第5話「北京、屋台の記憶」
夜8時。
カップ麺三杯生活の一日も、いよいよ締めくくりの時間だ。
坂田雄一、36歳。世界のカップ麺を毎日三杯すすり続ける男。
だが今日の三杯目は、いつもと少し違った。手にした瞬間から、手が止まったのだ。
「蘭州牛肉麺(兰州牛肉面)」――中国・甘粛省発祥。だがこのカップ麺は“北京製”だった。
簡体字のラベルに、どこか懐かしさを感じる。
「……懐かしいな」
雄一の人生で、唯一の海外旅行。
それは大学4年の夏、就活に嫌気が差して、勢いで飛び出した中国・北京へのひとり旅だった。
航空券は片道だけ買った。宿は安宿のドミトリー。地図も読めず、翻訳アプリも満足に使えない。
――けれど、あの屋台の味だけは、今もはっきりと覚えている。
胡同と呼ばれる細い路地。
夜、街灯のもとで湯気を立てる屋台。
鍋に浮かぶ牛骨スープの香り。
笑顔ひとつ見せない店主が、茹でたての麺を無言で器に放り込んでくれた。
――それが、蘭州牛肉麺だった。
「……あの一杯は、本当にうまかった」
湯を注ぎ、3分。
カップの中で再現されているのは、あの頃の風景だろうか。
フタを開けると、八角と香菜の香りが、そっと鼻をくすぐる。
具はシンプル。乾燥牛肉、青梗菜、ネギ、そして少しの唐辛子。
一口すすって、思わず黙る。
本物とは違う。けれど、あの時の“気持ち”は、確かにここにある。
スープはあっさりしながら、スパイスの層が深い。
麺はインスタント特有の縮れ麺だが、それでも懐かしさが勝っていく。
「……あの時、牛肉は二枚だけだったんだ。だけど、たぶん世界で一番うまかったな」
あの北京の屋台。もう店主は変わってるかもしれない。
そもそも屋台そのものが、都市開発で消えてしまってるかもしれない。
でも坂田の記憶の中では、いまも変わらず夜風とともに湯気を立てている。
彼は、最後の一滴までスープを飲み干した。
【日付】7月30日
【麺名】中国製・蘭州牛肉麺インスタント
【評価】★★★★☆
【感想】屋台の記憶と重なる香り。味よりも、心がうまいと言っていた。そういう一杯だった。
部屋の窓を開けると、ほんのりと夜風が入ってきた。
遠くで誰かが自転車のブレーキを鳴らす。
その音が、なぜか中国語に聞こえた。
「……また行けるかな、北京」
そうつぶやいた坂田は、そっとノートを閉じた。
旅は終わらない。記憶がある限り、どこにでも行ける。
――一杯の麺が、忘れかけていた景色を取り戻してくれる。
世界三杯紀行、第5話、完。