入団
その夜、普段滅多に訪ねてくる人なんていない俺の部屋に小気味いいノックの音が響いた。怪訝に思いつつも、もしかしたら奏太が遊びに来たのかもしれないと腰を浮かせて玄関扉のドアスコープを覗く。すると思いもよらない人物が満面の笑みで手を振っており、俺は慌てて扉を開けた。
「こんばんわー、かずと君。元気してた?」
「あ、はい。任務お疲れ様です」
「ありがとう。丁度さっき帰ってきたばっかなのよねー」
目の前の人物、セミロングの黒髪を内側に巻いた女性は紛れもなく幹部の一人であった。しばらく前から支部調査で全国を転々としていたが、任務終了まではまだ期間があったような。
「何難しい顔してるのー、団長様に呼び戻されたから慌てて戻ってきたんじゃない。それより、私が用があるのはかずと君じゃなくて……」
人の部屋だというのに容赦なく上がりこむその人を俺は止められないし、止めようとも思わない。任務から引き戻され真っ先にここを訪ねたということは、つまりそういう事だろう。
「こんばんわ、あなたがまいなちゃんね。私、西宮咲希って言うの、よろしく。気軽に咲希さんって呼んでね」
「はい。よろしくお願いします」
リビングの座卓で足を崩してテレビを見ていたまいなは瞬時に姿勢を正すと咲希さんに向き直り頭を下げた。
「あ、いいのよ楽にして。私はただまいなちゃんとお話がしたくて来ただけだから。そうそう、これでも心理の勉強とか趣味でしててね、その延長で青の騎士団でもカウンセラーの真似事みたいな事してるから、まいなちゃんも何かあれば相談に来てね。しばらくは本部にいると思うから。それとね」
怒涛の様に話し続ける咲希さんにたじろぎつつも、まいなは懸命に相槌を打っている。
咲希さんは心理の知識を趣味と言ったが、実際は趣味の範疇とはとても思えないほどの知識を所有している。資格は当然取得しており、それもあって騎士団のカウンセラーをしているのだ。本来なら幹部の仕事ではないメンタル管理を任せられているのも、心理学で咲希さんの右に並ぶものがいないから。強引なところもあり何かと無茶に付き合わされるが、とても親切で優しい人だ。
「そうだ、忘れるところだったわ。かずと君!」
「はい、なんでしょうか」
こうして急に話を振られる事にももう慣れた。
「まいなちゃん、しばらくあなたと一緒に行動するんでしょう。それで家具を倉庫から漁ったって聞いたんだけど、私からも倉庫になさそうなものを提供するから、今から取りに来てよ」
「いいんですか?!」
声をあげたのはまいなだ。目を丸くして驚きを表現している。本当にしばらく人の優しさに触れていなかったのだろう。こんなにも親切に対して信じられないと驚く様は初めて見た。まるで自分に与えられるものは酷いものしかないと思い込んでいるかのような、そんな心の底からの驚き。
「当たり前でしょう。これはただの、お姉さんのお節介。ただ使わなくなったものをあげるだけだから、お礼もいらないわよ」
「それでも、お礼を言わせてください。ありがとうございます」
深々と頭を下げるまいなに、咲希さんはそっと寄り添い肩を支え起こさせる。
「いいのよ、これからたーぷりまいなちゃんにはお節介焼いちゃうんだから。じゃ、私達は行ってくるから、まいなちゃんはここにいてね」
「あの、私にお手伝いできる事は」
「いいのいいの、力仕事は男にやらせとけば。さぁかずと君、用意はいい?」
「もちろんです」
意気揚々と立ち上がり玄関に向かう咲希の背中に呆れつつも、なんとなく頼もしさを感じる。俺も、色々と不安だったのかもしれないと気付かされた。
「まいな、ちょっと行ってくるから留守番よろしく」
「う、うん!」
まだ少し硬いが、今日一日会話していたらだんだん慣れてきたのか、タメ口で話してくれるようになった。そのうちに自然と話せるようなればいい。今はまだ、焦る時じゃない。
「ありがとうございます、咲希さん」
「かずと君までお礼なんかしちゃって。言ってるでしょう、お節介だって。それより、あなたも無理しちゃダメよ。今のまいなちゃんにとって救いなのはかずと君しかいないんだから。それは自分でも、分かってるんでしょう」
「はい。そのつもりです」
俺は思わず姿勢を正して答えた。すると咲希さんは容赦なく俺の背中に回し蹴りをかます。
「いった、何でですか」
加減はされているものの、確実に狙って放たれた蹴りはかなり痛い。無駄と思いつつも懸命に抗議してみる。すると、咲希さんは真面目な顔を作って俺を見た。
「それがいけないのよ。確かにあんたはね、まいなちゃんを守る盾でもある。けど、彼女強いんでしょう。だったらもっと重要な役割があるじゃない」
そこで一度言葉を切り、息を大きく吸って続ける。
「あんたはまいなちゃんの居場所になりなさい。それがあんたの仕事。まいなちゃんが、あんたの側なら安心していられる、そんな存在になるのよ。それなのにあんたがそんなカチンコチンじゃあまいなちゃん疲れちゃうでしょう。だから、あんたはもっと楽にしてなさい。いいわね」
一気にまくし立てたにも関わらず咲希さんの息は全く上がっていない。さすがというか何というか、この人は色んな意味で恐ろしい。
しかし、咲希さんはまいなの味方だ。兄貴の差し金で訪ねてきたのだとしても、咲希さんは信用していいだろう。咲希さんは兄貴におとなしく服従しているような人ではない。ここの幹部は皆一癖も二癖もあるが、特に咲希さんは厄介な人物として知られているのだ。
何より、彼女の言葉には力があった。
俺ははいとしか言えない。暴力的に咲希さんの言葉は俺の固まった思考を打ち砕くのだ。
「よし、じゃあまっ柄にもなく説教なんてしちゃったわけだし、私はもう疲れたからここでお暇させてもらうよ。まいなちゃんにあげるものは廊下に出しといたから、荷物運びよろしくね。そこの部品は組み立てればベッドになるから、もしまいなちゃんが申し訳なさそうにしてたら支部で必要だから買ったけど本部に戻ってきて必要なくなったって言っておいて」
