第7話「タイ、屋台の夜とレモングラスの風」
夜10時。
東京の夏はまだ終わらない。
開け放った窓から、ねっとりとした湿気が漂い、Tシャツにじっとりと汗がにじむ。
坂田雄一は、そんな夜にこのカップ麺を選んだ。
「タイ製・トムヤム風レモングラスチキンヌードル」。
「この空気じゃなきゃ、こいつは開けられないんだ」
パッケージは鮮やかなオレンジ色。
レモングラスの束と、赤く透き通ったスープに浮かぶ唐辛子。
封を切った瞬間、バンコクの夜が鼻腔を突き抜けた。
スープ粉末から立ちのぼるのは、酸味と柑橘、そしてわずかな魚醤の香り。
それだけで脳が“あの街”を思い出す。
「……屋台だ。プラスチックの椅子、バイクの音、団扇で火をあおるおばちゃん……」
あれは5年前の夏。
深夜便で降り立ったスワンナプーム空港。
ホテルに荷物を置くと、真夜中の通りへ出た。
そこで出会ったのが、屋台のトムヤムだった。
スープが酸っぱくて、辛くて、でもやさしい。
あの味は、人生で初めて「汗をかいてうまい」と思った瞬間だった。
お湯を注ぎ、3分。
窓の外から、たまたまバイクの音が聞こえた。タイ語ではなかったが、それでも十分だった。
フタをめくると、香りが一気に時間を巻き戻す。
レモングラスとライムリーフの芳香。
ナンプラーの底にあるうまみ。
ほんのり香る鶏だし。
「……この香り、汗腺が先に反応するな」
一口すすれば、口の中が一気に熱帯になる。
酸味は鋭く、辛味は刺さるようで、でも不思議と心地いい。
体が火照るのに、どこか涼しい。あの矛盾が、タイの夜だった。
汗が額をつたう。
でも、止めようとは思わなかった。
「味覚ってのは、場所を覚えてるんだな」
最後の一口をすすり、深く息をついた。
額ににじんだ汗をぬぐいながら、彼は思った。
【日付】7月30日
【麺名】タイ製・トムヤム風レモングラスチキンヌードル
【評価】★★★★☆
【感想】香りが風を連れてきた。酸っぱさは記憶のドア。レモングラスは、過去へ戻る鍵だった。