ディートリヒの仮面
ディートリヒ・クラウスは、完璧な男だった。
少なくとも、そう見えるように設計された男だった。
三十五歳。公爵家に仕えて十二年。有能な行政官として領地経営を支え、家臣団の中でも高い評価を得ている。穏やかな物腰、にこやかな笑顔、丁寧な言葉遣い。上にも下にも平等に接し、使用人からの評判も良い。
だがセレスティアは知っている。
あの笑顔の下に、何があるかを。
前世で全てが崩れた時、ディートリヒは真っ先に公爵家を裏切った。セレスティアの処刑裁判では「公爵令嬢は以前から王太子に不満を漏らしていた」と偽証し、公爵家の内部情報を宰相派に売り渡した。
その見返りに、ディートリヒは宰相派から新たな地位を得た。セレスティア処刑後、公爵家が没落する過程で、ディートリヒは家臣の座を降り、王都の宰相府に転じた。公爵家を食い尽くした寄生虫が、より大きな宿主に移っただけのことだ。
今はまだ仮面を被っている。にこやかな忠臣の仮面。
だがその仮面の下で、この男は公爵家を売っている。
セレスティアは母の薬の一件以来、ディートリヒの行動をさらに注意深く観察していた。
◇
朝礼の日。セレスティアは再び柱の陰に隠れた。
今回はマルガレーテも慣れたもので、お嬢様の「探検ごっこ」に付き合ってくれる。
扉の隙間から中を覗く。
ディートリヒが報告をしている。
「今月の税収は順調です。東区画の灌漑工事も予定通り進捗しております。ただし、一点ご報告が」
公爵が頷く。
「王都の商会から、来季の穀物買い付け価格について交渉の申し入れがございました。例年より一割高い提示額です」
ここだ。セレスティアは耳を研ぎ澄ませた。
穀物の買い付け価格。公爵領の主要収入源だ。価格交渉は領地経営の核心。この交渉を誰が担当するかで、数百金貨の差が出る。
「交渉は誰が担当する」公爵が問う。
「私が参りましょう。王都の商会とは旧知の仲ですので」
ディートリヒが名乗り出る。当然のように。
だがセレスティアは前世の記憶を辿る。
ディートリヒが担当した穀物交渉。結果は毎年「やや不利」な条件で妥結していた。公爵家が損をし、その差額がどこに流れていたか。
宰相派だ。
ディートリヒは交渉で意図的に不利な条件を受け入れ、差額を宰相派の協力商会に流していた。帳簿上は「市場価格に基づく適正取引」に見える。だが実際は公爵家の資産が宰相派に吸い取られている。
巧妙な横領。年間で数百金貨。十年続ければ数千金貨。
この金が宰相派の活動資金の一部になっている。
だが今の段階で、これを証明する方法はない。帳簿を精査しなければ。そして帳簿はディートリヒが管理している。
◇
朝礼が終わった後、セレスティアはヘルマンに近づいた。
「ヘルマンおじさま」
「おはようございます、お嬢様。今日もお元気そうで」
ヘルマンは膝を折り、目線をセレスティアに合わせてくれる。
「ヘルマンおじさま、きのう、ディートリヒさまがおそとにでかけてたね」
何気ない一言。子供が大人の出入りに気づいて言及する。不自然ではない。
ヘルマンの表情は変わらなかった。だが一瞬、目の奥が動いた。
「ええ、ディートリヒ殿は領内の視察に出られましたよ」
「おじさまもいっしょにいったの?」
「いえ、私は別の仕事がありましたので」
「ディートリヒさまはひとりでいったの?」
「はい、一人で」
ヘルマンの答えは簡潔だった。だがセレスティアは、その簡潔さの中に含みを感じ取った。
ヘルマンは気づいている。
ディートリヒの「視察」が不自然であることに。
筆頭家臣として、他の家臣の行動を把握するのは当然だ。ディートリヒが三日に一度、一人で外出し、行き先を詳しく報告しないことを、ヘルマンは気にしていないはずがない。
