彼女はショット・トゥ・キル(後)
見慣れた風景の中、晃介は車を飛ばす。つい昨日も同じ道を走ったのに、何故か懐かしく感じた。
輝美子は、ちゃんとコンビニに行ってくれただろうか。間違っても、大家さんに挨拶なんてしてくれていないことを祈る。
減速して十字路を右に曲がれば、コンビニの看板が目に入った。
駐車場に車を停めた晃介は、車内から店の中を覗く。
「……」
いた。雑誌を立ち読みしている。
晃介はどっと息を吐いた。無事で何よりだ。
本当に良かった。
輝美子が顔を上げた。目があったので、晃介は手を振る。喜色満面の輝美子も手を振り返して、雑誌を持ってレジに向かっていく。
雑誌はお買い上げしたようで、ビニール袋を抱いた輝美子が店から出て車に駆け寄ってきた。
ドアを開けて、輝美子は「久しぶりー元気ー?」と女子みたいな問いをかける。女子といえば女子ではあるが。あまり女子女子しないで欲しいというのが正直な息子心である。
だが、見た目だけなら輝美子は若かった。女子と呼べるか晃介には疑問だったが、三十代、たまに二十代に見られる外見をしている。童顔というわけではなく、若づくりなのだ。
「いてっ」
いい笑顔で頭を小突かれた。恐るべし、お母さんの勘。
「久しぶり、母さん」
「うん。お兄ちゃん、やっぱりお疲れ様なんじゃなぁい?」
「ちょっと仕事がね、繁忙期で。智晶は元気?」
「ええ、元気よー。あの子もお兄ちゃんに会いたがっていたわねえ」
智晶というのは、二番目の父親と三番目の母親との間にできた女の子だ。血の繋がりは無いが、晃介の可愛い妹である。
輝美子は、他人の子供を二人も育て上げてくれた。
感謝してもしきれない。
「それで、お兄ちゃんの家ってどこー?」
「お腹空かない?」
「そうねぇ、さっきご飯は食べたから……」
「僕、お昼まだなんだよね。どっかで食べていい?」
「コンビニでお弁当でも買っていく?」
「折角だし、どこかファミレスに行こうよ。ゆっくり話したいし」
「……」
輝美子は、晃介の言動を訝しんでいる様子だった。晃介は、輝美子の前で隠し事をするのは苦手だ。
多分、輝美子は晃介が何かしらを隠していることに気がついている。
「……じゃあ、どこに行こっか」
気づいているからこそ、輝美子は深く追及しない。微笑んで、見逃してくれる。
晃介は、輝美子のそういうところが昔から好きだ。
「勤め先の近くにあるファミレスでいい?」
「おーるくりあー」
「なにそれ」
「オーケーってこと」
「まあ、わかるけどさ」
というわけで、晃介は再びファミリーレストランに戻ることになるのだった。
――――――――――
「あら、また会ったわね」
白い女は、まるで以前も会ったことがあるかのように話しかけてきた。
当然、首を傾げる晃介。
「なにやら、お困りのようね」
「まあね」
「そうね、貴方は悩むべきだわ。あの子も言っていたことだけれど、貴方って鈍感なのよね」
「そうかな。直感には自信があるんだけど」
「その直感に対してひどく愚鈍なのよね。危機感が足りていないのよ」
「そう?」
「今だって……いえ、いいわ。貴方がそんな人だから、私はこうして気兼ねなくお喋りできているんだもの。感謝しているわ」
「そんな人って、どんな人さ」
「そうねえ……」
「……」
「天然、ね」
「……またかあ」
「天然の、先天的な、人でなし」
「…………」
隣に座った女は、晃介の肩に垂れかかった。
女の声が、いやに響く。まるで、虫が這っているように、気持ち悪いのにくすぐったい。
「あの子も、そう言いたかったのよ?」
「……」
「あの子は、貴方を信用しているけれど、信頼していない。何故かわかるわよね」
「……わからない」
「嘘つき」
女は嘲笑った。
「貴方、あの子が可哀想って言ったわよね」
「……」
「客観的に考えて、そう思うのよね?」
「……」
「自分自身では、あの子のことなんてなんとも思っていないのよ。徹底的な無関心」
「……そんなこと」
「無いって言い切れる?」
「……」
「……」
わからない。
「僕には、わからない」
「……」
「でも、君が僕をそう思っているんなら、君にとっての僕はきっとそれなんだ」
「……貴方って」
何も考えていないのね。
「……」
「まあ、いいわ。そういうところも含めて」
「……」
「好きよ、晃介」
女が耳元で囁く。
ぐわりと、頭が揺れる。まるで、徹夜明けや貧血を起こした時のように、世界が回る。
立ち上がる白い格好をした女。このままでは、女が去ってしまう。
「待って……」
結局、君は誰なんだ?
