「恋人」って、そういう設定だったじゃん!
「"動画がない日はひーちゃんと遊びに行ったりするの?" ……うん、行くよ」
この前は映画見に行った、と画面の中の男が言うと、チャット欄の勢いが増した。
『なんの映画?』
『デートじゃん』
『デート』
『デートだ』
『おもしろかった?』
『デート!』
『もっとくわしく』
活気づくチャット欄に男は軽く笑って、アクション系の洋画を挙げた。有名なロングシリーズで、つい先日最新作の封が切られたばかりだ。
「これシリーズものじゃん? 実はおれ見たことなくてさ。誘われたときに「これ見たことないけど大丈夫?」って言ったら、これまでのやつ全部見せてくれたんだよね」
おもしろかった〜という笑い声に合わせて、茶髪のアバターが肩を揺らした。可動域に限界があるせいで動きが多少変なのはご愛嬌である。
「おもしろかったなー。あ、気になってる人いるね。ぜひ見に行って。えーと……"やっぱり全作見たほうがいい?" おれは見てよかったと思う。見てなくても話はわかると思うけど、見たほうが絶対楽しいよ」
『俺も見た』
『今度見に行くわ』
『デートいいな』
『いちゃいちゃもっと』
『わかる見たほうがいい』
『全部見せられたの草』
『そりゃそう』
『手とか繋いだ?』
『しっかり布教されとる』
『沼へようこそ』
『ひーちゃんの推し誰?』
流れていくコメントを男がぽつぽつ拾い、それがまた新たなコメントを呼ぶ。次第に話題は「ひーちゃんとの映画デート」から離れ、動画の裏話や数日後のコラボについてへ移っていった。そうして長針が半周した頃、男が「あ」と呟く。
「そろそろ時間だ。今日はこれくらいで。また夜に動画上げるのでよろしく」
ばいばーい、という声を最後に配信が終わった。
***
「――ひーちゃん、配信終わったよ」
ヘッドホンを外して伸びをすると同時、後ろで扉が開いた。そうして呼びかけてくる声は、さっきまでヘッドホンで聞いていた声と寸分違わない。当然だ。本人なのだから。
ひかるが振り返ると、相手はふにゃりと笑った。ネットでは茶髪に青い目の柔和美形の彼だが、実際の印象も(二次元的な美しさこそないが)そう変わらないとひかるは思う。
「お疲れ」
「うん、ありがと」
淡々と答えると、ぺたぺたと裸足がフローリングを打つ音が近づいてくる。そうして両肩に重みがかかった。ぐっと近づいた距離に、ひかるはつい眉間を寄せた。
「ご飯なに食べたい?」
「……別になんでも」
「あれ? 機嫌悪い?」
「別に」
じゃあチャーハンでいい? と言う男に頷きを返す。卵いくつ残ってたっけなーと呟きながら台所へ向かう登録者数四〇万人の人気ゲーム実況者は、ふと冷蔵庫の前で足を止めて振り返った。
「もしかして配信でひーちゃんの話したの嫌だった?」
わかってんじゃん。思わず毒づきそうになったのを、ひかるはすんでのところで堪えた。
「ニッコー」は今年で六周年を迎えるソロ実況者だ。三ヶ月前に登録者数四〇万人を突破、ファンからの愛称はニコ。特徴はよく回る口とゲームに対する勘の良さ、ふにゃふにゃした笑い方。あと一度手をつけたゲームは最後までやりきること。顔出しはしていないが、二年前に配信とコラボ用にVアバターが実装された。高校からの付き合いの彼女がいて仲は良好。
そんな「ニッコー」はひかるのいとこ、晃である。
「僕の話するのはいまさらだし別にいいけど」
「うん」
「チャットでデートだなんだ言われてんのがさぁ」
「あー……」
「僕はどういう顔すればいいんだよ。仕事だから見るけど」
「笑えばいいと思うよ」
「うるせ」
「ごめんねふざけた」
にらみつけると、晃は手を振る。
ひかるはフンと鼻を鳴らし、やけくそにスプーンへ盛ったチャーハンを頬張った。晃お手製のチャーハンは食べ慣れた味で、もはや第二の実家の味だ。むすくれながらもスプーンは止まらない。
晃のほうも、ひかるがこうして文句を言うのはいつものことなので慣れたものだった。謝ったところでどうにもならないのはお互いわかっているし、それでも毎回このくだりを繰り返すのは、ひかるが羞恥を吐き出したいだけだとわかっている。子どもの頃からの付き合いだけあって、晃はひかるの扱いがうまい。
ニッコーの言う「ひーちゃん」――"高校時代からの彼女"とは、ひかるのことだ。実際のひかるはニッコーの動画の編集担当でしかなくて、恋人なんてものではない。だから一緒に映画を見に行ったところでデートとはならない。
ならばなぜファンたちに恋人のひーちゃんと勘違いされているかと言うと、偶然が重なった結果としか言いようがなかった。
「ニッコー」には恋人がいる。
と、いう設定がある。
