並んで歩いた。

「ヤスくんは畑を見たかね?」

「風邪で寝込んだ日に、夏といっしょに」

「そう。それで疲れて熱が出たんだね」

 しばらく沈黙が流れた。お互いに相手の出方をうかがっているようにも思われた。康隆は、意を決して、ハルに問いかけた。

「夏のことで聞きたいことがあって」

「ナッちゃん?」

 康隆は、つばをぐっと飲み込んで、わざと明るい調子で言った。

「夏の両親って、どんな人なんですか?」

 ハルはしばらく考えていた。言ってもいいものかどうか、悩んでいるようだった。

「言えないことなら、無理に…」

 そう言いかけた康隆を遮るように、ハルは答えた。

「今は海外にいるよ」

「海外のどこに?」

「さぁ…このごろ連絡もよこさないからねぇ」

 ハルは少しばかり悲しげな瞳をしていた。しわの奥に埋め込まれたその瞳は、何を見て、何を今感じているのだろう。

「もっと、聞かせてもらっても?」

「ナッちゃんには、言っちゃ駄目だよ」

「分かってる」

 康隆は、ハルの声に一身を傾けた。ハルは、長年の重みを感じさせるしわがれ声で、ぽつりぽつりと、町の灯が点るように語りだした。


「あの子のお父さんは、もともと海外の企業に勤めていて、日本にはほとんどいなくてね。あの子が小学生の頃は、教育上に…悪いだのなんだの…って言いながら、長期休暇にはできるだけ日本に帰るようにしていたみたいだけど。ナッちゃんが中学にあがってからは、もうほとんど日本には帰ってこなくなったんだよ。ひどい話だね。中学生だから、もう大丈夫だろうって。まぁ、たまに手紙やら電話やらで、連絡はよこしていたみたいだけどもね。私には分からないね。どうして自分の子供を放っておけるんだろうねえ。

…でも、ナッちゃんは、一度もお父さんに会いたいって言ったことがなかったらしいんだよ。もうお父さんの顔なんか、忘れちゃったんだろうね。これもまたひどい話なんだけどね、高校生になったら、お母さんもお父さんのところに行って、一緒に海外暮らしをするなんて、そんな話が舞い込んできたんだよ。ナッちゃんは、もう日本の高校に受かっていたし、本当に急すぎる話でね。お母さんも、悪かったなぁって言ってたけども。

それで、ナッちゃんは高校の近くで一人暮らしするって話になってたらしいけど、それはかわいそうだって。私が預かることにしたんだ。高校は、バスでなんとか通える距離だったから。私は本当のおばあちゃんじゃないけどもね、隣の人が、ナッちゃんのおばあちゃんにあたる人だったけども、その人はもう亡くなってしまったから。でもナッちゃんは、お隣に会いに来るときはウチにも同じように遊びに来ていたし。だから、私のことも、昔からハルちゃん、ハルちゃんって、本当の家族みたいに接してくれていたよ。

…ナッちゃんは本当に気が利く子で、高校生じゃないみたいで。大人びてる子だよ。それに、やっぱりお母さんから聞いたとおり、お父さんに会いたいとか、そういうことは一切言わないんだよ。我慢してるのか、本当は会いたくて仕方ないのか。…私にはよく分からない」

 

ハルはそこまで言って、大きく息を吐いた。畑はもう目の前だった。

「今のこと、内緒にしておいてくれるね」

 康隆はうなずいた。この前の晩の夏の話と比べると、確かに、ハルの言ったことは正しい。夏は、本当は両親がたまらなく恋しい。強がっているだけなんだと。だから妙にいつもにこにこしていたのだろう。弱いところを補うかのように、いつでも笑っていたのだろう。康隆は、夏のことを助けられないものかと思った。

 このあと、康隆はハルの畑仕事を手伝ったが、もう夏の話題は出てこなかった。ハルも康隆も、わざとそれを避けているように思われた。

 黒くずっしりとした畑の土は、この前以上に足に重くまとわりつくような気がした。蝉の鳴き声が、妙に耳について、いやな気分だった。一瞬、夏が流した涙が頭を過ぎった。





 じめじめした朝だった。8月の半ばに差し掛かり、夏休みももう半分を過ぎていた。康隆は、本当なら出校日に学校に登校するはずだったが、そんなことはとうに忘れていたし、実際、涼子や英輔も、どうでもいいと感じていた。朝遅く、康隆はゆっくりと目を覚まし、汗をタオルでぬぐいながら居間に入ったとき、そこに夏がやって来た。あまりの暑さに団扇でひたすら首筋に風を送っている。

「おはよう」

 夏は康隆の顔を見ると言った。康隆もあいさつを返した。どうも寝起きの声は低くかすれて、機嫌が悪いように聞こえるから嫌いだ。

 ふと、夏の手の中に、紙切れが握られているのが分かった。手紙のようだった。康隆は特に気にもせずに、縁側に腰掛け、シャツの裾をばたばたとやった。

 康隆は昨日のハルの話を思い出した。自分に、夏にしてやれることはないのだろうか。夏が一番怖いと感じているものは一体何なのだろうか?