女が振り返った。素直な笑顔で、魅力的に。
「私は、しがない売人よ」
そして、女は消える。
晃介だけが、残った。
「お兄ちゃん、ちゃんと話聞いてる?」
「…………え?」
「ちょっとぉ」
「あ、ごめんごめん」
晃介はシートベルトを外して、エンジンの止まっている車を降りた。
輝美子も降りたのを確認し、車の鍵を閉める。
広い駐車場だった。それに、いやに既視感があった。なんだか、慣れているというか。
入居者募集の看板が、晃介の目に入る。
「……あれ?」
ここは、昨日から晃介が住むことになったマンションではないか。
おかしい、自分たちはファミリーレストランに向かっており、こちらとは逆方向に進んでいたはずだ。それなのに、どうして晃介はここに立っている。
日差しが強い。じりじりと、晃介の露出している部分の皮膚を痛めつけている。それなのに、背筋を伝う汗は冷たかった。
「……大丈夫なの、お兄ちゃん。ファミレスでも様子がおかしかったし」
「え?」
「何も注文しないし、喋らないし」
「……」
そう言われてみれば、自分はちゃんとファミリーレストランに到着していたような気がする。
だが、晃介は少し腑に落ちなかった。自分も、少しは喋っていたと思うのだが。
しかし、会話の内容は、まったく覚えていない。
「ここに住んでるのねぇ」
「うん、まあ」
「すごぉい。さっすが国家公務員!」
「あはは……」
笑顔で場を繋ぎつつ、腕時計を確認する。コンビニに着いた時点から、二時間経っていた。
なら、良いか。
晃介は、考えることを止めた。これ以上考えたところで不毛だし、どうせ疲れがたまって記憶が飛んだのだろう。
そうして、晃介は悩まなかった。
なんとも、愚鈍なことに。
――――――――――
指紋認証に興奮してご機嫌な輝美子を連れて、晃介は自室の鍵を開けようとした。しかし、その必要は無かったらしい。
ドアノブを引っ張る。鍵は開いていた。
「おかえりなさい、晃介お兄ちゃん」
「……彼方、ちゃん」
「あら、晃介。可愛らしい子ねえ」
玄関に、彼方が立っている。ランドセルは背負っていないようだ。しかし、それでも彼方の見た目は小学生。あらぬ誤解を受けても仕方ないだろう。
いや、そうじゃない。問題はそこではないのだ。
何故、彼方がいるのだ。話が違う。
「こんにちは。えっと、彼方ちゃん?」
「はじめまして、彼方です。今は事情があって、お兄ちゃんに保護してもらっています」
「……そう、それでかあ」
どうやら輝美子は、それが晃介の疲労の原因だと思ったらしい。だが、間違いではない。
彼方は、輝美子の手を握った。そして、部屋の中に招き入れる。
「彼方が案内しますね。お兄ちゃんはお茶の用意でもしてください」
「あらあら」
「ちょっ……はあ」
彼方は、いつも通りに見える。
だからこそ、晃介は心配だった。なんだか、嫌な予感がするのだ。
リビングに向かうと、輝美子はソファーに座っていた。明らかな来客なのに、お茶を汲む気にはなれない。
「母さん、今からでも」
「ねえ、お兄ちゃん」
帰りなよ。そう言おうとした晃介の言葉を遮って、輝美子は笑った。その笑顔は儚げで。
ぞわりと、悪寒が走る。晃介はベランダに目をやった。
「お待たせしました」
ベランダに出ていたらしい彼方は、部屋に入ってきた。耳にイヤープロテクターを、右手にはリボルバーを携えて。
おかしい、この展開は、おかしい。
晃介の存在に気がついた彼方は、困ったように眉をひそめた。
「お兄ちゃん、お茶を入れてきてください」
「……」
「言い換えたほうが良いですか。お兄ちゃん、どっか行ってください、邪魔ですよ」
「彼方ちゃん……なんで」
「なんで?」
彼方は、首を傾げる。心底理解できないというように。
そして、彼方は己の鼻を指差した。
「匂うじゃないですか、それ」
「え?」
「ああ、そうですね。親しい間柄なら、ニオイなんて気にならなくなっちゃいますよね」
「なにが、言いたいの?」
「わかっているくせに」
「……」
「そうやって、無知なフリをして、彼方に責任を押しつける」
「彼方、ちゃ」
「この、偽善者」
その言葉は、晃介の胸を穿ち、脳を乱雑にかき混ぜた。
それは、彼女の発言に傷ついたからではない。
焦りだった。動揺と呼んでもいいだろう。変に吐き気がする。まるで身に覚えが無いはずなのに。
そう、晃介は偽善者などではない。人でなしなんかじゃあないのだ。
だって、みんな、こんなものだろう?
