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第7話 契約結婚

王都の外れに、ひっそりと佇む一つの教会がある。


何世代も前から変わらずそこにあり、華美な装飾こそないものの、高くそびえる天井と繊細なステンドグラスが、この地に刻まれた信仰と格式の深さを静かに物語っていた。


礼拝堂に人の気配はなく、整然と並んだ長椅子の間を、わずかに揺れるろうそくの灯が淡く照らし、静けさだけが漂っている。


その礼拝堂の裏手、苔むした石畳の小道を抜けた先に、カヴァッリ伯爵家の一族が眠る墓所がひっそりとあった。


その一角に、火葬を終えたばかりのファビオの遺灰が納められた。棺の隣には、既に亡くなったアデーレの母、ダリラの名が刻まれた石碑が並んでいる。


アデーレはその前に跪き、祈るように胸の前で両手を組んで、静かに目を閉じていた。


あの日、執事の慌てた声に、アデーレは胸騒ぎを覚えて、すぐ父の元に駆けつけた。


しかし、ファビオの容体はすでに急変していた。呼吸は浅く、治療師を呼ぶ間もなかった。そしてそのまま静かに、息を引き取った。


アデーレも、ある程度、その時が来るのを覚悟はしていた。しかし、ほんの数刻前まで穏やかに話をしていたのに、まさかこんなにも唐突に、別れが訪れるとは思っていなかった。


アデーレは、白い花をそっと父の棺の上に捧げた。胸の奥には、言葉にできない想いがいくつも渦巻いていた。


神父は、形式的な祈りを終えるとそっと席を外した。華やかな葬列も、着飾った弔問客もおらず、歴史ある伯爵家の当主の最期としては、あまりにも質素に、父はひっそりと土に還っていく。


政略結婚ではあったが、父と母は心から想い合っていたらしい。アデーレが生まれたその日に、母は息を引き取ったため、両親がどのように暮らし、どんな想いを交わしていたのか、アデーレには知る由もなかった。


だが、母を失ってなお、その想いを手放せずにいた父は、まるで彼女の残した何かを繋ぎ止めようとするかのように、カヴァッリ家の再興にすべてを捧げていた。その姿を見ていると、父の気持ちは痛いほど、アデーレに伝わってきた。


父の試みは、結局すべて失敗に終わった。領地も職も失い、最後には病に倒れ、立ち上がることさえままならなかった。


そんな父に、騙すような真似をして嘘をついたのは、本当に良かったのかどうかは分からない。だが最期に見た父は、どこか穏やかな顔をしていた。それだけが、唯一の救いであった。


アデーレの隣には、執事のアルバーノが、静かに涙を流していた。


屋敷に残る使用人は、今では彼一人となっていた。代々カヴァッリ家に仕え、父を、そして自分を支え続けてくれていた。どれほど家が傾こうとも、変わらず尽くしてくれた彼に、アデーレは心から感謝していた。


「アルバーノ……あなたがいてくれて、本当に心強かったわ。ありがとう」

「…恐れ入ります。ですが、最期までお仕えしておきながら、何もできなかったことが、ただただ悔やまれます」

「そんなことないわ。あなたの献身は本当に素晴らしかった。…娘の私が、こんなふうで申し訳ないくらい」

「いえ、恐れ多いお言葉でございます。お嬢様のお気持ちは分かっております。…この歳になるまでお仕えできたこと、私の誇りでございます。…どうか、これからはお体を大切にしてくださいませ」

「ええ、あなたもね、アルバート。また、落ち着いたら便りを送るわ」

「はい、楽しみにお待ちしております」


アルバーノは一歩前へ出ると、アデーレに向き直り、これまでの日々を噛みしめるように、ゆっくりと、深く頭を下げた。その姿には、別れを惜しむ寂しさと、最後までカヴァッリ家を誇りに思う気高さが滲んでいた。


