父という壁
アルヴェイン公爵家の朝食は、沈黙の儀式だった。
長い樫材のテーブル。銀の燭台。白い陶器の食器。
窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床に四角い光を落としている。
美しい食堂だ。だがその空気は、凍てつくように冷たい。
テーブルの上座に、父が座っていた。
ライナルト・フォン・アルヴェイン。四十二歳。
銀色の髪を後ろに撫でつけ、碧い瞳で正面を見据えている。左頬に一筋、古い刀傷。若き日に戦場で受けた傷だという。その傷が、この男の本質を物語っている。貴族であると同時に、戦場に立った男。政治家であると同時に、血を見た男。
セレスティアは、父の対角線上の席に座っていた。
三歳児用の高い椅子。足が床に届かない。テーブルに顎がやっと乗る高さ。
マルガレーテが隣に控え、食事の補助をしている。
父はセレスティアを見ない。
朝食の間、一度も。
パンを千切り、バターを塗り、紅茶を飲む。一連の動作に無駄がない。食事すら効率的にこなす男。感情を動作に漏らさない男。
これが、前世のセレスティアが知る父だった。
冷たい人だと思っていた。自分に興味がないのだと思っていた。母が死んだ時も、セレスティアが学園で孤立した時も、処刑が決まった時も、父は何もしてくれなかった。最後の面会すら来なかった。
だが今世のセレスティアは、少しだけ違う目で父を見ている。
四十二歳。
妻が病に伏せり、長男は騎士修行で不在、次男は書庫にこもりきり。広大な領地を一人で治め、王都の政治にも目を配らなければならない。公爵という地位は、栄光であると同時に鎖だ。
この人は余裕がないのだ。
冷たいのではなく、余裕がない。
娘に目を向ける隙間が、この人の人生にはなかった。
ならば、隙間を作ればいい。
こちらから入り込めばいい。
「おとうさま」
セレスティアの声が、静かな食堂に響いた。
マルガレーテが驚いた顔をした。お嬢様が自分から父に話しかけるのは珍しい。前世のセレスティアは父を恐れ、食事中は一言も発しなかった。
公爵の目がゆっくりと動いた。紅茶のカップを置き、テーブルの向こうの小さな娘を見下ろす。
碧い目。自分と同じ色の目。
この目で見られると、前世のセレスティアは萎縮した。威圧感。冷たさ。無関心。それら全てを含んだ視線。
だが今世のセレスティアは、その視線の奥にあるものを見ようとした。
疲れている。
この人は、疲れているのだ。
目の下に薄い隈がある。昨夜も遅くまで書斎にいたのだろう。
「おとうさま、おはなし、きかせて」
精一杯、明瞭に。三歳の舌で発音できる限り。
公爵の眉が微かに動いた。困惑。この子がこんなことを言ったことは一度もない。
「話? 何の話だ」
低い声。だが怒っているのではない。純粋に疑問なのだ。
「おとうさまのおしごとのおはなし」
マルガレーテが息を呑むのが聞こえた。三歳の令嬢が父の仕事に興味を示すなど、聞いたことがない。
公爵は数秒間、セレスティアを見つめた。
その視線を、セレスティアは真っ直ぐに受け止めた。逸らさない。三歳児の目で、四十二歳の公爵と目を合わせ続ける。
沈黙が長かった。
マルガレーテが落ち着かなそうに身じろぎしている。
やがて公爵は、極めて小さな――本当に微かな、見逃しそうなほど僅かな変化だったが――口角を上げた。
「仕事の話は子供には難しいぞ」
「むずかしくてもいい。きく」
また沈黙。
公爵はカップを手に取り、一口飲み、置いた。
「……今日は領地の東区画の灌漑工事の報告を受ける。水路が一本壊れたらしい。修繕に人手がいる」
事務的な報告。三歳児に向ける内容ではない。
だがセレスティアは真剣な目で頷いた。
