第9話「モンゴル、草原の塩バターラーメン」
朝6時。
東京の空はうっすらと明るみはじめ、セミの声がかすかに聞こえている。
坂田雄一は、やや寝ぼけまなこのまま湯を沸かしていた。
今日の一杯は、目覚ましというより「目を閉じて飲む」ためのものだった。
選んだのは、モンゴル製・塩バター風味カップ麺。
薄い水色のパッケージに、草原と馬と、どこまでも広がる空が描かれている。
その奥には、ゲル(遊牧民の住居)がぽつんと立つ。
「この麺を食べると、どうしても風の音が聞こえる気がするんだよな……」
フタを開けると、乾燥バター粉末と、塩と、わずかな肉片。
派手さはないが、そこに“暮らし”の匂いがある。
湯を注いで4分。
フタの上であたためておいたスープの素を溶かすと、ふわりとミルクと獣の香りが混じった蒸気が立ち上る。
それはどこか、昔の給食のスープにも似ていて、やけに懐かしい。
「……子どもの頃に、誰かの手で出されたスープの味だな」
麺は白く、やや太め。
スープは塩気よりも乳脂肪の柔らかさが勝っている。
そしてその奥に、ほのかな獣脂――ヤクか、羊か、あるいは馬か――が潜んでいる。
口に含むと、想像上の草原がいきなり広がる。
背の低い草、低く流れる雲、遠くの馬の鳴き声。
「誰もいないのに、誰かがそこにいる感じ……だな」
坂田はかつて、一度だけモンゴルの草原を旅したことがあった。
ウランバートルから6時間の車移動。
そこで食べた塩味のスープが、このカップ麺を初めて飲んだときの記憶を引き出した。
それは“味”というより、“空気ごと飲む”ような感覚だった。
「都会の音が、全部遠くなる……。たった一杯でな」
【日付】7月31日
【麺名】モンゴル製・塩バター風味カップ麺
【評価】★★★★☆
【感想】主張しない味が、むしろ強い。静かな旨味と白い湯気。懐かしさというより、“生まれる前の安心感”。
朝の空気が、すこしだけ冷たくなった気がした。
坂田はスープを最後まで飲み干すと、目を閉じて、草原を歩く自分を想像した。
ゲルの中で、知らない誰かが笑っている。
馬が遠くで鳴く。
湯気が、空へとほどけていく。
――その一杯は、言葉を持たない優しさだった。
世界三杯紀行、第9話、完。