「わからないよ」
「いや、そういうのいいんで。ちゃんと、頭を働かせてください」
「……」
「……もう、いいです。殺しますね」
「ま、待って!」
「……」
「理由も無く殺すなんて、僕は」
「だから、お兄ちゃん。彼方が、理由無しで殺したことがありますか。無いでしょう、みんな共通する理由があったでしょう」
「そ……れは」
ここで思い出したのは、砂奈子のことだった。
入院中、晃介は砂奈子の世話になることが多かった。好意を抱かれていたのだと思う。
晃介も、少なからず砂奈子に好感を持っていた。
似ていたのだ。
ニオイが、輝美子のそれと、似ていたのだ。
「母さん、が」
「こうちゃん」
輝美子は、銃を向けられているのに、ソファーから微動だにしない。
まるで、逃げる気などなく、これから起こるであろうことを受け入れていた。
「ごめんねえ、こうちゃん。お母さんね、黙っていたことがあるの」
「や……」
「きっと、これは罰なのね。お母さんが、お母さんになりきれなかった、罰」
「ちがう、かあさんは」
「彼方ちゃん、少し時間をちょうだい。こうちゃんの前じゃ、ちょっと嫌なの」
「なにを」
「でも、これだけは言わせて」
「……」
「あのね、こうちゃん。お母さんね」
「いうな」
「こうちゃんのこと、大好きよ」
食べちゃいたいくらい、大好きなの。
そうして、輝美子は涙しながら笑った。思えば、初めて見る母の涙だった。
「……彼方ちゃん、こうちゃんを別の場所に」
輝美子の言葉は、発砲音に掻き消された。
否、発砲音と同時に、輝美子は二度と喋らない体になったのだ。
額に穴を開けた輝美子。音の無い世界で、それを見つめる晃介。
「……」
晃介は、首を捻るように動かして、彼方を見やった。
またも発砲音。咄嗟に耳を押さえる晃介。跳ねる輝美子の体。
彼方の方に向きかけていた顔を輝美子に戻す。輝美子は、淡い黄色のシャツを着ていた。それが、胸の辺りから、赤く染まっていく。
また一発、もう一発。弾が切れるまで、撃ち続ける。
「……死にましたね。執行完了です」
「……」
「もうすぐ特務の者が回収に参ります。それまで、そうですね、寝室にでも待機を」
「どうして殺した」
「……は?」
「殺す必要が、あったのか」
「え、ありますよ」
彼方は首を傾げながら、イヤープロテクターを外している。
晃介は、両手が塞がった彼方に近づき、拳を握った。
そして、彼方の小さな顔を殴り付ける。
倒れる彼方に馬乗りになって、晃介は彼方の顔を殴り続けた。
何度も何度も、繰り返し。
彼方が、晃介を見上げる。表情無く見上げ、殴られる。
晃介は、彼方を見下ろす。表情無く見下ろして、殴る。
「……」
「……」
彼方は晃介に腕を伸ばした。晃介の殴打が、一旦止む。彼方の腕が晃介の首に回された。
見つめあう二人。お互いに、感情無く。
彼方の腫れ上がった顔が、晃介に近づく。この血の匂いは、輝美子のものか、彼方のものか。
鼻先まで近づいて、彼方は動かない。だから、晃介から動いた。
「……」
二人は、キスをした。
愛情なんて微塵も無い、味の無い口付けを。
その場の流れで、その場逃れに。




