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疑心

作者: 雨宮奈緒

「いや、まさか、そんな馬鹿な。こんな時に、僕をからかうなんてそんな小さなことする必要ないって。本気で言っているのかと、多少疑っちゃうタイミングだし……」

 蝉が鳴いている。

 外は蒸し暑いが、家の中は、随分と涼しい。家と言うには少々語弊が生じる。ここはアパートのワンルームだ。さらに言うなら、僕たちは玄関から部屋にかけての廊下にたたずんでいる。

 部屋の主の姿はまだ見ていない。

 やけに涼しいと感じるのは、気温を感じる余裕がないからだ。五感は麻痺し、僕の思考の中ではさっき言われた一言がこだましている。

「冗談……だよね」

 確認を求めるしかなかった。そして、それが冗談であってほしいと心の底から強く願った。しかし、底の底にある意識では友人はそんなばかげた冗談を言う人間ではないと言うことを訴えている。

「いや……確かに……」

 友人は重い口を開いて今一度その言葉を口に出そうと必死の様子だった。

「確かに、死んでる。間違いない……間違いは……」

 友人は顔を覆って静かに座り込んだ。

 言葉は頭に入ってこなかった。ただ、その様子がはっきりと真実を伝えていた。

「俺の言葉が信じられなかったら、おまえも見てくればいい。俺としてはおすすめしないな。出来れば見ない方がいい」

 その様子をイメージするだけで吐き気がこみ上げてくる。

「……遠慮しておく」

「そうだな……それがいい」

 重い沈黙が流れる。どろどろとした液体の中に浸かっているような……時間そのものが質量を持っているかのような錯覚がした。

「はっ……そうだ。とりあえず警察に連絡するべき……だな」

「警察……? 救急車とかじゃあ」

 自分でも何を言っているのかが分からなかった。何を言いたいのか、何を理解したいのか判断できなくなっていた。

「俺が連絡しておいてやる。少なくとも事情聴取で大分拘束されると思うが……。まさか、事情聴取を受ける側になるとはな」

 義務感のおかげなのか、友人は多少気持ちを持ち直したようだ。

 友人がポケットをまさぐって携帯を探している。口調はましになっていたが、動揺が隠し切れてなく、酷くもたついている。

「……あ」

 ふと、重要な事柄に気がついた。

「何故死んでるんだろう?」

 友人がようやく携帯を取り出したが、僕の言葉に反応して手を止めた。

「……そうだな。言うべきか迷っていたんだがな」

 友人はもったいつけて喋った。

「俺は俺で、その辺はあんまり考えないようにしたいんだが……、俺はその話をするべきなのか?」

 僕に訪ねてきた。判断は任せる。自己責任でお願いしたい。と言ったような意味合いを感じ取れる。

 しかし、だ。魔が差した……と言うべきなのだろうか。好奇心と言ってしまっては不謹慎だが……そう。これは性というものなのだろう。

 『知りたい』と言う欲求が、この状況下でも降って湧いてきた。

 そう、魔が差したのだ。よくないものが僕の中に入り込んで内側から囁いてしまった。これは紛れもなく余計な考えだったのだ。

 そのまま、僕が口を閉ざしていれば……この事件をややこしくすることはなかったのに。







 夏に入る前のことだった。

 友人の発案で、中学時代の一定の人だけを選んだ同窓会を開くことになったのだ。

 ここは賑やかな場所だが、酒臭い。顔を真っ赤にして声を張り上げる人もいたりするし、なじみのない場所なので一人浮いているような感覚もわいてくる。年齢的にもそろそろ経験してもおかしくない店だ。いや、むしろ経験しておかなければそれで人生やっているのかと疑われるくらいなのだろう。社会とは想像以上に……いや、それを語る資格は僕にはなかった。

 さて。改めて現状を確認すると、初めての居酒屋体験でどう振る舞ったらいいかと四苦八苦中、と言ったところ。

 僕はなんとかして一杯のアルコールでお茶を濁していた。

「遠慮するなって。おまえが薄給ってことは承知なんだからな」

 などと言われても、居酒屋にかかる金額は普段の生活で消費する金額と比べるとアホみたいに高くて、注文をためらってしまう。

「ここの軟骨の唐揚げは特にうまいぞ。食え食え」

 進まれるまま食べてみると、甘いたれとこりこりとした触感で食欲を催促してくる。これはやみつきになる味だ。一皿にのっている量を考えると、これだけか……と寂しくなってしまう。

「おいおいー、普段ちゃんと食ってるのか?」

 正面に座っているのっぽが茶化してきたから、ようやく食事に夢中になっている自分に気がついて、恥ずかしくなり箸を置いた。ごまかすようにわざとらしく咳払いをして見せ、アルコールを煽る。多少動揺していたのもあって、思ったより多い量のアルコールがのどを通過したために、アルコールの熱がのどを刺激して盛大にむせた。

 その様子を見て笑う二人。

 状況の理不尽さに苛々がこみ上げてきたが、それもまたすぐに沈下した。今日という日を考えれば、一時の恥なんて些細なものだ。今日は、数年ぶりに親友と介する日なのだから。

「まあ、ちょっとした同窓会みたいだ」

「確かに、そんな雰囲気はあるな。三人であうのは中学ぶりか。でも、俺と啓介はここ最近だと結構逢ってるしな。俺が警官になってから地元の配属になったもんだから、地元から一切動いてない啓介とは縁が戻ったというか何というか」

 修平が戻ってきたのは今年の話だ。まさか警官になって戻ってくるとは、と当時は驚きを隠せなかったし、同時に嬉しくもあった。中学時代の思い出が新鮮によみがえるかのようで、親友との再会はこれ以上ない素晴らしいものだった。

「一切動いてないってう件りは余計だろ。まあ、確かに、フリーターですけども、何か?」

「いや、就職しろって」

 すかさず正論をたたき込んでくる容赦のない女性が……、そう女性だ。中学生当時は意識することはなかったけど、流石に大人にもなると女性と意識せざるを得ない。咲との再会は結構衝撃的なもので、居酒屋に着いてからの今では言動が当時とあまり変わってないものだったからすぐになじめたが、数年ぶりの再開では誰これ? と一瞬本人かどうか疑いもした。女性の変容はおそろしい。女性だけが使える一種のトリックだと言えるかもしれない。それに比べると修平なんて全然変わってないし、僕自身も同じだった。僕と修平はお互いに成長したなあぐらいの感想だったが、咲は当時の雰囲気はもちろんあるのだが、随分と綺麗になった。いや、綺麗になった、と言う表現だと語彙が貧困か。荒削りだった宝石にさらに磨きをかけて、その宝石独特の味を引き出したというか、いや、親友を宝石に喩えるのも今更ながら気恥ずかしい。

「ま、冗談はおいといてだ。啓介はまだ夢をおってるって事? あの頃のさ」

「そうだったらいいんだけどな」

 修平が深くため息をついた。咲はあきれた表情をつくったが、修平の言ったそれは真実じゃない。

「いやいや、恥ずかしながら一応頑張ってるんだけど」

「へぇ、いいじゃん。なんかおまえだけ変わってないね。身長もあんまり変わってないみたいだし、小説家目指しているところも当時と変わってないから一層懐かしいね。まあ二十五歳までに到達できなかったら諦めた方がいい」

「余計なお世話だって」

「一応は心配してるんだけどなあ。一応は。いや、本当に一応ね」

 このいじられる感じは当時を彷彿とさせる。

 時が経っても関係が変わらないのが親友と言ったところか。それがとてもすてきなことに思えたし、じわりと心にしみる暖かさをも感じることができた。おまけに理不尽さも。まあ、このメンツなら慣れたものだ。

「咲は保育士になったんだっけ?」

「そうだね。私は中学でみんなと別れた後に、高校に行ってから専門に。だから、保育士になってから二年半は経つってところだね。私が一番就職が早かった感じか」

「まさかあの『番長』が保育士とは、人の人生何があったものか分からないもんだ」

「ケンカなら今でも買うけどね」

 さらっと笑顔で言われると恐い。顔が赤いから多少は酔っているんだろう。やはり素の咲はあんまり変わっていないようだ。

「咲だけは特殊だったからな。普通に考えて当時の俺たちとは人種が違ったから、周囲がどんな理由でつるんでいるのかも分からなかっただろうし。おかげ俺たちもちょっかい出される機会が減ったから、なんだかんだでありがたかったな」

 学校の評判の善し悪しに限らず、『悪ガキ』たちがその年の新入生に多く混入する場合があって、運悪く僕たちはそれにあたってしまった。僕は引っ越しも重なって、全く知らない土地の中学に入学したものだから孤立していたし格好の的だったのかもしれない。当時は典型的な陰気質で、啓介しか友達がいなかったもので『悪ガキ』たちのおもちゃにはうってつけの人材だったわけだ。意外なところから咲と縁が出来きて……まあある事件がきっかけで咲が『悪ガキ』たちを殴り倒したものだから、僕たちによって来る人はめっきり減ったわけだが、その件については割愛させてもらおう。

