第六話
『お母さん……お母さん……』
小さく喘ぐ唇が自分を呼ぶ。
もう、腕をあげる力もないのか、微かに震えるだけの指先。からからに乾いて皺がよっている。
『アルフ……お母さんはここよ。大丈夫よアルフ』
手を取り、涙をこらえて微笑みかける。
朦朧とした意識に、声が届くことはないとわかっていても。
『苦しいよ……お母さん……お母さん……』
荒い息と共に、何度も繰り返される言葉。
子供らしい丸みを失った頬を、震える指先で撫でる。
半分でもいい。この子の苦しみを、自分に移すことができれば、どんなにいいか。
『お願いです神様。アルフを……アルフを連れて行かないでください』
魂を引き絞るように懇願した。
声がかすれるほどに、何度も、何度も。
涸れることを知らない涙は毎日流してもまだ足りない。
あとからあとから溢れては、祈る手を濡らしていく。
自分の命を差し出してもいい。
この子の命を助けてほしい、ただそれだけが望みだった。
『お願いします。アルフを助けてください……』
ただ、それだけが望みだった。
この子を、助けてください。
ただ、それだけが――――
* * * * * *
ルシアは息苦しさと共に目を開けた。
静かな暗闇が広がっていた。全ては夢だと伝えてくる暗闇が。
混濁した意識が、覚醒するまでのわずかな時間、荒い呼吸を繰り返す。
ゆっくりと身を起こした。耳に感じた冷たいものが、目尻から溢れるものと同時に耳の下を伝い落ちる。
拭う気力は、しばらく訪れそうになかった。
「また――あの夢――」
ひどい虚脱感が全身を覆っていた。
寒い。体が、心が冷え切って、凍りついてしまいそうだった。
ルシアは顔を覆ってうなだれた。
こうして悪夢にうなされ、夜中に目を覚ますのは、一度や二度ではない。何か心配事がある時は、最も辛かったあの時の夢を必ずと言っていいほど見る。
今日は、昼間にジョッシュとモードが屋根から落ちかけた。その恐怖のせいだろう。
二人は死ぬところだったのだ。思い出すだけでいまだに震えが走る。怖くて怖くてたまらない。
ジョッシュを失いかけた時の気持ちが再び蘇りそうになり、慌ててルシアはかぶりを振った。
じっとしていられなくなり、寝台から足を下ろす。横に置かれた机の蝋燭に火を点けた。
ぼうっと、暗闇に仄かな明かりが灯る。
同時に、鮮やかな深紅が闇から浮かび上がった。
花だった。大きな花弁を優雅に広げた花が、数本、ガラスの花瓶に生けられていた。
ルシアは花が好きだった。
花を見ていると、心が落ち着く。嫌なことも何もかも、忘れてしまいそうになる。
だから花畑を作ったのだ。
悲しみを忘れるために。生きていく活力を得るために。
この花も、散歩の途中で見つけたものだが、あまりに鮮やかな色だったので、心惹かれて摘んで帰った。
それからずっとここに飾ってある。
いまや一番のお気に入りとなっている深紅の花を一本抜き取り、香りを胸に吸い込む。
甘い芳しさが自分を包みこむ。少し、気分が落ち着いた。
だが、胸の奥にわだかまるどうしようもない不安を、完全に拭い去ることはできない。
「どうして……」
ルシアは小さく呟いた。
「どうしてなの……」
花ごと、自分の体をかき抱く。
「怖い……ハンス、早く帰ってきて……」
心細さに、震える身を暖めようと、ぎゅっと抱き締めた。
「ハンス…………アルフ……」
優しい温もりが欲しかった。
* * * * * *
「ルシアさ〜ん。ルシアさ〜ん」
すっかりこの家に馴染んだ青年、モードの声が辺りに響く。
ルシアを求めて畑にまで出てきたところだ。邸の中にはいなかったのだ。
「いつまでも母さんのお尻を追っかけてんなよ。あんたもいい大人だろ?」
畑仕事中の子供たちが、呼んでもいないのに寄ってくる。
モードはぎくっと身を引いた。
「ローザさんに教わってパンを作ったんですよ〜。ルシアさんに味見してもらおうと思いまして」
腰はすでに逃げ腰である。事故でジョッシュを助けてからモードの評価は少し上がったが、それ以前に何度も痛い目を見ていたことで、本能に刷り込まれてしまった反応だった。
