第一話
そこは、一見してのどかな村だった。
どこまでも広がる緑の畑と、畑のそこかしこに点在する素朴な木造家屋。
あちこちから聞こえてくるのは、牛や羊の断続的な合唱。時々行き交う荷馬車。
目をひくのは、緩やかな丘の上に建つ、一際大きな建物。いわゆる大邸宅。
それすらも豪華絢爛というわけではなく、風景に溶け込む程度のものだった。
頂点にさしかかりかけた太陽の下、その邸の扉が、清楚な声と共に開かれた。
「ちょっとポストを見てくるわね」
出てきたのは、金髪を丁寧に結い上げた、美しい女性。
思春期はとうに越しているだろう落ち着いた風貌ながらも、足取りは軽く、笑顔の明るいその女性は、長いスカートの裾をわずかに持ち上げながら扉の外に一歩出る。
「ルシア様! そのくらい私が行きますよ!」
扉の奥から響く粗野な女性の声に、ルシア=カーマイヤーは、
「いいのよ。ローザは昼食の支度をしてて」
と朗らかに答え、日の光を全身に浴び始める。
そして腰の高さほどの柵の前まで歩を進めたところで、ルシアはふと足を止めた。
誰かが、門の前に座り込んでいる。
いつもルシアの手を焼かせる子供たちではなく、大人の人影。
村の人かしら、とやや慎重に歩み寄り、上から門越しにその人物を覗き込む。
見慣れない男だった。
顔はほりの少ない、地味目な印象。服装は乗馬服のような、旅装のような、紳士的なベストにブーツ。
もとは身なりが良かったのかもしれないが、残念ながら今は全身土に汚れ、見る影もない。
ボサボサの髪をいかにも無造作に縛り、杖代わりか、それにしては柄頭のない、長い木の棒を手に握った青年は、生きているのか死んでいるのか、静かに目を閉じ、門に背をもたせ足をだらんと地面に投げかけている。
「あの……もしもし? 大丈夫ですか?」
ルシアはこわごわと声をかけた。
朝は見なかったから、行き倒れたとしても、まだ息はあるはずだ。
でももし返事がなかったら……と不安に思いつつ、青年の肩にそっと手を置くと。
「と……とうとう……天からのお迎え、ですか〜?」
へなへなとした声が青年の口から漏れ、ルシアはホッと息をついた。
「まだここは天国じゃないですよ。どうされたんですか?」
優しく問いかける。途端、青年の目が勢いよく開き、パッとルシアを仰ぎ見た。
「ホントに? 僕、まだ生きてます? ああでも、やっぱりここは天国じゃ……女神様がいます〜」
「冗談はよしてください。私はルシア=カーマイヤーといいます。あなたのお名前は?」
「僕……モード=ランシックルといいます。……あの、本当にここ、天国じゃないんですね? 実は地獄だぴょ〜ん、なんてオチも嫌ですよ〜」
「違いますってば。安心してください。それで、ランシックルさん、何故あなたはそこに……」
ぐ〜〜〜きゅるるるるっ
ルシアの言葉は、モード=ランシックルなる青年の腹の虫に遮られた。
それはもう豪快に。言葉よりも明確に。青年の要求を告げていた。
「あの……えっと、つまりはそういうわけでして。よければどうかお恵みを〜」
* * * * * *
「うわぁぁぁっ! こ、このスープ美味しいですよっ! このパンも……んぐっ、んぐっ、ぷはぁ〜〜っ! ううっ、ふかふかのパンなんて、食べたの何日ぶりでしょ〜〜っ」
テーブルに並べられた皿が次々と空になっていく。
ルシアは使用人のローザと共に、忙しく皿を運ぶなどして立ち回った。
もっとも、それはモード=ランシックルと名乗る青年のためだけではなく、食堂に集まった子供たちのためでもあるのだが。
「おじさん、間抜けだね〜」
「おじ……っ、誰がおじさんですかっ! 相手は五人もいたんですよ? 敵うわけないでしょ〜」
「その山道、よく狙われんだよ、盗賊に。町でちゃんと情報収集しとかなきゃダメだろ?」
