第1話「乾燥パクチーとウズベキスタン」
朝6時半。
台所には、誰にも気づかれず並べられた数十個のカップ麺が眠っている。
静けさの中、ひとつだけ、ラベルにキリル文字が踊る見慣れないカップがあった。
――ナヴォイ産 牛肉チリ風味ラーメン。
坂田雄一、36歳。無職。カップ麺で世界を旅する男。
今日もまた、彼は湯を沸かす。
パッケージに描かれた赤唐辛子と牛のイラスト。
それをじっと見つめながら、彼はぼそりと呟いた。
「ウズベキスタン、行ったことはない。でも……この乾燥パクチーの香り、なんか懐かしいな」
湯を注ぎ、3分。
ただ待つのではない。その間に“旅”が始まる。
彼の脳裏に浮かぶのは、アムダリヤ川のほとりで見た(※Google Earthで)広大な綿畑、
遊牧民たちが乾いた風の中で飲んでいたチャイ(紅茶)の色合い。
中央アジアの風が、コンビニの部屋着姿の男に吹き抜ける。
3分経過。
フタを開けると、ふわりと香る牛脂とスパイス。
乾燥パクチーがまるで小さな緑の吹雪のように舞っていた。
「これだよ、これ……“見たこともない風景”を、カップの中で見るんだ」
一口。
牛の出汁が効いたスープに、唐辛子がじんわり広がる。
だが主張しすぎない、あくまで「現地の屋台料理風」だ。
麺はやや太め。モチモチとした食感で、彼の顎をしっかり動かす。
彼はそれを噛みながら、つぶやく。
「たぶん、ナヴォイの人は、こんな味の料理を日常にしてるんだろうな。……それを俺は今、東京で食ってる。なかなかいいじゃん」
旅とは、知らない場所に行くことだけじゃない。
知らない味を知ること。知らない文化を、舌でなぞること。
そして何よりも――
「湯を注ぐ」という、たったそれだけの行為が、世界を開く扉になるのだ。
完食。
スープを飲み干すと、どこか遠くで風の音がした気がした。気のせいだ。たぶん換気扇。
坂田は立ち上がり、ノートを開いて書く。
【日付】7月30日
【麺名】ナヴォイ産・牛肉チリ味
【評価】★★★★☆
【感想】香りで国境を越える瞬間があった。パクチーの存在感◎。スープがやや油っこいが、それもまた“土地”の味。