「孤独」

 康隆は小さな声でつぶやいた。夏は、団扇の風の音で気付かないようだった。時計を見た。もうあと少しで昼の12時だ。康隆は電話の方へ向かった。

 番号を回し、電子音がしばらく響き、そして、奥で受話器を取る音がした。

「もしもし?」

 のんきな声。

「親父?」

「おう、ヤス。ちょうど今休憩時間になったところだ。どうした?」

 英輔は受話器の向こうで、弁当を膝に乗せながら続けて言った。

「ナッちゃんのことか?」

 思わぬ不意打ちに、康隆は声がうまく出せなかった。

「母さんから聞いたぞ」

「そう」

 康隆は戸惑いながら何とか返事をした。

「好きなんだろ」

 英輔はすべてを見透かしたように言った。蝉時雨がずいぶん遠くで聞こえるような気がした。康隆は、しばらく沈黙したあと、小さな声で答えた。

「たぶん」

「やっぱりなぁ!おまえ、楽しそうだったもんなぁ、ナッちゃんといるとき。リサちゃんといるときは、ずっと眉間にしわ寄せっぱなしだったのに」

 康隆は自分の眉間に手を触れてみる。そんなにしわがよっていたのだろうか。自分ではまったく気付かなかった。

――言いたいこと言わなきゃ、相手に伝わりっこないじゃない――

 そんな涼子の声が、また遠くから聞こえた気がした。康隆は、一度唇をギュッと結び、それからゆっくりと口を開き、父親に思いをすべて打ち明けた。

「俺、あいつに会ってから、…素直に話ができるようになった気がするし、前よりもいっぱい笑えるようになったような気がする。あいつといると、すっげぇ楽しいし、落ち着くし、今までこんな気持ちになったことがなかったから、今、すっげぇ充実してると思う。でも、あいつ、何か両親のこととかでフクザツみたいで、俺何にもしてやれなくて。夏が終わったら、ここを出るわけだし、どうしたらいいかさっぱり分からない」

英輔は、聞き漏らさないよう、一語一句、息子のかすれた低い声を、耳を澄まして聞いていた。康隆が話し終わると、英輔はとても嬉しそうに言った。

「俺にここまで話をしたのは初めてだろう」

「たぶん」

 照れくさそうに康隆が言うと、受話器の向こうで大きな笑い声が響いた。緊迫していたその場を和ませるには、最高の効果音のような気がした。

「大丈夫だ」

 英輔は力を込めて言った。

「おまえ一人で何とかなる」

 康隆はその声に、無理やり背中を押してもらったような気がした。少し、背筋がぴんとはれたような気がした。

「ナッちゃんもきっとおまえの助けを待ってるんじゃないか?」

「俺の?」

「きっとおまえが今の気持ち全部打ち明けるだけで、じゅうぶんな助けになると思う」

「どういうこと?」

「そういうことだ」

 英輔の言っている意味はまったく分からなかった。そういうこととはどういうことなのだろう。たまに英輔は、康隆には分からないことを言う。しかし、その言葉には、きっと深い意味があるのだろう。康隆は、いつかその言葉の意味が分かるようになれればいいと思った。

「おまえはそれを相談しようと思ってかけてきたのか?」

「まぁ…そんなとこ」

「かわいいところがあるんだな。恋煩いってやつか」

 英輔はからかうように言った。康隆は顔が熱くなっているような気がした。この父親は、まったくつかみ所がないと思った。

 最後に英輔は、一言言った。

「俺の息子なんだから、心配するな」

 一瞬だけ、涙がこぼれそうになった。

 人からの言葉だけで感動したのは、きっとこれが初めてだっただろう。夏に会う前までは、どんな言葉もただの飾りにしか思っていなかった。温かい風呂の中にいるような、そんな心地よいぬくもりが感じられた。