「だって急いでたんですよ〜」
「商人のくせに無用心だね〜おじさん」
「だから誰がおじさんですかっ! どっからどう見ても”お兄さん”でしょっ!?」
青年と子供たちはすっかり打ち解けたようだ。最初はわらわらと集まってきた十人以上の子供たちを目にして仰天していた青年だったが、ここは孤児院だと教えると、なるほどと納得して子供たちの質問に答えていった。
それによると、モードはしがない行商人で、旅の途中、盗賊に襲われ、商品の積荷も、馬車も、所持金も、全て奪われ、文無し状態で山を越えて来たのだとか。
山の向こうからも覗くこの邸を見て、とにかくあそこに行けば何か恵んでもらえるかもと、這這の体で一路ここ目指してやって来た。涙ながらにそう訴えられれば、無下に追い返すわけにもいかない。仕方なく、食事を恵んであげている次第なのだった。
「いやぁ〜。しかし、こんなところに孤児院があるなんて思いませんでした。本当に助かりました〜」
邪気のなさそうな顔で青年はルシアを振り返る。
邪気のなさそうというか、どことなく抜けていそうというか。
とりあえず害はなさそうで、ルシアは安心してパンを切り分ける手を動かした。
「ゆっとくけどね、あんた。ここは孤児院といっても、このカーマイヤーさんが私的にやってるところなんだ。慈善院じゃないんだから、施してもらえるのが当然だと思うんじゃないよ」
ローザはまだ渋っているらしい。厳しい目を青年に向ける。
それも仕方のないことで、今現在、この邸には女子供しかいないのだ。
とはいえ、ひょろっとしたこの青年なら、がっしりしたローザが延べ棒一本振り回せば、簡単にノックアウトできてしまいそうな気もする。
「まぁまぁ、ローザ。いいんですよ、ランシックルさん。困った時はお互い様ですから」
ルシアは切り分けたばかりのパンを青年の皿に置き、柔らかに微笑みかけた。
「おおお、なんてお優しい……。やっぱり僕がここを目指したのも、神様のお導きあってのことだったんですね〜。愛の女神よ、感謝します。あ、ちなみに僕のことは”モード”でいいですから〜」
「ルシア様の優しさにつけこむんじゃないよ! ルシア様、気をつけるんですよ。男はみんな狼ですからね!」
間髪入れず、手にした盆でモードの頭を叩くローザ。「いたっ」と顔をしかめるモードに、ルシアは思わず噴き出した。
「狼〜? おじちゃん、狼さんなのぉ?」
舌足らずな口調でダニアンがモードの服を引っぱった。
ダニアンはこの孤児院で最年少の五歳だ。まだはきはきとは喋れない。
「おじちゃんでも狼でもないですよ〜。僕はこう見えて紳士です。女性には優しく、時には情熱的に」
「要するに女好きってことだろ?」
「ルシア母さんに何かしたらただじゃおかないぞ、おまえ!」
途端に子供たちがモードに群がりだす。髪の毛を引っぱるやら、背中を叩くやら。みんな母親代わりのルシアを守ろうとしてくれている。それは微笑ましかったが、「すっ、すみませんっ! ウソです! 冗談です〜っ」と諸手をあげて降参するモードの半泣き顔に、ルシアは子供たちを止めざるをえなかった。
「こらこら、そのくらいにしなさい。ほら、みんなもご飯にしましょう?」
その言葉に、早速喜びの声をあげ、子供たちは各々の席につき始める。
ダニアンはモードが気に入ったらしく、嬉しげに隣の席を陣取った。
十人以上の子供たちと数人の大人たちが、一度に集まる食堂である。広さはちょっとした集会所に匹敵する。
大きなテーブルをいくつもくっつけてひとつにした食卓。着席して食事する子供たちは、およそ静かに食べるということがない。いつも手のつけられない賑やかさだ。
「あっ! それ、俺のパンだぞリック!」