「おみずないと……おこめ、しんじゃう?」
公爵の目が一瞬、見開かれた。
灌漑と作物の関係を三歳児が口にしている。そんなことはあり得ない。
いけない。言いすぎた。
セレスティアは慌てて付け足す。
「マルガレーテがね、おはなしでいってた。おみずだいじって」
マルガレーテが「え? あ、はい、そうですね」と慌てて合わせてくれた。実際にそんな話をした覚えはないだろうが、この侍女は察しがいい。
公爵は再びセレスティアを見た。
先ほどとは違う目だった。困惑の中に、僅かな好奇心が混じっている。
「……ほう」
それだけ言って、公爵は朝食を再開した。
だがその後、ほんの一瞬だけ、公爵の視線がセレスティアに戻った。
それは「無関心」の視線ではなかった。
何かを考えている目だった。
小さな変化。だがセレスティアにとっては大きな一歩だった。
◇
朝食後、廊下を歩いていると、背後から声がかかった。
「セレス」
振り向くと、長身の青年が立っていた。
栗色の髪を短く刈り込み、日に焼けた肌。笑うと白い歯が光る。
騎士修行から一時帰還中の長兄、エドヴァルト。十八歳。
前世の記憶が蘇る。
この兄は、セレスティアが処刑された時、異議を唱えた。
「妹は無実だ」と叫んだ。
そして宰相派に粛清された。行方不明という名の暗殺。
エドヴァルトは大股で近づき、ひょいとセレスティアを抱き上げた。そのまま肩に乗せる。肩車だ。
「うわっ、おにいさま、たかい!」
世界が一変した。三歳の視界は常に大人の腰あたりだが、エドヴァルトの肩の上からは廊下の全てが見える。窓の外の中庭も。遠くの山並みも。
「セレス、今日は甘えん坊だってな? マルガレーテから聞いたぞ。父上にまで話しかけたって?」
エドヴァルトが笑っている。屈託のない笑顔。この兄はいつもこうだ。暗い場所に光を持ち込む人。
「おにいさま、おにいさまはおつよい?」
「ん? 当たり前だ。兄は強いぞ。剣なら誰にも負けん」
「じゃあ、おにいさまがまもってくれる?」
「何をだ? 虫か? 暗い場所か?」
セレスティアはエドヴァルトの頭にしがみつきながら、言葉を選んだ。
「……ぜんぶ」
エドヴァルトは首を傾げた。三歳の妹の「全部」が何を意味するか、分からなかったのだろう。だが深くは考えず、豪快に笑った。
「おう! 全部守ってやる! 兄に任せろ!」
嘘のない言葉だった。この兄は本気で妹を守ろうとするだろう。前世でもそうだった。そしてそのせいで殺された。
セレスティアの目に涙が浮かんだ。
今度は兄の肩の上だから、顔は見えない。それが救いだった。
不意に、瞼が重くなった。
朝から頭を使いすぎた。父との会話、その前の朝食での緊張。三歳の身体には長すぎる一日だ。言葉がうまく出てこない。舌が回らなくなっている。
だめだ。眠るわけにはいかない。まだ伝えたいことがある。
「おにいさま」
「ん?」
「しなないでね」
エドヴァルトの歩みが一瞬止まった。
すぐに再開したが、声が少しだけ柔らかくなった。
「何言ってんだ。死ぬわけないだろ。兄は百まで生きるぞ」
「やくそく」
「約束だ」
肩車のまま、兄と妹は廊下を歩いた。
春の日差しが窓から差し込み、二人の影が長く伸びる。
◇
午後。書庫を覗くと、次兄フェリクスがいた。
十三歳。銀髪に眼鏡。父似の端正な顔立ちだが、目の下に隈があるのは寝不足のせいだ。机の上に本が山積みになっている。魔力学、薬草学、歴史学。この兄は好奇心の塊だ。
「あ、セレス。どうしたんだ、書庫なんかに」
フェリクスは手を止めず、本を読みながら声をかけた。
前世のフェリクスは、母の死後も書庫に閉じこもり続けた。現実から逃避するように本を読み続け、セレスティアとは殆ど話さなかった。だがこの兄には才能がある。魔力学の知識。薬草学の知識。セレスティアの計画に不可欠な能力。
