第五話
モードは優しく頬をくすぐる春の終わりの風を感じながら、ジョッシュがのぼってくるのを待った。
屋根の上はなかなか居心地がいい。お茶でも一杯飲みたいくらいである。
足を滑らせたら一巻の終わり、という恐怖はモードにはない。
無神経なのか、単にそういう感情が欠落しているだけなのか、落ちてもまぁなんとかなると思っているのか、モードにはわからない。
こちらに向かっている無表情な少年も、あるいはそういう類の人間なのかもしれないと思ったが、それはすぐに打ち消された。
彼ははっきりとした感情を持っている。ただ表面に表れにくいだけだ。
それと、意図的に感情を押し殺している部分もある。動揺を周囲に知られたくないのだろう。
その辺はルシアに共通している。
こういう人間は、気持ちを素直に表す代わりに、何かで心を慰める傾向にあるものだ。
女の子なら、例えば人形。男の子なら犬。仕事にうちこむ人もいるし、絵を描く人もいる。そして――花を愛でる人も。
モードは身を乗り出し、遥か下で、心配そうにこちらを見上げるルシアに手を振った。
しかしルシアは反応しない。ジョッシュしか目に映っていないようだ。ただ一点を見つめ、心もち青ざめた顔で両手を祈るように組んでいる。
子を思う母の心には勝てないと、モードはため息をつき、大人しくジョッシュを待った。
やがて、屋根の縁に手をかけ、ジョッシュが屋根から頭を突き出した。
「瓦」
短い言葉と共に、屋根の縁に片膝をつき、バッグから取り出したスレート瓦をモードに差し出す。相変わらずの無愛想ぶりだ。
モードは受け取ろうと手を伸ばした。瓦に触れる。
ジョッシュの顔色が変わったのはその時だった。
突然、モードは勢いよく手首を掴まれた。ジョッシュにだ。ひきつった顔でバランスを崩す少年に。
こぼれた落ちた瓦が、屋根に弾かれ、一足先に地上へと消えていく。はしごがゆっくりと後ろに倒れていく。
それを気にする暇もない。腕にかかる急激な重みに引っぱられ、抵抗むなしく、あっという間にモードはジョッシュもろとも屋根の外へと躍り出る。
重力が体を支配する。
ルシアの悲鳴が聞こえた。
まずい、とモードは思った。自分はともかく、ジョッシュは地面に叩きつけられれば、無事ではすまない。離れそうになる少年の手を掴みなおす。
考えるより先に、体が動いていた。
上方へと流れていく景色。屋根の縁。手を掛ける。瓦が浮く。ガコッという音と共に瓦が外れ、再び落下。
石造りの壁。手を伸ばす。窓の上枠。もう少し。開いた窓の桟の手前に、なんとか手がひっかかった。
二階の大きな窓である。壁よりわずかに張り出している。
モードはもう片方の手に掴んでいるジョッシュを振り子のように揺らし、伝わる衝撃を殺した。少年の肩がはずれないように。
自分の肩にはずしっと二人分の重みがかかってくるが、まぁ大した負荷ではない。
とりあえず、落下を食い止めることはできたようで、ひと安心、と力を抜く。
助かったのは、窓が頑丈な石で縁取られた張り出し窓だったからだ。
これも女神のご加護、などと素直に思えないのは、彼女の気性を身を持って知っているからだろうか。
それに、まだ完全に助かったとはいえなかった。揺らした体が落ち着いた後、モードはさてこれからどうするかと、改めて思った。
しかし、ほどなくしてモードとジョッシュの横に、はしごが渡された。
「ジョッシュ! モードさん! これを伝って降りて!」
ルシアの声が聞こえる。どうやら倒れてしまったはしごを戻してくれたようだ。ルシアの悲鳴に駆けつけてきたらしいローザとピーターも、一緒にはしごを支えている。
「助かりました〜ルシアさん」
ここで手を振ろうとして落ちたら間抜けだろうなとは、さすがのモードにもわかった。
