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第八話

 翌朝、見送りの子供たちが並ぶカーマイヤー邸の門を後にし、ルシアは馬車の手綱を握った。

 花を売る時も、よく一人で馬車を繰って行く。座り慣れた御者台だ。

 後ろを振り返ると、幌の向こうに、子供たちが涙をこらえた顔で手を振るのが見える。

 口を大きく開けているのは、ダニアンへの別れの言葉を叫んでいるに違いない。

 ジョッシュの姿はなかった。

 朝食後から姿が見えないから、さよならを言うつもりはないのだろう。

 ジョッシュもダニアンを可愛がっていたはずなのに。ダニアンはすっかりしょげていた。

 もちろん、ジョッシュの冷たい態度より、孤児院を出て行かねばならない衝撃の方が、数倍彼を打ちのめしてはいるだろうが。

 モードとの別れに続く、慣れ親しんだ兄弟たちとの別れ。それは、ダニアンの表情に暗い影を落とした。

 どうしようもない不安に押し潰されそうになっている。しかし賢いダニアンは、懸命にこらえ、笑顔を作ろうとしていた。今も荷台から身を乗り出し、兄弟同然に育った仲間たちに「また来るね〜!」と力強い声で叫んでいる。

 それを見ると、ルシアの胸は痛んだ。このまま引き返したい気持ちになる。

 だけど、行かねばならない。

「ねぇ、母さん。どうしても行かなきゃいけないの?」

 その心を読んだかのように、ダニアンの心細そうな顔がこちらを向いた。

 ルシアの胸はますます痛んだ。

 愛しいダニアン。

「行った方が、あなたのためなのよ」

 そうだ。その方がきっと幸せになれる。

 共同体の中の一人として生きるよりも、両親にたった一人の子供として愛されて生きる方が、きっと幸せになれる。

 ルシアは、自分に言い聞かせるように言った。

「うん、わかったよ。母さん。僕、我慢するね」

 ダニアンが涙を拭い、幌の中をこちらに移動してくる。

 一生懸命とかしつけたにも関わらず、抑えられなかったくせっ毛は、馬車の揺れに一層ひどいことになっている。

 ぴょこん、ぴょこんと跳ね上がる金色の髪と、薔薇色に染まる白い頬。

『お母さん――』

 ルシアは、満足そうに目を細めた。

 遠ざかる邸と、金髪の少年から前に向き直り、手綱を操る。

 広大な畑と牧場の真ん中を貫く開けた一本道は、もうすぐ景色を変えようとしている。林道にさしかかるのだ。

 それから町に着くまでの間は、あまり人に会うことはないだろう。

 ふと、杖をついた青年の姿が頭に浮かぶ。

 そういえば、モードは今頃どうしているだろうか。

 本当に町に向かったのだろうか。

 始終、へらへらとした愛想笑いを顔に貼り付け、口にすることと言えばふざけたことばかり。

 だが、底が見えない。

 何を考えているのか、まったく読めない青年。

 急激に感じ始めた得体の知れない青年への不信感が、ルシアの胸をざわつかせ、見えない壁を作った。

 何故かはわからないが、突然モードが怖くなったのだ。

 理屈ではない。本能として迫ってくる恐怖。危機感。

 あの墓参りの時まで、無害だと思っていた、憎めないと思っていた青年が、突然纏い始めた空気は、ルシアを不安にさせた。自分の奥を見抜こうとするあの目は何だろう。

 彼が出て行った今も、不安で不安でたまらない。

 まさか、あの青年は――

「ハンス……」

 愛する夫の名を呟きながら、帽子に手を伸ばす。

 そこには、ダチョウの羽飾りなどと共に、一輪の花が飾ってあった。深紅の花。アネモネ。

 ルシアはそれを手に取り、鼻に当てて香りを吸い込む。

 甘い、アネモネの香りが、鼻腔をくすぐる。

 

『大丈夫だよ、ルシア。アルフはきっと助かるさ』

 

 夫の声が脳裏をよぎる。

 あなた、早く帰ってきて……。

 何故、ハンスは戻ってこないのだろう。

 いつもなら、手紙のひとつも届くはずなのに。

 

『もう泣かないでおくれルシア』

 

 優しい彼は、どこに行ってしまったのか。

 

『ね、もう淋しくないだろう? この子達をアルフだと思って育てていこう』

 

 彼の言うとおり、ここまでやってきた。

 いっぱいのアルフを育て、悲しみは薄れていった。

 

『幸せだね、ルシア。こんなに沢山の子供たちに囲まれて』

 

 ええ、ハンス。私、幸せだわ。元気になったのよ。あのアルフが、元気に飛び跳ねてるのよ。

 

 アルフ……アルフ……。

 

「母さん?」

 

 小さな少年が、きょとんとした顔でルシアを覗き込んでくる。

 アルフだと思った。

 だが、光に溶けるようにして、たちまち幻影は消える。

 もとの少年、ダニアンに戻っていく。

 

 違う……。

 違うのだ。

 やはりこの子は、アルフではないのだ。

 

 絶望が、視界を覆う。

 

 ねぇハンス。アルフはどこ?

 

 意識が紅に染まり、甘い香りが満ちていく。

 

 ねぇハンス。

 

 

 満ちていく――

 

 

 

 アルフはどこ?

 

 

 

 * * * * * *

 

 

 

 ジョッシュは林立する木の陰から、馬車が通り過ぎるのを確認した。

 姿は見えていないはず。こちらは林の中だ。

 決意を秘めた瞳を、鋭く閃かせ、木々の間を走り出す。

 乗り出した肩を、突然、後ろから掴まれた。

「わっ!」

 思わず声をあげ、警戒心も露に振り返ると、そこにいたのは意外な姿だった。

 杖をつき、にこっと笑う青年は、昨日、邸を出て行った筈である。

「あんた、なんでここに……」

「いやぁ〜。美女の後って、つけたくなりますよね。わかります、わかります〜」

 相変わらず変態性を隠そうともしないモードは、この一刻を争う時に、なんとものん気な口調でジョッシュの肩を叩き、一人納得顔で頷いている。

 ジョッシュは苛立たしげに手を振り払った。

「あんたと一緒にしないでくれ! 俺は……っ」

 言いかけて、口をつぐむ。この青年は命の恩人なのだ。まだちゃんとお礼も言っていないのに、話せば巻き込んでしまうことになるかもしれない。何度も考えたことが再び頭を巡る。

 それに、まだ証拠も何も掴んでいないのだ。笑い飛ばされるかもしれない。この予想に反して無関係だった青年に。……いや、しかし、本当に無関係なのだろうか? 隠れるようにここにいるということは……。

「でも、足で追いかけるのは無理があると思うんですよね〜。だって相手は馬車ですよ?」

 ハッとなる。それは確かにそうだ。現に、ルシアとダニアンを乗せた馬車は、既に遠く豆粒と化している。

「もっと賢く先回りした方がいいんじゃないかな〜なんて思うんですけど。どうですかね?」

 驚いてモードを見上げる。底の見えない笑顔が問いかけてきている。

 このひょろっとした青年は、最初、隠密で捜査にきた役人か何かだと思っていた。

 だが、特に何かするわけでもなく、ルシアに粉をかけただけで出て行ったのだ。ジョッシュは、あの青年は結局ただの通りすがりだったのだと思うことにした。

 それも、フェイクだったのだろうか?

 全てお見通しだと言わんばかりの瞳が、悪戯っぽくジョッシュを見据え、光った。

 

「知ってるんでしょ? ジョッシュくん。あの森の中にあるものを」

 

 


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