「ま、私もおかげで大分丸くなることができたしね。じゃなきゃ、保育士なんてやってなかったんじゃないかな。ま、何にせよあの頃が人生の分岐になってたことは間違いない」

「同感。それについては、僕もあの頃がなかったら小説家なんてマジメに目指すこともなかっただろうし」

 いつなれるかという話はおいといて、だ。

「『ミステリ研究会』だったな。古風なネーミングだけどそれがいい味だった。まさか、部活動として登録されるとは思わなかったよな」

 修平がクスリと笑うのでそれに釣られて笑ってしまう。郷愁と言うのか、過去を振り返ってほがらかな気持ちになった。

 部活発足に至った話だが、早い段階で顧問になってくれる教師は見つかっていた。けれども、いかんせん部員が四人しか揃わなかった。いや、正確に言えばそれ以上に誰かしらを勧誘する気持ちを持たなかったのもある。そもそも部活名にしても内容にしても、学校側からすればふざけたものだったが、顧問の『趣味に興じたい』と言うこれまたふざけた欲求によってごり押した結果、無理矢理申請を通すことに成功した。今思い返しても無茶苦茶だと思う。

「割とジャンルも分かれてたよな。ミステリと言うジャンルの中でもさらに細分化されて、それぞれの好みがあった」

 アルコールがまわっているのか、修平が饒舌になっていく。視線が宙を見ていることから、自分自身の想い出そのものと語っているようにも見える。

「そう……だな。俺が……」

 修平が多少口ごもった。しかしアルコールが後押ししているのか、口を閉ざすことは出来ないようだ。

 諦めがついたのか、苦笑いをしながら話を再開させた。

「俺は刑事ものが好きだったな」

「だから、警官になったって訳だ。安直な」

 咲がすかさず茶々を入れた。この流れは容易に予想が出来た。警官が活躍するミステリを読んで警官を目指したと言うことになると、本職の人から言わせれば片腹痛い話だろう。まあ、修平は本職になってしまったわけだが……警官をなんだと思っているんだ……と。まあこの流れは容易に予想が出来た。僕らの間では鉄板ネタに違いない。

 修平が恥ずかしさを紛らわすようにアルコールを煽った。

「確かにな。確かに、それは間違ってはいないけど、それが真実って訳じゃあない。小中あたりはそんな軽い認識だったのは確かだ。でもな、ちゃんと現実を認識した上で改めて警官を目指してたんだよ。それで警官になったんだからいいじゃないか。笑うなよなあ」

「志望動機は殺人事件の謎を解きたいからです」

「ったく。無職の啓介には言われたくないよな……。だいたい不謹慎すぎるだろ、殺人事件ってもう……、それを未然に防ぐのが警官だろ。と言うか、刑事もののミステリが大好きだなんて職場では言えるわけないだろ。そんな話したら絶対にからかわれるって」

 修平の経歴としてはそこが大分ネックとなっているようで、僕と咲にちょっとからかわれただけで頭を抱えた。だいぶ意気消沈な修平である。

「私は探偵ものだったよ。『殺人を扱うのがミステリ』じゃなくて、日常の謎を解く種類のミステリをよく読んでた。まあ殺人が一切起きないシリーズものの探偵ものなんてそうそうなくて、完全に殺人を題さないミステリしか読んでなかったってことじゃあなかったけど。まあ……正直のところ最近は小説をあんまり読んでないんだけどね。あの頃と比べて本離れしたのは確かかな」

「仕事を始めると趣味が変わったり趣味に時間を費やすことが出来なくなる人もいるね」

「いや、私はそういう訳じゃなくて……単純にあんた達と接しなくなったからかな。本を読む機械がなくなってった感じ」

 咲の表情が哀愁を漂わせるものに変わった。再び時の流れを感じさせる。つくづく、女性とは時の流れに生きるものだと感じる。

 しみじみとそう感じるのは……多少意識しているところがあるからかも知れない。何が、とは決して口には出せないが。

 咲との出会いは少々変わったものだった。あの衝撃的な出会いは今でも鮮明に思い起こせる。



 それは中学一年生の時。まだ中学生活が始まったばかりの一学期だったが、既に修平と知り合った後のことだ。

 修平と一緒に昼休みに図書室に行ったある日のことだった。

 その図書室は割とミステリが充実していて、タダでミステリ小説が読めるというのは、中学時分としては魅力的な場所だった。なぜミステリ小説が充実していたかというと、後に『ミステリ研究会』の顧問となる教師の息がかかっていたのは言うまでもない。

「おい、お前か」

 怒気を帯びた声で呼ばれたものだから、多少動揺した。多少距離が離れていたし、まず知らない人物だったので、自分の方向に向けて離れた声は、実際のところ自分ではなくて他の人に向けられたものだろうと結論づけて、再び本に視線にしたのが運の尽きだった。知らない女子がずかずかと寄ってきてテーブルを激しくたたかれて心臓が跳ね上がった。その瞬間に静かな図書室がさらに静まりかえって注目を浴びる形になった。

「お前が手に取っているその小説のことだ。そのシリーズ、いつも私の読み終わる次の巻が貸し出し中になってて、なかなか先が読めないんだよ」

 要するに僕の読むスピードが遅いってことが言いたいらしい。実際のところ、複数本を借りた上で、読み終わった小説をまとめて返しているから、遅くなっていたわけなのだが。すごい剣幕で迫られたものだから思わず手に持っていた小説を差し出してしまった。

「あ、はい。すいません」

 と。何が悪いかと言えばおそらく、どちらかが悪いと言うことではない話だとは思うが、自分の返却方法が後から読んでいる人のためを考えるとあまりよくないものだというのは事実だった。相手は相手で、真正面から場所と手段を選ばすに不満をぶつけてくるあたり、あまり素行のいい人物ではないという印象と、あまり関わりたくない印象を覚えたのは確かだった。



「そんなことあったっけ?」

 笑いながらすっとぼけるのは、現代の咲だ。

「俺も覚えてるんだなこれが。啓介がいじめられっ子気質で即座に本を渡したときは、憐れみと同時に、多少の可笑しさも感じてたな」

 いつのまにか修平が復活していた。

「その後は、なんだかんだで咲が積極的に絡んできたものだから、内心怯えつつも仲良くはなっていったんだ」

「類は友を呼ぶって言うか、まあ共通の趣味があれば距離が近づくのは早いね。子供の頃は些細なことで仲良くなれるからいいね」

「ごもっとも」

 アルコールを煽ると、じわりと喉が熱くなった。

 グラスの中を覗くと液体が揺らめいている。表面に光が反射して自分の顔がちらりと見えた気がした。幼い頃の自分と、今の自分の顔が一瞬重なったように見えた。酔いが回ってきているのだろうか? それとも過去を想起しているからか。

 過去ばかりを見るのはいいことではないと思う。しかし、過去を振り返るのは大事なことだと言いたい。甘えるべきところでは、過去の想い出に浸ってもいいはずだ。

「ホントは……」

 僕はつぶやくように言った。

「何が何でも誠一もこの場に連れてきたかった。『ミステリ研究会』全員での同窓会にしたかった」

 『ミステリ研究会』の最後の一人だ。

「ミステリの中でもパズラーを愛していたのが誠一だったな。『ミステリ研究会』の中では一番冴えているやつで、謎解きも誰よりも得意だったな」

 修平は僕の方を見つつそういった。咲のことを気にして言葉を選んでいるようだった。僕はアイコンタクトを受け取って、自分の発言に誤解が生じる可能性があることに気づいた。

 咲が物憂げな顔をしてアルコールを煽っていた。

「やっぱり、……私か」

 咲が今回のメンバに誠一がいないことに、何かしら感じていたようだ。僕と修平は咲の反応について予想も出来ていたし、事前に説明はしていたが、思い違いをしてしまったようだ。僕の言葉は完全に失言だった。

「いやな、咲。誠一とは連絡が取れなかったんだ。中学時代の連絡網に載っていた情報じゃあ住所が変わっていたようで連絡が取れなかった。咲の場合は実家経由で連絡が取れたからよかったんだがな。当時は今と違って中学生が携帯を持っている方が珍しかったし、誠一が一番遠い場所に引っ越してしまったから、連絡のとりようがなかったんだ。ただ、それだけだ」

 誠一は非常に熱心な気質で、弁護士になりたいと中学を卒業していった。中学時分としては非常に高い目標だったのは確かだが、『ミステリ研究会』の誰もが誠一はそれを成し遂げられるほどの熱意があると知っていたし、背中を押しながら見送った。

 しかし誠一と咲の関係が少々複雑だった。

「誠一には改めて謝りたかったな……いや、いつかは謝らなきゃいけないはずなんだ」

 僕たちはしばらく何も言わなかった。

 その後、修平が無理矢理話を変えてくれたおかげで雰囲気が和らいだ。


 小さな同窓会は、終電ぎりぎりになるまで続いた。










 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 


 


 


 



 


 

「まもなく美府です。お降りの際は、お忘れ物ないようにお気をつけください」

 車掌のアナウンスが流れるが、その声は女性のモノだった。物珍しさに耳を傾けつつ座席から立ち上がり開扉を待つ列に並ぶ。斜め前の男性がちらちらと僕を見ていたが、自分がそわそわと落ち着きのない挙動をしているのからだろう。。

 修平は怒ってないだろうか。一時間もの遅刻になるが、何とか誤魔化せないだろうかと言うことを移動中ずっと考えていたが、答えのでないままタイムリミットを迎えた。人が流れ出すのでそれにのって降車する。