淡々と説明する咲希さんに俺はふと我に帰った。
もともと幹部同士の部屋は離れた場所にない。特に女性幹部は少ないので、俺の部屋から咲希さんの部屋までもそう遠くはなかった。だから当たり前と言えばそうなのだが、いつのまに咲希さんの部屋の前まで着いていたのだろう。俺はつい唖然としてして目の前の扉を見つめた。
「相変わらずかずと君は考え事をすると周りが見えなくなるわね。それ、君の弱点よ」
そう言い残し、原因である咲希さんはさっさと部屋に入ってしまう。そうだ、難しいことを考えても仕方ない。彼女の言うことは大抵、怖いくらい当たるのだ。しばらくは彼女の言うことを実践するように努めよう。
俺が何かを考える必要はないのだ。俺が考えても、結局終わりなんてないのだから。
△▽△▽△▽△
咲希さんという女性が唐突にやって来て嵐のように過ぎ去ると、かずと君の部屋は再び静かな空気に包み込まれた。静かな場所は好き。図書館とか、自分の部屋とか、夕暮れ時の公園とか。けど、今はあまり一人にはなりたくない。‘赤’の人達といる時はあんなにも一人きりを望んでいたのに、不思議なものだ。
かずと君が面白いからと貸してくれた本。私が最後に読んだ本の作家さんの新刊だった。少し話の路線は変わっていたが、根本的には変化のない書き口に再び懐かしさがこみ上げる。この作家さんが好きなのだろうか。だとしたら趣味が合いそうだな。
一通り読み終わり本を閉じると、私は机に突っ伏した。小学生の時も、何かと作業が終わると机かベッドに倒れ込んで色々考え事とかしたっけな。しばらく忘れていたや。だって、あそこにいる時は考えるだけ無駄だったから。自分を守るために必死っで、考え事をする余裕すらなかったのだから。
思えば、かずと君の周りにいる人は良い人ばかりだな。咲希さんはこんな私にも親切だし、麗華さんは青の騎士団想いで立派な女性だし、奏太君は分け隔てなく接してくれた。団長さんも……かずと君は食えない奴って思ってるみたいだけど、一つ芯の通った人だ。そんな人たちに囲まれて過ごせるなんて、少し羨ましい。かずと君は頑なだけど、私には分かる。彼は皆から大切にされている。愛されてる。だからきっと、私のことを疑わないでいられるんだ。
しばらく机に伏せていると、部屋の外から誰かが立ち止まる気配がした。同時に重たいものを置いたような低い物音も聞こえる。はっと起き上がると、私は玄関に駆け寄りそっと扉を開いた。
予想通り、そこには荷物を置いて一息つくかずと君がいた。
「えっと……おかえりなさい」
「ん? ああ、ただいま」
額の汗を腕で脱ぐいながら顔を上げてかずと君は笑ってくれる。私も自然と頬の緊張が緩んだ。
「私も運びます。本来なら私が行くべきだったのに、甘えてしまったのでこれくらいさせて下さい」
「いいって、甘えられる時に甘えておけば。でもまぁ、どうしてもっていうなら、この紙袋だけ持ってってくれないか」
「はい、分かりました」
かずと君が差し出した紙袋を受け取ろうとした時、かずと君は苦笑していた。その表情を見て、私は気がつく。言いはしないけど、確かに感じたのだ。まだ堅いよな、俺じゃ気を許せないのかな、という残念そうなかずと君の思いを。
私は、私の言動でかずと君を傷つけてしまったことに後悔した。精一杯、彼らの力になりたいと思っているのに、このままでは空回るばかりだ。でも、どうしたら正解だったのだろう。ずっと縛られ命令されてきた私に、どうして欲しいのだろう。気持ちは分かっても、自分が何をすれば良いのかが分からない。あの帽子がないと、私は自分の行動すら決めれないほど弱いのだろうか。
「まいな、どうかした?」
「ごめんなさい。私って、どこにいても駄目だな」
視線を落として呟いた言葉は本来なら誰にも聞かせるべきじゃない言葉。しかし、そんなものが心に届くこともあるのだと、私は初めて知る。
「何馬鹿なこと言ってんだ。これから俺らの仲間になるんだろ。ここにいれば良いじゃないか。ここにいれば、駄目だなんてことない。俺が駄目になんてさせない。ほら、だからそれ持って部屋に入る! ここがまいなの居場所だよ」
肩を優しく叩いてから無理やり体を反転させると、背中を軽く押して室内に私を入れる。さっきまで本を読んでいた場所に変わりないはずなのに、さっきまでとはなんだか違って見える。他人の部屋に小さくなって座っていた感覚が消え、新しい風が吹き込んだ。
そうか、素直なことを言っても良いんだ。
思えば、誰かに何かを打ち明けるっていうのも、あの日以来かもしれない。
「じゃあベッド組み立てますか。まいなも手伝って」
「え、あ、うん? ベッドってどうして」
「咲希さんのお節介。使わなくなったのだから気にするなってさ」
そんなこと言われても、ベッドなんて立派な家具を私が貰ってしまっても良いものだろうか。
「甘えとけ甘えとけ。あの人はこういう人なんだよ。そのうち慣れる」
問答無用で私の部屋となる場所にベッドの部品を並べ出したかずと君に渋々続くが、私はまだ気が引けていた。
「一般の団員は備え付けのベットしか使えないんだ。幹部は全員自分好みのものを持ってるし、結局まいなが使わなかったらあの倉庫行きだよ」
かずと君のあっけらかんとしたその言葉に私は幾分か気が楽になり、作業に取り掛かった。けどね、知ってるよ。かずと君だって本当は驚いているんでしょう。
気づかないふりは、実は得意だったりする。
ああ、こんなにも幸せに感じる時間が続くと、感覚が麻痺しそうだ。現実は、まだ殺伐としているはずなのに。私が火種となり、争いが起こることは確実だ。だからいつまでも目を背けていられないことも、自分は幸せになったのだと錯覚することも許されてはいない。不幸は辛いけど、幸福が怖いだなんて、知らなかった。
幸せだと思ってしまったために、不幸せになった時のことを怯えるだなんて、人の心は皮肉なものだな。
......