 康隆は、英輔と別れのあいさつを簡単に済ませると、受話器を静かに置いた。

「ヤスくん」

 電話を終えたような気配を察知し、夏が廊下を歩いてやってきた。

「どうかしたの?」

 夏は不思議そうな顔をして、康隆の顔をのぞき込んだ。夏はしばらく戸惑ったような顔をしていたが、すぐにもとの顔になって、康隆に言った。

「明日、海に行こう」

 何の脈絡もない話だった。

「バスで2時間ちょっとくらいかかるところにあるの。人もお店もなくって、でもすごく綺麗な所なの」

 夏はとても嬉しそうにそう言った。康隆は、その笑顔につられて笑った。

「バス、どれくらいかかる?」

「うーん、忘れちゃった。そんなに高くないと思うけど」

 2人は明日の話をした。康隆は、さっきの英輔の言葉ばかりを思い出していた。

――ナッちゃんもきっとおまえの助けを待ってるんじゃないか?――

 一通りの話が済むと、夏は時計を見て、洗濯物を取り込もうと立ち上がった。

「夏」

 康隆は思わず名前を呼んだ。少女はいきなりのことにわけがわからず、照れくさそうに笑った。

「明日楽しみにしてるから」

 少女は顔中で笑うような、大きな笑顔を見せてくれた。康隆はその大きな笑顔の頬に、そっと触れた。

 風鈴は冷たく透き通った音をたてた。その音は、康隆の心の奥まですぅっとしみこんでいった。





 薄暗く、朝日がカーテンの隙間から漏れるころ、夏は布団からゆっくりと身体を起こした。枕元にある小さな目覚まし時計を手に取り、朝日のかすかな光に照らして時間を確かめる。朝5時30分。夏はいつも早起きだったが、今日はいつにも増して早起きだった。

 足音を立てないように部屋を出ると、きしむ階段の音に気をつけながら、ゆっくりと下へ降りていった。もちろん、まだ誰も起きてきてなどいない。

 洗面所へ向かい、冷たい水で顔を洗った。近くにおいてあったくしで、簡単に寝癖を整えると、夏はまた2階へあがり、服を着替えた。いつもの履きなれたジーパンに、真っ白なシャツを着た。そして、麦藁帽子を手に取り、再び下へと降りていった。

 台所に立ち、冷蔵庫を開け、適当な食材を取り出した。そして、包丁とまな板が、リズミカルに音を立て始めたころ、居間の隣の部屋――つまり、康隆が眠っている部屋――では、康隆が目を覚ました。いつも寝坊をすることが得意な康隆にとって、こんな朝早くに起きることはまず有り得ないことだった。

 ぐっと伸びをすると、金髪の前髪をかきあげながら、康隆は居間に入っていった。夏は、ふすまの開く音を聞きつけると、居間の方に顔を出した。眠たそうに目をこする康隆がいた。夏はできたばかりの味噌汁を康隆に運んでやった。康隆は味噌のあたたかい香りをかぎつけると、ぱっと目を覚ました。

「6時50分くらいにバスがあるの」

 夏はご飯をよそい、康隆に手渡しながら言った。

「それに間に合うといいんだけど」

「間に合うよ。大丈夫」

 康隆はそう言うと、勢いよく味噌汁とご飯を口にかきこみ始めた。夏は居間をはずし、台所で何やらごそごそやり出した。

「何?」

「お弁当」

 夏はそう答えて、塩水を用意すると、おにぎりを作り始めた。康隆は、ほっそりとした夏の背中を横目で見ながら、味噌汁をすすった。

 朝ごはんを済ませると、康隆は食べ終わった後の食器を流しのところまで運び、自分の身支度に取り掛かった。その間に夏は、慣れた手つきで手早く弁当を詰め合わせた。

 時計は6時40分を指していた。

「ヤスくん、準備できた?」

「ああ」

 康隆はジーパンに黒いシャツを身につけ、シルバーのネックレスを付けると、夏の待つ玄関先まで出てきた。

「ばあちゃんには?」

「昨日の夜言っといたから」

 それだけ話すと、康隆と夏は、そろって家を出た。

 蝉時雨が相変わらず騒がしく響いている。しかし、夜のうちに冷えた空気がまだ少しばかり残っていて、暑苦しさは感じられなかった。大きく太い樹が生い茂り、朝日はすっかり遮断されてしまっていた。