これは実況配信を始める際、晃が言い出したことだった。
要するに恋愛関係の炎上が嫌だから予防線を張りたいということ。ちょうどその頃、実況者でその手のスキャンダルが続いた時期だったというのあるだろう。嘘かまことかもわからない恋人発覚もガチ恋リスナーの騒ぎも避けたい、という晃の気持ちはわからなくもなかった。
まぁそんな騒がれるほど人気出るかわからないけどねと晃は笑ったが、いまや四〇万人の実況者だ。架空の恋人のおかげでいまのところ恋愛絡みのスキャンダルはないので、効果はあるのだろうとひかるは思う。
とはいえこの「恋人」の動向を気にするリスナーは多い。そりゃ推しの好きな人となれば関心を呼ぶのは当然だ。こちらとしても恋人の存在を定期的にアピールしたいので、晃は雑談配信でたびたび「彼女」について架空のエピソードを語ることになった。
そこで使われるのが、ひかるとのエピソードだった。まったくの嘘八百を並べるのも難しいだろう、とひかる側から申し出たことだ。映画に行ったとか誕生日に食事をしたとか、そういうやつ。そこまではよかった。
あれは半年ほど前、配信中に事務連絡を送ったときのことだ。耐久配信中で疲れていたのか、晃はメッセージを見るや「あ、ひーちゃん」とのたまった。普段の晃ならあり得ないミスだ。
そこからの展開は言うまでもない。
『ひーちゃん』
『ひーちゃんだって』
『彼女だ』
『名前聞いちゃった』
かつてない速さで流れるチャットにひかるは頭を抱えた。配信中の裏方管理全般はひかるの仕事である。配信トラブルの対処もチャットの確認もなんでもこなす、が、こればかりはフォローしようがない。
結局へたに否定もできず、ニッコーの恋人として「ひーちゃん」は定着してしまった。
とりあえず高い焼肉を奢らせた。それが二ヶ月前のことだ。
「みんなひーちゃん大好きだよね」
しみじみと呟く晃に、ひかるは「違う」と首を振った。残ったチャーハンをかき寄せ、スプーンですくう。
「リスナーはお前が好きなの。だからお前に「好き」って言われてる恋人も気になるんだよ」
ずっとエピソードこそ提供してきたが、語られたところで自分とは別だと割り切れた。しかし名前を呼ばれるようになるとどうにも生々しい。
件のバレがあった日、SNSのトレンドに「ひーちゃん」が乗り、切り抜きがどっと増えた。動画のコメントでも「彼女さん」は「ひーちゃん」になり、二人が仲良しなの最高! 尊い! なんて書かれた日にはいたたまれなさが半端じゃない。「ニコひー」なるカップリングを知ったときには天を仰いだ。
「というか、お前は平気なの」
「ん? 平気?」
こてん、と晃が首を傾げた。その呑気な態度に若干のいらつきを覚える。
「だから、その……設定とはいえ、僕と付き合ってるみたいなさ。気まずくない? いとこだし、男だし」
「韻踏んだ?」
「うっせぇ」
真面目に気にしてるのにこの男はすぐ茶化す。にらみつけると、晃はごめんねと笑った。
「全然気にならないよ。おかげで変なのに絡まれにくいし」
「……まぁ、そうだけど」
実を言えば、当初は架空の恋人のせいでリスナー層は狭くなるんじゃないかと思っていた。アイドルとまでは言わないが、実況者に夢見るファンは少なからずいる。そういう層の需要をあえて掴みに行く実況者やVもいるなかで、晃の方針は異質に見えた。だが蓋を開けてみれば、恋人と仲良してぇてぇと好意的に受け入れられているので不思議なものだ。
「それにさ」
「ん?」
空の皿へスプーンを置き、晃は口の端を持ち上げた。頭の後ろで括った栗色の毛先がぴょんと跳ねる。
「いとこだろうが男だろうがひーちゃんはひーちゃんだし、架空の恋人は恋人だよ。それはそれ、これはこれ」
「……あっそ」
こいつ図太いな。知ってたけど。ひかるは呆れた。自分はそこまで器用に割り切れていない。
こう言い切るだけあって、晃はやたら演技が上手い。実際は恋人なんて居もしないくせに、まことしやかな語り口に「こいつ僕に隠してるだけで他所で作ってるのでは?」と疑いたくなるほど、うまい。だからこの六年間リア充とやっかまれることこそあれ、恋人嘘説が流れたことはいままでなかった。
……こいつ、なんなら役者でやっていけるだろ。
配信でひかるとの思い出を語られるたび、愛おしそうにひーちゃんと呼ばれるたび、あれ本当に付き合ってたっけ? と勘違いしそうになる。世のガチ恋勢はこんな気分を味わっているのかもしれない。怖すぎる。
だからここ数ヶ月、ひかるはどうもおかしいのだ。配信で「ひーちゃん」の話が出るたび動悸がするし、かわいいって言われると腹のあたりがぞわぞわする。そしてそのあとは決まって晃の顔をまっすぐ見ることができない。なんだと言うのか。