翌朝早く、俺は一本のむかつく電話によって起こされた。内容は、まいなを連れて幹部専用練習場第五室に来い、時刻は今から三時間後の午前八時、まいなには訓練用の服を貸すから七時頃に届けさせるとのこと。なんて一方的で傲慢な電話なのだろう。
朝っぱらからなんだと思いつつも、今更寝直す気にもなれず、仕方なく身支度を整えていると、部屋の扉から顔を覗かせているまいなに気づいた。
「悪い、起こしちゃったか」
「あ、ううん。普通に目が覚めただけだよ」
「そっか。さっきの電話だけど、三時間後にちょっと出ることになったからまいなも用意してくれ。服は、七時に訓練用の服を持ってくるらしいからそれまでは……どうしようか」
「それなら、咲希さんからいただいたものに何着か服もあったからそれに着替えるね」
「そっか、良かった。洗面所とかタオルとか勝手に使っていいから」
まいなは一瞬戸惑いを見せたが、笑顔でありがとうと言うと顔を引っ込めた。
少しずつでいい、少しずつでいいから、ここでの生活に慣れていってくれればいい。
俺は一つ大きな深呼吸をすると、身支度を再開した。
そして午前七時丁度、玄関をノックする音が響く。俺は玉を補充する手を止めると扉を開けた。そこにいたのはどこかですれ違ったことくらいはあるだろう平の団員が緊張した面持ちで立っていた。目的のものを受け取り、お疲れ様と言うと俺はさっさと扉を閉める。
きっと今の団員も俺よりいくつかは年上のはず。年下なのに幹部だからと敬語を使い頭を下げるのは嫌になるだろうな。
「まいなー、服届いたぞ」
「ありがとう、かずと君」
まいなは服を手にすると早速自室で着替えてリビングに戻ってきた。青の長ジャージに白い半袖のポロシャツ。襟と袖に青いラインの入った訓練服は、一見すると体操服のようだ。
どうかな、とこちらを見つめるまいなに俺は頷いて応える。
「うん、それなら歩いてても変な目で見てくるやつはいないだろう」
「これは青の騎士団指定のものなの?」
確かに、特徴的な青を使用したデザインは騎士団の制服を思わせるが、青の騎士団自体に訓練用の指定服は存在しない。基本的には自由だし、もともと指定されたものと言えば制服くらいだ。
「青の騎士団入隊希望者専用訓練施設ってのがここの敷地にはあって、それはそこ指定の訓練着なんだ。施設上がりの団員も最近は増えてきて、そういうやつらは名残で自主練の時とかよくその訓練着を使ってるからその辺歩いてても違和感ないんだよ」
「青の騎士団って大規模なんだね、すごいな」
子どものように瞳を輝かせて俺の話を聞くまいなは、自分の着ている服を見て感嘆の声を上げる。俺は内心でそんなに感心するものでもないけどなと呟き話を続ける。
「まぁ訓練施設に入っても最終的に入団出来るやつは限られてるけどな。ほとんど途中で辞めてくよ」
「やっぱり、厳しいんだね。でも、そんなところをトップで抜けて入団した人はとても強いんだね。かずと君もその訓練施設にいたの?」
「一応行ってたよ。奏太とはそこで知り合ったんだ」
「かずと君は、その時から強かったんだね」
まいなは何かを察したように少し声音を落として言った。その通りだった。けど、それはたまたま俺に特殊な才能があっただけなんだ。
「確かに俺はその年の首席だったよ。けど、俺は銃が人より得意だっただけなんだ。それ以外はたいしたことないよ」
俺にはそれしかなかった。認められるために、俺は銃にしがみつくしかなかったんだ。その結果今があるってだけなんだよ。
「そんなに卑下しなくても良いと思う。私が偉そうに言えることじゃないけど、でも……その銃の腕があったから、私は今ここに居られるんだよ。だから、ありがとう」
まいなは照れながら微笑み俺を見る。そうだった。あの時は夢中だったけど、そういえば何発か発砲したな。まいなはあの数発のことを、しっかり記憶していたのか。
「そうだな、あまり貶しちゃ銃に悪いよな」
俺はそう言いつつ、机の上で待ち構える整備の終わった銃を背中と腰のホルスターにしまった。
「さぁそろそろ出かける用意をするか」
俺は制服のジャケットを羽織り弾薬の最終チェックをして立ち上がる。その背後でまいなは背中が半分隠れるほどある長い黒髪を一つにまとめていた。
「まいな、何か必要なものとかある?」
「あっと、特にはないんだけど……でも一応」
俺はまいなから言われたものを静かに頷いて手渡すと、戸締りを確認して二人で部屋を出た。
△▽△▽△▽△
かずと君に連れられてやって来たのは、広くて何もない場所だった。上を見上げると、天井もかなり高い位置にある。話によると幹部専用の練習場だとか。ようは普段の訓練をする場所なのだろう。