「おにいさま、おほんよんで」
「え? この本は子供には難しいぞ。薬草学概論なんて」
「え、がかわいい」
フェリクスが本の挿絵を見せてくれた。薬草のスケッチ。確かに精密で美しい絵だが、三歳児が「可愛い」と思うかは疑問だ。
だがセレスティアの目的は絵ではない。
前世の記憶では、フェリクスの机の左側に毒物辞典があったはずだ。茶色の革表紙に金文字の分厚い本。あの本があれば灰銀草の情報が手に入る。
視線を走らせた。左の棚。茶色の革表紙。ない。
ない。どこにもない。
当然だ。あの本はフェリクスが十五歳の時に王都の古書店で手に入れたもの。今のフェリクスは十三歳。まだ買っていない。
前世の記憶がそのまま使えるわけではない。十五年分の未来を知っていても、「今」の現実は違う。
出鼻を挫かれた。だが足を止めている暇はない。今ある手札で戦うしかない。
フェリクスの読んでいる本の傍に、別の本がある。
薬草学の棚から引き出された一冊。毒草と薬草の分類。毒物辞典ほど詳しくはないが、灰銀草の基本情報はあるはずだ。
この本で足りるか。足りなければ別の方法を考える。
母の薬に混入されている灰銀草について調べなければならない。
だが三歳の手では本棚に手が届かないし、字を読めるとバレるわけにもいかない。
フェリクスおにいさまは、おほんをいっぱいしってる。きっと、おかあさまをたすけるのにひつよう。
「おにいさま、おかあさまのおくすり、にがいんだって」
何気ない一言。三歳児が母の薬について言及する。不自然ではない。子供が薬の味を気にするのは普通のことだ。
フェリクスは「ふーん」と生返事をした。
だがセレスティアは見逃さなかった。
フェリクスの指が、ほんの一瞬、止まったことを。
この兄は気づいている。
母の薬に「何か」があることに、薄々気づいている。
学者の直感。だが確信がないから、声に出さない。
種は蒔いた。
今はこれでいい。
「おにいさま、またくるね」
「ああ、いつでも来い。静かにしてくれるならな」
フェリクスは再び本に目を落とした。
だがセレスティアが書庫を出た後、彼は薬草学概論の灰銀草のページを開いた。
そのことを、セレスティアは知らない。
だが確実に、兄の中で何かが動き始めていた。
◇
夜。ベッドに入る前に、セレスティアは窓辺に立った。
マルガレーテが夜着を整えてくれている。
窓の外には星が見える。公爵領の夜空は、王都とは比べ物にならないほど星が多い。
三歳の初日が終わる。
何ができた? ほとんど何も。
父に一言話しかけ、兄に種を蒔き、マルガレーテの忠誠を確認した。
それだけだ。
だが十五年の時間がある。
今日が一歩目なら、明日は二歩目。明後日は三歩目。
一歩ずつでいい。この小さな足で、運命を踏み潰していく。
「おじょうさま、おやすみのじかんですよ」
「うん。マルガレーテ、おやすみ」
ベッドに入る。柔らかい布団。温かい。
前世の独房の藁の寝台とは違う。ここは安全だ。まだ。
目を閉じる。
断頭台の残像が瞼の裏に浮かぶ。刃の音。血の色。
――消えない。
だが今夜は歯を食いしばって耐えた。
泣かない。もう泣かない。
泣く暇があったら考えろ。策を練れ。一手でも先を読め。
三歳の少女は、暗闇の中で目を見開いていた。
誰にも見せない顔で。誰にも聞かせない声で。
声が出た。掠れた、震える声。
心臓が早鐘を打っている。恐ろしい。何もかも恐ろしい。失敗したら、また同じ結末が待っている。
それでも、震えたまま、心の中で叫んだ。
(待っていろ。全員、待っていろ。
この世界を、三歳の手で書き換えてやる)




