第四話
モードが邸に居候するようになってから数日が過ぎた。
ルシアは少し困っていた。当然のような顔をして我が家に居座る青年の図々しさというか、恐らく何も考えていないのだろう脳天気さに。
カーマイヤー家の使用人はローザの他にも数人いる。全員女性だが、モードを雇うほどの人手不足は感じていないのだ。
モードは一人前の男性である。町に行けば、働き口などいくらでも見つかるだろう。
なのに、それとなくそう指摘しても、モードは動こうとしない。
まともに畑ひとつ耕せない軟弱な体には、村よりも町暮らしの方が性に合っているだろうに。
のんびりと行く先を考えたい、などと言うのだ。人の家に厄介になっている身を申し訳ないとは、露とも思わないらしいへらへら顔で。
さすがのルシアも呆れるしかない。
困ったことは、もうひとつ。
男はみんな狼。ローザの言葉ほどの危険性は感じないが。隙あらば、ルシアを口説こうとするその性癖には、呆れを通り越して感心すら覚える。
どれだけピシャリと冷たくあしらっても、いっかなへこたれないのだ。
しつこくしつこく纏わりついてくる。
今ではもう、ルシアも遠慮なく平手打ちで意思を伝えるようになっていた。
夫以外の男性に心を寄せるつもりは、髪の毛の先ほどもないのだ。
そんなわけで、そろそろモードにはきっぱりここを出て行ってもらおうかなどと考え始めていた矢先のことである。
「そろそろ屋根の修理をしないといけませんねえ、ルシア様」
ローザが、雨漏りしている部屋の天井を見上げながら言った。外は朝から土砂降りである。
ルシアは頷いた。天井の染みは数ヶ月前からぽつぽつと水滴を落とすようになり、徐々に水量が増してきている。同じように雨漏りしている場所はこの他にも数箇所あって、どれも一晩でたらいを一杯にしてしまう。
確かに、そろそろ屋根の葺き替えの時期なのだろう。
「町に行って、大工さんにお願いしてくるわ」
雨漏り用のたらいを取り替えながらルシアは言った。
すると、何故か楽しそうな声でローザが返す。
「あら、わざわざ大工を雇うまでもないんじゃないですか?」
「え?」
「ちょうどいい男手がいるじゃありませんか。あのタダ飯食らいに働いてもらいましょう」
にやりと笑って言うローザの言葉に、そのタダ飯食らいがあわあわとうろたえる姿が目に浮かぶようで、ルシアはさすがに少しだけ同情した。
* * * * * *
「うわぁ〜。高そうですねぇ〜」
ほぼ垂直に屋根を見上げながら、タダ飯食らい、もといモードが感嘆の声をあげた。
「本当に大丈夫ですか? こんな危ない仕事」
ルシアもつられて屋根を見上げているうちに、段々と心配になってきて言った。
自分から頼んでおいてなんだが、この青年のいかにも頼りなさげな様子では、見守るこちらの寿命が縮んでしまいそうな気がする。
意外とあっさり屋根の修理を引き受けたモードは、すっきりと晴れ上がった翌日、早速作業に取り掛かろうと張り切り、邸の裏手で準備を始めた。
「こう見えて僕は勇気のある男なんですよ。ルシアさん、しっかりと僕の仕事ぶりを見ていてくださいね」
ウィンク交じりのポーズをきめ、やる気満々の様子でモードははしごを組み立てる作業にとりかかった。ルシアは返すべき言葉が見つからなかった。
一度、痛い目を見ないとわからない類の人種なのかもしれない。
はしごは、モードとジョッシュとピーターにより、みるみる組みあがっていった。
珍しいことに、今日はジョッシュが精力的に働いている。
最近、何かと反抗的なジョッシュは、畑仕事も他の子供たちとは離れ、一人で行うことが多かった。
このまま孤立してしまうのではと心配していたルシアは、ジョッシュのわずかな心境の変化を嬉しく思っていた。
みんなで楽しく仕事をしていれば、ふさいでいた気持ちも徐々に癒されてくるはずである。
かつての自分がそうだったように。
「じゃあ行きますよ〜」
モードの掛け声により、出来上がったはしごがピーター、ジョッシュ、ルシア、ローザの手伝いもあって、ゆっくりと頭を持ち上げる。
ただならぬ長さのためか、思っていた以上に重い。慎重に起こしながら位置を調整し、なんとか邸の外壁に立てかけた。
「やったー!」
ピーターが歓声をあげる。はしごは、見事に屋根の上にまで到達していた。
「すっげー」
「面白そう〜」
「はいはい、ちょっとどいててくださ〜い」
興味津々な様子ではしごをつつく子供たちを手で下がらせ、早速モードがはしごを数段のぼり、具合を確かめる。
「大丈夫そうですね〜。頑丈にできてます」
それを聞いて子供たちの目が燦然と輝いた。