しかし、訓練をするにしてもいささか広すぎるように感じる。いったいどういった目的で作られたのか。よく見ると、部屋の片隅にガラスで仕切られた空間があった。見学するための場所、なのだろうか。
初めての場所に来るとついそこがどういった所なのか観察せずにはいられない。もうこの性はどうしようもないのだろうと半ば諦めつつ、変に思われていないだろうかと横目でかずと君を伺った。しかし、かずと君は特に何かを気にする様子はなく、ひたすら私達が入ってきた両開きの感情な扉を見ていた。きっと私達をここへ呼んだ人物が来るのを待っているのだろう。
「たく、呼びつけたくせにあいつの方が遅いのかよ」
かずと君は痺れを切らしたのか舌打ちすると扉を見るのを止め私に視線を送った。
「悪いな、待たせちまって」
「いえ、全然気にしてませんよ。それに約束の時間よりはまだ早いから」
「そうだけど」
何もない場所、それでも最低限のものはあるらしく、白い壁の一部にデジタル式の時計が埋め込まれている。時刻は八時十分前。私達がここへ来たのは更に十分前のことだ。
「偉いね、約束の時間よりも早めに来て。人を待たせるのは自分が待つより嫌なんでしょ」
「その通りだよ。けどなんでだろな、奏太とか他の奴ならいくら待たされても気にならないのに、あいつだとむかつく」
「まあまあ、きっと何か準備が必要なんだよ。誰か急に連れてくることになったとかさ」
本当に、なんの気ない言葉だった。確信があったわけでも、予感がしたわけでもない。しかし結果としてその言葉は事実を言い当てていた。
私が話し終わると同時に、重い扉が開いて中に数人の人が入ってきた。先頭は団長さん。二番目は二人同時で麗華さんと咲希さん。そして最後に緊張した面持ちで入ってきたのは、どこかで見たことのある服装の私よりいくつか年上であろう女性だった。
「相変わらず早いなかずと」
「お前が遅いんだよ」
顔を合わせた途端これである。麗華さんも表情を変えないあたり、いつものことなのだろう。私は一人不安になってしまう。
兄弟なのに、どうしてこうも反発してしまうのか。恐らく団長さんにその気はないから、かずと君が一方的に団長さんに対して角質を持っているのだろう。けど、最も血の繋がりが濃い兄弟でいがみ合うなんて、悲しくて虚しいだけだよ。
失ってからでは遅いのに。
でもこれは、私が無尽蔵に介入していい問題でも、私がどうにかできる問題でもない。なぜなら私は、彼らの敵であり要注意人物であったその人なのだから。警戒されているのに人の関係に口だそうなんておこがましい。私はまず、彼らに容認されなければならない。
「まぁ時間には間に合ったんだ、いいじゃないか。こちらも少し用意があってな。今日二人にここへ来てもらったのは他でもない、まいな君の実力を計らせてもらうためだよ」
不敵な笑みを浮かべて私をじっと見つめる。緊張はしないが、分かる人に見られるというのは、言えた立場ではないが不快である。
つい体に力が入っていたのだろう。私の様子に気づいたかずと君はそっと私の前に出て、団長さんの視線が私に届かない位置へ来た。
「目的は分かった。で、具体的には何をすればいい」
まるで自分のことであるかのようにかずと君は尋ね返した。私を気にしてくれていることが痛いほど伝わってくる。私にはそんな価値はないのに。
「組手だよ。やはり実力を見るには実践に近い形式の方がいいだろう。だから今回はまいな君に相応しい相手を連れてきたんだ。紹介しよう。彼女は今年度訓練施設を出て第四前衛部隊に配属された東堂夕紀君だ。なるべく年齢の近い者と組み合った方が良いと思ってな、訓練中だが抜けてきてもらった。新人だが中々に腕が立つぞ」
団長さんに促され、女性は一歩前に出た。そして素早い動きで腰から頭を下げ挨拶する。
「ご紹介にあずかりました、東堂夕紀です。全力で参りますので、何卒よろしくお願いします」
芯のある声が私に向けて放たれる。その言葉を受け止め、私の体は震えた。どうしてだろう。怖気づいたから? それとも、高揚したから?
肩にかかる程の真っ直ぐな黒髪を左右耳の後ろで結び、忍びのような黒い服に全身を包んだその女性は体制を戻すと、迷いなき瞳で私を見据える。私も彼女に、応えなければならない。彼女の誠意を、全身で受け止めなければ。
「まいなです。よろしくお願いします」
静かに頭を下げる。その状態で数秒静止し、体制を戻すと同時に、私は帽子を被った。
......