 流れに沿って改札を出る前に、僕には早急に目指さなければならない場所があった。焦る気持ちの原因は……恥ずかしながら尿意だった。

 素早くトイレに駆け込み用を足す。

「ふぅ。危ないところだった……」

 遅刻をしてしまったという焦りも一緒に放出してしまって、安堵の表情でゆったりと改札を抜けた。

 しかし修平の姿が見えない。

 修平が改札口で待っている手はずだったのだが……。

 もしかしたら修平の方が間に合わなかったのかも知れない。携帯を取り出すよりも、駅を出た方が目立つだろうと考えた結果、改札を離れることにした。

 自分の行動が功し、修平を捜しに駅の出入り口を目指したら、まさにそこで修平に出会えた。しかし多少時間がかかったのは、改札口からの駅の出入り口が遠すぎたせいだ。

 美府は都会に入る地で、田舎育ちの僕には慣れない駅の規模だったために危うく道に迷うところだった。

「ごめんごめん、待った?」

 まずは軽いノリで相手の怒気を探ってみる。

「一時間ほど遅刻するとは聞いたが、遅れた理由はなんだったんだ?」

 腕を組んでため息をついている。それほど怒っていないようには見えるが、もとより修平は態度からして不機嫌さがわかりにくい人物だった。

「自転車をパンク修理に出してるから、駅までいくのにだいぶ時間が掛かって……」

「俺が聞いているのは理由だよな?」

 長いつきあいの中での感覚で、修平が怒っていることを感じることが出来た。軽いノリで誤魔化すべきではなかった。

「うーん、まあ……昨夜小説を読んでいたらいつの間にか朝日が……」

「小説を書いてた……っていう理由なら許したんだがな。残念だったな。給料日に小説を買ってやるっていう話は延期だ」

「ぐっ……」

 痛いところを突いてくる。しかし自分でまいた種だから仕方なしに了承した。

 駅前で立ち話をしているのも難なので、とにかく目的地に向かうことにした。

「話は変わるけどまだ見せてなかったな。これ」

 修平はハンドバッグからシンプルだがまさしくプレゼントと言うことが強調されている包装が施された箱を取り出した。

「……なんだか緊張してきた。手渡しじゃなくてこっそりと置いていくとかは……」

「今更何を言ってるんだ。そもそもこの大きさじゃ郵便受けを通らないしな」

「咲の住んでいるところは一階だから、ベランダから侵入すればいいんじゃない?」

「いや、開いてないだろ……少なくとも咲は女性なんだからな」

「少なくともって」

「はっはは、たまには毒もはくんだなこれが」

「大分上機嫌だな」

「いやまあ、こうサプライズ計画ってのは何となく子供心がくすぐられるしな。啓介が提案してくれたときは嬉しかったさ。実のところ俺も俺で咲の誕生日のことをすっかり忘れていたしな。お互い同窓会が咲と合った最後の日だったが、あの日にそんな話はあがらなかったからな」

「やっぱり、一日で今までの人生を語るのは足りないってことだ」

「これからの話もしたいしな。また時間が合うときに会合するか。今度は誠一も呼びたいな」

 それまでに、どうにかして誠一と連絡を取る手段を掴まなければ。最終的な手段で『探偵』に依頼するのもありだと思っている。現代の『探偵』とは何でも屋だし。やはり、『探偵』と言えば小説だが、咲が好きなのはむしろ現代の『探偵』の方だ。しかし、なんだかんだで自分たちの力で見つけたい。連絡先という謎を明らかにするのもまたミステリだからだ。

「しかしちょうどこの日が非番でよかった。これも日頃の行いがよかったからだな」

「日頃の行いって?」

 いぶかしげな目で修平を見つめた。

「いやな、最近本格的に体力をつけようと思って毎日のトレーニングを始めたんだ。これが結構洗われるものなんだよな」

「確かに警官に体力は必須だとは思う。けどそれ以上ガタイがよくなっても流石に気持ち悪いんじゃないか?」

「おい、流石にそれは失礼だろ。まあ、細長いだけで筋力はそれほどなかったのは事実だがな。だからこそだ。何かあったときも身体が素早く動くようにしないとな」

「まずます警官っぽくなってきたなあ」

「っぽく、って。俺は警官なんだがな……」

 しょうもない話をしつつ歩いて行けば、目的の咲宅が見えてきた。

 背の高いマンションが目の前にそびえ立つ。高層マンションのようなインパクトのある建物ではないが、都会に出向かないと早々に目にしない高さだ。数えると五階建てだということが確認できる。さすが都会は違う。何が違うかって、すべてにおいての規模が違う。都会の歩道にいるだけでなんだか自分の存在を小ささを感じてしまう。さも当たり前のように道を歩いている人たちがなんだか育ちのいい人間に見えてしまうのが、都会の不思議なところだ。いや、逆だろう。そう感じてしまうのが田舎ものの不思議なところに違いない。ふと田舎性に泣けてきた。

「今気づいたんだが……」

 マンションを見上げながら修平が切り出した。それは同時に僕が思っていたことと同じに違いない。

「うん。管理人とかいたら、サプライズとか無理だね」

 いきなり現実的な問題に直面したわけだが。

「うーん。どうだろうな。あたって砕けるしかない」

 結果的に、厳重なセキュリティというものはなかった。入り口によくある番号式のロックもなかったので、侵入……いや訪問は安易だった。マンションの内装から建物の古さが垣間見えることから、外装は後塗りで綺麗にしたもので、建築年数自体は結構経っているようだ。セキュリティの面に関しては、その様子から納得に至った。

 咲の部屋は一〇五号室。実際に赴いてみると、一〇四号室が空室のようで、一〇五号室は角部屋だった。

「角部屋は素晴らしいな。両方からじゃなくて片方からしか騒音が聞こえないだろうからな」

 などと、修平が今住んでいるアパートの壁の薄さと両隣に住んでいる人たちの周囲を顧みない騒音に嘆いた。

「引っ越そうかな……」

 わりと深刻な問題らしい。

「さて、どんな反応をするかな」

「さあな。それだけは、実際に試して見なきゃわからないな。そして今まさにその瞬間に出くわすわけだ」

 それはもっとも。

 インターフォンを押すとオーソドックスな音が部屋内で響くのが聞こえる。がたり、と物音が聞こえたのですぐにでもドアが開いて咲が姿を現すのかと思ったが、なかなか咲が現れない。

 それ以降うんともすんとも言わない。念のため何回か押したが反応は皆無だった。

「もしかして、咲が倒れていて、僕たちはその第一発見者に……なんて」

「そうなったら、俺が啓介の事情聴取をしてやろう。いや……俺が警官なのに事情聴取を受ける側になるのか……まあ、それは流石に小説的展開過ぎるな」

「はは、違いない」

 咲が休日だと言うことは間違いない。

 同窓会の日に連絡先は交換してあって、さらには某SNSサイトのアカウントの交換もしてあった。SNSはこういうときに便利で、相手の承諾なしに相手の短いコメントから情報を一方的に収集できる。悪いことには決して使ってはいけないものだ。そうしてしまった場合は最近トレーニングを始めた隣の人物に捕まることになるだろう。

「タイミング悪く、外出してるかも知れないな。外出の可能性が低い午前中を狙ったつもりなんだがな」

「まあ、ここまで来て帰るわけにもいかないし、仕方ないから連絡しよう。これでも十分当初の思惑でもあるサプライズにはなるし」

「そうだな」

 携帯を取りだして、咲の携帯に繋げる。すると咲の好きそうなヴィジュアル系の曲がどこからか聞こえてくる。音の方向を向くと、案の定ドアの向こう側だ。すると、かすかだががたりと音が聞こえた気がした。寝ていた咲が起きたのだろうか?

「お?」

 しばらく着信音が続いて、留守電へと切り替わった。

「あれ? おかしいな……」

「ん? どうしたんだ?」

「いや、気のせいか。……もしかして咲がさっき言ったとおりに……」

 冗談を言いつつドアノブを引いてみると、思いもしない感覚が返ってきた。

 ドアが開き、それを予測しなかった僕は開きかけたドアで顔をぶつける。

「いやまさか」

「いやいやいや」

 とりあえずドアを閉めて何事もなかったように……は、出来ない。

 考えられるシチュエーションは一つある。

「もしかして咲はコンビニにいってるのかも知れない」

「コンビニ?」

「近場に出かけるときは、財布だけ持って鍵をかけずに、さっと移動することが……」

「いや、それはお前だけだろ」

 冷や汗が流れるのを感じた。

「とにかく、確かめてみよう」

「不法侵入になるだろ」

「もしもの時のためにトレーニングを始めた人は誰? もし本人がちょうどこのタイミングで帰ってきたらサプライズで誤魔化すと同時に謝ればいいし」

「……わかった。何かあったら俺が責任をとろう」

 静かにドアを開けて、僕が咲に行き、修平が後を付いてくる形になった。

 自分が変な冗談を言わなければよかったと多少後悔する。ただの偶然だろうと言う気持ちの奥底にいやな予感を感じる。

「お邪魔しまーす」

 断りを入れたから不法侵入にはならない……訳はない。

「咲?」

 咲の返事を期待して声をかけるが、返事はない。

 リビングへのドア……木製だが中央にはガラスが嵌められていて、中の様子が窺える。その範囲から臨める場所……咲が床に寝っ転がっていた。寝っ転がっているだけでどういう様子かはわからない。わからないからこそ……。

