第6話「ロシア、冬とビーツとボルシチ麺」
夜9時。
冷房の効きすぎた部屋で、坂田はひざ掛けをかけていた。
7月の東京とは思えぬこの冷気のなか、彼が手に取ったのは、ロシア製・ボルシチ風味カップ麺。
「……今日は寒くして食べたくてな」
エアコンを16度に設定し、窓を閉めきった。まるで自分だけの極寒ロシアごっこ。
寒い国の麺は、寒い場所で食べてこそ“届く”。
パッケージには雪景色を背景に、サワークリームが添えられた赤いスープ。
「本当にボルシチに麺を入れる文化があるのか?」という問いは、この際どうでもいい。
湯を注ぎ、待つこと3分。
フタの裏にロシア語でなにか書いてある。「Приятного аппетита(召し上がれ)」かもしれない。
そっとフタをめくると、ビーツの赤が立ちのぼる。
その色は、まるで街灯のない冬のサンクトペテルブルクを染める、ほんのわずかな夕陽のようだった。
香りはほのかに酸味を帯び、トマトとハーブの香りが混じる。
そして、奥に控えめな牛肉のコク。
「……冷えた身体に、じんわりくるな」
麺は平打ちのやわらかタイプ。
スープはとろみのある甘酸っぱさに、パプリカとディルがやさしく香る。
その奥にほんの少しだけ、黒パンのような苦みと、塩気がある。
まるで、あの国の冬の人々の表情のようだ。
一見無表情で、でも、ちゃんとあたたかい。
坂田はスープをすすりながら、想像する。
雪がしんしんと降る街角。
コートの襟を立てた自分。
その手に、この赤い麺があったなら、どんなに心強かっただろう。
「ボルシチってのは、寒さを許す料理だな……」
ひとりごちたあと、彼は最後のひと口をすすった。
赤いスープの色が、身体の奥まで染みてくるようだった。
【日付】7月30日
【麺名】ロシア製・ボルシチ風味カップ麺
【評価】★★★★★
【感想】冷たい空気の中で食べてこそ分かる温度。酸味と甘みが、寡黙なスープの奥にあった。これは“静かな熱さ”。