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前世で処刑された公爵令嬢、幼女からやり直して家族の破滅フラグを全部折ります  作者: NN


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母の微笑み、その裏の影

 母の部屋は、いつも花の香りがした。


 公爵邸の東棟、二階の奥。日当たりの良い広い部屋。窓辺にはリリアーナが自分で世話をしている鉢植えの白百合が並び、その甘い香りが部屋全体を満たしている。

 壁にはリリアーナが嫁入り前に描いた水彩画がいくつか飾られている。風景画。花の絵。一枚だけ人物画がある。若い頃のリリアーナと、もう一人の少女が笑い合っている絵。もう一人は――王妃エレオノーラだろう。親友だった二人。


 リリアーナはベッドの上で半身を起こし、本を読んでいた。


 金色の髪が枕の上に広がっている。紫色の瞳。色白の肌。透き通るような美貌だが、その透明感は健康的なものではない。頬がこけ、唇の色が薄い。目の下に疲労の影が落ちている。


 美しい人だ。

 そして、死にかけている人だ。


 セレスティアは部屋の入口に立ち、母の姿を見つめた。


 前世の記憶が溢れ出す。

 この人は七歳の時に死んだ。

 セレスティアが七歳の秋。紅葉が散り始めた頃。

 母はベッドの上で、最後の力を振り絞って微笑んだ。

 「セレスティア、お母様はいつもあなたの傍にいるわ」

 そう言って、目を閉じた。


 あの日の母の手の冷たさを、十一年経った今も覚えている。

 いや、十一年どころではない。前世の全人生を通じて、あの冷たさが消えたことは一度もなかった。


 「あら、セレスティア。おいでなさい」


 リリアーナが本を閉じ、両手を広げた。

 温かい声。柔らかい笑顔。まだ生きている。まだ温かい。


 セレスティアの足が動いた。

 三歳の短い足で、必死に母の元へ走った。とてとてと不格好な走り方。途中で一度つまずきかけたが、転ばなかった。


 ベッドに辿り着き、母の膝によじ登った。母の腕が迎え入れてくれる。


 温かい。

 前世の最後に触れた母の手は氷のように冷たかった。

 だが今、この腕は温かい。心臓が動いている。血が巡っている。

 生きている。


 母の指がセレスティアの髪を梳いた。ゆっくりと、何度も。

 「この花はね、スノードロップというの。春一番に咲く花よ」

 窓辺の鉢植えを指さしながら、母が教えてくれる。白い小さな花。前世でも聞いたはずの名前なのに、記憶にない。あの頃は聞き流していたのだ。

 母の声で花の名前を覚える。そんな当たり前のことが、どれほど贅沢か。


 「おかあさま」


 「なあに?」


 「ずっといっしょにいて」


 リリアーナは少し驚いた顔をした。それから、柔らかく笑った。


 「もちろんよ。お母様はどこにも行かないわ」


 嘘だ。

 前世では、この人は行ってしまった。永遠に。

 でも今世では嘘にさせない。この言葉を本当にしてみせる。


 セレスティアは母の腕の中に収まりながら、視線だけを鋭くした。

 部屋の中を観察する。三歳児が甘えている振りをしながら。


 サイドテーブルの上に、薬が置いてある。


 小さな陶器の壺。蓋付き。隣に銀のスプーンと水差し。

 これが母の「薬」だ。毎日三回、食前に服用している。

 「虚弱体質の改善薬」と医師に処方されたもの。


 セレスティアは母に抱きつきながら、さりげなくサイドテーブルに顔を近づけた。


 匂い。


 陶器の壺は蓋がされているから、通常なら匂いは漏れない。だが微かに――本当に微かに、何かの香りがする。甘い。だが甘さの奥に、僅かな苦味を含んだ匂い。


 前世の記憶を引きずり出す。

 処刑前の独房で、セレスティアは様々なことを考えた。母の死について。あの「病死」は本当に病死だったのか。何年も苦しんで、少しずつ衰弱して、ある日突然悪化して死んだ。

 毒殺を疑ったのは、独房の中でだった。もう遅かった。何もかも手遅れだった。


 だが今世では違う。

 今世では間に合う。母はまだ生きている。毒はまだ致命量に達していない。


 灰銀草。


 前世の記憶とフェリクスの書庫で見かけた薬草学の知識を照合する。灰銀草は少量であれば血行促進の薬効がある。だが長期間にわたって一定量以上を摂取し続けると、肝臓と腎臓を緩慢に侵す。症状は倦怠感、顔色の悪化、食欲不振、微熱。全て「虚弱体質」の症状と一致する。