「し、修平……」

 振り返って修平に助けを求めた。

  修平は無言で頷いて了承した。

 修平がドアを開けた瞬間、僕は思わず身を引いた。僕はドアの先の光景を見ることを本能的に拒否した。

 僕のミステリ脳は咲の姿を捉えたときから最悪の結果しか見いだせなかった。

 そして修平の息を呑む音が聞こえた。静かな静かな部屋に、ぬらりと音が伝わった。

 蝉が鳴き始めた。






 玄関とリビングを繋ぐ通路の隅で身を縮ませているのが僕。その横で壁を背にして立っているのが修平。咲の死を確認したのは修平だけだ。僕にはあのリビングに立ち寄る勇気はない。いくらミステリ愛好家だからと言っても、現実の話では違う。ましてや知人……いや、親友なのだ。

「非常に言いにくいんだが……おそらく咲は他殺だ」

「咲は誰かに殺されたってこと……か」

「いや、おそらく……だ。素人目の判断だし、考え込むような事じゃあない。この先のことは警察がやってくれるはずだ。いや、俺も警察だけどな……どうしてこうなったんだ」

 修平が再び携帯を開いた。

 しかし、いっこうに通話をする様子が見受けられない。

「すまん。どうやら道中で電池が切れていたみたいだ。啓介の携帯を貸してくれないか?」

「……ああ」

 携帯を取り出して、自分の携帯も電池が切れていないかを確認して修平に手渡そうと……して手を止めた。

 再び、魔が差した。それはさっきよりもやっかいな魔だった。

「どうしたんだ?」

「いや……やっぱり警察に連絡するのはもう少し……後にしない?」

「一体何を……」

「修平が言いたいことはよくわかる。通報するのは一般常識として当たり前のことだ。けど……咲の死について何も知らないまま見送る事なんて出来ない。おかしな事を言ってるかも知れないけど、咲は僕たちの親友だ。ただ、自分が納得したいだけっていうのもあるけど。ほんと身勝手だけど、納得したいんだ。僕たちが咲について何も考えないまま終わっていい訳じゃないと思うんだ。少しの時間でいいんだ……時間が欲しい。もう少し、もう少しだけここにいよう」

 僕はうつむきながら……ぽつりぽつりと感情を絞るような声で言った。ただ、全部が本心ではなかった。

 修平の反応を伺うために少々芝居を打っていた。

 どうか、修平の反応が僕の発言をとがめるようなものであって欲しい。せめてここにいる必要性はないと、そう言って欲しかった。

 修平は一瞬何かを考えるかのようにうつむいた後、ゆっくりと返事をした。

「……わかった。長居は出来ないが、付き合おう。そこまで言うならな」

 その瞬間僕の中で一つの椅子に座る人物の輪郭が、修平の形を作り始めた。

 その椅子に座る人物は……咲を殺害した犯人だった。





 『ミステリ研究会』の部室でのある日のこと。

 その日の部活に訪れたのは、僕と修平だけだった。『ミステリ研究会』の実態は単に雑談したり本を読んだりするものだったから、必ずしも部員が集まる必要はなかった。咲と誠一は別のクラスにいたし、小説だけの人生を歩んでいるのはどうやら僕と修平だけのようで、毎日のように『ミステリ研究会』の部室にいるのは僕たちだけだった。

「なあ、完全犯罪の定義って何だと思う?」

「藪から棒に」

「いいだろ」

「まあ、あれかな。『誰にも想像できない犯罪』が完全犯罪かな。つまり、計画犯罪で完全犯罪を起こすのは不可能で、全くの偶然によって作り上げられた犯罪が完全犯罪。誰にも想像できないことを想像するのはそれが人間である限り無理だから。自然の力がすさまじい偶然を起こして意図しないところで完全犯罪がつくられること以外は無理かな」

「お前らしいな」

「じゃあ、修平は?」

 修平は自分から問い質したのにも関わらず、発言を少々ためらったようだった。

「事件にならなければそれが完全犯罪だ」

「事件に? 自殺に見せかけての殺害とか?」

「それだと、さすがに検死でわかるだろ」

「じゃあ、失踪扱いのまま誰にも見つからない場所に……。ああ、コンクリートに埋めて海の底とか。死体が見つからなければ事件じゃないってことで」

「うーん。それとは違うな」

 修平は酷くもったいぶった。

「事件を捜査する側にまわるんだなこれが。自分で事件を起こして自分で捜査すれば、見つからなかったですむ。むしろ、些細なこととして事件にすらしなければいい」

「刑事ものが好きな修平らしい回答だ。でも完全犯罪の定義としては違う気もするけど」

「可能な限りの完全犯罪ってだけだな。まあ、しょうもなかったな」

「いや、完全犯罪をする方法はある。それは確実に捕まらない方法が。それは、『場所』なんだけど、その『場所』で起こす犯罪はすべて完全犯罪になる。その『場所』は、誰もが簡単に行ける場所だ」

「そんな馬鹿な」

「夢の中」

 一瞬時間が凍り付いた。

「あほくさいな」

 僕は誤魔化すように本を開いて目線を落とした。おまけに口笛も吹いてやる。

 




 僕たちは事件の推理を始めた。推理と呼ぶにはいささか幼稚だし推測というレベルだ。本職の人たちには遠く及ばない。提案したのは僕だったが、咲自身を含めたリビングの観察は修平お願いして、僕はは廊下で待機することになった。

 修平が犯人かも知れないと少しでも疑ってしまっている僕だが、修平は嫌な役回りを任せてしまったと反省している。

 普通に考えれば犯人ならば嫌疑をかけられないように嘘をつく可能性もあるが、僕の推測では修平にに嘘をつくメリットはない。修平が、万が一にも犯人ならば……の話だが。

 咲の死体を直視したくないというのは理由の大半であったから本当に修平には申し訳ない。

 修平への申し訳なさと、修平が犯人であることは油と水のような関係で交わらない。別々の判断で、感情が分かれていた。

 しばらくして修平が戻ってきた。

「まず部屋の構成だが、リビングが六畳程でベランダがついているな。廊下側は見ての通りリビングに繋ぐドアの前にキッチンがあって、玄関までフローリングの廊下が続いて、途中で分岐している。分岐したところに、トイレと風呂場がある。そして……問題のリビングだ。ドアから部屋に入った場所を支点にしよう。入って左にベッド。これは左側の壁を頭にして置いてある。部屋の右奥隅には右側の壁を背にしてPCラックがおいてある。部屋の中央には足の短いテーブルが。その左側にはテレビだな。部屋の左奥隅にはクローゼットがある。部屋内の配置は大体こんな感じだ。そして咲が倒れていたのはPCラックの前、ベランダに繋ぐ窓側だ。ベランダに足を向ける形でうつぶせになっていた。つまり、部屋に入ればこちら側に頭が向いていることになる。そして咲の位置に本来あるはずの椅子は咲の左側に倒れていた。左の壁を頭にして倒れていたな。咲の首には紐がきつく巻き付いていた。考察だろうな……」

「鍵はどうだった?」

「ベランダへの鍵は開いてたな……ちなみに玄関の鍵が開いていたわけだし、密室状態じゃあないな。仮に、犯行時刻にも玄関とベランダの鍵が開いていたというのならば、誰にでも侵入は可能って事になるな。つまりざっくり言うと、咲以外の全ての人間が容疑者になる」

「それは大げさじゃないか? 女性の一人暮らしなら戸締まりは当然だ」

 咲ならどうかと考えてしまうが、流石にそこまでがさつではないはずだ。

「どちらにしろ容疑者は不特定多数だと思う。俺たちは咲の交流関係をあまり知らないしな」

「容疑者を絞るのはいろいろと手段があるね。咲のバイト先に聞き込みにいくとか。今はこの部屋から出るわけにもいかないから、ここでも出来る絞り込みをしなければいけない。つまり動悸の線で誰が犯人かっていう探し方は出来ないね。現場の状態から犯人像を形作っていこうと思うんだけど」

「ふむ……そうだな」

 とにかく、僕は犯人の椅子に座っている人物の輪郭が、推理の過程で修平から別のものになることを願う。僕の推理ではまだ修平が犯人の可能性の方が高い。

「修平は何か感じたことはある? 僕は実際には見てないから犯行現場から何かをひらめくことはないけど」

「確かに、判断材料は俺の方が多いな。現状だと一つ考えていることがある」

 修平は一息おいて推理を語り始めた。その間僕の方を一切見ようとしない修平の態度に、僕の猜疑心は高まっていく。

「戸締まりはしっかりしていたと仮定しよう。咲の状態から争った形跡も確認できなかった。となると顔見知りの犯行が濃厚だな。咲が家に犯人を招き入れた形が自然だ。だが、咲の交友関係が現状不明だから、啓介の言うように交友関係から推測するのはひとまず保留だ。まず断っていくことがある。咲の死因だが……念入りに調べた訳じゃなく、見たままから得た情報で絞殺だと仮定している。現場保存は原則だからな。それを踏まえた上で俺の話を引き続き聞いてほしい。ここからが、事件の大事な推理要素になると思うからな」

