第二話
照りつける陽射しの暖かさが、春を飛び越えようとしている。
ルシアは背筋を伸ばし、手の甲で額の汗を拭った。
足元には整然と並ぶ濃い緑の葉が、十分な栄養状態を物語っている。大きく茂った葉をかきわけ、雑草を見つけては引っこ抜く作業も、既に重労働だ。虫食いに目を光らせる作業も。
ふたつ向こうの畑を見やると、そちらは可愛らしいピンクと白の花が咲き乱れ、目に優しい休息を与えてくれる。
こちらはまだ開花の時期ではない。緑一色の景色に埋もれての作業は少し味気ない。
しかし、ところどころに、気の早い葉が蕾をつけ始め、それを見つける度に楽しい気持ちになれる。ルシアは農作業が嫌いではなかった。
「母さん。あっちの水遣り終わったよ〜」
桶を手にした子供たちがやってくる。畑の外の芝生を踏みしめ、畑を囲う柵の手前で止まる。ここは邸にもっとも近い畑なのだ。
ルシアは少し考え、次にやるべき作業を指示した。
牛の乳搾りは、小さい子供にはできない。他の畑の水遣りにまわしたほうがいいだろう。
「僕も乳搾りしたい〜」
水遣りを分担されたダニアンが早速不平を洩らす。そろそろ一人前の顔をしたい年頃か。
ルシアはくすりと笑った。
「そうね。午後、時間の空いている時に、一緒に練習しましょうか?」
「本当!? わぁ〜い、やったー!」
無邪気に飛び跳ねるダニアンをいとおしげに見つめる。栗色のくせっ毛がふわふわと跳ねる様子が可愛らしい。
末っ子じみているからか、ルシアはダニアンを一番可愛く思っていた。子供らしい純粋さに溢れている。
見ていると、自然と笑みが浮かんでくる。
ふと、その髪の色が、栗色ではなく金色に映った。
陽の光を弾き、きらきらと輝く滑らかな金髪。顔立ちも、ダニアンのふっくらした頬より、幾分痩せこけた少年のそれに変わっていく。
一瞬、ルシアの胸に熱いものがこみあげた。
しかし、すぐに目を閉じ、幻影を振り払うように頭を振った。
そして、次に目を開いたとき、そこにいたのは栗色の髪の、きょとんとこちらを窺う少年――そう、やはりダニアンに戻っていた。
「母さん?」
表情を強張らせたルシアを、心配そうに見つめてくる少年。ダニアン。ハッと気づき、ルシアは慌てて笑顔を繕った。
「ごめんなさい。ちょっとぼんやりしちゃって。さぁ、さっさと作業を終わらせましょうか。早くしないとお昼になっちゃうわね」
安心させるように、ことさらに明るく振舞う。感傷的になってはいけない。子供たちに心配をかけてしまう。
ルシアは畑を囲う柵を出て、子供たちの傍に寄った。雑草を入れた手籠を地面に置く。
「僕も何かお手伝いしましょうか〜?」
その時、邸の方からモードがやってきた。外出するわけでもないのに、まだ杖をついている。
昨日、結局昼食後も居ついたこの青年は、ちゃっかり夕食もいただき、子供たちの寝室に泊まった。
いつまで居る気だろうかと漠然と思ってはいるものの、文無しの彼を追い出すのも気が引けて、好きにさせていたのだが。
「そうね。少し働いてもらいましょうか」
ルシアはこの青年に労働で返してもらうことにした。
「水遣りでも乳搾りでも何でもやりますよ〜。じゃがいもですかこれ?」
モードがルシアの背後の畑を指差して訊く。
「いいえ。じゃがいもの畑はあっちです。この辺は花ですよ」
「花……ああ、染料や薬に使うやつですね〜。あっちに咲いてる花もそうですか?」
今度はピンクと白の花畑を指差して訊いてくる。さすがに行商人。商品になる物には目ざといらしい。
「あれは……いいえ、あれはそのまま生け花として使うやつです。町の花屋さんが仕入れてくれるんですよ」
「へぇ〜色んな花を育ててるんですね〜。だからここは花の香りでいっぱいなんだ」