「カバン持つよ」

「ありがとう」

 康隆は、夏から弁当と水筒の入ったカバンを受け取った。みずみずしい空気を体中にうけ、康隆と夏は、バス停までの道のりを歩いていった。

 バス停には、前に康隆がリサと来たときと同じ、古びてぼろぼろのベンチがあった。

「このベンチ、そろそろ新しくすればいいのにね」

 夏は苦笑いしながら言った。康隆は、まだ何とか使えると言いながら、そっとカバンをベンチに下ろした。

「バス、そろそろだね」

 腕時計を眺めながら、夏はバスがやってくるはずの方向をじっと見ている。康隆は、相槌をうちながらも、目線はつねに夏の方を向いてしまっていた。

 朝靄に包まれながら、ペンキのところどころはげたおんぼろバスが、ガタガタ言いながらやって来た。康隆は、バスと言うよりは、馬車のようなイメージを受けた。二人はバスに乗り込んだ。そこには運転手と2人以外は誰も乗っていなかった。

「おはようございます」

 夏はそれだけ運転手に言うと、整理券を2枚とり、片方を康隆に渡した。

「一番後ろに座ろうか」

 そういわれて、康隆は夏と一緒に一番後ろの席に座った。バスはガタガタの小道をゆっくりゆっくり進みだした。小石に引っかかっては大きくガタンと揺れ、そのたびに軽い夏の身体は座席からふわりと浮き上がった。康隆はそのたびに楽しそうにはしゃぐ夏の頭をポンと触った。それだけで、康隆は心がそっと休まる気がしていた。

 夏のはしゃぎ具合は、30分もするとおさまり、早起きのせいか、夏は康隆の方に寄りかかって寝息を立て始めた。康隆は、自分も眠たくて仕方なかったが、夏の髪の毛から香るシャンプーの香りが気になり、眠るどころではなかった。動くわけにもいかず、康隆は一人、バスの窓からの景色を眺めた。ガタガタの窓を開けてみた。田んぼを渡る風と、ツクツクボウシの声が一緒になり、とても心地よく感じた。夏ももう終わりに近づいている。少しだけ、胸の奥が痛くなった。

そうこうしているうちに、二時間ほど経過し、おんぼろバスは、薄暗いトンネルに入った。山の下を走っているらしい。バスはトンネルの中に入ると、走行音が微妙に変化した。夏はその音に気付き、目を覚ました。

「あ、次だよ」

 夏はバスの前の方に表示されるバス停の名前を指差して言った。バスがトンネルを抜けると、そこには田んぼの景色は全くなくなっていた。雑木林が両脇に並び、すごい勢いで横を駆け抜けていくように見えた。そして、バスが狭いカーブミラーのある曲がり角を窮屈そうに曲がったとき、一気に海の見える道へと飛び出した。

 朝日の白い光を受けて、海の波頭はぎらぎら光っていた。夏は窓に顔を押し付けてそれを眺めた。康隆は幻想的なその光景を、息を呑んで眺めた。

「あ、ボタンボタン!早くそこ押して!」

 夏ははっと気付いて、康隆にバスの壁についている赤いボタンを押すよう言った。急いで康隆がボタンを押すと、ポーンとバス中に音が響き渡った。

 


バスは海の真ん前にあるバス停に止まった。夏と康隆は料金を払い、バスを後にした。バスは、どこかのんびりとした様子で、はうようにして走っていった。

 康隆はバスの後ろ姿を見届けると、くるりと海の方を向いた。

 カモメが頭上を、弧を描きながら飛んでいった。クィーと、豊かに膨らむ声を出して、どこか遠くへ飛び去ってしまった。灯台のくすんだ壁の色は、何故かとても切なく感じられた。康隆は何も言わずに海の音を聞いた。

「ね、あっちにいい場所があるの」

 夏は康隆の手を優しく握ると、小走りで駆け出した。康隆は柔らかな夏の手に一瞬気を失いそうになりながら、夏の言うところまでついていった。

 そこは、海の波が浸食してできた崖の上だった。海水面からはほんの3メートルほどで、満潮になれば崖のゴツゴツした岩の姿は隠れてしまいそうなものだった。その崖の上からは海辺の景色が一望でき、浜辺の白い砂も、灯台のくすんだ壁の色も、テトラポットの整った形も、すべてがそこから見えた。

「いいところでしょ?」

 夏はおろしたカバンのチャックを開け、中から大きな水筒を取り出しながら言った。そしてお茶を一杯のみほすと、康隆にも勧めた。康隆は小さな声でありがとうと言うと、同じように飲みほした。