 僕は頷く。

「咲の首にはその辺のホームセンターにでも売ってそうなロープ巻き付いていた。部屋が荒らされた形跡がなかったのも合わせて、ロープは犯人が持参したと考えるのが自然だな。そのことから衝動的犯行じゃなくて計画的犯行だったはずだ」

 計画的だったという点については完全に同意だ。

 修平を疑ってしまう理由の一つに、咲の家を訪れる際にあったある提案が含まれている。

 オンライン通話を経由してプレゼントを持参してサプライズを企画しようと提案したのは僕だったが、修平は条件を一つくわえた。

『誰にも口外しないことだ。お前の場合うっかり誰かに喋ったりブログに書き込んだりする可能性があるからな。間接的に本人にばれる可能性もある。どうせなら誰にも喋らない方がいい』

 今ではその言葉には裏があるともとれる。アリバイ工作だ。もちろん修平も今日の予定を誰にも漏らしていないのだろう。ただ、お互い電車を使ってここまで来たのでアリバイとしては不完全だ……修平の狙いで重要なのは、自身のアリバイの不完全さよりも、僕のアリバイの方がが不完全だと言うことだ。

 例えばこうだ。

 男は誰にも告げずにどこかに出かけた。女の家で二つの死体が。遺書がある。どうやら男の方は自殺したようだ。女の方は殺されている。いわゆる無理心中の現場だ。無理心中を図った男は道中で友人と会ったようだが、その友人は少し話をしただけ別れたと証言している……と。会ったのは偶然、疑おうと思っても証拠がないから嫌疑が薄くなる。メールやチャットではなくオンライン通話で用件を済ませたのが仇となっているのかも知れない。いや、仇とは言ったがこれは可能性の話だ。あくまで可能性の話……。

 修平を疑う気持ちと、それを許さない自分の気持ちが入り交じっている。

 そもそも修平を疑う切っ掛けとなったのは、改札で待つと返信をした修平自身が改札にいなくて、結局駅の出入り口付近で逢ったと言うところだ。修平は見た目通りきまじめな性格で、自分の言ったことを反故するような人間じゃあない。

 僕の推測では、咲の家に行ってから隙を窺って絞殺し、駅に再び戻ってくるまでの猶予が思ったより無かったのかも知れない。しかしこんな推測は大して重要ではなく、要は改札で待っていなかったことが、疑念を生む切っ掛けになり、先程のようなストーリーを構築するまでに至った。もっと言えば集合時間より前に、美府に到着していて俺が遅刻をするというイレギュラーが発生せずとも事を成していたのかも知れないし、俺が遅刻をしたから決心したのかも知れない。仮定は無数だ。

 仮定は仮定、想像は想像。妄想は妄想。だがしかし修平が咲以外の全ての人間が容疑者と言う言葉をとれば、僕の中では修平一番怪しい。僕が警察に連絡するまでも短い時間で辿り着かなければいけない真実は、修平が犯人ではないという確固たる解答だ。

 犯人を特定するためじゃない。修平を容疑者から外すための時間だ。

 さっき言った納得したいという意志は嘘じゃない。修平が犯人ではないと納得したい。

「で、だ。冷静な犯人が犯行を及ぶとすると当然背後から被害者を襲うはずだ。前から堂々とロープを出して首に巻き付けるよりも、後ろからおこなった方が被害者に気づかれにくいし、気管と血管を圧迫しやすいからな。さらに体格差があれば、背負うようにして吊り上げることで殆ど抵抗なく短い時間で殺害できる。犯人がこの手段を使ったかは解らないが、冷静な人間なら背後からってのは当然な思考だ。そうすると、ベランダに繋がる窓が開いていた理由がわかる。状況的には少々危険だが、絞殺の手段を考えると、それしかない。ドアに足を向ける形で倒れていたからな。咲がベランダから部屋に戻るときに犯行が行われたと思う。直前まで犯人と一緒にベランダにいたんだ。それは咲と知り合いだと言う話にも繋がる。咲が倒れていた犯行現場である狭い場所で、小物がたくさん置いてあったPCラック上からモノが転がり落ちた様子がなかったことから、殺害はスムーズに行われていた。つまり犯人は咲より背が高い可能性が大いにある」

 後は予定通り僕を殺すだけで終わる。元々腕っ節は修平の方が勝っているのだ。対して僕はもやし同然だから、簡単に組み敷かれる。もしかしたらこのときのためにトレーニングを始めたのかも知れない。もしかすると咲を殺害したように隙あれば僕を絞殺するかも知れない。咲と僕の身長は同じぐらいだが、修平の身長は高い。それこそ、背負うようにして絞殺した場合、自身の体重で首がしまることになるから、首吊り自殺に見せかける事が出来るはずだ。

 死体、遺書、自殺。無理心中。

 それが犯人の犯行計画だ。

「よって俺の推測の結論は、犯人は咲の知り合いであり咲より背が低い人物ではない。その程度だな……何か突っ込むところはあるか?」

「確かに情報が少ないとは言え、さすがにベランダで犯行に及ぶのは不自然じゃないか? 計画的な割に目撃者を出す可能性が濃厚だし。それに椅子の事もある。椅子の位置が不自然だ。修平、椅子はどっちの方向に倒れてた? PCラック側、それとも反対?」

 それはさっき修平が言ったことだ。

「反対側だ……あ、そうだな。そもそも椅子が本来置いてある場所に咲が倒れているわけだから……そこからベランダに出入りした可能性は低いな。どうしても出入りするには椅子が邪魔で、わざわざ椅子をどけるよりは、椅子のない左側からベランダに出入する方が自然だな。それに気づいているって事は、何かしら啓介は別の推理があるって事か?」

 もちろんある……が。言葉に詰まってしまった。今考えていることをうかつに口には出せない。

 修平が犯人だった場合にはまさしく言い当てることになるが、僕が逃げようとする前にあっさり捕まるのは関の山だ。そして修平が犯人でなかった場合、親友を殺したと宣言された修平との仲は最悪になるだろう。修平の推測が反対された今は僕の推測しか残ってない。今現在の僕の中には修平が犯人であるという可能性しか残っていない。しかし黙っていても始まらない。いや、待てよ。喋っている内に何か別の解答が見いだせるかも知れない。沈黙は不自然だ。何か言葉を……。

 古風な音が部屋の中に響いた。

 間の悪いチャイム音だった。

 まずい。

 死体と一緒にいる男二人。そして訪問者。疑われても仕方のない構図に陥った。

 修平が目配せをしてくる。どうする? と言う意だろう。僕は少し考えた後、立ち上がって玄関に向かった。仕方ないが、推測タイムは中断だ。そして修平が犯人だった場合にはこれほどの救いの手はないだろう。

 咲の知り合いか……はたまた関係ない、配達やら宗教の勧誘なのか。説明の手軽さはあきらかに前者であるが……果たして。

 癖で覗き穴で来客者を確認してしまった。

 意外にも咲を訪れる人物はどこか見覚えがあった。あれ? 誰だっけ……と思い起こそうとするのも束の間、中学時代の記憶がよみがえってきた。

 思い切って玄関を開ける。

 当時とはだいぶ変わった印象の誠一がそこにいた。





 『ミステリ研究会』の部室でのある日のこと。

 その日は珍しく修平はいなかった。そして珍しく、誠一と二人だけになっていた。

「うーん。どういうことなのか」

 誠一が小説とにらめっこしていた。難解なパズルにでも出会ったのかも知れない。パズルと言ってもミステリ小説のことだ。誠一は、『挑戦状』形式の作品をよく好んで読んでいた。すべての情報は読者に与えられている。一つ一つの情報を整理していって、並べ替えて、うまく組み合わせていくその様子は一つの絵を完成させるパズルのようで、完成するものは物語の結末だ。

「ほとんどの情報が犯人当てには意味のないものだったと」

 誠一の手にしている小説のタイトルを見て納得した。それは先日僕が薦めた小説だった。

「誠一には合わなかった?」

「いえ、面白かったですよ。ただ、いつもの調子で読んでいたらやられましたね。でもこの作品、知的好奇心を満たすのには絶好です」

 誠一は、同じ年の僕たちにすら敬語を使う人だった。遠慮しなくてもと言ったことがあったが、誠一の生来の癖らしい。その方が落ち着くし、急に変えるのも難しいと言われれば、それ以上言うことはなかった。最初の頃はむずかゆかったが、今ではもう慣れていた。

 誠一は小説を、部室の棚にしまった。その棚に入っている小説のほとんどは、顧問の所有物だ。ミステリという枠の中でもいろんなジャンルがあり、すべてが網羅されているその棚は、ミステリ専門の図書館のようだった。

 誠一が椅子にもたれて、休憩し始めたので、前々から気にかかっていたことを思い切って質問しようと決心した。

「昔咲と何かあったの?」

 誠一は僕の質問に苦笑した。

「いや、まあちょっといじめられてただけですよ」

「いじめ……?」

 心がざわついた。その単語は僕の心の中にある古傷にしみた。

「正確に言うと、咲さんがいたグループにいじめられてただけって話ですけどね。ストックホルム・シンドロームってわかります?」

「犯人に同情する的な話だっけ」

「それみたいなものだったんですよ」

 その言葉を言うと、誠一は席を離れた。窓の前に立って、こちらに背を向けたままじっとしていた。何かを思っているのか、どことなく、寂しげな後ろ姿を見せいた。さすがにそれ以上詮索することが出来ずに、僕は再び小説に視線を戻した。