瞬間、その場の空気が重くなるのを俺は感じた。
まいなの放つ存在感が一変し、息苦しさすら覚える。思わず、一歩後ずさった。相手の女性も急な変化に目を見開き驚きを隠せずにいる。加えて無意識にだろうか、背筋を伸ばし直立した姿勢ではなく戦闘前の構えをとっている。
まいなはというと、俺の位置からでは背中しか伺えないが、戦闘体制をとるわけでもなくゆったりとその場に立ち尽くしていた。ただ黒髪に被せられた赤のキャップ帽だけが、青い訓練着と対比されやけに浮いていた。
「双方挨拶も終わったことだし、ルールを説明しよう。基本的に何をしても構わない。しかし、相手を殺す行為は禁じる。動きを封じるような技以外は必ず寸止めをすること。それ以外は、自由だ。どんな技を使おうがどんな武器を使おうが、止めはしない」
兄貴は一旦言葉を切ると右手を振り上げる。その動きに合わせて、兄貴以外の見物人に当たる俺や咲希さん達は壁に寄った。そして無残で残忍で残酷な鐘はいとも容易くあいつの口から鳴らされる。
「始め!」
恐らく結末を知っていたなら、俺はこうなる前に止めていただろう。いや、冷静に考えれば分かりきっていたではないか。
しかし止められなかったのは、俺自身がまだまいなを信じきれていなかったから。いや、本当はまいながそうであると信じたくなかったからだ。
あいつは、こうなることを知っていたんだろう。
先に動いたのは相手の女性だった。
まずは様子見だろうか、型にはまった素早い動きでまいなに近づくと、背後に回り込み足を取ろうとする。しかし、構えてすらいないはずのまいなはあっさりと女性の技を躱すと、予想もできないような動きで身を翻し、体制を屈めていた女性の頭部に向けしなりを効かせた回し蹴りをかました。女性はすんでのところで足を避けると一旦後に飛び退き距離を置いた。
女性は見たところ、この辺りで主流の格闘技を使うようだ。それは、構からも判断できる。しかしまいなはどうだ。構えをとらない戦闘姿勢に予備動作のない動き。かと思えば無駄と思えるほど全身を使っての大きな一撃。そしてまた平然と立ち尽くす。今まで素手を武器とした団員の戦闘を幾つも見てきたが、こんな規格外の動きをする奴はいなかった。
決まった型のない、不定形な戦闘姿勢。それがまいなの操る格闘技だとでも言うのか?
いや、一人いたじゃないか。同じように予測不可能な動きで団員を翻弄させてきた人物が。
まさにあの動きは、キャップ帽の幹部そのもの。
実際にやりあった団員が言ってた。あの動きはさながら即興の“舞”であると。同じ攻撃、防御、退避は二度としない。一つ一つがその場限りの技であり、演舞である。
その話を聞き詩人じゃないんだからと馬鹿にする者もいたが、俺はキャップ帽の幹部の行う戦闘をずっと観ていから分かる。その表現は幻想でもなければ誇張でもない。まさにその通りである。比喩とすら言い難いほど、戦闘が舞であったのだ。
今のまいなの動きは、俺が散々観て調べてきた奴の動きに酷似していた。いや、似るなんてことはあり得ない。なぜなら奴の動きに決まりなんてないのだから。ただその自由さが、似てるとしか言えなかった。
事実を噛み締め、改めて組手の様子を観る。
本来なら、事実に気づいたこの時点で俺は気づくべきだったのだが、それはもう後の祭りだ。それにもう、戦いは止められはしないのだ。
女性は徐々に体力を奪われつつも何度かまいなに挑んだ。その度にまいなは女性の細やかな攻撃を軽くあしらい反撃する。飛び上がっての膝蹴りや全身をしならせての肘鉄など、大振りの攻撃が多いまいなは女性より消耗しても良さそうなものだが、立ち姿には一切の疲れも息の乱れも伺えなかった。
そしてこれ以上不毛な戦いをしても仕方ないと悟ったのか、女性はまいなとの距離をかなり広めに取り一呼吸置くと、体制を低くし一気に詰め寄った。
流石に防御姿勢をとると思われたまいなは、そんな見物人の考えをよそに、自らも女性に向かっていく。
勝負は一瞬だった。
女性は自らの方へ走ってくるまいなに驚きつつも冷静に動きを見切り、まいなと距離がなくなる瞬間、低いその体制から思い切り拳を振り上げた。
恐らく女性は、その拳をどうにかして避け、体制が多少なりとも崩れたところで用意していた真髄の二発目を食らわせようだとか、そんなことを考えていたのではないだろうか。真意は分からないが、あの振り上げた拳が決め技という訳ではなかったはずだ。なぜなら一般的に格闘技を学んだものなら拳は避けるか流すのが普通。完璧とはいかずとも女性の策略はある程度成り立つはずだったのだ。普通、ならば。
まいなはそう、確かに拳を食らってはいない。しかし、避けたようにも見えなかったのだ。
具体的に言うなら、まいなは放たれた拳を認識するとあえてそちらに向かって行き、顔に触れる手前で拳をかわし顔の横に流れるのを確認してその拳を左手で捻りあげ、覆いかぶさるように女性を押し倒し、鳩尾に左膝を食い込ませ、右手首を喉に押し当て、右足で左手を踏みつけ、女性の動きをその場限りではあるが完全に封じたのだ。
二度とこのように特殊な体制に持ち込めることはないだろう。しかし今この場でそれが成立していれば、問題ないのだ。
「やめ!」
兄貴が言う。まいなは静かに女性から退いた。そしてしゃがみ込み、自らの手で女性を起き上がらせる。女性はというと、あまりの唐突な出来事に混乱しているのか、一点を見つめたまま大きく息をするばかりだ。
「あの、本当に締めたわけではないので、すぐ楽になると思います。ごめんなさい、手加減する方があなたにとって失礼だと思ったので、本気でいかせてもらいました」
まいなは女性の背中をさすりながら不安の入り混じった声で語りかける。やがて落ち着いたのか女性は立ち上がると、しゃがんだままのまいなに大きく頭を下げた。