 おくすりなのに……ころすおくすり。

 薬に毒を混ぜる。飲んでいる人は「薬を飲んでいるのに良くならない」と思うだけ。お医者様も「体質的なもの」と判断する。だれもどくだときづかない。


 だが灰銀草には特徴がある。

 甘い匂い。そして微かな苦味。


 この匂いだ。


 確信はまだない。匂いだけでは証拠にならない。

 直感は叫んでいる。この壺の中身は、母を殺すための毒だと。

 だが間違いかもしれない。前世の記憶は本当に正確なのか。十八歳の独房で辿り着いた推測を、三歳の今、鵜呑みにしていいのか。

 もし違っていたら。母の薬を取り上げて、逆に体調が悪化したら。

 七割の疑い。残り三割は、自分が間違っている恐怖。


 「おかあさま」


 「なあに?」


 「おくすり、にがい?」


 何気ない質問。三歳の子供が母の薬について聞く。不自然ではない。


 リリアーナは苦笑した。


 「少しだけね。でもお薬を飲まないと元気になれないから、我慢しているの」


 苦い。

 灰銀草は苦味がある。薬効成分の灰銀草が「適量」なら苦味は感じない程度だが、毒として効く量が入っていれば苦味が出る。


 母が苦いと感じている。

 つまり、灰銀草が通常の薬効量を超えて配合されている可能性が高い。


 セレスティアの小さな手が、母の服を握りしめた。


 殺させない。

 この人を、もう二度と殺させない。


 だが焦るな。今ここで「お薬に毒が入ってます」と叫んでも誰も信じない。三歳の子供の言葉だ。しかも薬を処方しているのは公爵家お抱えの医師ローレンツ。信頼されている人物だ。


 ローレンツ自身が犯人なのか。

 前世の記憶を掘り起こす。


 ローレンツ医師。五十代の温厚な男。眼鏡をかけ、いつも穏やかに笑っている。母に対して丁寧で、セレスティアにも優しかった。

 この男が毒殺犯?


 直感は「違う」と言っている。

 ローレンツは善人だ。だが――善人であっても、知らずに毒を盛ることはある。


 処方箋。

 ローレンツは自分で薬を調合しているのか、それとも処方箋に従っているだけか。


 「おかあさま、おくすり、だれがつくるの?」


 「お医者様のローレンツ先生よ。とても優しい先生でしょう?」


 「せんせいがぜんぶつくるの?」


 リリアーナは首を傾げた。三歳児にしては細かい質問だ。だが深く考えずに答えてくれる。


 「えっとね、お薬の作り方は王都の偉い先生が決めるの。それをローレンツ先生が作ってくれるのよ」


 王都から届く処方箋。

 ローレンツはその処方箋通りに薬を調合している。つまり毒の源は処方箋だ。

 処方箋を書いているのは王都の医師団。そして王都の医師団に影響力を持つのは――宰相派。


 ばらばらだったことが、つながっていく。


 「じゃあ、しょほうせんをかえれば……」


 口に出していた。

 しょほうせん。処方箋。三歳の子供が知るはずのない言葉が、母の前で漏れた。


 リリアーナが目を瞬かせた。

 「セレスティア、今の言葉……どこで覚えたの?」


 血の気が引いた。しまった。

 「……フェリクスおにいさまが、いってた。しょほう、しぇん、って」

 咄嗟に兄の名前を盾にした。舌がもつれたのは演技半分、動揺半分。

 リリアーナは「まあ、フェリクスったら難しい言葉を教えるのね」と笑って流してくれた。

 だがセレスティアの手は、布団の下で震えていた。危なかった。一つ間違えれば、全てが崩れる。

 この身体でいる限り、口は常に敵だ。頭の中の言葉と、舌が出せる言葉は違う。忘れるな。


 宰相派が処方箋を操作し、灰銀草の配合量を毒性域に引き上げている。ローレンツは処方箋通りに忠実に調合しているだけ。お医者様はわるくない。でも、おかあさまはころされる。


 そして処方箋の内容を宰相派に伝え、薬庫の管理を通じて毒の投与を確実にしているのが――家臣ディートリヒだ。


 だれが、どうやって、おかあさまをころすのか――やっとわかった。


 問題は、これをどう止めるかだ。


 処方箋を変えさせる? 三歳児には無理だ。

 薬を捨てる? 一時しのぎにしかならない。新しい薬が届くだけだ。

 父に訴える? 「おくすりがあやしい」程度では、公爵は動かないだろう。証拠がいる。


 フェリクスだ。


 次兄フェリクスに薬の成分を調べさせる。学者気質のフェリクスなら、薬草の成分分析ができるはずだ。そしてフェリクスが「灰銀草が多すぎる」と気づけば、父に報告するだろう。大人の言葉で、学術的根拠を添えて。


 三歳児の言葉は誰も聞かない。

 だが十三歳の学者の言葉なら、公爵も耳を傾ける。


 フェリクスを動かす。そのための種は昨日蒔いた。

 「おかあさまのおくすり、にがいんだって」という一言を。


 足りない。もっと強い動機をフェリクスに与えなければ。


 「おかあさま、フェリクスおにいさまは?」


 「書庫にいるんじゃないかしら。あの子はいつも本を読んでいるから」


 「おにいさまに、おかあさまのことおはなししたい」


 「お母様のこと? 何をお話しするの?」


 「おかあさまがげんきになるように、おにいさまにおねがいするの。おにいさま、おくすりのほん、よんでたから」


 リリアーナは微笑んだ。「まあ、セレスティアは優しい子ね」


 優しさではない。計算だ。

 だが母にそう思ってもらえるなら、それでいい。


 セレスティアは母の腕から降り、ベッドを滑り降りた。


 「おかあさま、またくるね」


 「ええ、いつでもいらっしゃい」


 部屋を出る直前、セレスティアは振り返った。

 母が手を振っている。穏やかな笑顔。金色の髪に午後の光が当たって輝いている。


 あの光を消させない。

 あの笑顔を奪わせない。


 何があっても。誰が相手でも。

 この母だけは、絶対に守り抜く。


 セレスティアは小さな拳を握り、書庫に向かって歩き出した。

 三歳の足取りは不安定で、何度もよろめいた。

 だが一度も立ち止まらなかった。


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