「へへぇ〜ん。ぼやぼやしてる方が悪いんだよ!」
「もぉ〜。そんなにスープを飛ばさないでよ。食べ方が汚いわよ!」
「いちいちうるさいなぁライラは」
「ダニアン。もっとイモ食べるか?」
「あ〜っ。またダニアンに嫌いなモノ押し付けてる。自分で食べろよピーター!」
「うわぁ〜。これが大家族ってやつですか〜。なんていうか圧巻です」
「騒々しくてごめんなさい、モードさん。お腹はもう満足されました?」
ルシアは自分の皿を手に、呆然と呟くモードの隣――ダニアンとは反対側の席に座った。
「そりゃも〜大満足ですよ! ホントに助かりました〜」
即座に嬉しそうな顔を向けてくるモードは、確かに門の前で倒れていた時より、血色のよさそうな顔色になっている。
近くでよく見ると、わりと整った顔立ちをしていることがわかった。印象的な深緑色の瞳。ボサボサの髪もいまだ汚れてはいるが、洗えば光沢のある上品な麻色になるかと思われた。
着ている服の質も悪くなさそうだし、そこそこ羽振りのいい商人だったのではないだろうか。
いや、商人というよりは、世間知らずのお坊ちゃんという感じだ。
どこの出身なのだろう。尋ねてみようかとルシアは思った。
が、その時、食堂の入り口に現れた少年を見て、疑問は頭の隅に追いやられた。
「ジョッシュ!」
一瞬にして場の喧騒はおさまり、全員の視線がその少年に集まる。
鋭い眼差しの少年だった。
歳は十二。年齢のわりには高い身長。シャープな印象を与える黒髪。頬の辺りに少年らしさがわずかに残るが、最年長のピーターより大人びた雰囲気を持つ少年である。
「どこに行ってたのジョッシュ。ちゃんとみんなと一緒に食事を摂らないと駄目よ」
「気分が悪くて……」
たしなめるルシアにどこか素っ気無い口調で返し、少年――ジョッシュは空いている席についた。
それからふと顔を上げ、ルシアの隣に座る青年の存在に気付く。
「……誰?」
「あ、僕、モード=ランシックルといいます〜。しがない文無しの行商人、てゆーか元・行商人になるんですかねこれは? あははは、つまりは現・乞食でして、皆様から温かいお恵みをいただいてるところです〜」
へらへらと笑いながら。モードが挨拶をする。
「乞食って……そんなに軽く言い切っていいの?」
少し面食らった表情で、ジョッシュはモードを見返す。
「軽く言っても重く言っても、事態は変わりませんからね〜」
「そう……。ま、いいけど」
その一言だけで片付けて、ジョッシュは訝しげな視線をモードから外した。
短いお祈りを口にした後、黙々と料理を食べ始める。既にモードへの興味は失せてしまったようだ。
ダニアンの隣に座るピーターが、モードの方に身を乗り出し、そっと耳打ちをした。
「ジョッシュは今、ちょっとふさいでるんだ。なんか失礼なことしても、許してあげてくれる?」
「あーはいはい。了解です。僕の心は広いですからね。気にしませんよ〜」
確かに、少々のことではへこたれない図太さを持っているように見える。
「自分の行く末はもうちょっと気にした方がいいと思うけど」
「あははは。まぁ生きてりゃなんとかなりますよ〜」
呆れ気味のピーターに、どこまでも緊張感のない返事をする。死にそうな目に遭っていながら、その余裕はどこからくるのか。ルシアも呆れずにはいられなかったが、今はそれよりもジョッシュのことが気にかかる。
ルシアは心配そうにジョッシュを見つめた。
気分が悪かった、と言っていたが、二階の共同の寝室に彼がいなかったのは知っている。一度様子を見に行ったからだ。
いつも暗い顔をして、人と目を合わせようとしない。家族との間に見えない壁を作っている。
以前は普通の子供だったのに。最近の彼は、本当におかしい。
一体、どうしてしまったのだろうか。