感心したようにぐるりと周囲を見渡すモード。
邸は丘の上にあるので、裾へと広がる畑が一望できる。邸の裏手には、未開発の森。奥に入ると意外と深い。それもカーマイヤー家の私有地である。
カーマイヤー家の敷地はかなり広いのだ。
「なるほど〜。私的な孤児院なんてどうやって切り盛りしてるのかな〜と思ってましたが、花を栽培して生活費にしてるんですね〜」
「もともとカーマイヤー家はこの辺りの領主でしたから。その財産をもとに始めたんです。この領主館も部屋が余っていたから丁度いいかなと思って」
「身寄りのない子供たちのために自分の家を……な〜んて気高い精神なんでしょ〜。素晴らしいです!」
感嘆の意を示し、モードはルシアに向かって両腕を広げてくる。
ルシアは油断していた。
作物の話に気を取られ、さり気なく近づいてくるモードの接近を許してしまっていた。
ハッと気がついた時には、正面に立ったモードがルシアの両手を包み込むように握っている。
「あなたのような人に会えて幸せです。一目見た時から、いい香りのする素敵な女性だな〜って思ってたんですよ〜。まさに女神様だったわけですね〜!」
「あの、モードさん……手を……」
「運命ってやつでしょうかこれは〜!」
ルシアは頬をひきつらせた。至近距離から覗き込んでくるモードの瞳はきらきらと輝いている。
思わず背を反らすと、追いかけるように身を乗り出してきた。
しかし、危険を感じたちょうどその時、モードの背中に体当たりするものがあった。子供たちだ。
「母さんから離れろこのスケベ親父!」
「どさくさにまぎれてナニ触ってんだよ!」
脇から、背中から、容赦のない蹴りや桶をくらい、たちまちモードは地面に倒れ伏す。
「イタッ! あっ、ちょっ、ごめんなさい! すみませんでした〜〜っ!」
「母さんにはハンス父さんがいるんだからな! 手ぇ出すんじゃねぇぞっ!」
「えっ!? ルシアさん、旦那さんいるんですか!?」
問われてルシアは苦笑気味に「はい」と答えた。子供たちにのしかかられ、モードの顔は半分地面にめりこんでいる。
「えええええっ! それらしき人が見あたらないから絶対未亡人か独身だと……ちょっ! く、くすぐるのはやめてください〜〜っ!」
「父さんは今、種の買い付けに出かけてんだよ! 残念でした〜っ!」
「うはっ! うははははっ! やめっ、い、いつ帰ってくるんですか、旦那さんっ、ちょっ、脇はダメです〜〜っ!」
「もうそろそろ帰ってきてもいい頃なんですけどね。たまに長い間、あちこちを旅してまわるんですよ。商売になりそうな新種の種を探すのと、この子たちの里親探しを兼ねて」
「そうなんですか〜。ううっ、もっと早くに僕がお会いできてたら……」
「できてても母さんがお前なんかになびくわけないだろ!」
「父さんはすっごく優しくてカッコイイんだぞ!」
「カッコイイ!? な、なんか悔しい……。はっ! でも遠くの夫より、近くの頼れる男! ここでビシッと頼りがいのあるところをみせれば、僕にも勝機が……っ!」
なにやら闘志を燃やしているらしいモードが拳を握って立ち上がる。突然、その目の前に、ドスンッ、と大きな桶が置かれた。異臭の放つ泥土状の物質でたっぷりと満たされている。
「じゃあ頼りがいのあるところ、見せてもらいましょうかねぇ」
にやりと笑って言ったのはローザだ。
いつのまにやってきたのか。桶の中に入っているもの――肥料、慣れない者にとっては目にするのすら厳しい黒々としたそれを、これみよがしにモードに突きつけ、すごみのある笑みを浮かべる。
青くなっていくモードの腰を、同情的な眼差しのダニアンが、横からポンポン、と叩いて言った。
「頑張ってねぇ〜おじちゃん」