「俺たちが代わりに味見してやるよ」
「ええ〜っ。ルシアさんがいいです。せっかく頑張ったんですから〜」
モードは嫌そうな顔であとずさる。息抜きにモードをからかおうと集まってくる子供たちの中に、ジョッシュの姿もあった。
なにやら複雑そうに強張った表情でモードを見ている。
あの事故以来、何度もジョッシュはこんな表情でモードに近づいてきては話しかけようとしていた。しかし、まだ決心はつかないらしい。
話すべきかどうか。迷いながらも、とりあえずといった様子で口を開いた。
「あの……モードさ」
「母さんは今いないよ〜」
その時、ダニアンがモードの服の裾を引っぱった。
ジョッシュはため息をついて後ろに下がった。
「みたいですね〜。どこに行かれたんでしょう?」
「おじさんのいない場所」
すかさず意地悪な笑みを浮かべ、子供の一人が言う。
「ええっ!? ま、まさか僕、避けられてます!?」
モードはショックを受けた顔でよろめいた。
「それはないけど……。母さん、いつものやつに行ってるから」
ピーターの言葉に、「へ?」と目を瞬かせる。
「いつものやつって、何ですか?」
* * * * * *
風が、少し強くなってきた。
ルシアは花が飛ばされないよう、しっかりと腕に包み込んだ。
風が去った後、磨かれた石碑の前に花束を置き、少し考えた後、手ごろな重石をのせる。
石碑に刻まれた文字は、『アルフ=カーマイヤー』。
「ご家族の方ですか〜?」
背後の声に驚いて振り返る。
杖を手にした麻色の髪の青年、モードが立っていた。
何故ここに、という疑問は口にする前に消えた。わかりやすい村の外れの教会の墓地だ。子供たちが教えたのだろう。
「息子です。六年前に亡くなりました」
言葉にしても、風化した感情は滲み出さない。ただ淡々と、事実のみを伝えるように言った。
「それは…………ご愁傷様です」
青年は墓の前に歩み寄り、厳かに黙祷した。
突然戻った静けさを埋めるように、ルシアは昔話を続けた。
「とても可愛い子でした。ダニアンが少し似ているかもしれません。素直で、純粋で、だけど芯の強い子でした。流行り病にかかって、五歳で逝ってしまったのが残念です。もともと病弱な方でしたし、それがあの子の寿命だったのでしょうが」
「五歳で……。もしかして、孤児院を始めたのは……」
「はい。毎日泣き暮らす私を見かねて、主人がやってみないかと言ってくれました。アルフの代わりだと思って、身寄りのない子たちの世話をしよう、って……」
「そうだったんですか」
墓の前に跪き、モードは石碑に刻まれた文字をじっと見つめる。
また沈黙が流れた。ルシアも無言で墓に祈りを捧げる。
ややあって、モードの視線が墓に添えられた花束に移る。
「綺麗な花ですね。アネモネ……でしたっけ?」
問われてルシアは頷き返す。
モードの指摘どおり、石色の沈んだ風景に鮮やかな色を添えるその花はアネモネであった。深紅のアネモネ。春先に咲く美しい花。
ゆったりと開く八重咲きの優美な花弁が、風に揺らされ、甘い香りを送っている。花芯は薄い赤紫で、わりと珍しい色かもしれない。アネモネには様々な色と形があるが、近くに咲いていたのはこれ一種類のみだった。
「いっぱい咲いてるのを見つけたので……」
「へぇ〜。いい香りがしますね。ルシアさんの香りとおんなじだ〜」
言いながら、モードは鼻をくんくんとひくつかせ、アネモネの香りを嗅いだ。
途端に妙に恥ずかしい気持ちになる。自分の体臭を嗅がれているかのような。
「そういう言い方はやめてください」
ルシアは声に棘を含ませてモードを睨みつけた。
どうもこの男といると調子が狂う。昨日見直したばかりなのに、すぐに茶化してくる軽薄なモードにルシアの態度はすっかり元に戻ってしまっていた。
「あははは〜すみません。つい匂いに反応しちゃって」
へらっと頬を緩ませたモードが立ち上がり、一歩近づいてくる。