そのくせ当の本人はゲームの話をしてふにゃふにゃ笑っているから腹が立つ。
でもそうか。それはそれ、か。ひかるは思い直した。もっともなことだ。けれど、なぜかそう思うといっそう腹のあたりが落ち着かなくなる。
胃もたれか? と思いながらスプーンを置いた。思えば最近編集コストの高い動画が続いていて、食事もおざなりだった。
「ひーちゃん」
「……なに。今日の動画ならもう予約してあるけど」
「ありがとう。そうじゃなくてね」
これ以上深掘りするとろくなことにならない、と変えようとした話題はあっさり流された。
「ひーちゃんは、気まずい?」
なにが、なんて言うまでもなかった。ひかるは息を吐く。
「気まずいよ普通に」
「そっか」
晃もスプーンを置いた。皿を避け、身を乗り出す。
「じゃあ本当にする?」
「……は?」
本当にする、とは。
「どういう意味だよ」
冗談にしてもたちが悪い。問いただす声は知らずきつくなった。けれど晃は気分を害した素振りもなく笑っている。
ふとその手が伸び、ひかるの頬を包んだ。
「そのままだよ。本当に恋人にならないかって意味」
そうしたらおれの恋人は「ひーちゃん」で、出かけるのも「デート」。なにも気まずくないでしょ。そう、さも良いことを思いついたように言われた。難所の攻略を見つけたときもこういう声出してんな、と思った。現実逃避でしかなかった。
「……え、は」
じわじわ理解して、それでも信じられなかった。冗談にしても悪趣味が過ぎる。
「え、なに……お前、僕のこと好きなわけ」
「そうだよ」
躊躇いなく肯定された。まさか、いつから。そう聞こうにも喉のあたりでつっかえたように言葉が出ない。
……好き、って。
ただのいとこだし。そもそも男だし。そんなこと考えたこともなかった。
「あ、頬熱くなってきた。かわいい」
「かっ、かわいくない!」
反射で言い返すが、晃はかわいい、かわいいよと繰り返した。なまじっか付き合いが長いだけに、晃の声が本気のそれだとわかってしまう。お前、ゲームの推しにすらそこまでデレていなかっただろう。
頬に触れていた指先が輪郭を撫で、顎を持ち上げた。
「おれ、ひーちゃんのことで嘘ついたことないからね」
こしょこしょと猫にするみたいに顎をくすぐられる。
「だから配信で『恋人のひーちゃん』に言ったこと、ぜんぶ本当だよ」
――ひーちゃんがかわいいかって? そりゃもう。
――最近おいしいごはん屋さん見つけたんだよね。ひーちゃんと行きたい。
――ひーちゃん大好き。
――ひーちゃん。
優しい声を思い出して、もうだめだった。
あれは全部演技だって、そういう設定だって思っていた。思おうとしていたのに。
「い、いつ、から」
「えー……けっこう長いな。実況始めたときにはもう好きだったし」
「は!?」
嘘だろう。じゃあ六年間も晃はひかるに操を立てていたと言うのか。
「いままで言うつもりなかったんだけど……でも最近、ちょっと押したらいけるかなーって気持ちになってきて、」
「――ど、動画、予約忘れてたっ!」
それ以上はだめだ。聞いちゃいけない。
咄嗟に手を払って立ち上がった。思ったよりずっとわざとらしい声に、一拍遅れて恥ずかしさがやってくる。
……聞かなかった。いまなにも僕は聞かなかった。
ひかるは必死に言い聞かせる。ちょっと押したらいけるかも、なんて聞いていない。なにがいけるのか、なんて考えちゃいけない。
晃は一瞬きょとんとして、おもしろがるように口の端を持ち上げた。
「予約してあるんじゃなかったっけ?」
「っ、忘れてたんだよ!」
からかうような声に吠えて、作業部屋へ駆け込む。そうしてドアを閉めようとして――しかし、それは追ってきた手に阻まれた。それを振り払い、扉を閉めて普段かけない鍵を下ろした。くすくす笑うのに混じって「かわいい」と聞こえたのはきっと気のせいだ。気のせいだと思いたい。
そのままずるずると扉を背にしゃがみ込む。しばらくして、椅子を引く音がした。足音が聞こえる。一歩、二歩、だんだん近づいてくる。それは扉の前で止まって、床が軋む音がした。
「ひーちゃん」
ひっ、と喉が鳴った。
「逃げないでね」
扉越しだからだろうか、その声は普段より低く響いた。ゆっくりと気配が離れていく。それを聞きながら、ひかるは途方に暮れた。
逃げないで、と言われても。
「どうしろって言うんだよ……」
ぼやきつつ、しかしひかるにはうっすらとした予感があった。
遠からず、己は晃の告白に頷いてしまうだろう。なにせ「ニッコー」は――いや晃は、一度やると決めたらとことん攻略し抜く男だということを、ひかるは誰よりも知っているので。
お読みくださりありがとうございました。