 気にかかって幾度か視線を誠一に向けたが、しばらく誠一はその姿勢のままだった。

 長い時間だったかも知れないし。もしかしたら、思ったより短い時間だったのかも知れない。誠一は背を向けたまま話し始めた。

「幸せになる簡単な方法ってなんだと思います?」

 誠一の質問に僕はすぐにぴんときた。さっき誠一が読んでいた小説の話だ。

「人間をやめればいい。ってね」

「口で言うのは簡単なシリーズですね」

 二人してくすりと笑った。

 全くその通りだ。

 その日からか、はっきりと口にしたわけではなかったが、二人がお互いを共通点のある人物だと認識したんだと思う。誠一はよく部室に来るようになったし、よく話すようになった。真の意味で誠一が部員と言えるきっかけになったのはこの日なのかも知れないと、自分の中では思っている。

 思えば誠一はわりと無理矢理に咲に部員として捕まっていたような印象があった。決して本人が無理矢理連れてこられたと言ったわけではないし、本人の意志を確認した上での部活立ち上げだった。咲が多少強引なのは周知の事実だったわけだし、しかし咲がその手段として暴力を使うような人間ではないことも知っていたので、問題はないと判断していたのだ。

 僕と修平の中で咲と誠一の関係について追求しないことは暗黙の了解となった。

 過去に何があろうと今が良好ならば藪をつつくような行為は無粋だと。

 過去は過去なのだ。それが積み重なって今ができあがっているのは確かだが。過去のその瞬間は今ではない。つまり、今この瞬間は過去のその瞬間が形作ったものではない。今この瞬間を評価するために、過去の一瞬を使ってはならないのだ。過去はそれだけではないのだから。

 

 

 






「ま、まさか……咲が……こんなことになっているなんて……。それにしても貴方たち、犯人を推測するために死者の居る場所に留まるなんて不謹慎です!」

 全くの正論を言う誠一は当時とはだいぶ印象が変わっていた。まず目につくのはその身長だ。僕たちの中で一番背が低くて小動物みたいだった誠一は修平とそう変わらない身長になっていた。

 誠一のどことなく他人行儀な口調も僕たちの接しなかった年月を表しているようにも思える。

「そもそもどうして、貴方たちはここに? 中学時代の同級生がこんなところで介するなんて、偶然にもできすぎているような気もしますが」

「いや、咲の誕生日に先駆けてプレゼントを持ってきたんだがな」

 そう言って修平は箱を取り出した。

 結局相手に届くことのないプレゼントとなってしまった。

「この前同窓会をやっていたんだ。同窓会と言っても小規模なもので『ミステリ研究会』のメンバーで。唯一誠一の居所がつかめなくて……」

「ああ、確かに住所を変えてましたからね。無理もないと思います」

「誠一はどうしてここに?」

「実家に帰る途中だったんですよ。僕も咲さんが誕生日というわけで、どうせ通るのならば挨拶程度しておこうと思いまして。それより警察に連絡しなくてもいいんですか?」

「あ、いや連絡はする。もういいよな? 啓介」

 僕は頷いて携帯を渡した。

「あ、ちょっと待ってください」

 と、思いがけない方向からの制止があった。僕と修平は誠一の顔を見る。

「その……気になることがあるんです。咲の死について。貴方たちが言う犯人が解るかも知れません」

 誠一の言葉に僕も修平も驚きを隠せなかった。先ほどはざっくりと説明しただけだったのに早くも事件が解けかかっているのかと。

 驚きと同時に同時に誠一なら……という期待も湧いてきた。『ミステリ研究会』では随一の推理力を持った人間だった。もしかするとその言葉は真実になり得る。

「まずは貴方たちの推理を詳しく聞かせて貰いませんか? 情報は多くあった方がいいので」

 誠一の提案通り、僕たちは先程の会話を……と言っても修平の推測しか出ていなかったが……誠一に話した。状況と、没になった修平の推測を。

「って、まだ話し始めたばかりだったんですね……後ちょっと部屋を見てきます。実際に見た方が情報が得られますし」

 誠一は部屋に入っていった。

「誠一なら……解決してくれるような、そんな気がする」

 修平がどう思っているのか知りたくて意見をあおいでみた。

「正直なところ解らんが……もしかして俺たちの気づいていない何かを見つけたのかも知れないな。簡単に言ってしまえば、ミステリもなぞなぞと同じようなものだろ。解る人にはすぐ解ってしまうものだな。しかし、さすがに不特定多数の人物を絞るのは無理なんじゃないか?」

「それを言われると……非常に難しいような……」

 口ごもった。もし、誠一の推理が僕と同じところにたどり着いたら……一体どうなるのだろうか。その先はなるべく考えないようにして、何があっても流れに身を任せようと、決心した。

 誠一はすぐに廊下に戻ってきた。自信満々な表情を浮かべて。

「解りました。この事件の謎が解けましたよ」

「へ? もう?」

 予想外の発言に僕は間抜けな声を漏らしてしまった。

「一体どういうことなんだ?」

「とっても簡単な話だったんです。貴方たちはある固定概念にとらわれてしまっていた。それは、これが『事件である』と思いこんでしまったこと。ミステリの読み過ぎなんじゃないんでしょうか? いや、皮肉じゃあありませんよ。確かにこの現場だったら事件だと思っても仕方ないかも知れません」

「勿体振ってないで、解ってるのなら早いところ教えて欲しいだろ」

 そう急かしたのは修平だった。僕も同感ではあるがこれこそミステリ的な展開だ。誠一もミステリは好きだったはずで、やはりその言葉は皮肉だったのだろう。お約束な展開を披露する誠一から当時の『ミステリ研究会』を想起させて懐かしさが生まれた。同時に本当に誠一がここにいるんだという、妙な安心感があった。

「この事件には犯人はいません。と言うか、他殺ではなかったんです。つまり……咲の自殺だったんですよ」

 誠一が何を言っているのか理解するのに数秒かかった。目をぱちくりさせて、誠一の言葉を反芻する。

 自殺?

 あの咲が?

 修平も、事態に追いついていけずに呆然としていた。

「さ、咲が自殺なんて……そんな筈はない……と思うけど……」

「咲自身に何があったのかは解りません。あの頃のように一緒に活動していたというわけでもないし、知らぬところで大きな傷を負ってしまったのかも知れません。それを否定するのは簡単ですが、状況が状況です。この状況の要点は、椅子の位置、ロープの二点です。修平はちゃんと咲の首にまかれていたロープを観察しましたか?」

 そういわれると修平は口ごもった。

「いや、友人の死体なんてそう、まじまじと見たくないものだったから……念入りには調べてはないんだ」

「そうですか。まあ、その気持ちはわかります。私もこんな状況でなければさっさと警察に連絡しますからね。ロープの状況ですが首にみっちりと食い込んでいるわけではありませんでした。偶然そう見えるように落ちてしまったようです。それと結わえた跡もありました。そもそも計画的、冷静な犯人ならば少しでも情報を減らすためにロープは持ち去るでしょう。偶然そう見えるように落ちた、そして結わえた跡。その二つを覚えておいてください。そして椅子です。貴方たちの話では椅子の場所が不自然と言うもので終わってましたよね。今咲のいる位置から転がったようにしか思えない場所に……そうです。あれは足場だったんです。椅子にのった上でカーテンレールにロープを結わえて、それを首に掛ける。後は椅子を蹴飛ばすだけで足場が消えて自重で首が絞まるわけです。どうやら結びが甘かったためにほどけて落ちたんでしょうね」

 誠一が幕を下ろした。

 誠一の推理を否定することは難しかった。それはあらゆる意味だったのかも知れないが、僕には否定は出来なかった。

 咲の自殺の動悸については皆目見当はつかないが、異論はなかった。それは修平も同様で納得したようだった。どうやら僕の修平が犯人ではないかという心配は杞憂だったというわけだ。馬鹿な僕でよかった。

 今となってはの話だが、ミステリ好きとして犯人を解いたのが自分でないというのは少々悔しい面もあった。不謹慎きわまりないが性というものなのだろう。

 その後僕たちは警察に連絡し、事情聴取を受けた。警官である修平がいたのと、誠一の推理を話したせいもあってか、思ったよりもすんなりと開放された。

 その後誠一は田舎に帰るというわけで先に帰った。短い再開だったが、今度三人で飲もうと言う約束をした。

 もう決してあの頃の四人が揃うことはなくなってしまったが……。

 僕と修平はプレゼントの宛先もなくなったまま美府で途方に暮れていたが、美府にきたついでに買い物をするのも何かを楽しむ気分にもなれなかったために、結局帰ることにした。電車の中でゆらゆらと、二人して終始無言で二時間ほど。途中修平と別れて、僕は人、更に二十分ほど電車に揺られる。夕陽が山間に沈んでいく。自宅に着いたときは夜のとばりが降りていた。

 自宅に着くと、母が用意してくれた夕食が残っていた。残り物だから温めてして食べて、と言われた時には日常に戻ってきたようで、今日の出来事はまるで夢のような……いや、むしろ悪い夢だったんじゃないかと疑ってしまうほどだ。

 夕食を終えて風呂に入って自室に戻ると、いつもは真っ先にPCにつくのだが、自然と足が布団に向かった。寝て起きれば目が覚めるかも知れない……今日のことは全て夢で本当の一日が始まるんじゃないか……なんて馬鹿なことを考えながら目を閉じた。

 これが一冊の小説であったら、顔を上げるだけで何事もない平穏な日常のはずだ。

 壮大な事件は小説の中のみで行われていて、読み手は他人の人生をただ傍観している。読み手は決して小説の中の世界には交わらない。ただ、最後のページに向かって覗いているだけだ。

 これが、作者ならば……今までのことをなかったことにして最後のページに主人公が夢から覚める描写を加えておくだけでハッピーエンドだ。

 ……そういえば僕はまだ小説家になれていない。

 僕は僕の人生の作者ではない。なぜなら物語を書き換えることが出来ないからだ。

 なぜ、咲は自殺してしまったんだろうか?