だが疑惑だけでは動かない。それがヘルマンという男だ。証拠がなければ告発しない。忠実で、慎重で、真っ直ぐな男。
セレスティアは別の角度から攻めることにした。
「ヘルマンおじさま、ディートリヒさまはおうとにおともだちいるの?」
今度はヘルマンの眉が微かに動いた。
「……なぜそのようなことを?」
「きのう、ディートリヒさまがおてがみかいてたの。みたことないもようのおてがみ。きれいだなっておもって」
嘘ではない。三日前、セレスティアは廊下でディートリヒとすれ違った時、彼が封蝋付きの手紙を持っているのを見た。封蝋の紋章は、公爵家のものではなかった。遠目に見えただけだが、複雑な紋様だった。
もしあの紋章がガルニエ家――宰相家――のものだとしたら。
ヘルマンは答えなかった。
代わりに、セレスティアの目を真っ直ぐに見た。老騎士の目。何十年も人を見てきた目。
「お嬢様は、よくお気づきになりますね」
その言葉の中に、単なる褒め言葉以上のものがあった。
ヘルマンは気づいている。セレスティアが意図的にディートリヒについて質問していることに。
だがそれ以上は言わなかった。ヘルマンは立ち上がり、一礼した。
「お嬢様、お気をつけて。屋敷の中でも、知らない人には近づかないでくださいね」
「知らない人」。
それは誰を指しているのか。
セレスティアは頷いた。「うん。きをつける」
ヘルマンが去った後、セレスティアは考え込んだ。
ヘルマンはディートリヒを疑っている。だが証拠がないから動かない。
動かすには証拠が要る。
証拠を掴むには、ディートリヒの部屋か、ディートリヒの手紙を直接調べる必要がある。
三歳の自分には無理だ。
だが――もし誰かの力を借りられたら。
ナターシャがいれば。
前世にはいなかった侍女ナターシャ。セレスティアの目と耳となった少女。
だが今世ではまだナターシャは公爵家に来ていない。ナターシャが配属されるのは前世では四歳の時だった。あと一年近く先。
別の手を考えなければ。
セレスティアの視線がマルガレーテに向いた。
マルガレーテ。侍女長。屋敷中の使用人を統括する立場。
この人に頼めば、ディートリヒの部屋の清掃を通じて何かを見つけてくれるかもしれない。
だがマルガレーテを危険に晒すわけにはいかない。ディートリヒは宰相派の人間だ。もし察知されれば、マルガレーテが危険に晒される。
慎重に。もっと慎重に。
直接証拠を掴むのは後回しにする。今はまだ、外堀を埋める段階だ。
ヘルマンに疑念の種を蒔いた。父には母の薬の問題を通じて「外部からの脅威」を認識させた。
次のステップ。
ディートリヒが王都に出かける機会を待つ。
あの男が王都に行けば、留守の間に部屋を調べるチャンスが生まれる。
待て。焦るな。時間はある。
セレスティアはマルガレーテの手を握り、自室に戻った。
「マルガレーテ」
「はい、お嬢様」
「わたし、もっとおりこうになりたい」
マルガレーテは微笑んだ。「お嬢様はもう十分おりこうですよ」
「もっと。もっとおりこうになって、おかあさまをまもれるようになりたい」
その言葉に嘘はなかった。
もっと賢くならなければ。もっと用心深くならなければ。
ディートリヒは手強い敵だ。宰相直属の工作員。三歳の子供が正面から挑んで勝てる相手ではない。
だが三歳の子供を、誰が警戒する?
それこそがセレスティアの最大の武器だった。
小さな手。小さな身体。幼い声。
その全てが偽装だ。
この中に隠されているのは、十八年分の怒りと、十五年分の作戦と、一度殺された人間の執念。
ディートリヒ・クラウス。
お前の仮面を剥がす日は近い。




