第3話「北欧、静謐の魚介スープ」
午後3時。
東京の空は少しだけ曇っていた。洗濯物が揺れるベランダ越しに、午後の光が柔らかく差し込む。
坂田雄一、36歳。
無職。世界のカップ麺を一日三杯食べる男。
昼下がりの一杯は、体よりも心を温める。
「午後はね、しんみりしたやつがいいんだよ……今日は北欧だ」
選ばれたのは――ノルウェー・サーモン風味シーフードヌードル。
パッケージは寒色系の青と白。海のような、氷のようなデザイン。
控えめに描かれたサーモンのイラストが、どこか慎ましい。
「おいしさで勝負しようって感じじゃないな……“風景で勝負するタイプ”だ」
湯を注ぎ、3分。
そのあいだ、彼の思考はノルウェーの港町・ベルゲンへ飛ぶ。
冷たい石畳。霧に煙る港。
魚の匂い、木造の倉庫群、静かに寄せる波の音。
誰も声を上げず、ただ風とカモメだけが通り過ぎていく――。
坂田はその幻想の街を、厚手のコートにくるまって一人で歩いていた。
持っているのは、紙カップに入ったこのラーメン。それだけで、寒さが少し和らぐ。
「……そんな気分だな、今日は」
3分経過。
フタをめくると、優しく香るシーフードと、わずかに甘みを含んだ魚介の匂い。
乾燥キャベツとコーン、細切りの海苔が控えめに顔を出していた。
スープは、白濁した塩ベース。サーモン風味は派手さこそないが、しっかりと輪郭を持っている。
一口すすって、目を閉じる。
「……静かな味だな。主張しない。けど、確かにそこにいる」
麺は少し細め。柔らかく、滑らか。
まるで“ノルウェーの小舟に揺られるような”――そんな食感だ。たぶん。
スープを口に含むたび、心の中の港町に霧がかかっていく。
言葉では説明できない郷愁。
行ったことがないのに、帰りたくなる場所。
「うん……今日のスープは、誰にも邪魔されたくないな」
テレビもスマホも消して、静かに飲み干す。
昼寝前の本でも読みたくなるような、そんな余韻を残して――完食。
坂田はそっとノートを開き、今日も記録を残す。
【日付】7月30日
【麺名】ノルウェー・サーモン風味シーフードヌードル
【評価】★★★★★
【感想】静けさに満ちた一杯。強すぎない香りが、心の隙間にやさしく染み込んでくる。まるで、港町の午後みたいだった。
湯気が消えかけたカップの中、ふと海風が吹いたような気がした。
窓を開けると、遠くで誰かが洗濯物を取り込んでいた。
「……じゃあ、夕飯はカレーの国に行くか」
そんな独り言を残し、彼は湯を沸かしに立ち上がる。
旅はまだ、終わらない。
――港町の午後、麺とともに流れる時間は、やけにやさしい。
世界三杯紀行、第3話、完。