第28話 約束
石造りの研究所の中に、冷たい風が吹き抜ける。外の寒さが、じわじわと室内に染み込んでくるようだった。
アデーレは、自分の研究室の机に資料を広げていた。しかしページをめくる手はすぐに止まり、どうしても集中することができなかった。
嫌なことを考えないように、考えないようにと努めても、湧き上がる不安は、静かに心を侵してくる。
いつもなら、資料を読み始めれば、あっという間に時間が過ぎていくのに、今は一日一日が、途方もなく長く感じられた。
アデーレは、そっと指輪に目を落とした。指先で光るその色は、自然とラウルを思い出させ、胸が締め付けられるように苦しくなった。
アデーレは小さく息を呑み、指輪をぎゅっと握りしめた。
そんな時、コン、コンと静かなノックの音が、扉から響いた。アデーレが扉を開けると、そこにはフィオレンツァの姿があった。
「アデーレさん、少しは気晴らししましょう!」
そう声をかけられ、フィオレンツァに半ば引きずられるようにして、アデーレは一階の会議室へ向かった。
そこにはすでに、クリスティーナの姿があった。
「片付けておきましたわ。チェーリオさんには、元の部屋に戻ってもらいました。以前吹き飛ばした部屋の修理が、ようやく終わったので」
机の上には、フィオレンツァが用意したであろう可愛らしいお菓子が並び、いつもの無機質な会議室が、ほんのりと華やかに飾り付けられていた。
二人の気遣いが胸に響き、アデーレはグッと胸が締め付けられた。
そっと椅子に腰を下ろすと、フィオレンツァとクリスティーナが、微笑みながらお菓子とお茶を差し出してくる。
色とりどりの小さな焼き菓子が、白い陶器の皿に美しく並べられ、香ばしい甘い匂いと、ほうっと湯気を立てる紅茶の香りが、静かな空間にふわりと広がる。
アデーレは、小さく息を吐きながら、そっとその温かさを受け取った。
「アデーレさん、ちゃんと休んでる?」
「はい、大丈夫ですわ。毎日屋敷にも帰ってますし…」
もしかしたら、ラウルが帰ってくるかもしれない。そんな希望を胸に、アデーレはこれまでと同じように、定時を過ぎると家へと戻っていた。
そして、ラウルの帰りを待ち侘びながらも、彼がいない夜を一人で過ごしていた。
あの屋敷で、一人きりで過ごすのは初めてのことだった。これまでは、父や執事がいた。会話らしいものはなかったし、互いに離れた場所で、静かに暮らしていたが、完全な孤独ではなかった。
本来なら、ラウルがいなければ、今頃あの屋敷でひとりぼっちだった。いやそもそも彼がいなければ、爵位も返上し、あの屋敷から追い出されていただろう。
それなのに今、こうして一人でその場所にいることが、どこか奇妙に感じられ、長年暮らしたはずの屋敷なのに、ひどく落ち着かなかった。
ラウルが戦っているというのに、ゆっくり休めるはずもなかった。
この前の南部遠征のときも、不安はあった。けれど、あの時は毎年恒例の遠征だと聞いていたし、敵となる魔物の情報も分かっていた。だから、ここまでの焦りや不安はなかった。
だが今は違う。どんな魔物が襲ってくるのか、誰にも分からない。
そんな中、前線で戦うラウルがどれほど危険な目に遭っているかと思うと、アデーレは、気が気でなかった。
「でも、寝てないでしょう?心配なのは分かるけど、ちゃんと休まなくちゃ」
「そうですわ。…アデーレさんの体が持ちません」
心配そうに見つめる二人に、アデーレの胸はグッと熱くなった。
こんな風に、自分を気遣ってくれる人がいる。それは、アデーレにとって初めてのことだった。
アデーレにとって、ラウルは特別な存在だ。アデーレを助け、そばで支えてくれた人だ。
だが、今目の前にいるこの二人の想いも、確かにアデーレの胸に温かく届いていた。
「ありがとうございます。…二人のおかげで、少し落ち着きましたわ」
「…あまり無茶しないでね」
「アデーレ様のご主人は、とても強いと噂です。魔術師団も派遣されてますし、きっと大丈夫ですわ」
「ええ、そうですわね」
励ますようなクリスティーナの言葉に、アデーレは少しだけ微笑んだ。
それに、二人は少し安心したように息を吐いた。
「…少しでも、外の情報がわかればいいんだけど。ここは守られすぎて、外がどうなっているか分からないわ…」
「ええ。せめて無事であることがわかれば良いんですけれど…」
「緊急事態なので、色々と混乱しているのだと思いますわ」
「一応、何か分かったら教えてもらうよう、お父様に頼んでおいたの!もし何か情報があったら、すぐに知らせるわ」
「ありがとうございます、フィオレンツァ様」
突然の異常事態に、国中がばたついていた。宰相であるフィオレンツァの父であれば、誰よりも早く正確な情報を得ることができるだろう。
そんなありがたい申し出に、アデーレは胸の奥からただただ感謝した。この混乱の中で、自分を気遣ってくれる存在がいることが、どれほど心強いか、身に染みて感じていた。
「ありがとうございます。お二人には、なんとお礼を言ったらいいか…」
「お礼なんかいらないわ!」
「そうですわ。アデーレ様が元気になってくだされば、それだけで充分です」
「だって、私たち、友達でしょ!」
友達、ただそれだけで、こうして優しくしてくれる。その事実が、たまらなく嬉しかった。アデーレの胸は、温かい気持ちでいっぱいになった。
バタバタと音を立てて、会議室の扉が勢いよく開かれた。
「アデーレ、いるか!?」
「ちょっと所長!今は男子禁制よ!」
「ああ、フィオレンツァも来てたのか。そんなことより、アデーレ!」
「はい!」
アデーレは、すくりと立ち上がった。
胸の奥に、冷たい不安がひたひたと広がっていく。
ーーもしかして、ラウルさんに何かあったのかしら…!?
