フェリクスの発見
フェリクス・フォン・アルヴェインは、眠れない夜を過ごしていた。
書庫の机の上に、処方箋の写しが広げてある。その横に薬草学概論が開かれ、灰銀草の項目に赤い線が引かれている。計算用紙には数式がびっしりと書き連ねてあり、何度も消しては書き直した跡がある。
灰銀草。乾燥重量で一日あたり二グラム。
薬効量の上限は0.5グラム。
母の処方は、その四倍。
最初に計算した時は、自分の計算が間違っていると思った。
もう一度やり直した。同じ結果だった。
三度目。四度目。五度目。何度計算しても同じだ。
母上の薬には、薬効量の四倍の灰銀草が配合されている。
医学の専門家ではないフェリクスにも分かる。これは「薬」ではない。「毒」だ。緩慢に、確実に、人を殺す毒。
父に報告した。薬は止まった。母の体調は回復に向かっている。
だがフェリクスの中の疑問は消えていない。
なぜだ。
なぜ母上の薬に毒が入っていた。
誰が。何のために。
処方箋は王都の医師団から送られてくる。ローレンツ先生はそれに従っただけだ。問題は処方箋の出元にある。
だが十三歳の少年に、王都の医師団を調査する力はない。それは父の仕事だ。
フェリクスにできるのは、学問の力で真実に迫ることだけだった。
蝋燭の灯りが揺れる。夜も更けた。だが本を閉じる気にならない。
――あの子のことが、引っかかっている。
セレスティア。三歳の妹。
あの子が書庫に来て、「おかあさまのおくすり、にがいんだって」と言った日。
あれは偶然ではなかった。
フェリクスは学者だ。偶然と必然の区別がつく。
三歳の子供が母の薬の味を気にすること自体は不自然ではない。だがそのタイミング、その文脈、その後の展開を考えると、あの言葉は「偶然の発言」ではなく「意図的な誘導」に見える。
セレスティアは自分を動かそうとした。
母の薬を調べさせるために。
馬鹿な。三歳の子供がそんな計算をするはずがない。
だが――あの子の目。
書庫で薬草学の本を見ていた時の目。
あれは「絵が可愛い」と言って挿絵を眺めている目ではなかった。
文字を追っていた。学術書の文字を。三歳児が。
フェリクスは眼鏡を外し、目頭を押さえた。
考えすぎだ。疲れているのだ。
妹は三歳の子供だ。聡明だとは思うが、限度がある。
……本当にそうか?
フェリクスの脳裏に、一つの仮説が浮かんだ。
学者の本能が、最もシンプルで最も説明力のある仮説を導き出す。
もしセレスティアが「普通の三歳児」ではないとしたら。
もし何らかの方法で、年齢に合わない知識や判断力を持っているとしたら。
魔力学の文献にいくつかの事例がある。
「先天的記憶」――前世の記憶を持って生まれる現象。
「魔力覚醒時の知識流入」――魔力が目覚める際に、過去の同属性保有者の記憶が流れ込む現象。
「時間回帰」――聖魔力保有者に理論上可能とされる、時間軸の巻き戻し。
どれも仮説の域を出ない。実証された例はない。
だがセレスティアは聖魔力の保有者だ。光と闇の両属性。五百年に一人の存在。
通常の人間に不可能なことが、聖魔力保有者には可能かもしれない。
フェリクスはペンを取り、新しい紙に書き始めた。
「仮説:セレスティアは何らかの方法で未来の知識を持っている」
書いて、見つめて、破り捨てた。
紙片を蝋燭の火にかざし、燃やした。灰になるまで見届けた。
この仮説は誰にも見せられない。父にも、兄にも、もちろんセレスティア本人にも。
もしこの仮説が正しければ。
セレスティアは「未来を知っている」ということになる。
それは途方もない力であると同時に、途方もない重荷だ。
未来を知っている人間は、その未来を変えようとするだろう。
母の毒殺を止めたのも、その一環かもしれない。
だとすれば――前の未来では、母は死んだのか。
前の未来では、セレスティアに何が起きたのか。
考えるな。今はまだ考えるな。
フェリクスは本を閉じ、立ち上がった。
窓の外はまだ暗い。夜明け前の闇。
妹は三歳だ。何を抱えていようと、まだ三歳の子供だ。
兄として自分がすべきことは、妹の秘密を暴くことではない。
妹が「助けて」と言わなくても、隣にいることだ。
薬草学の本を棚に戻す。代わりに別の本を手に取る。
「解毒学入門」。母の体内に蓄積された灰銀草の毒素を排出する方法を調べるために。
学者の仕事は真実を暴くことだ。
だが兄の仕事は、家族を守ることだ。
今は兄であることを選ぶ。
蝋燭の灯りの中で、フェリクスは新しい本のページをめくり始めた。
夜明けまで、まだ時間がある。
◇
翌日の午後。
セレスティアが書庫を訪ねると、フェリクスは机に突っ伏して眠っていた。
開いたままの本。散らばった計算用紙。空になったインク壺。
セレスティアはそっと近づき、兄の顔を覗き込んだ。
眠っている顔は年相応だった。十三歳の少年。まだ子供だ。だが目の下の隈は深く、顔色も良くない。徹夜したのだろう。
机の上の本が目に入った。「解毒学入門」。
母の治療法を調べている。
セレスティアの胸が締めつけられた。
この兄は何も聞かない。セレスティアがなぜ母の薬を気にしたのか、なぜ書庫に通うのか。何も問い詰めない。ただ黙って、自分にできることをしている。
セレスティアは棚からブランケットを取り――三歳の身体では棚の一番下の段にやっと手が届く――兄の肩にかけた。
小さすぎるブランケットが、少年の肩に不格好に乗っている。
「おにいさま、ありがとう」
囁く声。フェリクスには聞こえていないだろう。
だがいい。聞こえなくていい。
セレスティアは机の上をちらりと見た。計算用紙の中に、一枚だけ焦げた跡のある紙片があった。燃え残りだ。文字は読めないが、何かを書いて燃やした跡。
何を書いたのだろう。
セレスティアは知る由もなかった。兄が自分について立てた仮説のことを。
だがもし知ったとしても、セレスティアは怖がらなかっただろう。
この兄なら。
この兄なら、真実を知っても、味方でいてくれる。
その確信だけは、前世も今世も変わらない。
セレスティアは書庫を出た。
兄を起こさないように、足音を消して。
廊下に出ると、春の日差しが眩しかった。
小さな影が床に伸びる。
その影は、兄の書庫に向かって長く伸びていた。
まるで、いつまでもこの兄の傍にいたいと願うかのように。