「本気で戦ってくださり、ありがとうございました! とても勉強になりました。このような強い方と戦え、嬉しく思います!」
「わ、私も……ありがとうございました」
慌ててまいなも立ち上がり、帽子をとってお辞儀をする。
二人は体を起こして視線をかわす。
すぐに女性は身を翻し、出口の方へ向かった。その際、兄貴や麗華さん達に挨拶をしていく。
「では、私は訓練に戻りますので。相手にならず申し訳ありませんでした。失礼します」
そう言い残し、女性は訓練場を去った。颯爽と、実にあっけなく。
「いや、素晴らしいかったよ。これでまいな君の実力は本物だったということが証明されたわけだ」
兄貴は何がそんなに面白いのか不気味に笑みながら手を叩いた。
「彼女は訓練施設で首席だったのだが、まぁキャップ帽の幹部の前ではこんなものか。いや、さすがだよ」
賞賛とも皮肉とも捉えられる言葉を淡々と述べつつまいなの方へ向かうのかと思いきや、兄貴はまいなには目もくれず壁際に立てかけてある木刀を手にとり眺めだした。もうまいなの実力は分かったから興味ないということだろうか。しかし兄貴の謎行動を凝視するまいなは、なぜか警戒を強めているように見えた。
そして次の瞬間、あろうことか兄貴は手にした木刀を振り返ると同時にまいなに向かって投げつけた。そして自らも木刀を握りまいなへと斬りかかる。
「まいな!」
俺は思わず声を上げた。むかつくことだが刀の腕でやつに敵うものなどこの騎士団には存在しない。そんなやつが例え木刀と言えども本気で斬りかかれば無傷では済まないだろう。しかもまいなはいきなり投げつけられた木刀をなんとか受け止めたが、使ったことのない武器を急に手にとり困惑している。習得していない武器なんて戦闘において所持しているなんて無意味、むしろ行動を制限され不利になるだけ。
どうにか、そんな使えない得物なんて捨ててやつの攻撃を避けてくれ。受けようなんて考えないでくれ。
木刀が僅かに触れ合い、擦れる音が微かに響いた。
俺はその光景にことばを失う。
まいなは確かに避けた。しかし、その避け方がその場にいるほとんどの者の想像を絶していたのだ。
兄貴が斬りかかる直前、まいなは木刀を素早く構えると、迫る刀身に対し自らの操るそれを絶妙に沿わせ軌道を反らせたのだ。
「やはり、君は刀の使い手であったか」
兄貴だけが満足そうに頷く。麗華さんは動揺を隠せないまま慌てて声を張った。
「お止めください、騎士団長。あなたが刀を取るなど。彼女の相手なら私が」
「私がやりたくてやっているのだ。実力は我が身で測る。口を出すな」
いつになく強い口調に、麗華さんは押し黙ってしまった。隣で咲希さんが麗華さんをなだめている。かくゆう俺も、目の前で起こる出来事に思考が間に合わず、この不本意な戦いに対して何も言えないでいた。
「どうして、分かったのですか」
先程の体術の時とは打って変わりしっかりとした構えで木刀を兄貴に向け、間合いを測りながらまいなは苦しそうな声で兄貴に尋ねた。
「隠せるとでも思ったのか、君は。手首の癖、戦闘時の重心、間合い、なによりその手の平。一目見た時から感じていたよ、君の本当の武器は刀だとな」
言い放つと同時にやつ特有の動きで錯乱させつつ間合いを詰め斬りかかる。今度は流せないような軌道で続けざまに斬りつけ木刀同士をぶつけ合う。まいなも兄貴が放つ剣撃を見誤ることなく受けきり反撃の隙を伺っているようだ。
しかし、攻防が長引くにつれまいなは徐々に徐々に押されていった。このままでは壁際まで追いやられるか防御の動きが鈍った瞬間に一撃を貰うことになる。やつは……兄貴はこんな一方的な戦いをして一体何を試したいというのだ。
まいなを守ると誓っておきながら、兄貴が変な行動に出る前に止められなかった、その不甲斐なさに唇を噛み締めたその時。
まいなが動いた。
隙のない兄貴の攻撃に対して受けきることを放棄し、一撃を貰う覚悟で刀を払いにかかったのだ。だがそんなまいなの働きに対しやつがおとなしくしてやられるはずもなく、まいなの動きを完璧に先読みし逆に刀を払い飛ばした。
そのまま兄貴は体当たりを仕掛けまいなを転ばせにかかる。まいなは払われた刀には目もくれず瞬時に状況を判断すると後ろへ下がり体当たりを避け、そのままバク転の要領で距離をとった。
しばらく両者は睨み合った。だが兄貴は急に全身の力を緩めると木刀を収め満足そうな笑みを浮かべた。
「ふん、まぁまぁだな」
俺はやっと戦闘が終了したのだと悟ると、まいなのものへ駆け寄った。もう兄貴が手を出せないよう、銃の上に手を置いてまいなの前に立つ。
「まだ本気ではないようだが、それはまた先でいいだろう。まだ調子も乗っていないようだしな」
そう呟いて踵を返すと、何事もなかったかのように、兄貴は出口へ向かった。麗華さんがそんな兄貴に駆け寄り木刀を受け取る。
何か言わないと気が済まなかった。だから俺は、まだ何を言うか決まってないうちに声を上げやつを呼び止めようと身を乗り出した。
「いいの」
そんな俺の腕をそっと掴んで、まいなは静かに首を振る。瞳には、何か諦めのような、仄暗い闇が潜んでいた。もう何も言うまい。そう諭されたようだった。
「そうだ、まいな君」
そんな俺らをよそに、また自由な兄貴は出口直前でこちらに体を向けると、淡々と話し出した。
「君に実力があることは今回のことで十分に証明された。よって、この瞬間より君を正式に青の騎士団の一員と認める」
まいなの瞳に、光が宿った。
「役職は……そうだな。青の騎士団特殊監査役補佐官なんてのはどうだ。丁度相方が欲しいと思っていたところだったのだよ。しかしほとんどの団員はどこかの隊に属しているし、かといって新人では自分の身を確実に守れるほど高い戦闘力を備えた人物はいなかったからな。まいな君のようにある種特別な単体戦闘能力が異常に高い人物が現れてくれて助かったよ。君のその腕なら、きっとかずとの役に立つ。頑張りたまえ。では」