 まだ謎は残っている。『ミステリ研究会』の一人として、それは解かなければならないだろう。

 夢の中へ。






 変な夢を見た。

 それは古風な着物を羽織った僕が、原稿用紙にがりがりと筆で小説を書いている夢だ。

 僕がと言っても僕自身じゃない。ややこしいようだが、僕自身が古風な着物を羽織った僕を見ていたのだ。

 その言葉はあれも違うこれも違うと、原稿用紙を丸めては投げ捨てていた。

「固定概念だ。固定概念にとらわれている。それを払拭しないと物語の最後にたどり着けない。面白い作品を描こうとする固定概念。恒例にならおうとする固定概念。面白い作品は既存の固定概念から抜け出さなければいけない。固定概念は誰の中にも存在するが、その人物の概念にのみ存在するその人自身の魔だ」

 どうやら、夢の中の僕はなかなか筆が進まないようで、書いては投げ、書いては投げを繰り返し続けていた。

 酷く、怖ろしい夢だった。




 汗だくだった。

 夏の日差しのせいじゃない。悪夢の内容は覚えていた。小説を書くものとして最悪の夢だったのかも知れない。筆が進まないというのは最上の苦痛にあたることを知っていた。

 そして今日が昨日の続きであることを知ってしまった。

 咲の葬儀から三日。事件は意外な進展を見せていた。

 朝食を終えた後、PCに触れてワードを立ち上げた。

 ここ最近全くPCを触っていなかったために、一文字も増えていない書きかけの小説が残っていた。

 一ページ進んだ。

 一ページ進むくらいには、気持ちが回復することを確認できた。

 咲が死んでしまっても世界は無情にも回るのだ。死者のために生者が立ち止まってもむなしいだけなのだ……そう、そう断言できるくらいには回復したい。でも、たまにはちらりと後ろを振り返ってもいいはずだ。

 今日は修平と行かなければならない場所があった。

 隣県の病院だ。

 今現在誠一はそこにいるらしい。

 道中で何度もくじけそうになった。本当に行ってもいいのか、自分にはその権利があるのだろうかと。

「本当にいいんだな? 正直俺もまだ迷ってる」

「……物語の結末を見なきゃいけないんだ。それが読み手の責任なんだから」

「咲の人生だからな。見届ける必要はあるよな」

 病院の前の、一人の女性に声をかけた。

「誠一さんの、親御さんですね」

「はい。あなたが啓介さん?」

 酷くやつれた顔をした女性だった。どうやらこの人が誠一の母親らしい。

「いえ、僕は修平です。啓介はこっちの……」

「あ、僕が啓介です」

 あわてて一礼した。誠一の母親を見るのは実のところ初めてだった。いや、本当のところは過去に一二度はあったかも知れないが、少なくとも対面するようなことはなかったはずだ。誠一は家庭のことに関しては一切の話をしない人だった。

「お役に立てるかどうかはわかりませんが……」

「わかっています。でも、あんな息子の様子は見てられないんです。せめて、なんとかする方法はないかと……」

「案内を、お願いできますか?」

 誠一の母親は頷いた。僕たちは誠一のいる病室へと先導してもらった。

「それで、その話は本当なんですか? いえ、疑っているわけではないのですが、なにぶん話には聞いたことはあるのですが実際に見たことはないものでして」

 病室へ着くまでの間、すべて修平が話をしてくれた。僕の人見知りは相変わらずだったし、ことがことだったために、事前に修平に一任してもらったのだ。

「はい。それが本当ならば『ミステリ研究会』の部員に合わせろと。何を聞いても何を言っても、そればかりで。修平さんは、警官なんですよね? 裁判の方はどうなるんでしょう……私の息子が……」

「すいません。管轄が違うので、今回は事件の参考人としてしか関わってないんです。ただ、責任能力がないとして……素人ながらの考えで申し訳ないですけど、重い罪にはならないかと……。は、すいません。失言でした」

「いえ、いいんです。子の責任は親の責任ですから」

 思い詰めた表情をした。

 ここ数日の突然のことで酷く追い詰められているのが見て取れる。あまりにも可哀想だ。

 僕は修平に目配せをする。

 修平は僕の意図を感じ取ったようだったが、話を続けた。

「いくつか伺ってもよろしいでしょうか?」

「ええ」

「誠一さんが弁護士を目指していたことは知っています。中学の時からの夢だったようで、僕たちもそれを応援していました。しかしその誠一さんが、今年……」

「そうです。あれは何かの間違いでした。誠一がぼろぼろになって帰ってきたときは真っ青になりました。あれは受験当日のことでした。誠一は何も言いませんでしたけど、暴漢におそわれたんです。私たちが住んでいる土地はあまり治安がよくないのか、悪い噂もたっていたので。受験には間に合ったようですけど、結果はよくないものでした。普段の誠一なら大丈夫だったに違いありません。その日から誠一は一切話をしなくなりました。あんな事がなければ……誠一は……」

 感情が高ぶっていく様子を見て、修平が必死に宥めた。

 僕も見ていられなかった。真実と向き合うには痛みが伴うものだ。

「すいません……すいません、取り乱してしまって」

「修平はいつから、……その、今のような状態になってしまったんですか?」

「……私がパートから帰ってきたら、誠一はすでに部屋にいました。そのときには既に……」

「わかりました。つらい話をさせてしまって申し訳ありません」

「いえ、どうか、誠一を……」

 足が止まった。

 誠一の母親は、病室のドアを開けて、頭を下げた。

 僕たちは病室に足を運んだ。

「誠一?」

 僕はおそるおそる呼んでみた。

 誠一はベッドの上で窓の向こうを眺めていた。

「酷く体調が悪いんです。自分が自分でなくなってしまったような……。自分と言う器がある日一瞬にしてすり替わってしまったような不安定さが」

 誠一は窓の向こうを見たままだ。

「誠一、俺だ。わかるか? 修平だ」

「名前は知ってますけどね。『ミステリ研究会』の一員でした」

「俺は、刑事ものばかり読んでたな」

「そうですね。そういえば警官になるとか言ってましたっけ。やめた方がいいですよ。ミステリ小説片手に警官になりたいっていうのは」

「はは、警官になったんだがな。そういえばこの前合ったときに言うのをすっかり忘れてたな」

「この前って……何言ってるんですか。中学生が警官になれるわけないじゃないですか。現実的なことを言いましょうよ」

 この段階では全然わからない。本当に、誠一はあの大切なものを失ってしまったのだろうか?

「ああ、そう言えば、啓介さん?」

 こんな雰囲気の中いきなり話を振られたものだったから、焦って舌がもつれた。

「な、なんなん?」

「ははっ、なんですかそれ。やっぱり本物みたいですね。啓介さんだけはあんまり演技で出来そうにないし、変わらないと思ってましたから」

 誠一がこっちを見た。

 数日前と違って酷くやつれていた。

「変わりましたね。僕だけですよ。変わってないのは。世界に取り残されたんです、僕は」

「本当なのか? お前が……今までの記憶をなくしたって言うのは」

 修平が切り出した。

 どうやら、誠一は先日にあった時から、それ以前の記憶を……中学卒業以降の記憶がすべて抜け落ちてしまっている状態にあるらしい。

「誰かしらに聞いたんでしょう? ならわかってるはずです。僕が何を言っても、偉い人がそう診断したと言わなきゃ信憑性がないですよ。自己申告の健忘症なんて誰が信じるんですか」

 僕たちは既に誠一の情報を得ていた。

 実のところ、咲の葬儀があった次の日には、誠一は逮捕されていたのだ。付近の住民の目撃情報があったらしい。何とも間の抜けた証拠だった。誠一らしくない……とでも言うべきか。

 逮捕状が出て、誠一の身柄が確保されたときには誠一は既に人生の半分ほどの記憶を失っていた。精神科医の判断もあって、殺人によるショックのため健忘症が引き起こされたのではないかと言う話だ。この手の話は胡散臭さが否めないが、専門家が判断したのならば、そうなのだろう。