「俺ものぼりたい!」
「僕も〜僕も〜!」
「ダニアン! お前はダメに決まってるだろ!」
押しあいへしあい、我先にとはしごに群がりだす。
まだちゃんと足を固定していないはしごがわずかに振動し、モードの顔が青くなった。
「ちょっ、あの、あんまり揺らさないでください!」
さすがに必死な声である。ルシアは子供たちを止めようと口を開いたが、一足先にローザの怒声が響いた。
「何やってんだい! 全員ダメに決まってんだろう! ほらほら、野次馬してないで、手の空いてる子は畑仕事に行ってきな!」
それで子供たちの争いはピタリとおさまる。
ローザの一喝ほど効果的なものはない。ルシアはホッと息をついた。
子供たちが渋々散っていくと、その場に残ったのはルシアとローザとピーターとジョッシュの四人だけとなった。ちょっと少ないだろうか。
いや、四人の頭の上、2メートルにも満たない高さで震えているモードを合わせれば五人である。
モードは真っ青な顔でブルブルとはしごにしがみついていた。
「こ、怖かった……」
その場にいる全員が、『こいつで大丈夫かな』と心中不安に思ったことは、互いに知る由もない。
* * * * * *
その後、なんとか気を取り直してはしごをのぼりきったモードは、裏山の登頂を果たしたちびっこの如くのはしゃぎようで、屋根の上から手を振った。
「ルシアさ〜〜ん、見てますか〜〜?」
ルシアは苦笑気味に小さく手を振り返した。
はしゃぎすぎて足を滑らせやしないか、見ているだけで冷や冷やする。
「ルシア様。納屋にはこれだけしかなかったですよ」
数枚のスレート瓦をはしごの下に置き、ローザが困った顔でルシアに言う。
「多分、子供部屋の隣の物置部屋に、もっとあったと思うわ」
ルシアが言うと、ローザは「ああ、そういえば」と顔を輝かせ、ピーターを呼んだ。
「瓦を運ぶのを手伝ってくれるかい、ピーター」
「うん、わかった」
二人が去っていくと、モードが屋根の上から大声をだす。
「とりあえず、その分だけでもやっちゃいましょ〜。ジョッシュく〜ん、持って来てくださ〜い」
「……え? 俺が?」
「君しかいないでしょ〜?」
ジョッシュの声は普通の大きさだったのだが、モードには聞こえたらしい。早く来いと手招きをする。
スカートのルシアでは、確かにはしごをのぼるのは無理がある。
仕方ないな、といった様子でため息をつき、ジョッシュは麻のショルダーバッグに瓦をつめ、肩にかけた。
「気をつけてね、ジョッシュ」
体格はもう大人に近いが、ルシアにとってはジョッシュはまだまだ子供である。やはり少し不安に思ってしまう。
「このくらい平気だよ」
ジョッシュはルシアに顔も向けず、はしごに手をかけた。
強がりで言っているわけではないだろう。ジョッシュは昔から賢いわりに大胆なことを平気でやる少年だった。
ルシアがハラハラと見守る前で、事もなげにはしごをのぼっていく。
あっという間に屋根に到達し、バッグから瓦を取り出すジョッシュ。
ルシアははしごの下からその様子を見上げていた。
あんな高いところから落ちたら、怪我だけでは済まないだろうに。もっと慎重になって欲しいと思う。
愛する我が子を不安な気持ちで見守るのは、いつになっても慣れない。怖くて怖くてたまらない。
もしもジョッシュが怪我をしたら。もしも……いや、考えてはいけない。胸の奥のもやもやからルシアは目を逸らす。
そんなこと、考えてはいけない。
頭上に輝く太陽が、燦々とした光を送ってくる。
今日の空はぬけるように青い。日の光を遠慮なく伝えてくる色だ。太陽を直視しないようわずかに視界から外すが、それでも眩しくて仕方ない。
不意に、目がくらんだ。
視界が白に染まり、頭の中が霞んでくる。
ルシアは、自分が真っ白な空に溶け込んでいくように感じた。
しかし、瞼を閉じると、白の世界は紅に変わる。頭がくらくらした。
その時、よろめくルシアの意識をはっきりとさせたのは、ガシャンッという突き抜けるようにけたたましい音だった。
ハッと目を開くと、ほんの数十センチ目の前に、粉々に砕けたスレート瓦がある。
続けて、何かがゆっくりと裏庭の向こうにまで倒れていくのが視界に入った。
それは荒々しい音と共に、重い地響きを生じさせる。
はしご。
足場のはしごが、沈んだのである。先ほどまでジョッシュがのっていたはずのはしごが。
ルシアは心臓をわしづかみにされたかのように、声を失い、血の気の引いた顔を空に向けた。
そこには、屋根の上から身を躍らせ、今しも落ちようとしているジョッシュとモードの姿があった。
今度こそ、ルシアは悲鳴をあげた。