「僕もアネモネがいっぱい咲いてるところ見たいな〜。邸の畑にはなかったですよね? どこに咲いてるんですか〜?」
「それは……」
「あぁ〜綺麗だろうなぁ〜。あれ? でもアネモネって確か、開花は三月頃ですよね? もう五月なのに、まだ咲いてるんですか?」
「ええ、まぁ今年は寒かったですから……ってそれより、モードさん、一言言いたいことが」
調子のいい青年のペースに乗せられまいと、ルシアは表情を引き締めた。
いい機会なので、ビシッと言っておかねばならない。
「一体いつまでうちに居る気なんですか?」
「ぎくっ!」
途端、強張った顔であとずさるモード。
「真面目に職を探す気があるなら、町に行くべきでしょう? うちは成人した男性を養うゆとりはないんです。そろそろ自活してもらわなくては困ります」
本当は、屋根の修理もしてもらったし、ジョッシュを助けてもらった恩もあるので、もうモードを追い出そうという気はなくなっているのだが。
ジョッシュを助けてもらったからこそ、この青年には、ちゃんとした職に就いてもらいたいとも思った。
行商人に戻る気があるなら、元手を出してもいい。こんな小さな村の孤児院で下働きなどすることはないのだ。
「で、でもどこに行けば……」
「馬車で一時間ほどの場所に町がありますから。まずはそこで職探しをしてみるのはいかがです? 町まで送ってさしあげますから。もし、また商売を始めたいと思うのでしたら、及ばずながらご協力させてもらいますわ」
ルシアは厳しい表情を解き、にっこりと笑いかけた。
「ここで働かせてもらうわけには……」
「この村での生活は退屈なものです。モードさんは行商人をされてたんですから、もっと賑やかな場所の方が合うんじゃないかしら」
「ん〜……でも僕はルシアさんの傍にいたいな〜なんて」
「私には夫がいますから、あなたの気持ちにはお応えできません」
きっぱりとルシアは言った。
モードを町にやる目的のひとつにはこれもある。
町に行けば、もう三十になるルシアよりも若くて魅力的な女性はいくらでもいる。見込みのないルシアを追いかけていては、見つかる恋も見つからないというものだ。
他にもモードに町に行って欲しい理由はあるが、とりあえず最大の理由はこれだった。
「僕は旦那さんがいても全然気にしないんですけどね〜」
「私が気にします! そんなふしだらな態度で女性がなびくと思ってるんですかあなたは!」
この男はこれだから、こちらもつい厳しい口調になってしまう。
ルシアは腰に手を当ててモードをじろりと見た。
「ともかく、私もあなたがいると落ち着きませんし。お金はお貸ししますから、一度町に行ってみてください」
「え? 落ち着かない? それはもしや僕にドキドキしてとか……」
「そんなわけないでしょう! どこまでプラス思考なんですか!」
ポッと頬を染めたりなどするから、こらえきれず、とうとう耳をつねりあげてしまう。この男といると、どんどん自分が凶暴化するような気がするから怖い。
「あいたたっ! わかりました! わかりましたよ〜っ!」
「しっかりやってきてくださいね」
もはや母親の気分である。こんな図体の大きい男の母親役までこなすことになるとは思わなかった。
「ううっ、ルシアさん怖い……」
耳をさすりながら半泣き状態で去っていくモードを厳しい視線で見送る。
しかし、それほど怒っているわけではなかった。この青年は話すと苛立ちはするが、どことなく憎めない。
ふう、と息をついていると、モードの足がふと止まった。
「あ、そうだ」
すでにけろりとした顔でこちらを振り返る。まったく懲りない男だ。
「アネモネの花言葉って知ってます?」
「え?」
唐突な質問に、ルシアは考える頭が働かず、ただモードの視線を受け止めた。
一体、何の話だろうか。
にこり、とモードの口元が笑った。
それだけで、何故か背中にぴりっとした緊張感が走る。
空気が変わった。
どこか惹きつけられる笑みに、ルシアは吸い寄せられるように見つめ返し、青年の言葉を待つ。
青年は、言った。
「――”儚い夢”」