片手をひらりと上げ背中を見せ退室する食えないやつに、まいなは深々と頭を下げお礼を言った。
「ありがとうございます!」
兄貴が去り、続いて二本の木刀をしまい終えた麗華さんと咲希さんが去り、訓練室には俺とまいなだけになった。
「改めまして、青の騎士団特殊監査役のかずとです。よろしく」
今更ながらの自己紹介、なんとなく照れ臭くはあったが、俺はまいなに手を差し出した。
これから正式に共に働けるのだ。仲間にはきちっと挨拶しないとな。
「はい! かずと君の足を引っ張らないよう頑張ります!」
「はは、そんなに気張らなくてもいいから、仲良くやろうぜ。俺、仲間とかチームみたいなの初めてでさ、嬉しいんだ。二人じゃ寂しいかもしんないけど、まいなとならうまくやっていけると思うんだ」
「私も、かずと君に出会えて、本当に良かった」
まいなは笑っていた。言葉通り、心から嬉しそうに、笑っていた。しかしその肩が小刻みに震えているのを、俺は見逃さなかった。
騎士団内でも知るものは少ないが、俺の仕事は監査と言う名の諜報だ。戦闘を影から監視し、見たこと聞いたことを客観的に報告することが求められる。
だから、人の細かい動きには気を配るようにしていた。もちろん、目に入ったものをあえて見過ごすようなことはしない。五感が認識したものを感情抜きで判断し言葉にする、それが俺の役目なのだ。
俺に見る目はない。本来ならこんな役目は俺に向いていないのだ。なぜなら震えにに気づいたからといって、それになんの意味があるのか俺には予測できないのだから。おそらく分かる人なら、分かってしまうものなのだろう。中途半端に気づくくらいなら、いっそ気づかないほうがいいと何度思ったことだろう。
しかし、その震えに意味がないと思えるほど、俺は気楽な道で生きているわけではないのだ。
あれから部屋に戻ってもずっと浮かない顔をしていたまいなだったが、風呂上りにふと、寂しそうに笑ってこんなことを言った。
「私のこと、怖くなかった?」
俺にはその質問の意図が分からなかった。一体何を言いだすのだろう。俺はまいなの向かいに座りどうしてと尋ねる。
「キャップ帽の幹部は体術使い。皆さんきっと、そう思ってますよね。でも、朝のあの一件でご覧頂いたように、私は刀を扱える。隠すつもりはなかった、けど……まさか気づかれていたなんて」
「なんか悪いな、兄貴がまたまいなに負担かけちまったみたいで」
「あ、いいの! それはいいんだけど……きっと皆さんを怖がらせてしまっただろうなって。だって、私は今まで皆さんの前では体術しか使ってこなかったから、データにないことをされるなんて、気分悪いだろうし」
俺は呆れたように首を振って肩をすくめる。
「あんま細かいこと気にしなくていいよ」
まいなは不思議そうな瞳をこちらに向けた。
「兄貴は見ての通り食えないやつでさ、昔っから俺は何でも知ってますオーラ出してむかつくし。そんなだからつきあってると色々苦労するけど、いちいち悩んだりしてたらきりないよ。まいなはまいなのまま、したいようにすればいい。刀のことも、そりゃ驚きはしたけど素直に凄いなって思った。俺には銃しかないのに、まいなは体術に加え刀術も扱えるのかって。正直ちょっと羨ましい。でも、だからって怖がったりはしないよ。まいなが今まで刀を抜かなかったのには理由があるんだろうし、元々戦うこと自体好きじゃないんだろう。けど、それを迫られて、断れないよう追い詰めて……守ってやれなくてごめん」
頭を下げようと身を引いたところでまいなが身を乗り出して俺を止め、左右に大きく首を振る。
「ち、違うの、戦うのは別にいいの。ここでなら、戦いに意味を見出せる。それが正しいと思えるから、私はむしろ幸せだよ。ただ、刀術は……怖くて使えなかった。まだ帽子がないと人と向かい合って戦えないほど私は弱いのに、そんな不安定な心で操れるものではないから、私はまず、自分を誤魔化さないようにするところから始めなきゃって。ごめん、なんかよく分からなくなってきちゃった。ちょっと疲れてるのかも」
「もう今日は休んだほうがいい。でもこれだけ言わせて。まいなは考えすぎだ。本当に、何も気にしなくていいから」
目を伏せるまいなに、俺の言葉は届いていないのだろう。言うだけ無意味なのかもしれない、それでも、言わずにはいられなかったのだ。
「ありがとう、かずと君」
ゆっくりと立ち上がるまいなにそっと手を貸し肩を支える。
「まいなは怖くない」
思わず心に思ったことを呟いてしまいはっとする。どうやらかなりはっきりと口に出していたようだ。まいなも、目を丸くしている。
「……ありがとう」
掠れて、涙ぐんだ声だった。しかし、何かから耐えるように力のこもっていたまいなの体はふっと軽くなる。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
笑顔で挨拶を交わし部屋に消えるまいなは、先ほどより心なしか前を向いていた。
まだ、俺は知らないことが沢山ある。考えてみれば、なぜキャップ帽の幹部は視界が悪くなるだけの帽子をいつも目深にかぶっていたのだろう。まいなは戦闘直前に帽子をかぶるという行為をとったのだろう。
刀を使わないことにも、何か理由がありそうだった。兄貴の口ぶりからすると、まいなは体術より刀術を得意としているのだろう。それを‘赤’が知らないはずがない。ならば戦闘でそれを使わせない理由とはなんだ。
「考えても仕方ないよな」