不安を押し隠すように、アデーレは急ぎ足で所長のもとへ向かった。
「今、お前の夫から荷物が届いたんだ」
「…荷物?」
「ああ。お前宛てだ」
アデーレが目をやると、そこには大きな木箱が置かれていた。
木箱には、遠路を運ばれてきたらしい土埃がうっすらと付いている。騎士団の者たちが、ここまで運び込んでくれたらしい。
「それと、これだ」
手渡されたのは、小さなメモ書きだった。
そっと開いてみると、そこにはラウルからのメッセージが綴られていた。
急いで書いたのだろう。走り書きではあったが、その力強い筆跡に、アデーレは自然とラウルの姿を思い浮かべた。
「心配をかけてすまない。俺は元気だ。たまたま見つけたんだが、この前約束した品だ。同僚によろしく伝えてくれ」
それだけの、短く簡潔なメモだった。だが、ラウルが無事だと分かっただけで、アデーレには十分だった。
アデーレは、小さなメモをぎゅっと握りしめた。
ーーラウルさんは生きてる…!!
その揺るぎない事実が、胸の奥からアデーレを安心させた。
「…それで、なんて書いてあった?」
コルネリオの言葉に、アデーレはハッと我に返った。ラウルの無事に安堵するあまり、肝心な内容をきちんと読み取れていなかった。
アデーレはもう一度、手にしたメモを丁寧に読み返した。
「…とりあえず、夫は無事のようですわ」
「そうか、なら良かった」
「良かったわ、アデーレさん!」
「まずは一安心ですわね」
皆が口々に安堵の声を上げた。その温かな空気に包まれて、アデーレも自然と微笑みを浮かべた。
「それで、これはなんなんだ?」
「約束したものだと書かれているのですが、一体何のことだか…」
「開けてもいいか?」
「はい」
コルネリオが、慎重に木箱の蓋を開けた。
中には、コルネリオの背丈ほどもありそうな、見上げるほど大きな、大鹿〈セラファーン〉の角が納められていた。
「これは、セラファーンの角じゃないか?」
「セラファーン…?あっ!」
その一言で、アデーレは思い出した。
たしか、あの祭りの日。もしセラファーンを見かけたら、研究所に送るとラウルが約束してくれたのだった。
アデーレはすっかり忘れていたのに、ラウルは、この緊急事態の中でも覚えていてくれたようだ。
しかし、本来なら森の奥深くに潜むはずのセラファーンが、町の周辺にまで現れたという事実は、素直に喜べるものではなかった。
「…もしセラファーンを見かけたら、チェーリオさんのために研究所に送ってくれると、あの時言っていたんです。それを、覚えていてくれたようですわ」
「なんだと!?このでっかいのを、お前の夫が仕留めたってことか!」
「ええ、そのようです」
「…想像してたより、アデーレさんの旦那様ってすごいのね!」
「相当の腕の持ち主ですわ」
皆が一斉に感嘆の声を上げた。
アデーレも、誇らしい気持ちが胸に広がった。だが心配の色も拭いきれず、素直には喜びきれなかった。
「これ、チェーリオさんに渡してもらえますか?」
「いいのか?こんな貴重なもの、あんなやつにあげて」
「はい。彼の研究に役立つなら、私も夫も本望ですわ」
「太っ腹だなー」
皆が苦笑する中、アデーレはそっと木箱に視線を落とした。
これがあれば、チェーリオが言っていた魔道具、魔力を増幅させるための装置が、きっと完成する。
ーーそれがあれば、もしかしたら…
アデーレは、再びラウルからの手紙に目を落とした。
その最後に綴られていた言葉に、自然と前を向く力が湧いてきた。
「必ず、君の元に帰る」
たったそれだけの言葉なのに、アデーレは確かに勇気づけられた。
ラウルが約束を違えたことなど、ただの一度もない。今回だって、アデーレ自身がすっかり忘れていた小さな約束を、彼はきちんと果たしてくれたのだ。
ラウルの無事は確認できた。今は、彼の言葉を信じるしかない。
いつまでも泣いてばかりではいられない。自分にできることを、アデーレもまた、果たすのだ。
アデーレは、左手につけたガラスの指輪に目を落とした。きらりと光を受けて輝くその色が、彼女の胸に、そっと勇気を灯してくれる。
アデーレの目に、もう迷いはなかった。