 そのとき康隆は、ふと、夏の両親のことが気になった。あの日の夏の涙は、康隆にとってはあまりに衝撃的過ぎる出来事だった。いつも笑っているイメージばかりが焼きついていたため、夏の泣き顔など、想像もできなかったのだ。 

「よくここにお父さんたちと来たんだよ」

 康隆はどきっとした。まるで、自分の心を読んでいるかのように感じられた。

「元気かなぁ。2人とも」

 康隆は何も言うことができなかった。苦し紛れに、元気だよという返事をすることしかできなかった。

「昨日ね、手紙が来たの」

 夏は水平線を眺めながら言った。康隆は、耳を疑った。手紙?そのとき、すっと、昨日夏が握り締めていた紙を思い出した。あれは両親からの手紙だったのか。

「お父さんとお母さん。二学期の初めには帰ってくるって」

 カモメがとろけるような声をたてた。波が強く崖の下に押し寄せた。水しぶきがあがる。

「一緒に、私も暮らそうって、書いてあった」

 夏は、康隆と目を合わせなかった。康隆も、何となく、目を見ようと思わなかった。

「きっと今年中にはあっちに行くと思うの」

 海の向こうに、白い筋が立っている。誰かが水上スキーでもやっているのだろうか。

「だから、私はもう大丈夫」

 夏はそれだけ言って、話を切った。そして、しばらくの沈黙のあと、急に、砂浜へ降りようと言った。そして、ふかふかの砂の上を2人はゆっくり歩いた。夏はいつの間にか裸足になっていた。白い細い脚が、砂浜に小さな足跡を残していく。

「絶対ここにはヤスくんと来たいなぁって思ってたんだ」

 夏は波打ち際まで走って行き、うずくまると、砂の上の桜貝を拾い集め、一つ一つ手のひらで転がしながら言った。

「初めて会ったときから、何て言うのかな、…あんまり他人って気がしなかったの」

 康隆は夏の隣に腰を下ろした。夏は流木の上に桜貝を行儀よく並べた。

「ヤスくんの金色の髪の毛とか、銀色のピアスとか。始めはびっくりだったけど。今は好きになったよ」

 夏はそれだけ言うと、立ち上がって海水で手を洗いに行った。



康隆は一瞬自分がこの世界から遠ざかったような気がした。波の音も、カモメの声も、風が髪の毛を揺らす音も、遠くへ行ってしまった。まるで子供のように波打ち際ではしゃぐ夏を眺めていると、ついに今まで抑えてきた気持ちが抑えられなくなってしまった。何度も、夏のあどけないしぐさや表情、言葉に触れるたびに溢れかけた、力の限り抱きしめてしまいたいという衝動――。康隆は、もう何もかも分からなくなり、夏のところにかけより、その腕で夏の体を抱いた。

 夏は少しばかり戸惑ったが、抵抗はしなかった。康隆があまりにも夏よりも背が高かったので、夏の顔はすっぽりと康隆の腕の中に納まってしまっていた。夏は、康隆の太陽のような温かさと、かすかに残る石鹸の香りを感じた。

「夏」

 康隆はそれだけ言うと、手にいっそうの力を込めた。夏は少し窮屈そうに息をした。

 康隆が想いを告げる手段はそれしかなかった。それが精一杯だった。もうこれ以上言えることはなかった。しかし、夏はその言葉と、腕に込められた力だけですべてを理解したように、細い白い腕を、康隆の細いながらもがっしりとした身体にそっと巻きつけた。

「ヤスくん」

 康隆には、その四文字の言葉が、何より嬉しく、悲しく、切なかった。





 翌日、康隆は荷物をまとめ、東京へ帰る支度を始めた。夏は何も言わなかった。康隆もまた、何も言わなかった。ハルは、しわいっぱいの顔を笑わせて、またいつでも来なさいと言ってくれた。康隆はそれが妙に嬉しくて、ハルに深く頭を下げた。

 自分の帰り支度をし、昼過ぎに、康隆はバス停へと足を運んだ。

 康隆がハルにお礼を言って玄関を出ると、すぐ外で夏が立っていた。夏は無言で康隆のシャツを握った。「バス停まで」

 康隆はうつむく夏を見て言った。

「一緒に来て」

 夏は何も言わずにうなずいた。





 ゆっくりゆっくり、2人はバス停へと歩いた。夏は、今日は手を優しくは握ってくれなかった。いつもよりも、はるかに強く手を握っていた。康隆は、それについては何も言わなかった。

