蝉の生涯から考える、命について
蝉はその生涯のほとんどを地中で過ごす。
地上に出て成虫になってからは数週間ほどで死に至るのに対し、幼虫の間は何と約7年も土の中で生活しているといわれている。
果たして彼らは幸せなのかと、ふと思う。
他の仲間と過ごすことはなく、一切の娯楽もない地中での生活。
ようやく成虫になり地上に出られても、たったの数週間しか生きられない。
生きるために炎天下の中飛び回って樹液をすすり、体力の限り叫び続けて運がよければ交尾の末に子孫を残すことができる。
だが子孫を残しても、その卵が孵化した後の生涯はこれまでと同じく、土の中で長い年月を過ごし、地上に出るとすぐに死ぬのである。
自分が同じ立場ならどうだろう?
数年間の孤独と、数週間の労働。
そんな地獄のようなループを永久に続けてまで、命を存続させたいなどと思うだろうか。
もう終わらせたい。
なぜそんな思考に至ることなく、蝉は馬鹿正直なほどに同じループを続けているか。
それはきっと生きる過程ではなく、生きているという結果だけを重視しているからではないだろうか。
人はしばしば、何のために生きているのか意義のある人生を求めようとする傾向があり、答えの出ないその問題に頭を悩ませてきた。
だが実際は命の本質というのは、どう生きたかや何を成し遂げたかなどの過程を必要とせず、ただそこに命があり、それを絶やさずに続けていくという結果のみが大事なのではなかろうか。
現代では昔よりも生活が豊かになったにも関わらず、多くの人々が生きることに苦しみ、悩んだ末に自ら命を絶つ選択肢が常に頭の片隅に存在している。
生きている意味がわからない。
周囲から存在を否定される。
人類はその協調性と賢さを持って"国"という地球の生物史上類を見ない巨大な巣を作り上げ、食物連鎖の頂点に立った。
他の生物から食べられたり脅威に晒されることはなくなったが、その代わりに個々の命を重視するのではなく、国民として生きていく上で役割と意味を強制させる社会を築き上げた。
一人一人がどのように働き、国の役に立つかという過程でしか、命の価値を判断しなくなったのだ。
その結果、国の役に立たず、ただ生きているだけの存在を嫌悪し、排除しようとする精神的システムが悪い意味での進化を遂げた。
人間は蝉を見下している。
ただただオシッコを撒き散らしながら飛び回り、耳障りな叫び声を上げて交尾に明け暮れる馬鹿な生き物だと。
そんな蝉からすれば、生きる過程の問題で悩み苦しみながら生活する人間はどう見えるだろうか。
生きる過程にしか目を向けず、互いに責任を押しつけ合ったり他人を貶めているこんな社会を築き上げた人類は、むしろ蝉から学ぶべきではないだろうか。
そして今、そういった社会の仕組みに囚われて、周囲の人々や自分自身に殺されそうになっている人達は、社会のシステムに騙されずに見つめ直して欲しいと願う。
ただ生きているということの大切さを。
そもそも、命を未来に繋げる意味は?
繋げた先に何があるんだ?
という疑問については昔どこかのスレッドで見た
「地球上で最後の一匹まで生き残った奴が次の神様になるんやで」
という主張が、馬鹿馬鹿しいけどロマンがあって一番お気に入りです。
もしもこの世が地球を舞台にしたバトルロワイアルだったらと思うと、何がなんでも生き残ってやるぞって、ワクワクします。