「なぜ俺たちを呼んだんだ? 自分が中学生じゃないと気づく手段なんて……たとえば鏡を見ればすぐわかるだろ?」

「そうですね。その方法は僕の中では小説の最後のページを先に見るような愚行だったんですよ。それよりやりましょうよ『推理合戦』。おあつらえ向きでしょう」

 『ミステリ研究会』でよくやっていたことだ。

 一つの小説を取り上げて、皆がある程度まで読み進めておく。

 一定の場所まで読み終わったら、その時点での犯人を予想する。

 そして次の決められた地点まで皆が読み終わったら、再び犯人を予想する。

 それを繰り返して、それまでの推理でもっとも実際の推理と近かったものと、それぞれの地点でもっとも犯人の名前を指定していた人の勝ちというものだ。

「と言っても、もう犯人は……」

「まだ手法がわかったわけではないんでしょう?」

「どうなんだろう?」

 僕は修平に視線を流した。

「さあな。さっきも言ったけど俺は管轄外だから詳しい話までは」

「それに僕たちも……そう、小説の最後のページを見てしまったから。犯行の内容をとばして誠一が犯人って事がわかったから、連鎖的に解けちゃったし……」

 そう、既に推理は完結していたのだ。いや、推理ではないか……最後のページを読んで知ってしまったようなものだ。

「じゃあ、僕が楽しみますよ。どういう事件だったんですか? じっくり聞かせてください。一字一句残さずですよ?」

 今回は、あのときと違って時間があった。

 僕たちは……記憶を失った誠一に、あの日の出来事を詳細に伝えた。僕たちの推理とも呼べない推測から……あのとき現れた誠一の推理までを、丁寧に伝えた。

「ふむ。犯人がわかりました。その道筋も」

「流石だな。流石、誠一だ」

 やっぱり、誠一は頭がきれる。誠一は今中学時代の記憶のままのはずだが……さすが僕たちとは推理力が違った。パズラーを愛する者の真価だ。

「貴方たちはすっかり見落としていたことがありました。それは、インターフォンですよ。咲さんの家を訪れたとき、咲の携帯が鳴ったときに啓介さんが物音を聞いていましたね。あの物音の存在を見落としていなければ、案外早く応えにたどり着いていたのかも知れませんね」

 そう……固定概念だ。

 修平が犯人かも知れないという固定概念が他の要素の判断を鈍くしていた。

「それなんだ。俺はその音を聞いていなかった。聞いていなかったと言うより聞き逃していたんだ」

「あれは僕……というよりは、誠一ですね。誠一がベランダへのドアを閉めた音だったんです。だからベランダのドアの鍵は開いていた。順を追って説明しましょう」

 誠一は一息おいた。

「まず誠一が咲を殺害します。方法としては、修平さんが推理していたものと全く同じやり方でしょう。ただ、犯行はベランダでもなく部屋の中で静かに行われました。そもそもベランダへのドアにはカーテンが掛かっていたのかも知れません。いえ、犯行の確実さを高めるには見つからないことが何よりですので、カーテンは掛けていたんでしょう。そして、誠一が得意げに披露した、一見解決とも思えるような推理の内容に見せかけるために、偽装工作をします。カーテンレールに咲を括り付けて、椅子を倒しておきます。そして、玄関の鍵を『外側から閉める』ことが出来ればそれで完成です。どういう方法をとるつもりだったかはわかりませんが、そこまでのプランはあったでしょう。だがしかし最後の締めで計画が狂ってしまった。予期せぬ来訪者の登場があった。それが、貴方たちです。誠一は部屋の中でやり過ごすつもりだったんでしょうが、咲の携帯が鳴ったところで危険を察知した。人が部屋に入ってくることを予期して、誠一がベランダから脱出したんです。そのために、ベランダへの鍵が開いていた」

 そして、そのとき付近の住民に目撃されてしまったんだろう。

「誠一は何気ない顔で帰路につこうとしたときに貴方たちの姿を見てしまった。部屋に入っていく貴方たちを利用しようと思ったんでしょうね。二人になら間違った方向に誘導できるだろうと。おそらく僕ならそう考えますよ」

「まあ、それについてはぐぅの音もでないな」

「思い上がってたんですよ。そもそも、犯行計画からして、穴がありすぎます。どうして、僕はこんな計画を実行したんでしょうかね……まあ、なんとなくわからなくもないですけど。無謀すぎますよ。結果的に捕まっているわけですし」

 僕たちは人生の中で滅多に目撃できないような自虐を目の当たりにした。誠一は僕たちの反応を待っていたようだったが、僕たちは何も言えずにいた。

「まあ、その後は貴方たちに推理を披露して……って流れですね。それにしても、貴方たちでも解けるような簡単な謎だと思うんですけど」

 それに関しては、修平に申し訳ない。

 何度も言うが固定概念とはおそろしいものだ。

 修平も難しい顔をしている。

 修平……も。

 …………。

 おもわず修平の顔をもう一度見た。

 ばつの悪そうな顔をしていた。

 そういうことだったのか……だから『お互い』見当違いな推理をしていたのか。

「なあ、誠一は……どうして、健忘症になったんだと思うんだ?」

「本人に聞くのもどうかと思いますけどね……まあ、そうですね。思い当たる節はありますよ。それより、何で僕がそんな犯行をしたのかが気になりますけど」

 言っていいものなのだろうか? 誠一が受験に落ちたから、もしくは、道中の暴漢に襲われた出来事がきっかけで……と。なんて、それらは想像でしかない。今のところ理由になりそうなのはそれしかないし、もう、その理由を知るすべもないのだ。誠一もまた、いなくなってしまったのと同じようなものなのだろう。

 過去の誠一が今ここにいる。それは矛盾めいたものだ。そして僕たちが知らない間の誠一はあの日少しだけ逢って、そして今はもう消えてしまっている。

「まあ少なくとも、誠一が崩壊した理由はなんとなくわかりますよ。咲が……。そうです。精神が豆腐のように柔らかくもろくなっているときに咲が……ね。今までのことを謝って……咲が……」

 誠一が泣き出した。

 僕も泣きそうだった。

 修平は涙を一筋こぼした。

 『争った跡がなかった』と言うのは、咲がそれを受け入れたと言うことだ。自分が殺されることを……そうされても仕方ないと。死んでもいい理由なんてないのに。殺されてもいい理由なんて咲にはないのに。そんな償いの方法なんて……虚しすぎる。

 咲は過去に囚われていたんだ。

 過去の過ちに気づくと言うのは人生の中で重要なポイントなのだろう。それを悔い改めることによって社会的に、人間的に成長していくものだと、僕はそれを信じている。しかし、咲は重く受け止めすぎてしまったんだ。咲の人生を多くは知らない。中学卒業以降も、入学以前も咲のことを多くは知らなかった。あの日同窓会の日に多くが補完できたが、それでもまだまだお互いのことを知るには時間が足りなかったし、そしてこれからその時間をつくっていくに違いなかった。

 タイミングが悪すぎたのだ。

 ああなればよかった、こうなればよかったと。それはもう過去だ。誠一の連絡先をなんとしてでも、手に入れてから同窓会を開いていればとか、そう……それこそ、僕が遅刻なんてしなければ……誠一も殺害するタイミングを逃したに違いなかった。

 僕たちは完全犯罪をされたのだ。偶然という完全犯罪を。犯人が絶対に見つからない場所へと行ってしまったらどうしようもない。犯罪を犯した誠一はいないのだ。

「僕はどうなるんでしょう?」

「さあな。弁護士に聞いてみればいいんじゃないか?」

「弁護士に……なりたかったな。僕はいじめが許せなかったんです。弱者を護るため……僕は弁護士になりたかった」

 誠一は再び窓の向こうを見た。

 その後ろ姿は、とても寂しげだった。




 誠一の母には申し訳ないけど、誠一が元に戻るかどうかなんてこれっぽっちもわからなかった。どちらかというと、僕たちにとってはおそろらく今の誠一も『誠一』だ。それは紛れもない事実だった。

「すまん。先に言っておく。いや、先に謝ってすまん。ただ、こうした方が言いやすいんじゃないかと思ってな」

「やっぱり、修平もだったのか。ごめん……ホント」

「どうやら、お互いにお互いを犯人だと思っていたようだな。啓介が遅刻してきて、改札で合流することがなかったから、お互い変な勘違いを生み出してしまったんだ」

「遅刻を……ね」

「いや、お前を責めてるわけじゃないんだ。決してそれは違う」

「うん、ありがとう」

「修平、あれ持ってきた?」

「ん? ああ、あれか。唐突だったから一瞬わからなかったな」

 修平はハンドバックからそれを取り出した。

 行く宛を失ったプレゼント箱だ。

「それは僕が持ってる。戒めとして……ね」

「お前のせいじゃないんだ」

「いや、いいんだ。それに、もともと僕が選んだものだったし。悪いけど発案者として僕がもらっておく」

「そういうなら、いいんだ。啓介が中身を注文して、俺が包装したものだからな。それなら権利は啓介にあるな」

 僕はそのプレゼントを大事にしまった。

「そういえば、あれ何だったんだ? 俺たちが部屋を出るとき誠一が言っていた言葉」

「ああ……あれ」




「誠一は人間をやめたんですよ」



 幸福になる簡単な方法は人間をやめること。

 人間をやめるという定義は何なのか? 誠一は誠一ではなくなると言うことで、すべての苦痛から解放されて幸せになったのかも知れない。どことも言えぬ場所で幸せになったところで……どうするというんだ。

 人が共感できない幸せは……本当に幸せと言えるのだろうか?

 真の幸福にたどり着くためには、人を捨てるしかないのかもしれない。しかしそれが真実かどうかは、戻っては来ない彼らにしか解らないんだろう。





  

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