 バスの来る時間よりはだいぶ前についてしまった。2人は、古ぼけたベンチにそっと座った。少しばかりきしんだが、思っていたより頑丈なようだった。夏は何も言おうとしなかった。康隆も、何も言おうとしなかった。

 蝉時雨は無神経に響き渡り、田んぼから送られてくる風は、少しばかりその蝉の騒々しい歌声をやわらげてくれた。

 


康隆は無造作に首につけていたネックレスをはずすと、夏に無言で差し出した。夏は一瞬不思議そうに康隆の顔を見た。康隆は、固く結んだ口をようやく開いた。

「あげる」

 夏はぽかんとシルバーのプレートが付いたネックレスを見ていたが、康隆の気持ちを汲み取り、小さな声でありがとうと言ってそれを受け取った。まだ、かすかに康隆の体温が残っていた。夏はそれを大事そうに握った。

――言いたいこと言わなきゃ、相手に伝わりっこないじゃない――

 また涼子の声が響いた。

――別れてやるからとっとと告れ――

 リサの独特の口調の声も、頭をかすめた。

 


康隆は、静かに目を閉じ、そして開けた。康隆は、夏の目をじっと見つめた。夏も、康隆の目をじっと見つめた。

 蝉時雨は、いっそう騒々しさを増した。康隆は、その蝉時雨の中、何とか聞き取れるほどの声で言った。

「俺、ここからいなくなっても、絶対おまえのこと忘れないから。…俺、きっと、ずっと、夏が好きだから」

 夏は、一瞬泣きそうな顔になったが、すぐに満面の笑みになった。その笑顔を見ると、康隆はもう抑制するものをすべて失ったような気になった。

康隆は、ゆっくりと自分の顔を夏に近づけた。

そして、夏の唇に自分の唇をそっと重ねた。

 夏は目を閉じた。康隆は、夏の柔らかな唇を細かに感じようとした。一瞬、2人の唇が離れた瞬間、夏は鈴を震わすようなかすかな声で言った。

「ありがとう」

 




 やがてバスがやってくると、康隆はそのバスに乗り込んだ。夏は、最後にとびきりの笑顔を見せてくれた。康隆も、夏に、父親にそっくりと言われたあの笑顔で笑った。

 そして2人は別れた。





 どうしてか、康隆はバスの中で、カバンの脇に付いている小さな小物入れを見て見ようと思った。そのチャックをそっと開けると、そこには、あの日、夏が海辺で集めていた貝殻が出てきた。貝殻は全部で4つあり、その一番大きな貝殻には、黒い細マジックで何か細々と書いてあった。

 康隆はその文字が夏のものだと一瞬で分かった。

ジーパンのポケットには、田舎に来た初日に突っ込んだ煙草の吸殻が入っていた。康隆はその吸殻を、煙草がまだ残っている箱の中に入れると、箱ごとくしゃりと握りつぶし、カバンの底にしわくちゃになって入っていたコンビニのビニール袋に入れた。

 




バスは、のっそりのっそりと埃っぽいガタガタ道を走り、少しずつ、夏との思い出から離れていった。それはまるで夢のように儚く、もろく、すぐに崩れて散ってしまいそうな気がした。

 康隆は、もう二度と夏と会うことはないだろうと思ったが、それでもたぶん決して忘れないと思った。自分がおじいさんになって、死ぬ間際にでも、きっと思い出すことのできる顔は、夏のあの太陽のような笑顔だろうと思った。

 康隆は、ゆれるバスの中、少し仮眠を取ろうと目を閉じた。あの蝉時雨も、鈴虫の鳴き声も、風鈴の冷たい音も、田んぼを渡る夏草の香りも、ほんのかすかだが、まだ身体に残っていた。

 前の客が開けっ放しにしていった窓から、夏の風が舞い込んできた。康隆はその夏の香りと風を、体中に吸い込むと、静かに眠りに落ちた。

 右手のひらには、夏が入れた大きな貝殻を握り締めていた。



――ヤスくんが好き。ずっとずっと大好き――


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] クライマックスが印象的でした。 一気に告白するのではなく、物語の過程で得た言葉に自分の気持ちを伝えることの難しさを感じながらも少しずつ成長していった主人公の姿にリアリティがあります。 ――…
[一言] 2回目読ませてもらいました。小説の進行が一人称ではないところが特徴ですね。そうすると違和感が出ることが多いのですが、それをカバーする情景描写(比喩)がまた巧い。終わり方もプロですね。
[一言] 飽きずに一気に読み通せました。おもしろいです。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