* * * * * *
「ジョッシュ!」
地上に無事降り立ったジョッシュに、ルシアが勢いよく抱きつく。
目に涙をため、ジョッシュが折れそうなほどに強く強く抱き締める姿は、母親そのものである。
血はつながっていなくとも、やはりルシアは母親なのだ。
「良かった……無事で良かった……」
ジョッシュは複雑そうな顔をしている。ルシアの感情をどう受け止めればいいかわからないといった様子だ。
続いて地上に降り立ったモードは、両手を広げ、二人に駆け寄った。
「ルシアさ〜〜ん! 僕も〜〜!」
ジョッシュごと包み込むように抱きつこうとするモードを押し返したのはローザの太い腕だった。
「代わりに私が抱き締めてやろうかい?」
「えっ」
モードのふたまわりはある腰がルシアの前にでんっと据えられる。
モードは顔をひきつらせた。
折れそうなほどに強く抱き締められるというよりは、確実にへし折られるだろう。
「まぁ、でも良くやったよ。あんたも無事で何よりだった」
とか思っていると、にっとローザの顔が笑った。つられてへらっとモードも頬を緩めた。
「ありがとうございます、モードさん。ジョッシュを助けてくださって」
涙に濡れた瞳を上げ、ルシアも感謝の言葉をかけてくる。
心底感謝してくれている様子である。潤んだ目は艶っぽい。今なら抱きつくことくらい許してくれるだろうにと、モードはがっかりな気持ちを押し込めながら、にこっとルシアに笑い返した。
それから異常事態に気づき、やってきた子供たちに囲まれ、しばらくモードとジョッシュは抱きつかれたり背中を叩かれたりともみくちゃにされるのに耐えねばねらなかった。
ローザははしごの具合を確かめなおしている。ルシアとピーターは割れた瓦を片付けている。
その辺りの地面に散らばっている細かい破片や紅い花びらなど、無造作に踏みつけ、三人は事故の前の状態にせっせと戻していく。
モードはちらりとその様子を横目に窺った。
「モードさん」
横から声をかけてきたのは、表情を固くしたジョッシュだった。
「さっきはその……咄嗟で……」
目がちらちらと泳ぐ。うまく言えないようだった。
「ああ、わかってますよ〜。あの場合は仕方ないですね」
軽く返すと、ジョッシュは納得しきれていない顔で固く唇を結んだ。
「なぁ、なんで足を滑らせたんだよ」
子供の一人がジョッシュに質問してくる。
「あれは……滑ったっていうか……」
戸惑いが瞳に浮かぶ。
「何かに足を引っぱられたんだ」
なるほど、とモードは口の中で呟いた。
「はしごの上で? そんなことあるわけないだろ」
「いい加減なこと言うなよジョッシュ」
子供たちは途端にジョッシュを非難し始める。ジョッシュはムッと眉をひそめた。
「嘘じゃない。確かに、何かに足を掴まれたんだ」
「幽霊でもいたってのかよ。こんな真昼間だぜ?」
「ドジるくらい、誰でもやるんだから素直に認めろよ」
「嘘じゃないって言ってるだろ! それに、俺ははしごを蹴ってなんかない。ひとりでに倒れたんだ。……信じられないだろうけどさ」
口々に責め立てる子供たちを押しのけ、苛立ちを言葉の端に滲ませたジョッシュは、逃げるようにその場を駆け出した。
「嘘つきジョッシュ!」
「ちゃんとおじさんに謝れよ!」
「だからおじさんじゃないですってば!」
モードにはそっちの方が気になった。
去っていくジョッシュの後ろ姿をじっと見つめる。
少年らしい短めのズボンは、膝下で丈が切れている。顕になったくるぶしは日に焼け、小麦色のつやを放っている。
そのくるぶしの少し上あたり。何かに巻きつかれたような赤い痕があるのを、モードは何も言わず、しっかりと目に焼き付けた。