見たこと、聞いたことは分かってもそれ以上は分かるはずがない。いつかまいなが話してくれる気になった時、その時に知ることができれば、俺はそれで満足だ。
俺は銃の整備や弾薬の補充をするため、そのまま自室に引きこもった。
一通り作業を終え伸びをする。ふとリビングに人の気配を感じ、俺はそっと席を立つと部屋の扉を開け中を覗いた。するとそこには、黒髪を下ろしたまいなが肩ほどの高さにある窓から夜空を見上げていた。
まいな。
そう、声をかけようと一歩踏み出した時、妙な違和感を感じ俺は思いとどまった。
「悪い、驚かせちまったか?」
まいなの姿をしたその人物は、確かにまいなの声音でそう言うと、にこやかにこちらを振り向いた。
「お前は……誰だ」
まいなの姿をしたまいなではない誰かがそこにいる。
俺は生唾を飲み込んだ。
「あーそんなに警戒しないでくれ。俺は君の敵ではない。むしろ、かずと君にはお礼を言いたくてまいなの体を少しばかり借りたんだ」
男のような仕草、無邪気な笑み、温かな雰囲気。この人物は一体? なぜ俺の名前を知ってる。
「自己紹介がまだだったな。俺はまいなの兄のまなとだ。そんな特別関わることはないと思うけど、これからまいなが世話になるし挨拶しときたくてな。よろしく!」
目の前で展開される信じがたい出来事に、俺の思考は一切ついていかなかった。
「え、兄?」
思わず素っ頓狂な声を出してしまい恥ずかしくなる。
「あれ、まいなに兄がいたことくらいとっくに知ってると思ってたよ。そちらさんの情報網、なかなか凄いんだろう」
そういや昨日兄貴に見せられたまいなのプロフィールには家族関係についても多少触れられていたっけな。あまり気にしていなかったが、確か兄についての情報は……。
「まいなが誘拐される一年前、交通事故で死亡して」
思わず呟き、はっとする。
「良かった、思い出してくれたみたいだな」
俺は驚きを隠せないまま、目の前でにこやかに立っている人物をまじまじと見つめた。
「そう、俺はとっくの昔に死んだんだ。もっと言うなら、俺の体は死んだ、と言うべきかな。そんで意識だけはまいなの体に入り込み今も生き続けている」
訳がわからなかった。全く、俺の理解の範疇を超えている。しかし、眼前には確かにまいなの姿をしたまいなではない誰かが立っているのだ。俺の脳がこいつはまいなではないと断言している。
「二重人格と言ってしまえば単純かもしれない。けど俺は元からまいなではないのだから、別人格とはちょっと違うんだよな」
「まいなは、あなたが体にいることを知ってるんですか」
俺は思わず食い気味に尋ねてしまった。しかし、そうしてしまうのには理由がある。もし、知っているのなら、それはまいなにとって、これ以上ない救いなのではないだろうか。
「知ってる、って言いたいとこだが正直それは俺にもよくわかんねー。まいなの体に入ってから言葉を交わしたことはないし、基本的にまいなの意識がある時、俺は眠ってるからな。二つの意識が同時に一つの体で働いたら、まいなの体が壊れちまう。今こうして体を借りてるのも、本当は負担になってるんだと思う」
「そう、ですか」
「そんな落ち込まないでくれよ。まいなはさ、ご存知の通り鋭いやつだから、確信はなくともなんとなく感じてるんじゃないかな、俺のこと」
常に笑顔を絶やさないまいなの兄、まなと。きっと、生きていた時からまいなにとってとても大きな存在だったに違いない。
「俺はもう直接まいなを守ってやることはできないけど、だからこそかずと君に任せたいんだ。俺の大事な妹を、地獄のような場所から救ってやってくれたかずと君に。まいながやっと信頼出来ると感じたかずと君に……な」
寂しそうに微笑む顔。その顔はどうしてか、無性にまいなに‘似ている’と感じた。
「今まではあなたがまいなを守っていたんですね」
「別に、俺は俺にできることをしたまでだよ。まいなにとって辛い時、少しばかり体を借りて代わりに痛みを受けるくらいなんてことない。どんなに頑張っても、体の痛みは代わってやれないんだから」
俺は静かに頭をさげた。これは兄である人にとってはむしろ失礼な行為かもしれない。しかしやらずには、言わずにはいられなかった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとう。君が現れてくれて、どれだけまいなが救われたことか」
ゆっくりと体を起こし、眼前にいる人物の瞳を見つめる。漆黒の瞳が、月光に反射し淡く輝く。
「これも何かの縁だ。良かったら俺のこと兄貴だと思って呼んでくれよ」
そしてまなとは悪戯っぽく微笑んだ。
「よっぽどあのクソ兄貴よりは、いい兄だと思うよ」
「本当にな」
俺も気づいたら苦笑していた。いい兄だ、そしていい友人になれると直感する。
「じゃあ、仲良くなれたことだし今夜はこの辺で。またな」
片手を上げ部屋へと引き返すまなとに、俺も片手を上げて応えた。
「ああ、また」
部屋に入る瞬間、軽くこちらに視線を投げて微笑む。そうして部屋に消えた彼は、恐らくベットに入るとまいなに体を返すのだろう。
静かになるリビングで一人、今の出来事を冷静に考える。
信じがたいことだった、しかし当たり前のように受け入れている自分は一体。いやしかし、だからなんだというんだ。
まいなには確かに味方がいた、それだけではないか。
そう、これは彼女にとっても俺にとっても、良いことだったのだ。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。本来はもう少し書いて一つの話として締めようと思っていたのですが、あまりにも長くなったので前・後と切りました。なので私の作品にしては珍しく次回が気になる感じの終わり方です。よければ気になってやってください。
それではまた。
2015年 9月24日 春風 優華