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ハイリゲンシュタットの遺書

野良犬と下僕

作者: 幸 七世

「野良犬だ。めずらしいな」

灰莉はしゃがみこんで、黒い犬の頭や顎をわしゃわしゃと両手で撫でた。おれは犬種に詳しくないのでよくはわからないが、おそらくシェパードと呼ばれる類のものだろう。毛並みはぼろぼろで首輪をしていない。戦後この国では突如増えた野良犬による怪我の被害が相次ぎ、飼い犬は首輪をつけることが法律で定められた。最近こそ緩くなったが、当時は野良犬は見つけ次第施設に保護(という名目でなにが行われていたかは想像に容易い)、というのが一般的で、今はもう野良犬の数はかなり減っていた。

灰莉は軽度なので手を洗えば問題ないが、おれは灰莉よりもつよいアレルギー持ちなので少し距離をとってうしろで待っている。いつもと同じだ。灰莉は動物が好きなのでよくこうして野良の猫や散歩中の犬に話しかけては撫でることが多かった。

「お、いい子だな。僕の犬になるか?」

犬は灰莉にすぐに懐いたようで、しっぽを振って灰莉に与えられる心地良さを享受している。……正直、ずるいと思う。灰莉の従僕ならおれひとりでいい。それに、おれのほうが優秀なのに。

「灰莉」

不満を声に乗せて、名前を呼んだ。灰莉はおれのほうを見て満足そうに笑う。おれはすべて灰莉の手のひらの上だ。灰莉はおれがなにに満足し、なにを不満に思うかわかっている。

「冗談だよ。飼わないよ。おまえで手一杯だもの」

「おれは犬じゃないよ、灰莉」

灰莉は立ち上がるとおれのあごに手を添えて撫でるような仕草をした。この犬にしたみたいに。

「おれは犬じゃないから、褒美なんてなくても従う」

灰莉の目を正面から見つめて添えられた手に頬を預ける。おれは犬よりもうまく灰莉の役に立つし、褒美がなくてもなんだってする。けれどこれだけ働いてるのだから、灰莉はもっとおれを丁重に愛してくれても罰は当たらないはずだ。それはひどく傲慢で、不敬なことだ。それでも叶うなら灰莉に、愛されたい。

「おれは灰莉がほんとうにぜんぶ正しいとは思ってない」

灰莉は手を離しておれの言葉を待った。灰莉はなにが最良かをいつも知っているけれど、それが必ずしも正しくないことをおれは知っている。たぶん、灰莉も。だからこそ悩んで、苦しんで、こんな修羅の道を選んだのだ。灰莉はなにが最良かを知っているけれど、それを必ずしも実行しない。それも含めてすべて、いつも正しいとは限らない。

「けどおれは灰莉を正しいというし、正しくなくても全部、従う」

正しいかどうかなんて、どうでもよかった。おれは犬じゃないから、褒美も利益もなくたって、正しくなくたって灰莉に従属する。おれは犬じゃなくて、灰莉の下僕だ。主人の意志だけがおれのすべて。

「じゃあ」

灰莉は満足そうに微笑んで、けれどその目はおれではなく遠くを見ていた。

「おれとおなじだね」

灰莉は、魔物だ。その言葉も声も視線も、ひとつひとつでおれを魅了して離さない。

そのくせこの美しい魔物は、おれではないひとに恋をしている。


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