これから彼は、王都から東の町に住む、息子夫婦のもとへと旅立つ予定だった。


アデーレは感謝を込めて、そっと彼の手を取った。細く節立ったその手には、積み重ねてきた歳月が滲んでいたが、その温もりは何よりも優しかった。


墓前に佇むアルバーノを背に、アデーレはゆっくりとその場を後にした。


墓所のあたりには微かに風が吹き、木々の葉がさやさやと音を立てている。沈んだ空気の中にも、どこか救いのようなやすらぎが満ちていた。


ふと教会の入り口に目を向けると、そこには黒い服を着たラウルが立っていた。


ファビオが亡くなったのは、彼が屋敷を訪ねてきた日であった。それを気にしてか、ラウルはずっとアデーレを気にかけ、そばにいてくれたのだ。


まさか火葬の場にまで付き添ってくれるとは思ってもいなかったが、何かと気遣ってそばにいてくれたラウルに、アデーレの心は救われていた。


「ありがとうございます。無事に父も、母の元へ還ることができました」

「いえ、私は何も…。ただ、付いていることしかできませんでしたが…」

「それが、どれほど心強かったか…。本当に、感謝しています。…ですが、お仕事の方は大丈夫ですか?」

「はい、お気になさらず。少しでもお役に立てたのなら、それだけで十分です」


言葉を交わしながら、二人は並んで教会を背に静かに歩き出した。足元の石畳が控えめに鳴り、柔らかな風が黒衣の裾を揺らす。


「…もうこれ以上の気遣いは不要ですわ。父も亡くなりましたし、もはや婚約者のふりをしていただく必要もありません。…あの時の恩は、もう十分に返していただきました」

「ですが…。失礼ですが、これからどうなさるのです?お父上を亡くされて、今はあなた一人なのですよね?」

「はい。ですから、爵位は返上するつもりです。結婚する相手もいませんし、家を守る理由も、もうありませんから」


この国では、女児に爵位の相続権はない。爵位を継ぎたければ、今すぐにでも結婚し、家名を継がせるにふさわしい夫を迎える必要がある。


アデーレにとって、それは事実上、不可能に等しかった。


「でも、屋敷は?今後、暮らしていく見通しはあるのですか?」


爵位を手放せば、屋敷もいずれ没収されるだろう。そうなれば、今の生活の場も失われ、身を寄せる場所さえなくなることになる。


長く暮らしてきた屋敷を手放し、代々受け継がれてきた家の歴史を、自分の代で終わらせることに、何も感じないわけではなかった。


いずれは迎えることになると覚悟していたが、まさかこんなにも突然、それが現実になるとは、アデーレも想像していなかった。それでもどうすることもできないのが現実だった。


ただ、アデーレには職がある。それさえあれば、当面の暮らしには困らないはずだ。


「ええ、きっと何とかなりますわ」


まるで自分に言い聞かせるようにそう言うと、アデーレはそっと目を伏せた。その表情には、どこか寂しさと諦めの色が滲んでいた。


その顔を見た瞬間、ラウルの胸はきゅっと締めつけられた。


彼女のそんな表情を見て、黙って見過ごすことなどできなかった。気づけばラウルは、らしくもない言葉を口にしていた。


「だったら、私と結婚してください」

「え…?」


突然の言葉に驚いたアデーレは、思わず足を止めてラウルを見つめた。


彼の黄色い瞳は、燃える炎のようにゆらゆらと揺れながら、強く、まっすぐに彼女を射抜いていた。


「私のような男は、あなたに相応しくないでしょう。けれど、あなたは家を手放さずに済む。貴族同士の婚姻であれば、最低でも三年間は離縁できない決まりです。その間に、家の継続について何らかの手立てを考えられるはずです。もちろん、あなたの意思に反することは絶対にしません。これは、いわば契約です」

「契約…?でも、あなたには何のメリットもないのでは…?」

「少なくとも、困っている女性を見放すなど、騎士として見ていられません。それに、こう言ってはなんですが、…私にも箔が付きます。デメリットなんて一つもありません」

「でも…。こんな、没落しかけた貴族の当主に、何の箔があるというんです?」

「ありますとも。たとえ今は落ち目であったとしても、伯爵家の当主という立場は、周囲に与える印象がまるで違います」


爵位を継げない三男と、形ばかりとはいえ貴族家の当主。どちらが上かなど、口にするまでもない。ラウルの言い分には、確かに否定できない部分があった。


だが、出会ってまだ数日しか経っていないが、彼が地位や名誉に執着するような人間だとは、どうしても思えなかった。


アデーレのためにまっすぐに言葉を重ねるその姿は、まるで義憤に駆られているようで、そんな彼の真剣さに、アデーレは疑問を抱いた。


ーーどうしてこの人は、私のことに、ここまで必死になってくれるのかしら…?


彼のような人に会ったのは初めてだった。その思いが胸の奥で小さく渦を巻き、自分でもよく分からない感情に、アデーレはひどく戸惑っていた。


「……やはり、私のような男では、あなたには分不相応でしたね。不躾なことを申しました。忘れてください」


バツの悪そうに視線を落とし、歩き出したラウルの背に、考えるよりも先に、アデーレの口が動いていた。


「あ、あの……!」


アデーレの声に、ラウルが足を止める。


「はい」


少し驚いたように、けれど穏やかに振り返る彼に、アデーレは胸の内を押し出すように言葉を続けた。


「本当に……それで、いいのですか?」


ラウルは一拍おいて、真剣な目で応えた。


「…あなたさえ、よろしければ」


見つめ合う二人の間を、そっと一筋の風が通り抜けていく。

まるで、交わりかけた想いの背をそっと押すかのように。

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