第4話「カレーの国、恋の香り」
午後6時半。
夏の夕暮れが、窓の外に橙色の影を落とす。東京の空気はまだ蒸し暑いが、心の奥のほうは少し冷えていた。
坂田雄一、36歳。
今日も一日、世界のカップ麺を三杯旅する男。
そのラストを飾るのは、どこか懐かしく、そしてちょっと切ない――そんな味だ。
「夕飯はインドだ。恋の香りを、確かめに行こう」
今日の選択は、インド製・マサラカレーラーメン。
パッケージには大胆にタージ・マハル。金色のフォントで「SPICY MASALA」と書かれている。
香辛料がぎっしり詰まった粉末スープの袋を開けた瞬間、甘さと刺激が同時に鼻を抜ける。
「……この香り、思い出すな。あの子のカレーの味とは、ちょっと違うけどさ」
湯を注ぎ、3分。
彼の中で時間が巻き戻る。
学生時代。ひとつ年上の彼女がいた。理系のくせにスパイスに詳しくて、自作のスパイスカレーをふるまってくれたことがある。
「クミンとカルダモンの香りってさ、恋に似てると思わない?」と笑っていた彼女。
意味は分からなかったが、たぶん今なら少しだけ分かる。
――香りは、記憶を連れてくる。
3分が経った。
フタを開ければ、スパイスの奔流。ターメリック、クミン、ガーリック。すべてが一気に鼻を抜ける。
カレー味というより、“インドの空気”の味だ。
スープをひと口。
辛さとともに、わずかに甘いトマトの余韻。
そして不意にやってくる、ブラックペッパーの鋭いアクセント。
麺はややもっちり。強めのスープによく絡む。
食べ進めるほどに、汗がにじむ。
「なるほどな……これが、あの子の言ってた“恋に似てる”ってやつかもな」
甘さと辛さ、熱さと刺激。
心地よさと、どこか切なさが同居している。
まるで、もう会えない人の作った料理を思い出すような味。
カレーは人を元気にする。
でも時に、人を切なくさせる。
スープを飲み干した坂田は、黙って一呼吸置いたあと、ノートを取り出した。
【日付】7月30日
【麺名】インド製・マサラカレーラーメン
【評価】★★★★☆
【感想】恋の香りは、確かにあった。辛さの奥に、あたたかくて少し悲しい記憶。今日は、しみたな。
カップを洗いながら、ふと思った。
あの子の名前、いまもまだフルネームで思い出せる。
だけど声だけが、もう少しで忘れそうだ。
「ま、そういうのも旅だよな」
タージ・マハルの描かれたパッケージを、そっとごみ箱に置いた。
次に来るのは、屋台の賑わいと、懐かしい旅の記憶。
――スパイスは、ただの香辛料じゃない。あの日の記憶に、火をつけるものだ。
世界三杯紀行、第4話、完。